忘れ去られた矜持
矜持(きょうじ)という言葉がある。直訳としての意味は、自負とかプライドとされているが、どもするそれらの訳語が、奢りだとか慢心といった侮蔑を意味する場合もあるが、あくまでも矜持とは、自主を律する意味で使う言葉で、誇りを持つとかつつしみを持つという意味を含んだものだろうと思う。
ここで、三島由紀夫も敬愛した「葉隠」という江戸時代の本がある。この一節の中に「武士道とは死ぬことと見つけたり」なる一文がともすると引き合いに出される。しかし、葉隠れそのものを私が十分咀嚼している自信はないが、武士のあるべき姿や振る舞いの理想的な姿を広く表現したものだろうと理解している。
ところで、矜持に戻るが、武士の矜持、男の矜持、ジャーナリストの矜持などとの表現に使われることが多い。つまり多くは、その者の職種に関わり、その心意気を示す場合に使われる例が多いのだろう。職業と云えば、生活の糧を得る、つまり給金なり利益という金の話しが、実務とか実体上から無視はできないものであるが、矜持には金のことは一切関わらない。
私も既に社会人として半世紀近くを生きて来た訳だが、この50年で日本人一般に失われたのは、この矜持という言葉ではないだろうか。つまり、先にも述べた通り、矜持なる心意気には、金のことは除外しているのだが、何でも金、儲かる話し、金持の他人を嫉む心といった、金が中心の世になり過ぎた様に思える。
先に、矜持は職業と併せて使われる場合が多いと記した。つまり、ジャーナリストの矜持、弁護士の矜持といったもので、クルマの整備屋の矜持だってあるハズだろう。しかし、今この言葉を使ったとしたら、怪しい言葉として受け取られる場合もある様に思える。
そもそも政治家だとか官僚の矜持だってあるはずだ。しかし、あまりこれらの言葉を聞くことはない。国家とは何のためにあるのかと問えば、憲法の規定からも国民の生命財産を守るためにあると条文に明記され、政治家や官僚は、国民の生命財産を守る奉仕者であることが憲法99条で規定されているのにも関わらずだ。
前文で今や政治家や官僚には吟司なる心意気意はなく、せいぜいそれを訴えるのは選挙演説の曲面だけというのが多くの実態なのかもしれない。しかし、数は少ないながらも、政治家や官僚の中にも、強い矜持を持って活動している方も皆無ではないことも確かだろう。
現在の政権幹部のアナウンスを聞いていると、前頭句として国民の生命財産を守ると発言しながら、肝心の主文となるとまるで筋が通らない話しをしているケースがほとんどではないだろうか。訴訟における論理から云えば、小学生でも判る論理矛盾を平気で行う政治家や官僚の何たる多いことかと嘆くと共に、これ程言葉というものが軽く弄ばれる時代がかつてあったのだろうか・・・。
矜持(きょうじ)という言葉がある。直訳としての意味は、自負とかプライドとされているが、どもするそれらの訳語が、奢りだとか慢心といった侮蔑を意味する場合もあるが、あくまでも矜持とは、自主を律する意味で使う言葉で、誇りを持つとかつつしみを持つという意味を含んだものだろうと思う。
ここで、三島由紀夫も敬愛した「葉隠」という江戸時代の本がある。この一節の中に「武士道とは死ぬことと見つけたり」なる一文がともすると引き合いに出される。しかし、葉隠れそのものを私が十分咀嚼している自信はないが、武士のあるべき姿や振る舞いの理想的な姿を広く表現したものだろうと理解している。
ところで、矜持に戻るが、武士の矜持、男の矜持、ジャーナリストの矜持などとの表現に使われることが多い。つまり多くは、その者の職種に関わり、その心意気を示す場合に使われる例が多いのだろう。職業と云えば、生活の糧を得る、つまり給金なり利益という金の話しが、実務とか実体上から無視はできないものであるが、矜持には金のことは一切関わらない。
私も既に社会人として半世紀近くを生きて来た訳だが、この50年で日本人一般に失われたのは、この矜持という言葉ではないだろうか。つまり、先にも述べた通り、矜持なる心意気には、金のことは除外しているのだが、何でも金、儲かる話し、金持の他人を嫉む心といった、金が中心の世になり過ぎた様に思える。
先に、矜持は職業と併せて使われる場合が多いと記した。つまり、ジャーナリストの矜持、弁護士の矜持といったもので、クルマの整備屋の矜持だってあるハズだろう。しかし、今この言葉を使ったとしたら、怪しい言葉として受け取られる場合もある様に思える。
そもそも政治家だとか官僚の矜持だってあるはずだ。しかし、あまりこれらの言葉を聞くことはない。国家とは何のためにあるのかと問えば、憲法の規定からも国民の生命財産を守るためにあると条文に明記され、政治家や官僚は、国民の生命財産を守る奉仕者であることが憲法99条で規定されているのにも関わらずだ。
前文で今や政治家や官僚には吟司なる心意気意はなく、せいぜいそれを訴えるのは選挙演説の曲面だけというのが多くの実態なのかもしれない。しかし、数は少ないながらも、政治家や官僚の中にも、強い矜持を持って活動している方も皆無ではないことも確かだろう。
現在の政権幹部のアナウンスを聞いていると、前頭句として国民の生命財産を守ると発言しながら、肝心の主文となるとまるで筋が通らない話しをしているケースがほとんどではないだろうか。訴訟における論理から云えば、小学生でも判る論理矛盾を平気で行う政治家や官僚の何たる多いことかと嘆くと共に、これ程言葉というものが軽く弄ばれる時代がかつてあったのだろうか・・・。