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「大人になれよ」という言葉に潜む偽善

2023-07-15 | コラム
「大人になれよ」という言葉に潜む偽善
 サラリーマン時代、正義感とか不条理が訴えた言葉そして行動を、主に上司に相当するものから「大人になれよ」と諭されたことはないだろうか。私はこのことを何度か被発言者として聞き、また周辺の傍観者として発言者の姿を見てきた。

 この「大人になれ」とは、考えて見ればまったく論理のない、気味悪い嫌な言葉であろうと思っている。私にも後年、後輩も生じ、その既存秩序とか常識として極当たり前に行っている企業活動の不正義を指摘を受けるという曲面が生じたが、私にはこれに対して「大人になれよ」という言葉は到底思いもしないし、使うことはなかった。

 このことを思う時、今現在読み進めている石橋湛山の以下の一節にまったく一致することを意識する。
▶我が現代の人心は何故にかくの如き浅薄弱小(せんぱく:考え知識が浅く行き届いていない。あさはか。/じゃくしょう:弱い力未熟)、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対し直ちにこう答える。曰わく、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見(ちけん:現代用語では知見と記す場合が多い。実際見て見聞して知識/ (智見)仏語。事物に対する正しい認識。また、知識によって得た見解。)が彼らに欠けているがおるが故であると。例えばこれを吾輩が前に上げた外交家の例に取って見よ。彼らには日本の立場が判らないのである。日本の現在および将来の運命を決する第一義がどこにあるか。徹底した目安(めやす:目標もしくはおおよその見当)が付いておらないのである。徹底した目安がない。ここにおいて彼らはやむをえず、その時々の日和を見(ひよりみ:有利なほうにつこうと、形勢をうかがうこと)、その時々の人々の顔顔色を窺って(ひそかに覗き見る)、行動するより他に道はないのである。(略)けだし徹底せず智見は力である。徹底せる智見なきが故、主張すべき自己が判らず、主張すべき自己が判らぬ故に、すなわちその我は弱小浅薄非力無確信となるのである。明治45年(1913年)6月「東洋時論」石橋瑞山記す。◀

 この一節を読む時、今から110年前、石橋湛山はその当時の社会の姿たる人心浅薄弱小の世と見ていたことが判るのだが、それは先の戦争に向かって現論の自由が圧迫され、論理矛盾の政治が進められつつある政治の姿を批判したものであろう。しかし、110年後の現在、近似した姿になっていることを意識せざるを得ない。

 まとめとして、「おとなになれよ」という言葉は、何か後輩を上から目線で見下げ、世の不合理を致し方ないものとして知りそれを黙認せよ云うに等しい、まったく論拠のない言葉であろう。もし、裁判で被告人になり、抗弁として大人になりたかったのですと自己を肯定する抗弁をしたら、到底抗弁論拠として評価を受けぬだろう。


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