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ジャーナリズムの崩壊/書評

2011-10-03 | コラム
 著者の上杉隆氏のことは、かねてツイッターやネット動画で知り関心を高めていました。その著者が2008年に著した「ジャーナリズムの崩壊」なる新書を今般読む機会を得ましたので、若干感じるところを記してみます。

 著者は、NHK報道局勤務の記者に始まり、その後の国会議員秘書を経て、ニューヨークタイムス東京支局記者、そしてフリーランス記者として活動なされている方ですが、その中で自らが接して来た、日米の大手ジャーナリズムの違いとして、如何に日本が異常かを訴えているというのが本書のあらましとなるのでしょう。

 その異常さの根源として、記者クラブ制度があるのだと著者は云います。そもそも記者クラブ制度とは、1890年の帝国議会の発足に応じ記者団が「議会出入り記者団」というのが結成されたことを端緒にするとされます。その際の大義名分は、「情報を隠蔽する体質の根強い官庁に対して報道機関側が記者クラブを作ることによって公権力に対し情報公開を求める。」という至極もっともなものだったとされます。しかし、著者が指摘している現在の記者クラブ制度の弊害を表す風景として、もっとも滑稽というか深刻な場面は、記者会見が終了すると次の様な状景が生じるのだと記しています。会見終了後、部屋の一角に円陣が組まれるのだそうです。そして、ヒソヒソと大手各社の記者達が、メモを見ながら、会見の一言一句を照合しているのだと云うのです。これでは、昨今は行われてはいないだろうけど、建設関係の談合とほとんど類似の行為であって、独立した報道機関とは到底信じられないものだと思わずにはいられません。

 それともう一つ、米国との大きな違いとして報道各社における記者と経営との分離のことを記していますが、なる程もっともなことだと感じます。記者と云えどもサラリーマンですから昇進を望むのは当然ですが、米国では一記者から出発して昇進しても編集局長までが限界であり、経営者側とは一線を画するそうです。その代わり、米国では経営者から記者への自社都合の発言の一言でもあったとすれば、大問題に発展するといいます。翻って日本を見ると、一記者から社長にまで登り詰めた事例は多くみられますし、いわばライン化がなされてしまっているのです。これでは、上目遣いの小判鮫化した記者が増えるのも無理はないことでしょう。

 この本を見て、本年3月に勃発の原子炉事故に関わった、政治や官僚、そして電力会社などの報道における情報の恣意的な欠落ぶりも頷けることであるなと思いますし、それ以前から営々とこの様な情報コントロールをし続けて来ていたのでしょう。著者は米国では報道を区分するとき、ジャーナリズムとワイヤーサービスとに分けて考えているといいます。ジャーナリズムとは、事象に加えて、その解説と批評を加えたものであり、ワイヤーサービスとは、速報性を最優先にした事象のみの報道のことです。ワイヤーサービスとしての日本の具体例としては、共同通信などが通常は該当するのでしょうが、現実は全ての大手ジャーナリズムがワイヤーサービスの価値しか持たないと著者は語っています。そんな意見を聞くとき、情報の受け手たる私達も、これはワイヤーサービス情報だという認識で、ネット情報などで補完しつつ、情報の全体像を眺める努力が欠かせないと感じるのです。



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