アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾九年 其の壱

2017年01月07日 | 近世の歴史の裏側

島村伊三郎の詳細 忠治に殺された大親分

 

伊三郎は本姓を町田といい、利根川沿いにある島村(現、伊勢崎市境島村)立作に生まれた。

生業は船問屋で嫡男あったが、いつしか博徒の世界に入って無宿となり、島村一家を名乗った。

生涯を通して、一度も人を殺したことはなかった。たいへんに背が高く六尺もあったという。そのうえ、

腕っぷしも強く、学問もあるという大親分であった。博徒の世界に身をおき無宿者となったので、

島村に住んでいることができないので、隣村の牧西村(現、埼玉県本庄市)に移り住んだ。

墓は島村の立作と本庄市の牧西にある。

その縄張りには、利根川の河岸や例幣使街道も通っており、また、世良田や木崎というところは、

養蚕や織物が盛んな土地柄で現金収入もよく金回りがよかった。

忠治が伊三郎をなぜ殺したのか、二つの理由が伝えられている。その一つは、天保五年のことである。

この年は江戸の大火、大坂の打ちこわしなどが起こり、世の中は騒然としていた。

この年の春、忠治の子分の三ツ木の文蔵は、伊三郎の縄張りの境村の桐屋という飲み屋で

飲んで暴れていた。

ちょうど居合わせた伊三郎にこっぴどく殴られ「忠治一家の三ツ木の文蔵を知らねえか」と

啖呵を切ったが、六尺豊かな大男の伊三郎に店の外に放り出されてしまった。

これを文蔵から聞いた忠治は「俺の可愛い子分の文蔵が殴られても、手も足もでせねぇとあっては俺の

顔がたたね渡世の仲間に顔向けができねぇー」と集まった子分たちに言った。

「親分、島村の伊三郎をやるんですか」

日光の円蔵がつぶやくと、

 「あたりめえだ」

と忠治は応えたという。

 他に、こんな話も伝わっている。 忠治がまだ一家を構えていない駆け出しの頃である。

 忠治が伊三郎の賭場へ遊びに行き、伊三郎の子分達と大喧嘩を始めてしまった。

遂に取り押えられて簀巻きにされ、利根川に投げ込まれそうになった。

ちょうど、その賭場に居合わせた旅人が、

「ちょっと待っておくんなせえ、まだ年も若いようじやありませんか。これから先のある者だから

助けてやっておくんなせえ、こんな若者を簑巻きにしたとあっちや、伊三郎一家もいい噂は立てられめえ。」と

命ごいをしてくれたので、忠治は利根川に放り込まれずにすんだのである。

この旅人が日光の円蔵である。後に忠治一家の身内になり、一家の軍師とも知恵袋ともいわれた男である。

この事を根に持って、伊三郎を殺害したともいわれている。

 忠治がまだ一家を構えていない駆け出しの頃である。

 忠治は二十一歳の時に、百々の紋次より縄張りを譲り受けてより、縄張りを接する伊三郎との争いが

絶えず、何時かは伊三郎の縄張りの奪還を狙っていた。

                                                                     つづく



最新の画像もっと見る

コメントを投稿