私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

たまに乗る鉄道と遺構

2015-08-10 | 沼津そして伊豆周辺
 写真は、JR御殿場線の富士岡駅で西(沼津)方向を眺めたものです。ホームの右側に土盛りされたちょっとした岡状の部分があります。しかも、この岡、先の方が高く見えます。これは、知る人は知る「スイッチバック」の遺構なのです。

 明治22年(1887年)に国家の大プロジェクトとして東海道本線が全線開通したそうですが、その時の本線は今の御殿場線だったのです。それは歩く東海道は箱根山を越えた訳ですが、とても急登坂で鉄路は不可能、トンネルをぶち抜こうにも、数十キロにも及ぶ掘削はとても不可能という理由から、御殿場線のルートが決められたのでしょう。

 さて、冒頭の話に戻りますが、奥に行くほど高くなっている様に見える岡ですが、この岡の上面が水平なのです。つまり、対比する本線路面が傾斜(沼津方面に下っている)から、その様に見えるのです。

 開業当時の東海道本線は、当然蒸気機関車に列車が牽引されるものでした。しかも、御殿場線など、長い登坂が続く地域では、沼津駅で先頭機関車の前方にさらに機関車を連結(重連)し、登坂路に挑んだのでした。しかし、登坂傾斜路の駅に停車した場合、再発進が不可能となることから、ポイント前方まで行き過ぎ、後退してポイントで支線に分岐して水平なホーム位置に引き入れ停車することで、再発進を容易にしていたのです。

 この登坂路における再発進不可ですが、駆動力は十分あるのですが、車輪が空転してしまうことによります。レールと鉄輪の摩擦係数は0.2前後でしょうか。これが自動車の様なゴムタイヤでしたら0.7程度ありますから、スイッチバックなしでも発進可能だったかも知れません。もっとも、雪積時のクルマも同様の事態になりますが・・・。

 この御殿場線のスイッチバックですが、富士岡駅の沼津方向隣となる岩波駅の方が、もっとハッキリとした形が残されています。その他、東海道本線時代は大幹線路でしたから、上下専用の複線化されていました。その時のトンネルとか河川橋梁の遺構が、これらは神奈川県側に多く残されていることを知ります。



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