開拓以前、札幌にはアイヌの人達の集落がありました。
和人としては、安政4(1857)年に豊平川の渡し守として、「志村鉄一」と
「吉田茂八」が札幌に最初に住み着いた住民として知られています。
以前の記事参照
札幌も今は190万都市となりましたが、当時は未踏の地だらけの原野。
そんな原野を切り開いて札幌の発展の基礎を築いたのが、屯田兵です。
札幌には、 琴似 明治8(1874)年
山鼻 明治9(1875)年
新琴似 明治21(1888)年
篠路 明治22(1889)年 に設置されました。
今回は、山鼻屯田兵について取り上げます。
国道230号線沿いにある、札幌方面南警察署の右隣にある小さな公園
山鼻日の出公園(札幌市南区南29条西11丁目)。
走っている車からも見える大きな銅像が建っています。
「山鼻屯田兵の像」
(山内壮夫 作)
現在、この像が立っている場所は、元は山鼻屯田兵村の墓地でした。
この場所にあった山鼻墓地は昭和40(1965)年に平岸霊園に移転改葬された
そうです。
山鼻に屯田兵が入植したのは上にもあるとおり、明治9(1875)年5月。
東北各県の元士族240戸・1114人が移住し、開拓が始まりました。
現在の南6条~南23条・西8丁目~西13丁目までの場所になります。
兵村の面積は130万坪にも及びます。
兵村の中心に築かれたのが、現在の石山通(国道230号線)。
石山通に並走して走っているのが、現在の東屯田通り(9丁目)
東屯田通り沿いに両脇向かい合わせに家々が並んでいました。
(南8条~南23条まで)
郵便局名にもなっています。
同じく石山通りに並走している西屯田通り(13丁目)
同じく西屯田通り沿いに家々が向かい合わせに並んで建っていました。
(南6条~南21条)
屯田兵村であった、名残が通りの名前に残っています。
ちなみに「山鼻」の地名の由来ですが・・・
藻岩山の山麓に位置する為、山の端に当たるという意味で「山端」と
言っていたのですが、後に「山鼻」と当て字したそうです。
アイヌ語では、「ユク・ニクリ」と言ったそうで、鹿林という意味だそうです。
マンションが立ち並ぶ現在の山鼻地区ですが、その昔は原野で
鹿の群れが集まる場所だったようです。
続きます
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