私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

河津への下見運行のこと

2020-02-18 | 沼津そして伊豆周辺
 昨日(2/17)のこと、近く予定している河津桜他のバスツアーの下見運行を行った。
 本ツアーの企画提案者たるバス事業最高責任者(業界内では安全統括管理者という職務)たる者としては、以下の要点を含んでの、ドライバー複数および当職を含めての実施となる。
・本ツアーの適切な道順、車両の停止場所、走行時の注意点などを各運転手に確認認識させること。
・日頃同乗することの少ない個別運転手の運転動作等を、問題がないか確認すること。

 と云うことで、同乗運行を行いつつ、総走行140km、のべ運行時間4時間ほどの下見運行を問題なく済ませたところだが、運行時の窓外の風景を紹介しつつ、関連事項を書き留めてみたい。

①まずはツアー起点となるJR三島駅北口の2番バスポストに停車する。ここでは、予定時刻に遅れないよう多くの場合に早着する場合が多い訳だが、待機場所の確認を合わせて行う。つまり、発着ポストは多くのバス事業者と共用する訳だからして、早着して長時間の出発待機することは他社の迷惑行為となることからなのだ。

②伊豆縦貫道に乗り、南下する。写真は大仁付近の狩野川の平行になった直線区間だ。河津桜が満開だ。昨日は、風が強く、断続的に吹き付ける横風は、特に高速走行中は、バスとかバントラなどの平面的な横面積の大きい車両では顕著に影響を受ける。乗用車など、横面積も小さく車高が小さいクルマでは、ほとんど感じない様な極面でも、ハーエースの様なバンとか車高の高めのSUV等も流行で増えたが、横風安定性の劣後のことを、モータージャーナリスト共は表現することを知らない。

③④天城峠のトンネルを越えしばらく下ると、河津ループ橋という変わったループがある。この様なループで上下させる道路は、首都高大黒SAとか大橋JC等でもある。この河津ループのことを改めてwikiで確認すると、ループは直径80m、2周のループで高低差45mを繋ぐものだ。何故このループ橋が作られたかだが、1987年(昭和53)1月の伊豆大島近海地震で、同地区の崖崩れが大規模に起こり道路が寸断されたことにあった。その後、1981年(昭和56年)に、観光名物としての思惑もありこのループ橋が生まれたということだ。

⑤河津観光センター近くの道路だが、河津川沿いの河津桜も満開だが、そこかしこの河津桜も満開だ。昨日は月曜だが、観光センターの大型バス駐車場も多くのバスが来所しており、周辺にも観光客も予想を超えて多かった。
 これでも、今年は勃発した武漢肺炎により、中華人の観光も止まっており、我が国民も出控える方も多いだろう。

追記
 ループ橋が完成してから程ないことで、ことの真偽は確かめてもいないが、おそらくこのループ橋を下田方面から北上するクルマ(つまり登り坂)で、飛ばして登ったら、デフ(ファイナルギヤ=ハイポイドベベル)歯面が焼き付いたという話しを聞いた覚えがある。たぶん、リジットアクスル方式の後輪駆動車だが、デフオイルの片寄りにより、ファイナルギヤ歯面のオイルが油膜切れとなったからであり得る話しだろう。この様なリジットアクスル(ホーシング)では、デフオイルが一時的な片寄りを防止するため、デフギヤ近くにバッフルプレートが設置されてはいるのだが、比較的方寄り時間が長引くと、その隙間から生じた片寄りから中央デフ部のオイル切れが生じる可能性がある。その際、軽負荷なら持つだろうが、アクセルONで駆動力が働いていれば、自己体験からも僅か30秒程で、歯面焼き付きが生じ、一旦焼けで生じたうなり音は、以後自己修復するなんてことはないだろう。 






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