日本の冤罪事件はさらに増える要素が多分にある
法治国家として、刑法で定めた法(おきて)の元に裁いて、断罪することは、国家の秩序維持上から絶体に必用なことを疑う者はいない。これがなされないとしたら、国家や組織は、疲弊荒廃するのは当然として、幾らモラルを訴えたところで、正直者がバカを見る世界になることは確かだからだ。
ただし、冤罪としての裁きはあってはならない。特に国家の裁きにおいては、その捜査機関(警察や検察)の捜査権限の強大さとか、裁判所は極刑としての人の死を命じることや無期懲役までの、正に人生を終わらせる刑までを合法的に国家権力として行うことができるからだ。
また、冤罪事件には、➀被疑者が当初から一貫して否認している場合、②捜査段階で一旦認め裁判になってから否認に転じる場合、③捜査段階および裁判でも認めていたのだが収監中に真犯人が捕まりそこから冤罪だと判る場合などがある様だ。
この③の場合など、何故犯人でもないものを認めてしまうのかという、一般論としては信じがたい思いもあるのだが、これは単に容疑者とされた者が意志薄弱だったで済まされない問題が内在していると思える。ちなみに、痴漢冤罪などは、ほとんどの場合が当事者双方だけの言い分であり、ほとんど物証がなく、証人がいたとしても何処まで信憑性があるのが疑問な案件がほとんどで、認めれば軽犯罪で略式起訴罰金5万円だが、不認すると3ヶ月以上の長期拘留で連日自白を迫られる。この捜査期間の長期化とか延長も、裁判所の許可がいるのだが、裁判所は安易に拘留延長許可を出し過ぎているのではないか。また、捜査機関側で、別の軽犯罪と冤罪疑惑を作り出し、別件逮捕を行い、本来の主目的捜査を継続しているという問題もある。
さて、刑事事件は捜査期間としての警察もしくは検察が調べ、検察が起訴すると裁判が始まり、裁決が下される訳だが、起訴に対する裁判の有罪率は、驚くことに日本の場合ね 99.9%という有罪率だと云うのだ。つまり、1000人の容疑者に対し1名の無罪者しかいないというのだ。これを聞いて、不思議だと思わぬ方は少ないではないだろうか。
最近読んだ「冤罪弁護士」(今村核著)では、著者の弁護士の巻頭言によると、日本の刑事裁判を司法統計年表から概観すると以下の様に有罪率は変化してきたと述べている。
・1950年頃 60人に1人 有罪率94%
・1960~1975年頃 200人に1人 有罪率99.5%
・1980~1990年頃 500~1000名に1人 有罪率99.9%
・2000年頃 1000~2000人に1人 有罪率99.95%
10年前から裁判員が有権者からくじで選任されて、重大事件を裁判官3名+裁判員6名の合議制で裁く制度が始まっている。ただ、この裁判員制度も、当初から様々な批判があったが、驚いたことに、国民の8割方反対しており、現行のプロ裁判官も概ね反対の意見が多数だったというが何故か政府の意向もあり導入が進められたと云う。この主目的は、米国の裁判における陪審員制度とかを参考に、司法を国民目線で少しでも開かれたものにというのが大義名分だった様だ。このことに大義名分に異議はないが、一方くじで選任されるという裁判員に過重な負担を掛けない様に、基本として、公判前の事前手続き準備を整えてのことだろうが、裁判審理を5日で完了させるという進め方を行っていると云う。つまり、裁判員という一般大衆に過重な負担を掛けないという美名を優先し、裁判審理の超ハイスピード化をしたのだが、これは冤罪裁判をますます増加させることになるだろうと思えている。
それと、既に裁判員制度が10年程行われて来たが、裁判員経験者から、現代のNet社会で、個人的論評なり感想というものが聞こえて来ても良さそうなのに、ほとんどその様なことを耳にすることはない。これは裁判員には、裁判官とのやりとりとか評決内容について漏らすと、罰則付きの守秘義務が課されていることにあるのだろう。一方、プロ裁判官にも守秘義務はあるが、こちらに罰則まではないそうだ。ここは、裁判所の権威を落としたくないという思いは判るが、当初の開かれた国民目線の裁判とか言論の自由という思考で考えると、もっと裁判員の実態を伝える論述があって良いと思うところだ。
なお、近日のブログでも触れたが書評「「無罪」を見抜く」(木谷明・元裁判官著)で、同氏は裁判官の資質で何が一番大切かと云えば、法令の番人であるという正義感であり、ひたすら法令の解釈だとか、近代法理論の基礎的考え方である「疑わしきは被告人の利へ」を実蹟できるかに掛かっていると述べている。その上で、裁判官のタイプを以下3分類して述べている下りは驚愕の思いを持って読むところだ。
➀「迷信型」:捜査官(警察や検事)は嘘付かない、一方被告は嘘を平気で述べるという凝り固まった者が30%いる。
②先の①の対極となる「熟慮断行型」で被告人の立場に立って思考でき、「疑わしきは・・・」の原則を忠実に実蹟できる者で、これは多めに見積もっても10%いるかどうかだろう。
③その他の6割は、「右顧左眄」(うこさべん:右を見たり左を見たりして、ためらい迷うこと。 また、まわりの情勢や周囲の思惑・意見を気にして、なかなか決断できないでいること。 )だという。こういう人は、思い迷うのは当然だが、そこに「こういう判決出して物笑いにならないか」とか「警察や検察から恨まれないか」、「上級審の評判が気になる」と自己利益に右顧左眄し優柔不断で検察追認の判決を下すという。
なお、補足するが冤罪事件というと、とかく裁判官だけの責任を思いがちだが、これは決定権として当然だと思うが、法相関係3者として、警察および検察、そして弁護士にも責任はあると云えよう。つまり以下の様な事例が該当する。
・捜査機関(警察および検察)
とかく、思い込みが激しく、証拠がない事件などは、自白偏重になりがちで、事件をストーリー化して、その調書への署名を求め続けすぎる。自白するまで、拘留延長や別件逮捕などで、とにかく長期拘留(人質司法)して、五問まではしなくても精神的な圧迫を繰り返し行う。
・弁護士
弁護士という宿命上もあるのだろうが、一つは刑事事件の弁護をやりたがらない弁護士が多過ぎることがあるのではないだろうか。それと、日本の場合は訴訟にならないと、国選弁護人は付けられないが、捜査の段階では初回1回だけ無料で弁護人聴取を弁護士会が行っている様だが、重大事件では捜査段階の弁護士の関わりを国費で行って良いのではないだろうか。
それと、弁護士にもその正義感とか知識や技量など、なかなか目に見えない差異があるのは当然で、個人差がそうとうに大きいのは裁判官と同じであろう。
#裁判員裁判 #冤罪事件はますます増える要素大
法治国家として、刑法で定めた法(おきて)の元に裁いて、断罪することは、国家の秩序維持上から絶体に必用なことを疑う者はいない。これがなされないとしたら、国家や組織は、疲弊荒廃するのは当然として、幾らモラルを訴えたところで、正直者がバカを見る世界になることは確かだからだ。
ただし、冤罪としての裁きはあってはならない。特に国家の裁きにおいては、その捜査機関(警察や検察)の捜査権限の強大さとか、裁判所は極刑としての人の死を命じることや無期懲役までの、正に人生を終わらせる刑までを合法的に国家権力として行うことができるからだ。
また、冤罪事件には、➀被疑者が当初から一貫して否認している場合、②捜査段階で一旦認め裁判になってから否認に転じる場合、③捜査段階および裁判でも認めていたのだが収監中に真犯人が捕まりそこから冤罪だと判る場合などがある様だ。
この③の場合など、何故犯人でもないものを認めてしまうのかという、一般論としては信じがたい思いもあるのだが、これは単に容疑者とされた者が意志薄弱だったで済まされない問題が内在していると思える。ちなみに、痴漢冤罪などは、ほとんどの場合が当事者双方だけの言い分であり、ほとんど物証がなく、証人がいたとしても何処まで信憑性があるのが疑問な案件がほとんどで、認めれば軽犯罪で略式起訴罰金5万円だが、不認すると3ヶ月以上の長期拘留で連日自白を迫られる。この捜査期間の長期化とか延長も、裁判所の許可がいるのだが、裁判所は安易に拘留延長許可を出し過ぎているのではないか。また、捜査機関側で、別の軽犯罪と冤罪疑惑を作り出し、別件逮捕を行い、本来の主目的捜査を継続しているという問題もある。
さて、刑事事件は捜査期間としての警察もしくは検察が調べ、検察が起訴すると裁判が始まり、裁決が下される訳だが、起訴に対する裁判の有罪率は、驚くことに日本の場合ね 99.9%という有罪率だと云うのだ。つまり、1000人の容疑者に対し1名の無罪者しかいないというのだ。これを聞いて、不思議だと思わぬ方は少ないではないだろうか。
最近読んだ「冤罪弁護士」(今村核著)では、著者の弁護士の巻頭言によると、日本の刑事裁判を司法統計年表から概観すると以下の様に有罪率は変化してきたと述べている。
・1950年頃 60人に1人 有罪率94%
・1960~1975年頃 200人に1人 有罪率99.5%
・1980~1990年頃 500~1000名に1人 有罪率99.9%
・2000年頃 1000~2000人に1人 有罪率99.95%
10年前から裁判員が有権者からくじで選任されて、重大事件を裁判官3名+裁判員6名の合議制で裁く制度が始まっている。ただ、この裁判員制度も、当初から様々な批判があったが、驚いたことに、国民の8割方反対しており、現行のプロ裁判官も概ね反対の意見が多数だったというが何故か政府の意向もあり導入が進められたと云う。この主目的は、米国の裁判における陪審員制度とかを参考に、司法を国民目線で少しでも開かれたものにというのが大義名分だった様だ。このことに大義名分に異議はないが、一方くじで選任されるという裁判員に過重な負担を掛けない様に、基本として、公判前の事前手続き準備を整えてのことだろうが、裁判審理を5日で完了させるという進め方を行っていると云う。つまり、裁判員という一般大衆に過重な負担を掛けないという美名を優先し、裁判審理の超ハイスピード化をしたのだが、これは冤罪裁判をますます増加させることになるだろうと思えている。
それと、既に裁判員制度が10年程行われて来たが、裁判員経験者から、現代のNet社会で、個人的論評なり感想というものが聞こえて来ても良さそうなのに、ほとんどその様なことを耳にすることはない。これは裁判員には、裁判官とのやりとりとか評決内容について漏らすと、罰則付きの守秘義務が課されていることにあるのだろう。一方、プロ裁判官にも守秘義務はあるが、こちらに罰則まではないそうだ。ここは、裁判所の権威を落としたくないという思いは判るが、当初の開かれた国民目線の裁判とか言論の自由という思考で考えると、もっと裁判員の実態を伝える論述があって良いと思うところだ。
なお、近日のブログでも触れたが書評「「無罪」を見抜く」(木谷明・元裁判官著)で、同氏は裁判官の資質で何が一番大切かと云えば、法令の番人であるという正義感であり、ひたすら法令の解釈だとか、近代法理論の基礎的考え方である「疑わしきは被告人の利へ」を実蹟できるかに掛かっていると述べている。その上で、裁判官のタイプを以下3分類して述べている下りは驚愕の思いを持って読むところだ。
➀「迷信型」:捜査官(警察や検事)は嘘付かない、一方被告は嘘を平気で述べるという凝り固まった者が30%いる。
②先の①の対極となる「熟慮断行型」で被告人の立場に立って思考でき、「疑わしきは・・・」の原則を忠実に実蹟できる者で、これは多めに見積もっても10%いるかどうかだろう。
③その他の6割は、「右顧左眄」(うこさべん:右を見たり左を見たりして、ためらい迷うこと。 また、まわりの情勢や周囲の思惑・意見を気にして、なかなか決断できないでいること。 )だという。こういう人は、思い迷うのは当然だが、そこに「こういう判決出して物笑いにならないか」とか「警察や検察から恨まれないか」、「上級審の評判が気になる」と自己利益に右顧左眄し優柔不断で検察追認の判決を下すという。
なお、補足するが冤罪事件というと、とかく裁判官だけの責任を思いがちだが、これは決定権として当然だと思うが、法相関係3者として、警察および検察、そして弁護士にも責任はあると云えよう。つまり以下の様な事例が該当する。
・捜査機関(警察および検察)
とかく、思い込みが激しく、証拠がない事件などは、自白偏重になりがちで、事件をストーリー化して、その調書への署名を求め続けすぎる。自白するまで、拘留延長や別件逮捕などで、とにかく長期拘留(人質司法)して、五問まではしなくても精神的な圧迫を繰り返し行う。
・弁護士
弁護士という宿命上もあるのだろうが、一つは刑事事件の弁護をやりたがらない弁護士が多過ぎることがあるのではないだろうか。それと、日本の場合は訴訟にならないと、国選弁護人は付けられないが、捜査の段階では初回1回だけ無料で弁護人聴取を弁護士会が行っている様だが、重大事件では捜査段階の弁護士の関わりを国費で行って良いのではないだろうか。
それと、弁護士にもその正義感とか知識や技量など、なかなか目に見えない差異があるのは当然で、個人差がそうとうに大きいのは裁判官と同じであろう。
#裁判員裁判 #冤罪事件はますます増える要素大