私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

万物流転

2022-10-05 | コラム
万物流転
 私の好きなと云うか、信じる格言として「万物流転」がある。
 「万物流転」の意味は、この世の全ては絶え間なく変化していて、この世に永遠に変わらないものは存在しない。万物は流動変化して変転極まりない。「万物流転」の語源由来は、古代ギリシアの哲学者・ヘラクレイトスが提唱した哲学の概念で、「パンタレイ」とも云う。「万物流転」は上記の様な意味合いで、端的に言うなら「全てが変化している」と説いた仏教の「諸行無常」と基本的な考えは全く同じという。

 この「万物流転」を以前から意識的に繰り返し説いた経営者が、ホンダ技研の創業経営者のパートナーであり、実質の経営オペレーションの実績者であった副社長の藤沢武雄氏であるとものの本で知る。しかし、万物流転をことさら意識し、それに備えようとしたホンダ技研だが、往時の攻勢は衰えつつあることは知られてるところだ。

 ただ、これはことホンダ技研に限らず、日本という国家そのものが凋落の方向へ向かっていると云う思いを持つところだ。

 かつて、1980年代までの日本は、自動車と共に、それと同じくらいの市場を電気・電子産業が担っていた。自動車は今でも世界最大の生産高を維持しているが、実際に国内製造しているのは、その1/3と云うところだろう。この先、日本でクルマの生産が続けられるか、甚だ不透明な状況に至っている。

 電気・電子産業の凋落は酷いものだ。その代表的な事例が、ソニーのウォークマンがアップルのipodに移ったということがある。そのipodも現在は、iphoneに移行しつつ、スマホ市場を二分するかのシェアを確保している様に見える。ただし、数でいうと実際のところ、独自のOSで駆動するiphoneより、オープンOSのアンドロイド軍勢の方が圧倒的に多数のメーカーが参入しているので、機種の多様性も技術革新も進んでいる。そういう中で、iphoneは独自のブランド戦略で高架化価格と高利潤を享受して来たのだが、一部の愛好者を除き誰がスマホごときに1代10万の価値を認める者が居るだろうか。なんやかんやかんやとアップルの方を持つ愛好者が言い張ろうが、クルマでいうフェラーリやポルシェと同じく、そういう明かな実質価値を越えるブランド価値に大枚を支払う者は少数になって行かざるを得ない。

 私はスマホ使用は約10年で5台ほどの機種代替をして来たが、10年前の当初はiphone使用者のスマホを見ると、今考えると大した機能差もないにも関わらず、何故か高級品の様なブランド感を感じたものだが、現在はそういう意識はまったくなくなり、コイツものの価値感を知らぬミーハーな奴という意識すら芽生えて来てしまう。これは、クルマでも同様で、フェラーリとかポルシェの旧車ならともかく、最新型を乗り回す者を同様の視点で眺めることが多い。ましてや、ブランドだけを買い取り、ひたすらブランド価値を高くデモンストレーションすることだけをコンセプトにした、新生ロールスロイスとかベントレーとかジャガーとかを見ても、そもそも買える財力はないが、例えあったとしても絶体選ばないだろうと思ってしまう。これも万物流転ということだろう。

 つまり、趣味性の問題として、その性能だとかに関係なく選ぶなら、物の価値はスペックとは関係なく維持されうるが、実用品としてとしての価値は、スペックあっての価値であり、これを越えた購買は、ただただミーハーの世界かメーカー宣伝に騙されている優良顧客に過ぎないのだろう。

 こんなことを思考していると、スマホのような機能重視でまだまだ機能向上の余地ある未完成製品で、ブランド価値を追求しようと云う販売思考そのものが、下らない思考と思える。

 日本の場合は、ここにさらに悪癖たる同調圧力というバイアスが加わるからタチが悪い。つまり、権力者とか権威者とか高名人が良い悪いを評価すると、個人の思考がないものが、大した根拠や理由もなく流されると云う、物理でなく精神的な隷従作用が生じるのだ。こんなことを考えると、日本の民主主義が掛け声だけで一向に本物になれない要因は
こんなところにもある様に思える。


#万物流転 #所業無情 #ものの価値 #同調圧力と民主主義


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