雄介食べ歩きBLOG

プロ野球開幕戦がめちゃくちゃ待ち遠しいです⚾
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第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)

2012年12月04日 | 日記

第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する侍ジャパンの候補選手34人が4日、正式に発表された。

 山本監督はは巨人から最多8人が選ばれたことについて「大人数になって申し訳ないけど、メンバーを選んだらこうなった」と説明。4番打者には阿部慎之助を置く考えを示した。

 楽天・松井稼の選出には「経験者で実績もある。スタッフミーティングでそういう声があがり、最終的には私が選んだ」と37歳のベテランに期待をかけた。
※引用しました。


契約更改交渉

2012年12月04日 | 日記

日本ハム吉川光夫投手(24)が4日、札幌市内の球団事務所で契約更改交渉に臨み、1100万円から536%アップとなる5900万円増の7000万円でサインした。

 6年目の今季は、1年間1軍ローテを守り抜き、14勝5敗とリーグ制覇に大きく貢献。防御率1・71で、初タイトルも獲得し、MVPにも選ばれた。「びっくりするくらいの評価をしていただきました。2年、3年と続けていけるように。来年は200イニング投げたいです」と意気込んでいた。(金額は推定)
※引用しました。


賞金王

2012年12月04日 | 日記

日本ゴルフツアー機構は3日、東京都内で今季の表彰式を行い、最終戦の日本シリーズJTカップを3連覇して初の賞金王に輝いた藤田寛之(43)が、最優秀選手賞に輝くなど5冠を獲得した。

 藤田は賞金ランク、平均ストロークの1位に加え、総合力を問われるUnisysポイントランキング賞、ゴルフ記者賞も受賞。石川遼(21)は、最も印象に残った選手をファン投票で選ぶMIP(モスト・インプレッシブ・プレーヤー)賞を6年連続で獲得したほか、史上最年少でのツアー通算10勝を達成したことで特別賞を贈られた。

 今季デビューし、国内メジャーのツアー選手権シティバンク宍戸を制した藤本佳則(23)は最優秀新人賞に輝いた。
※引用しました。


確実

2012年12月04日 | 日記

メジャー挑戦を表明しながら、日本ハムにドラフト1位で強行指名された花巻東の160キロ右腕・大谷翔平(18)の日本ハム入団が3日、確実となった。岩手・奥州市内で栗山英樹監督(51)を交えた4度目の交渉を行い、入団に前向きな姿勢を示した。ダルビッシュ(現レンジャーズ)がつけた背番号11を提示され、ダルの後継者として将来的なメジャー移籍を目指す。

 10月25日のドラフト強行指名から39日。「岩手のダルビッシュ」が、本家の古巣・日本ハムでプロ生活をスタートさせることが決定的になった。

 大谷はこの日、午後6時から両親とともに、栗山監督、山田GM、大渕スカウトディレクターと話し合いを行った。約40分の交渉を終えた父・徹さん(50)は「日本ハム入りにだいぶ前向きになっている。きょうの交渉の中でスッキリした部分がある。問題は解消されたと思っています」と、揺れに揺れた我が子の胸中を代弁した。

 指名直後、大谷は「(入団の可能性は)ゼロです」と明言。だが、球団側からの資料で高卒即メジャー挑戦のリスクを説明され、日本ハム入りに傾いた。大谷の心境の変化について、国内球団入りを希望していた徹さんは、「資料を作ってもらった辺りから徐々に。向こうで長くやるためには、どちらがいいのかということ」と説明した。

 前回を最終交渉と定めながら、決断に踏み切れなかったのは、「障害」が2つあったためだ。

 《1》周囲への配慮 花巻東や同校の佐々木洋監督(37)へ向けた中傷などがあり、メジャー挑戦を翻意すれば、指名を回避した国内他球団や、メジャー球団に迷惑をかける。そんな懸念があった。

 《2》「投打二刀流」 日本ハムの秘策だったが、徹さんによると本人は「打者としてスタートしたら、投手として使ってもらえないのではないか」と不安をもらしたという。

 〈1〉について栗山監督は「すべて球団と自分が背負う。プレーしやすい環境を作ってあげたい。18歳の夢のある若者が、大きく成長するように、みんなで応援してあげることが大事」と力説。〈2〉も指揮官が練習から試合での起用法まで明かした上で「打撃はすぐに使える。本人は投手もやりたいと。(投打で)2人入団したと思っている」と語った。

 ダルの背番号11も決め手になった。「投手として評価をしているんだというとき、(大谷が)一番うれしそうな表情だった」と栗山監督。山田GMは「ポスティングの話はしていない」としたが、エースナンバーは、メジャーの道に通じている。

 球団では、札幌Dで単独の入団会見を行うプランも浮上。高卒新人では、ダルビッシュ、中田に続く契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1500万円の最高条件も提示した。

 大谷は球団を通じて、「球団の方から自分の疑問点を解消していただき、感謝しています。周囲に迷惑をかけないよう、今週中には球団に伝えたいと思います」とコメント。指揮官に「いい返事を待ってます」と肩を叩かれ、表情を引き締めた。今週中にも「ハム大谷」が誕生する。

 ◆大谷の経過
 ▽9月19日 プロ志望届提出。
 ▽同20日 ドジャースが日米のトップを切って花巻東高を訪問。獲得の意思を表明。
 ▽同26日 日本ハムの大渕スカウトディレクター(SD)らが同校を訪れて面談。
 ▽10月11日 Rソックスが同校を訪問し、レンジャーズを含む大リーグ3球団との面談終了。
 ▽同21日 大谷がメジャー挑戦を表明。
 ▽同25日 ドラフト会議で日本ハムから単独1位指名。「自分自身の考えとしては、(入団の可能性は)ゼロです」
 ▽同26日 山田GMと大渕SDの指名あいさつを佐々木監督が対応。大谷は同席せず。
 ▽11月2日 山田GMと大渕SDが大谷の自宅を訪れ、両親にあいさつ。大谷とも会い、栗山監督のメッセージ入りサインボールを贈った。
 ▽同10日 山田GMらが大谷側と交渉。「大谷翔平君 夢への道しるべ ~若年期海外進出の考察~」と題した資料を作成し、早期挑戦のリスクを説明。
 ▽同17日 2度目の入団交渉。入団後、投手と打者の「二刀流」で育てるプランと、優れた育成体制をアピールも、態度に軟化は見られず。
 ▽同26日 栗山監督が初めて入団交渉に同席。「信じて待つだけです」と訴えた。交渉開始後、初めて取材に応じた大谷は「そういう道(国内)もあると、伝えていただいた。新たな発見もあった」と話した。

 ◆大谷 翔平(おおたに・しょうへい)1994年7月5日、岩手・水沢市(現奥州市)生まれ。18歳。小2で野球を始める。花巻東では、1年春から4番で通算56本塁打。1年秋からエースで2年夏、3年春に甲子園出場もともに初戦敗退。今夏の岩手大会準決勝で高校生史上初の160キロを計測したが、決勝で敗れた。今秋ドラフトで日本ハムから1位指名された。193センチ、86キロ。右投左打。
※引用しました。


活動休止

2012年12月04日 | 日記

活動休止を発表したシンガーソングライターのYUIが、休止を決意した理由について、4日より配信開始したGyaO!動画「MESSAGE from YUI」内で語っている。

 同動画でインタビューに応じたYUIは、これまで8年に渡る音楽活動を振り返るとともに、活動休止を決意するに至った理由についても明かした。「素直に言うと、限界が来た、って感じですね」。YUIはストレートな言葉で語り出すと、こう続けた。「これ以上進めないっていうところを通り過ごして、多分もう歩けなくて立ち上がれない、っていうところまで来たのかな、と思います」――。

 YUIの言う“限界”は、精神的なものだったようで、休止することでもう一度、音楽と向き合おうと思ったのか、との質問に対しても「そんな余裕も無かったかも(笑)。単純に、心が折れちゃったというか、歌が歌えないくらいになっちゃった」と告白する。そんな状態でファンの前に出ることに疑問を感じ、「もし自分の心が壊れてしまった姿を見せたくなかった。いつもやっぱり元気な姿を見せたい、みんなに元気を届けたかったので」との思いから、活動休止を決意したのだという。

 なぜ、そうした“限界”を感じるようになったのか。それについてはYUI自身にも分からないらしく、「自分に追いつけなくなっちゃったのかな? 原因は自分でも今探し中ですけど(笑)」と微笑む。精神的に窮地に立ち、一時は「(歌を続けることは)ちょっともう無理かな」と思うにまで至ったというYUIだが、それでも、歌をやめるという選択肢については、「自然と息を吸うように歌を歌ってきたので、その方が辛いな、と。音楽を嫌いになることのほうが辛い」「聴く人がいなくなっても歌っていたい」と、キッパリと否定する。歌手としての復帰の可能性などついては明言しなかったが、歌手“YUI”名義とは別に、「今までわがまま放題に沢山の経験をさせていただいたので、それを糧にしてやりたいことにぶつかってみたい。とりあえず私が今やっておかなければいけないな、と思うことをひとつずつやっていこうと思う」と、新たな挑戦を視野に入れていることを明かした。

 YUIは先月19日、活動休止を自身の公式サイト上で発表。活動休止は2度目で、2008年末から翌年6月までの期間で音楽活動を休止しており、その際は休止の理由を「制作活動に専念するため、リフレッシュ休暇」としていた。
※引用しました。


引退

2012年12月04日 | 日記

札幌の元日本代表FW中山雅史(45)が4日、札幌市内で会見を開き、今季限りで現役を引退することを表明した。

 中山は会見で「今シーズンをもちまして第一線を退くことを決めました」と述べた。

 来季の去就について中山は2日に「日々、いろいろな思いが交錯している。いろいろ考えることがある。ただ、まだ決めたわけではない」と話していたが、痛めている両膝の状態も思わしくなく、ユニホームを脱ぐ決意をした。

 中山は静岡・藤枝東高から筑波大を経て、90年にJ1磐田の前身、ヤマハ発動機に入社。体を張った闘争心あふれるプレーで、90年代後半から計3度リーグ制覇した磐田の黄金期を支えた。98年にはJリーグ最優秀選手賞に選ばれ、98、00年と2度の得点王、4度のベストイレブンに輝いた。09年限りで磐田を退団し、10年に当時J2の札幌に移籍した。J1で戦った今季は両膝のケガなどに苦しみ、わずか1試合に出場しただけだった。
※引用しました。