アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の壱拾参

2016年12月26日 | 近世の歴史の裏側

天保七年の大飢饉の時に、忠治が財産を投げ売って飢えに苦しむ人々を救つたという

話が伝えられている。

そのとき布施米用に使つたという米箱が 伊勢崎市の旧家に残されている。

縦横七十七ゼンチほどの杉で作った箱である ふたには三本の棧が付いている。

米二俵分が入るという。

伊勢崎市三郷村)の方に、お聞きした時

「この辺りは 国定村との関係が深いのですか?」

「ここは 昔は佐波郡の三郷村といつたんです 昭和三十年に 伊勢崎市に合併されたのです。

三郷村 束村 赤堀村は たいへん交流があり 婚姻関係も多かつたのです。」l

どなたが、嫁に来た方がいるのですか?

「実はおばあさんが 国定村からここへ嫁に来たのです おばあさんの実家は名主をやっていたのです」

家は国定忠治の生家のすぐ裏にあったんです。 

この家が明治二十年代に火事になったときに、おばあさんの実家から火事見舞いとして 

この米箱に米を一杯入れて送られてきたんです」

 天保の大飢饉のときに忠治が難民救済に使った米箱が、今に伝えられていることは 

忠治伝説の証として たいへん興味深いものがある。

                                             続く



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