アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ 其の34  有る、サンカの女性の生涯Ⅱ

2015年10月22日 | 近世の歴史の裏側

前回から続き、 このうち第一子の男(若いころ農薬自殺)は ついに無籍のままであつた 残る九人を私生児

として自分の籍に入れたが その生年ことされると届け出のあいだには順に九年 六年 三年 ほぼ同時に以上は昭和十八年二月に一括して届け出十八年、ほぼ同時に十二年、八年、七年(以上は ほぼ同時を除いて昭和三十九年十一月 第二子が一括して届け出)と大きな開きがあった、

最初の一括届け出の時、一家は埼玉県大里郡吉見村小八林(現熊谷市小八林)の木賃宿で暮

らしていた 太平洋戦争のさなかで 以前のように天幕や ほんの何時間かで建てられる小屋に

寝泊まりしながら各地を漂浪する生活が、むづかしくなっていたのである 

前年の昭和十七年二月には食指管理法が公布され 米麦その他の主要食糧の配給制度が始まっ

ていた。無籍では その配給を受けることができない ちょうどそんな折り戸籍上の第四子(女)

が誕生し これをきっかけに四人の子をいっぺんに入籍したのである 配給制度にうながされるように

して戸籍を得たミナオシは ほかにも少なくなかった それまで日本にわずかに残っていた、

無籍者たちは 第二次大戦を境にしてほぼ消滅したといえる 

 二回目の一括届け出は ヒロが死亡しておよそ一年後のことである この昭和三十九年ごろに

なると 福祉制度もしだいに充実してきて 九人もの子供が学校へも行かず河原の小屋で暮らし

ていることを放言しておけないという声が起きたのである まわりのだれが中心になってのこと

かわからないが 調べてみたら四人には籍がない それで とにかく就籍の手続きをとらせ そ

のあと戸籍上の第六子以下の四人は埼玉県内のある施設にあずけられ そこから学校へ通うこと

になったのだった しかし 上の二人は問もなく「脱走」義務教育を終えたのは第八子(男)と

末っ子(女)の二人だけであった。

 

                          つづく



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