私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

医術と整備屋

2021-01-08 | コラム
 こんな表題で書き表してみようと思ったのは、つい先日の自らの体調急変に関わる事後の処置と、自らが業として40年を過ごして来た整備屋としての経験と比較して、結局のところは大した差がないのが現実だと感じたことにある。

 もちろん、世間一般の評価としては、医療に携わる医師と、単なる自動車の整備を業とする整備士が、それぞれ国家が認定する資格制度があるとは云うものの、その社会的地位、専門分野の深度など、雲泥の差があり、その国家資格の難易度も含めた価値が、大きな格差の上にあることは十分承知の上のことだ。しかし、そんなものは生命の価値が、何にも優先するという大前提の倫理の上に、あえて人為的に形作られた結果であって、比較の前提とする訳にはいかないだろう。

 自らの業を見廻してみれば、クルマになんらかの変調があれば、それは何処かの部品に不具合が起きていると結論付けるのはともかく、そこには不具合現象とのその結果の異常発現との技術的因果関係の考察とか洞察なんていうことにほとんど感心はなく、ただただ部品を替えた結果でのみ判断しようとするに過ぎない者は多い。これで国家資格2級の整備士を持っているのかという様な整備屋を嫌になる程見てきた訳だが・・・。しかし、社会的には地位が高く、それなりの知的水準を持っているとされる医者だが、先の整備屋とほとんど大差ない思考力しかないことを見せつけられると、患者としては強い不信感を感じざるを得ない。

 今回の具体例としては、ほとんど積極的に患者に問診をしようともせず、血液検査の結果だけから見た、肝機能系の異常値のことを患者に説明する訳でもなく、なぜなんだと自問自答しているという姿を見せつけられた。小病院と云えども心電図測定器は保有し、当然のことに心電図の計測とプリントアウトはしているものの、そこに現れている心筋梗塞という明らかな傾向には触れもせず、患者に告げたのは「これは家には手に余る症状なので大病院に行って欲しい」と云うことで「ついては何処でも紹介状を書くから」というものだった。これだけ患者に不審を生じさせた医者に対し、大病院に行き改めて診断を受けるのは同意するところだが、なぜこんな藪医者に紹介状を書いてもらう必用があるのだろうかとしか思えず、かくなる大病院は自らが選定し受診するので、紹介状なんか不要だと断った次第なのだ。

 結果として、その翌日には比較的近郊の大病院を受診し、即座に心筋梗塞の明からな症状が明確に現れており、肝臓系の諸数値が一部異常値となっているのは、病変で倒れ強い打撲を受けた影響もあり、徐々に正常値に戻っていることで明確だと強い説得力を持つ説明を受けるに至った訳だ。しかし、現行の厚生労働省が進める医療体制では、初診は小病院で受診し、そこで手に余る症例のみ大病院で見るという規定となっているのだ。これは、大義名分は限られた大病院の医療処理量を集中させることなく分散させ様とするものともことだが、穿った見方だが小病院の仕事量の確保が現実的な目的なのかもしれないとも思えてくる。

 ここで私の思いに誤解のなきように補足しておきたいのだが、私は病院の規模で医者の技量というか診断能力を決めるつもりはない。必ずしも診断設備機器が整った大病院にしか、十分な診断能力のある医者がいるとは限らない訳で、小病院にだって、日頃の自己研鑽を欠かさず、絶えず医療の限界だとかを意識している優秀な医師も沢山いるだろう。しかし、現実は新出去定(にいで きょじょう・山本周五郎が書き表す小説「赤ひげ診療譚の主人公医師)みたいな医師は誠の希で、云って見れば患者を人とも思わず業のための素材としてしか眺められない医師は多かろうと感じる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。