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藤岡市での「 太鼓エモーション」

2015年11月09日 | Weblog



 11月8日(日)群馬県藤岡市で「第14回全国太鼓フェスティバル・太鼓エモーション」が開催された。
会場の「みかぼみらい館」は、公共交通機関の便が悪いと聞いたので、わたしが運転する軽乗用車で行く。
朝から小雨が降り、同乗した弟・雅義、名古屋のKさんと車内トークを楽しみながら2時間余をかけて向かう。
藤岡ICで下り国道13号線をひたすら進み、小高い丘の上に「みかぼみらい館」がみえた。
坂道に沿って無数の幟り旗が雨の中でもひらめいている。晴天であったなら周りの樹木の紅葉に映えるだろうにと残念に思う。
 前橋市在住のMさんが、チケット発売と同時に購入してくれたので、一番前の席いわゆる「かぶりつき」に座をしめることができた。
北は山形、南は宮崎から招聘された太鼓グループは8団体。
バチさばきも鮮やかに、一糸乱れぬ呼吸、力強くもしなやかさがある。若い世代が多く、女性の数の多さが目を引くのが、わたしの全体の感想である。

 同行した弟・雅義のレポートが届き、和力公演の様子を知っていただくため、ここに再録することにした。





加藤木 雅義 レポート

 全国の太鼓同好会を集めてのフェステバルでした。
プログラムは、選抜された8つの太鼓グループが出場。
最後のトリに和力を配するという番組構成です。
1,100人入る会場は満席。
 選ばれた出演者は、コンクールで優勝するような実力グループがそろって、迫力のある組太鼓を披露して観客を魅了しました。
演目が終わると司会者が下手に現れ、グループの代表者にインタビュー。
その間に次の演技者が暗転した舞台でご自分たちの太鼓をセットする、という流れです。
こうした動きは、すべて観客の眼にふれるようにされていました。

 第7組、最後のグループの演目が終わったとき、なぜか幕がおります。
その幕前で、インタビュー。
「さぁ、次は和力です」とインタビュアーが宣言すると、幕がスルスルとあがり、
そこにはライトに浮き上がった鹿踊り姿の朗が、演奏陣を後ろにつけて登場です
これまでの間、太鼓しか見慣れていないお客様には異様な光景。
そのとき、わたしの座る席の後ろでひっくり返っていた小学生低学年と見られる少年が、とび起きた気配がしました。
太鼓一色だった舞台が、下手に小野さんの津軽三味線、となりに内藤さんの太鼓、上手に木村さんの篠笛が配置され
そし中央に、見慣れない鹿踊りの衣装をつけた朗が立ったのですから、この配置だけで客席はどよめいていました。

 獅子舞でお客様は身をのりだし、忍者のかけ合いでため息がでていたのを、わたしは客席通路の中間地点で観察させていただきました。
目を転じてもし、わたしがこの大会に出られるような太鼓愛好家だとしたら、和力のだんじり囃子を見て、太鼓の皮だけでなく脇にあるビョウを中心に打つ奏法に衝撃を受けていたかもしれません。
 和力のメンバーは、3人の他に内藤さんが加わりました。
演目は、野分け、炎天下、だんじり囃子、忍者、鶏舞、東風。

以上、レポートでした。


和力金沢公演でロミ(伊藤裕美)ちゃんに会った

2015年11月06日 | Weblog


 10月31日(土)、「金沢芸術村・パフォーミングスクエア」で、和力公演が行われた。
金沢へは和力公演があるごとに訪れ、行くたびに加賀百万石の城下町の佇まいに魅了されている。
今回は「北陸新幹線」が開業してはじめて乗ることになり、上野・金沢間が2時間余で行けることにわたしはびっくりした。
くわしく覚えているわけではないが、以前はほぼ半日ほどの時間をかけていたように思う。

 数日前から「天候はどうなるだろう」と北陸地方の気象情報を気にかけて過ごしていた。
関東地方では「木枯らし一号」がすでに吹き荒れ、一日ごとに気温が下がり朝・晩にはすこし厚着をしないと過ごしにくくなってきている。
日本海側の気候はさらに冷たいのではなかろうか、手荷物のなかに薄手のセーターやジャンパーをしのばせ、手袋も用意した。
家を9時に出るとき薄曇りの空模様であったが、関東も北陸も雨の予報ではない。

 10時14分上野発の「かがやき」に乗車、客席すべてが指定で満席になっている。
わたしの隣席は本来であったら妻が座っているはずなのだが、10日ほど前、腰に激痛がはしり治療をうけたが軽快せず、楽しみにしていた金沢行きをあきらめた。
新幹線の旅は在来線とちがってやはりあわただしい。
在来線だと、刈り取られた稲田が目いっぱいに広がり、家々の柿の粒々が陽ざしを受けて輝き、ときには庭先の猫などを望見でき、土地の生活をしのんだりできる。
新幹線だとビューと景色が通りすぎ、人家に近付くと防壁がさえぎり、遠くの山と空しか見ることができない。
持っていった文庫本に目を通すうちに右手に海が見え、しばらくその景色をたのしんだ。
「次は金沢、終点です」との車内アナウンスがながれた。
なにやら窓にあたる音がする。雨粒が窓にあたりスイッ―とスジをひく。これはやばい、傘をもってこなかった。
12時23分金沢駅に到着。
どのくらいの降りようだか表にでてみる。行き来する人たちはみんな傘をさして雨粒も大きそうだ。
駅から芸術村までは20分ほどなので、歩いていこうと思っていたのにこれは無理だとがっかりする。
「ここで昼飯を食べていけば、雨があがるかも…」と、思いなおす。

 いつだったか金沢駅で降りて、支線に乗って富山に向かったことがある。支線に向かう途中の弁当売店で、「ブリかま飯」を売っていた。
わたしは、「ブリ釜飯」だととっさに判断し、めずらしい「釜めし」が食えると購入し、列車内で食べた。
これは「釜めし」ではなく、ブリのカマを煮込んだ弁当だったのだ。今まで食べた駅弁の中では群を抜くおいしさだった。
その弁当売り場を探しまわっても見当たらず、スパゲティやらパンやらの食堂しかない。わたしは駅構内をあちこちしたが、金沢に来たのにうどんやパンでもなかろう…と迷い迷ったが、おもいあまって入ったのは「吉野家」であった。



 昼食を済ませて店外に出たら雨が上がっていた。
「ラッキーィ」と胸のなかで叫び、鉄道の高架下をひたすら歩き、金沢芸術村に到着した。
芸術村広場の木々はすでに紅葉している。わたしの住んでいる関東の街路樹はまだそんな兆しを見せていなかったので、雨上がりの広場の景色に息をのんだ。
「パフォーミングスクエア」内では、和力のリハーサルが進行している。
過去の和力公演は、同じ芸術村敷地内の「ドラマ工房」だった。フリースペースの空間にステージと客席を組み「劇場」につくり上げていた。
客席から見下ろす形になるステージは、常設でないものと素人目にも分かった。
パフォーミングスクエアのステージは、大きく堂々としているので、わたしはてっきり常設のステージだと思っていた。



 広さたっぷりのステージで、10年来、実行委員長をつとめていただく、森田正一(南京玉すだれ・加賀森田流宗家)さんの力強いご挨拶から和力の舞台が始まる。
「新しいお客さんがたくさんいらしてくれました」と、森田歩未(和力金沢事務所)さんが言っていたが、だからだろうか、初めのうちやや戸惑う雰囲気があったが、最初の演目「こまの芸」がすすむうちに、座内が和みステージと同化・共感していく。
休憩15分をはさんで、2時間余の和力公演は大きな拍手で終わった。
お客さんの退場とともに、段々に築いた客席の撤去が始まり、ステージまでバラシにかかる。常設と思ったステージも組み立てたものだったのだ。
会館スタッフと共に、実行委員のみなさんが手際よくきびきびとバラシ、束ね、運び、見る見るうちに、フリースペースの空間になっていく。
午前9時に組み立て、終演と共にバラス、多くの方の協力がなければとうてい出来ることではない。



 実行委員メンバーと共に、「加賀豊年太鼓保存会」のみなさんが大いに力を尽くして下さった。会館スタッフは「気持ちよく進みましたなぁ…」と喜んでおられた。
わたしは、以前わらび座営業に在籍し、各地で実行委員会を呼びかけ上演活動をしていた経験がある。
みんなの力を寄せ合い、協力・協同で運動をすすめる「実行委員会」の原点がここにあると、わたしは金沢に行くといつも勇気づけられるのだ。

付記 和力公演の休憩時間、「まさちゃんお久しぶり」と声をかけられた。元わらび座員伊藤裕美さんだった。演技者だったロミちゃんは、わたしとはかなり年令差があり、部署もちがっていたが、ロミちゃんの舞台姿は「こきりこ踊り」など、印象はつよく残っている。明るく人の気持ちを包みこむ笑顔が絶えない娘さんだった。
ロミちゃんに会ったのは、数年前に開かれた、西東京での「伊藤裕美コンサート」以来であるが、座にいた当時のままの明るくふくよかな、瑞々しいロミちゃんであった。
金沢を中心に歌い手として活動をつづけているとのこと、芸をもって人に役立つ生活を送る人生はすばらしい、懐かしくよき人に再会できた金沢の旅でもあった。
   

渡部玲子さんのヴァイオリンリサイタル

2015年10月22日 | Weblog


 一ベルが鳴る。
客席の灯りが落とされ、舞台にヴァイオリンを抱えた玲子ちゃんと、ピアノ伴奏の方が現れる。
ピアノの斜め後ろに、譜めくりの方がひかえるが、舞台上にはこの3名しかいない。
「この『すみだトリフォニ―ホール』でのわたしのヴァイオリンリサイタルは、20回目になります」、玲子ちゃんが静かに語りはじめる。京都のお国訛りが懐かしい。

 渡部玲子さんはわたしたち「わらび座」時代の同期の方である。
わたしは、1963年4月にわらび座に入り、「第三期学習班」で速成の演技者教育をうけた。
8月には公演班「第三班」が発足しそこに所属、10月から地元仙北郡内の小学校・中学校を巡演、2ヶ月余りで小学校48校、中学校3校、19,000名の生徒たちの元を訪れたのである(月刊わらびNO.58より)。
公演班第三班発足時は、第三期学習班出身の演技者、男1、女2で演目の稽古をはじめたが、途中から「器楽班」のメンバーが合流した。
当時わらび座の創造活動の目標は、「大・中・小編成による三つの公演班」、「民族楽器オーケストラの編成をめざす『器楽班』の創設」をかかげていた。
この時期の「器楽班」には、ビオラ・チェロ・コントラバス奏者が3名だけいた。
他の楽器演奏者がそろうまで、第三班での公演活動に参加したのである。
演目のオープニングは「証城寺の狸ばやし」で、「ポンポコポンのスッポンポン」と歌い、腹づつみを打ちながら舞台の上を駆け回る。楽器演奏者もいっしょに踊ったものである。
「猿蟹合戦」、「お猿のかごや」、「しあわせなら手を叩こう」など歌と踊りの合間に、チェロ独奏「白鳥」(サン・サーンス)が入ったりした。

 翌年の春に器楽演奏者が数多くわらび座に入った。
東京芸大、京都市立芸大などを卒業した、ヴァイオリン・ビオラ・ホルン・フルート・ファゴットなどの奏者がわらび座に集ったのである。
後にコントラバス・オーボエ・ピアノ・打楽器、また尺八・篠笛・筝の和楽器奏者が補充され、大阪フィルハーモニー出身のチェロ奏者Nさんを班長として10数名での「わらび座合奏団」が誕生した。
学校を卒業したての初々しいメンバーの中に、玲子ちゃんがいたのである。



 幾星霜を経て、わたしの同世代のほとんどが第一線を退いている。
玲子ちゃんが、ヴァイオリンを引っ提げて、舞台に立つ姿は初々しいままである。
このリサイタルに先立つ9月中旬「松戸母親大会」で、玲子ちゃんがヴァイオリンを奏でられた。
この際には風邪をひいており、語りは弱々しかったが、その演奏は人々の心をとらえた。
語りの中で「わたしは今の政治の在り方に自分の意思を示すため、国会前へ通いつめ抗議行動をしています。若い世代が逞しく新鮮に行動している事に学ばされています」と静かに語って、その演奏とともに場内の共感を得ていた。

「すみだトリフォニ―ホール」でのリサイタルには、ずいぶん前になるが参加したことがあり、また千葉市での演奏会などで玲子ちゃんの演奏に触れてきたが、今回ほどヴァイオリンの音色が多彩であることを思い知らされたことはない。
バッハやドボォルザークなどの作品と共に、若くして戦場におくられ、30才で戦病死した尾崎宗吉(1915-1945)の作品が演奏された。
「尾崎宗吉という作曲家がいたことをある人から聞いて、わたしはその原典に触れ、ぜひ演奏したいと熱望しました。この悔しくも短い年月に作曲し発表しつづけた音楽家が、わかくして戦争で命をおとした、まだまだ生きて音楽にかけたかったにちがいない、その悔しさを偲びながら、尾崎さんの作品を演奏します」。

 演奏が終わって、いっしょに行った妻と妻の友人は、「力強くやさしい演奏をきいて元気をもらったわ」と述べあっていた。
1960年代から2015年の今日まで、玲子ちゃんは、表現者として多くの人たちに、生きる勇気を与えつづけている。
ある時期は、T大学病院の無菌室で闘病生活を送っていたこともあった。わたしたちは厚いビニールにおおわれた囲いの中で療養していた玲子ちゃんを見舞ったことがある。
わたしたち同世代人がほとんど第一線を退いている中で、ゆったりした京都弁で語り、ふくよかな音色を奏で、人々を魅了する演奏をこれからも末長くつづけてほしいと、願っている。


怪談「牡丹灯篭」の結末

2015年07月29日 | Weblog



 7月25日(土)、松戸市馬橋の萬満寺本堂で催された、朗読芝居「怪談その拾」を聴いた。
演者は、舞台朗読家の森優子さんである。
「日本語の美しさ、豊かさを届け、心に自然にうかぶ風景が記憶にいつまでも残る舞台」をめざし、2003年、朗読の世界を広げるため「officeY&Y」を立ち上げ、表現活動の場を広げておられる。
禅宗の古刹・萬満寺で10年間つづけての出演である。
ご住職が「目に見えないもの、音として聞こえないものにたいして、畏れや敬いなどがなくなってきている。目に見えなくても音として聞こえなくても、ご先祖さまが営々として積み上げてきたものの上に、『今がある』ことを知ることができるのではないかと『怪談話』をやり始めました」とご挨拶していた。
畳敷きのご本堂、思い思いに座ってほぼいっぱいのお客さんが、うなづきながらご住職のお話をうけたまわる。

 夕闇せまる午後7時、広い本堂の灯りが落ち朗読芝居が始まった。
演目は「小豆磨ぎ橋」、雨月物語から「菊花の契り」、「破られた約束」、「牡丹灯篭」であった。
勇猛をほこる男が、「この橋の上では歌ってはいけませんよ」との言い伝えを無視して、大声で歌い橋を渡る。「ほれ、何事もないではないか」と家に着くと、わが子が無惨に横たわっていたのが「小豆磨き橋」で、初めて聴くものであったが、「菊花の契り」、「破られた約束」は、落語などで聴いた覚えがある。
「破られた約束」は、落語の演題は同名であるのか、別名であるのか調べなくてはわからないが、筋書きはほぼ同じである。
ある商家の若妻が病にふせる。旦那の懸命な看病にもかかわらず日に日に弱っていく。
「わたしが目をつぶるとあなたはお若いから、すぐさま後添えをおもらいになる。わたしはそのことが心残りなのです」。
「おまえが目をつぶるなんて、そんなことは万に一つもありませんよ。仮にですよ。仮にそんなことがあったとして、わたしにとってはお前だけがわたしの女房なのだから、いっさい後添えなどもらいません」。
「約束ですよ。きっとですよ」と安心して若妻は息を引き取った。
旦那は独り身で過ごす決心でいるのだが、親戚縁者が放っておかない。「後継ぎも必要だし後添えをもらえ」と責められ、とうとう後添えを迎え入れた。
「あれだけ後添えはもらわないと約束していたのだから」、「いつあれが『うらめしい、それでは約束がちがうではありませんか』と出てくるか」と旦那はしばらくおびえながら暮らす。そのうち子どもができ宮参りも済んだ。
子どもの宮参りで疲れ、なかなか寝つかれない晩、「あなた約束を反故にして、こんな可愛らしい人と夫婦になって、こどもまででかして…うらめしやー」と前妻が出てくる。
「おまえ、約束を破って申し訳ない。でも何年も経った、今時分に出てくるのは遅いではないか」。
「だっておまえさん、お墓に入れられるとき頭を丸坊主にされたではありませんか。髪の毛が伸びるのを待って待って、いまになったのよ。坊主頭では恥ずかしいじゃありませんか」。
はにかんで答える前妻の幽霊は、可愛らしくなんと色気があることか……落語の落ちである。
怪談話では結末がちがう。後添えの若妻が無惨な最後をとげるのである。

「牡丹灯篭」は、和力名古屋公演(7月11日)第二部「音舞語り」で再演された。
野良着姿の朗が、「戸を立てる…というのは、今のような引き戸の技術がなく、大昔は獣の皮などを垂れ下げて、家と外の境としていました。その後、平安時代など板や柴垣を立て掛けドアの役目を果たしていたのです」と語り始める。「戸を立てる」…これが終盤の大団円への暗示になるのだ。
カランコロン、カランコロン 駒下駄が遠くから近づいてくる。牡丹灯篭がユラユラと先導して、新之助の家の前で止まる。
新之助を恋焦がれていたお露が亡くなり、亡霊のお露が夜な夜な新之助の元にやって来るのである。
新之助が家に閉じこもりやつれていくのを心配した大家が、立てた戸の隙間から覗き込み亡霊のお露と新之助が逢瀬を楽しんでいるのを目撃する。
山伏が祈禱、家の隅々に「お札」を張り巡らした。
「三七、二十一日間、お露を戸の内に入れなければ、お露は成仏し極楽浄土へ去る。さもなければお前の命は吸い尽くされるぞよ」。
和力版「牡丹灯篭」では最後の21日目の晩、純白の花嫁姿のお露が「花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」の曲に乗って、あるときは切なくそして激しく立てられた戸の前で舞う。
戸の内の新之助は「今日こそ満願成就の日だ」と、一心に経を唱えているのだろう。
お露のひたむきな気持ち、新之助とてお露とは相思相愛の間柄であった。
とうとう新之助は自分の意思で「お札」を剥がし、立てた戸を開けお露を迎え入れるのである。
翌日、村人がやってきて新之助とお露がしっかりと抱き合い、亡くなっているのを見つける。「あと一日だったのになぁ…」と呟きながら、新之助・お露をねんごろに弔ったのであった。



 一方、森優子さんの一人語り版「牡丹灯篭」では、浪人新之助の用人が、亡霊お露の側と取引をすることになっている。
百両の金と引き替えに、この用人が「お札」を剥がし、新之助の持つ経本を偽物に取り換え、お露が戸の内に侵入することをはかるのである。
円朝が演ずる落語も、多くの登場人物を通して、人の欲と業を演じたものであるらしい。そして、新之助とお露の結末は一人語り版「牡丹灯篭」と同じである。

 新之助が自分の意思で「お札」を剥がし、自分の命を愛に捧げた、和力版「牡丹灯篭」を思い起こしながら、怪談話の夜を楽しんだ。



和力 夏の名古屋公演

2015年07月18日 | Weblog

  当日のプログラム(クリックすれば大きくなります)

 7月11日(土)、名古屋市・北文化小劇場で開催された和力公演に行った。
名古屋駅に降り立ったのは午後1時過ぎ、かなりの蒸し暑さである。
いつも舞台の記録撮影をする弟・雅義が参加できないので、雅義から預かった撮影機材を背負っての移動だ。汗だくになりながら地下鉄乗り場をさがす。
「黒川駅」下車、4番出口めがけ延々と歩き、上りまた上りそして歩き、ようやく出口の階段下までたどり着く。
出口への階段がこれまたしんどい。地上に出たら息が弾み苦しいので、横丁のコンクリート出っ張りに座って呼吸をととのえる始末だ。
黒川駅から15分ほど歩いて、「北文化小劇場」に到着。本日の持てる力をほぼ出し尽くした感がある。

 わたしが大汗をかいて到着したものだから、実行委員の方が「控室は冷房が利いているから休んでください」と勧めてくださる。
お気持ちはありがたいが、わたしにとってもう一つの難関苦行が控えているのだ。
開演までに撮影体制を整えなければならない。
わたしは機械音痴だから、三脚を広げ、ビデオカメラを固定し、それにコードをつなぐことが苦労なのである。
雅義が、取り扱い説明書をつくっているのだが、カメラ本体にどのコードを差し込み、延長コードとどうつなぐのか、その上、カメラの電源、スタートボタンにいつも迷うのだ。
 不安はとうとう現実のものとなった。
カメラへつなぐコードはうまくいった。延長コードもある。しかしこの2本のコードだけでは、うまくつながらない。機材入れのあちこちをさがしても出てこない。
焦り、思い余って雅義に電話する。
「ジョイントコードがないらしいが、どうしたのだろうか。家の中を探して折り返し電話する」……「やっぱりないので、撮影はあきらめて舞台を楽しんでください」。
ロビーに出て、三脚をたたみカメラを収納していたら、今牧正則さんが通りかかった。「わたしが持ってきたカメラを固定して記録しましょう」と、客席に入り準備万端整えて下さった。
「電源はどこにあるだろう」と椅子を上げてみると、なんとそこにジョイントコードが横たわっているではないか。
みなさんにご苦労と心配をかけて、開演間際にわたしの撮影体制が整った。




 客席内を見渡すとすでに満席にちかく、会場係の方々が座席の空きをみつけ「こちらにお一人様」、「升席には3名様」とご案内に忙しい。
午後4時開演。
カラン カラン カラン 昔わたしが子どもの頃、学校の用務員さんが始業時間・終業時間のたびに、打ち振って鳴らしていた大きな鐘の音と共に朗が登場、「こまの芸」が始まる。
和力公演の18番(おはこ)として、お客さんたちもゆったりと楽しんでいた。
そういえば、和力結成は2001年だから今年で15年目だ。
加藤木朗、木村俊介、小野越郎、3名のメンバーがそれぞれ専門の分野を深めながら、多彩な芸を披露してきた。
こまの芸(大道芸)、篠笛、津軽じょんから節などは、一人だけの芸でお客さんを惹きつける。
今回の第一部では、多い場面でも3人だけの舞台であった。
次の演目「祇園太鼓」を観ながらわたしは「シンプルで柔軟、舞踊の要素がはいり、奥深さを感じる太鼓さばきだ」。軽やかな身の捌き音の柔らかさで、疲れた気持ちが軽やかになっていく。




 和力夏の名古屋公演、第一部の演目が進んでいく。
15年の歳月で切磋琢磨された芸が、シンプルで底知れぬ深さをもってきたかと、カメラを操作しながら舞台を楽しんだ。
第一部の終章「お囃子紀行」では、秩父屋台囃子の「テケテケテケテケ」の拍子が、秩父特産の生糸を積んだお馬さんが歩むさまを表わしている…とか、水口囃子は近江商人が江戸から持ち帰った「江戸囃子」がその素になっているなどの紹介があり、その情景を想像しながら聴くことができた。
 第二部は「音舞語り 牡丹灯篭」であった。帯名久仁子さんのお琴・胡弓の演奏も加わり、ドラマが進んでいく。
再演された「牡丹灯篭」であるから、わたしは何回も観ているのだが、亡霊であるお露の切なさに心が寄り添い、花嫁衣装に身を固め「花嫁ごりょうはなぜ泣くのだろう」の演奏と共に乱舞するお露の気持ちに同化した。

 午後4時の開演であったから、終演すぐに機材をまとめて名古屋駅に向かう。東京駅に雅義が機材を受け取りに改札口で待っていて、わたしが家に帰り着いたのは、午後10時過ぎであった。
15年をむかえた和力を楽しんだ1日となった。

 

猫の仁義

2015年06月26日 | Weblog



 猫との同居生活を始めてもうじき2年になる。
以前のわたしは、路傍で出あう猫を可愛がる人が不審でならなかった。
「猫は気ままで気位が高く、気まぐれで自分勝手な奴」という思い入れが、つよくわたしにあったから、「なぜそれほどまでに可愛いのか」…疑問に思っていたのだ。
「暇があると寝、隙があると魚屋からサンマをかっぱらい、夕飯の食卓からおかずを失敬する輩」、わたしが子どものころ読んだ漫画はこのようなパターンが多く、「猫はこういうものだ」というイメージをうえつけられていた。
実際に身近で生活を共にすると、「そうじゃない」と気づくのだが、猫にとって迷惑な風評被害がひろく行き渡っていて同情を禁じ得ない。

一匹一匹の個性が多様であることを飼い始めて知る。
わが家の姉猫「サラ」は、「動物愛護センター」で対面したとき、獣医さんが手をさしのばすと「フ―」と威嚇音を出して後ずさりする子だった。
わが家に来てからもしばらくはそんな風であったが、だんだん人に対する警戒心はなくなり、食事がおわってウトウトしだすと、肉球をかなりつよく音をたてて吸い「おかあさんのおっぱいを吸っている気分だろうけど、この指しゃぶり治るのかしら」と妻は心配していた。
長ずるにしたがって、サラは用心深いけど甘えん坊なのだと分かってくる。
「ウリ」は、好奇心が旺盛なやんちゃな妹猫である。玄関を開けるとどこからか走って現れる。
そして足元をかいくぐって、外に飛び出す機会をうかがうのだ。
「愛護センター」の勧めもあり、わが家では完全な「室内猫」として飼っている。外に出て迷子になられては困る。
ウリは何回か家からの脱出に成功した。「それ大変」とわたしたちがウリを追いかけ回していると、サラは「ミャン、ミャン」とウリが保護されるまで窓際で甲高い声をあげ叫びつづける。「帰っておいで、帰っておいで」と云っているような振る舞いなのだ。
ウリを保護して室内に離すと、お互いに毛づくろいし合う。

 わが家のお嬢さん猫に関心をもち、お隣のブチ猫が毎日のように訪ねてきた。
縁側から家の中をのぞき込み、サラやウリがいると網戸を引っ掻き、体当たりをしてなんとか家に入れないかと試みる。
一時は網戸が壊されるのではないかと心配したものだ。
サラもウリも、いっとき興味をもって見つめるが、その内どこかにいってしまう。
ブチ猫の次に来たのは、子猫を卒業したくらいのトラ猫の雄である。
縁側に上がり込み正座して動かない。ブチ猫のように網戸を引っ掻いたりはしない。
左耳にパンチが入っているので、もしかしたら去勢されているのかも知れないし、ここまで大きくなったのだから、どこかで飼われているのかもしれない。
ときおりわたしたちの顔を見上げて声をあげるがかすれ声なのだ。
だからかすれ声の歌手の名前をいただいて「進一」(通称シン)と名づけた。
シンは、わたしたちが起きだす朝5時半にはかならずやってくるようになり、縁側にチンと座っている。
専用の皿を買ってきて、山もりいっぱいのカリカリを食べ、いずこかへ去る。
最初のころは警戒しガラス戸を開けると、縁側から飛び降りたりしていた。いつしか慣れ親しんで、からだを触ってもなすがままにしている。




 シンが小さなキジトラを連れて来たのは、ことしの初めである。
シンは「この家は大丈夫だよ」という風情で、縁側にその小柄なキジ猫を導き上げる。
縁側に置いたシン用の皿に、キジトラが口を突っ込み一生懸命に食べる。シンは縁側の下でそれを見守っているのだ。
キジトラが食べ終わったらシンが上がって来て残りを食べる。
次の日もその翌日も、連れ立ってやってくる。そして他の猫がやって来ないように、いつもシンが見張り番をし、キジトラは安心して食事をするのだ。
キジトラは雌猫だと分かった。小柄で目がぱっちりした子である。「『映画・男はつらいよ』で、寅さんの相役に何回かなったリリー(浅丘ルリコ)に大きな目が似ている」と妻が云ってリリーと名づけた。



 リリーは、まだ一才になっていない幼猫にみえた。ここまで育っているのは、どこかで世話をしている家があるのかも知れない。
それでも朝は必ずシンと共にやってきて、わたしたちが起き出すのを待つようになり、「ニャんニャん」と背伸びをして食事をさいそくする姿がかわいい。
雌猫と分かってわたしは、はやく避妊手術を受けなくてはと焦った。
シンと違ってリリーは体を触らせてくれない。捕まえる工夫が立たずに動物病院に電話した。事情を話して「捕まえてくれるような所はありませんか、そしたらすぐに手術を受けたいのだが…」。
病院は慎重であった。「もし他のお宅の飼い猫だったら問題になりますよ…」。
わたしはリリーがもっと親しくなったら、保護できるだろうと、せっせと話しかけながら、餌付をつづけていた。
ところが5月20日、リリーが訪ねてこなくなり、3日ほど経ってから姿を現したのだ。
わたしたちは「どうしたのか」と怪訝に思っていたところ、ある朝、縁側に置いた小屋の中で泣き声がする。子猫が4匹うごめいているではないか。
リリーはどこかで出産していたのだ。この縁側で子育てするつもりなのか、それもいいだろう…と思っていたら、翌日には4匹の子猫がいなくなった。
「これはリリーが子どもの顔を見せに来たのだよ」とわたしたちは判断し、義理がたい事よと感心したものである。



谷 純平さん逝く

2015年05月16日 | Weblog


 とうとうこの日がきてしまった。
「ペイさん」と呼ばれ親しまれた、谷純平さんが5月8日朝、80才の生涯を閉じた。

 寒さが厳しい2月末、「ペイさんが検査入院をし、そのまま即入院生活になった」と、関西在住の元わらび座員から電話があった。
わたしは驚きペイさんの息子・冬樹君に電話をしたところ、「病が思いのほかすすんでいて、いつ急変するか分からないと云われている」とのことだ。
わたしは新幹線で大阪に向かう車中、ベッドに横たわるペイさんをあれこれと思いえがいていた。もしかしたら話をすることもかなわないのではないか…などと。
病院に到着した。
「おーマサちゃん(わたしのわらび座時代の通称)よく来てくれたね」、思いのほか元気な声でペイさんは迎えてくれ「急な入院でまいったよ。新聞も本も読めないし、食事も止められているので、こうやって寝ているだけなのだよ」と、話す言葉ははっきりと肌も艶やかだ。
ペイさんは勉強家で、新聞は端から端まで丹念に読み、本もわたしからみれば「小難しい」と感ずる理論書を手から離さなかった。
だからそれらを手にできない日々は、ペイさんにとって苦痛な一日一日であったことだろう。

 わたしがわらび座に入ったのは1963年であった。
当時は座員総数114名、わたしは「演技者」38人の中の一人、ペイさん所属の「普及部」は14名だった。(日本の歌をもとめて第二集より)。
わらび座は、その前身「ポプラ座」(ほぼ9人)時代には、出演者が手分けして大きな袋をもち、「お茶碗一杯のお米で、家族全員がみられます」と、家々を巡り歩き公演を成り立たせたこともあったそうだ。
秋田に定着し座員が増え、普及部の先駆けとして佐藤好徳さんや荒川慧さんなどが各地に出向き公演を組織していくが、無名の座公演は容易ではなかった。
ペイさんはそれら先駆者と共に、入座当日から普及活動にまい進することになる。
ペイさんはかって語っていた「座の根幹はもちろん芸術創造にあるが、それを成り立たせる経営活動をしっかりしたものにしたかった」。
そして退座するまでの20数年間を普及部一筋に歩み、普及部を組織体としてまとめあげ、集団体制での道を切り拓き安定させたのが、ペイさんの大きな功績ではないかとわたしは思っている。
集団体制での…というのは、個々の普及部員が手がけていた活動を、「普及団」としての塊をつくり、例えば「静岡団」、「埼玉団」などに数人を配属し、1ケ月ほどのコースを組むことにある。
 
「仕事の鬼といわれるペイさん」との出会いは、まさに鬼そのものであった。
わたしは、入座以来4年ほど演技部にいたものだから直接面とむかっての対話をしたことがなかった。
わたしが26才、正月明けの福岡労音の例会に出演した折、最後の演目「荒馬踊り」で気息えんえんとなり幕が降りたら、その場でへたりこんでしまった。
すぐさま病院に運ばれ、翌日には顔がバンバンに腫れあがり眼を開くこともできない。「腎炎」になってしまったのだ。
正月期間に風邪をひいたのが原因であった。
しばらく経ってペイさんが病室を訪れ「正月の休み期間、油断しているから風邪などを引くんだ。注意しなければいかんよ」とわたしを叱るのだ。
わたしは「エッ」、「それが見舞いの言葉かよ」とムラムラときた。よほど後になってペイさんは「自分の仕事に責任をもつように促してくれたのだ」と納得できたが、そのときはむかっ腹をたてたものだ。
(福岡の入院生活では、福岡労音副委員長をしていた、ペイさんと結婚された故川崎昌子さんにたいへんお世話になった)。

 病が癒えわたしは「普及部員」となる。
当時は、ペイさんラノさん(平野樹一朗)が普及部の頭目で、わたしはこのふたりの先輩のもとで、さまざまな地域に派遣され実行委員会を組織していく仕事を数多く経験した。
公演回数を確保するための普及部員が40名を越えるような状況になり、普及部は「東北支局」、「東京支局」、「大阪支局」の三支局制になった。
東北支局長は平野氏、東京支局長は谷氏、大阪支局長に加藤木が着任した。
自らの豊富な実践経験の裏付け、各地域に点在する豊富な人脈、流動する状況を把握する的確さなど、この時期ペイさんから多くのものを学ばされた。



 10日の告別式では、「誠実だったペイさん、一人ひとりを大事にしてくれたペイさん、いつも前向きに進むペイさん」に贈る言葉が満ち溢れていた。
元わらび座員もたくさん参加していたが、なによりびっくりしたのは、地元参加者の数の多さであった。
わらび座を辞め、地域に戻ってからほぼ30年、地域でも小まめに律義に誠実に活動されていたのであろう。
元同僚だった平野樹一朗さん、わらび座会長小島克昭さん、わらび座社長山川龍巳さんからのねんごろな弔電は、掉尾を飾るものであった。


集合写真、左端が谷 純平さん


「志の輔noにぎわい」へゲスト出演

2015年05月09日 | Weblog


 ゴールデンウィークの真っ盛り、5月3、4、5日、横浜市野毛町にある「にぎわい座」で、立川志の輔師匠の独演会が催された。
師匠直接のお声掛かりで、和力がゲストとして出演することが決まったのが、2月のことである。
加藤木朗が住まう信州阿智村には、ゆたかな湯量に恵まれた「昼神温泉郷」があり、ホテルや宿が立ち並ぶ。
能舞台をもつ「石苔亭いしだ」は、日替わりで地元演者の芸を披露し、加藤木朗も次男の晟弥(せいや)、次女の野詠(のえ)を伴ってときおり出演する。
 昨年のある日、能舞台での出演をおえたら、「よかったですよ」と声をかけてくださったのが志の輔師匠であった。「いつかご一緒しましょう」とおっしゃってくださったそうだ。
それが早くも実現したのである。
「志の輔独演会のチケットは入手がむずかしいよ」と弟の雅義が云っていた通り、3月10日チケット発売と同時に、電話申し込みは30秒ほどで完売になり、和力ファンの何人かは完敗、雅義はインターネットでなんとか三日間のチケットを確保した。インターネット申し込みも30分で完売になったと雅義が云っていた。
 わたしと妻は、一人4枚までという購入制限があったチケットを雅義からまわしてもらって、3日の舞台を観ることができた。
舞台の様子は、3日間すべてを観た雅義の記録をここに転載する。




加藤木 雅義の記録

今日から3日間は、横浜にぎわい座です。横浜での初舞台。メジャー師匠との舞台初共演。
立川志の輔師匠の前座として、和力が出演しました。
師匠を聴きにきたお客様が和力をどう受け止めてくださるのか、見どころ満載の舞台でした。
会場では進行を告げるプログラムは渡されません。
見る側として、ぶっつけ本番。さてどんな進み方をするのでしょう。
わたしが知りたかったのは次の3点でした。
① 和力の出番は、独演会のプログラムのどこに来るのか?
② 割り当て時間は何分?
③ 本番で、和力は最初に何の演目をぶつけてくるのか?
でした。

第一日目の和力メンバーは、いつもに増して気合が入っていました。
休憩が終わった後の第二部冒頭で登場。
だんじり囃子でお客様を圧倒しました。小野さん、木村さんの津軽三味線の音色も冴えわたった。
鶏舞のジャンプ力の高さに、隣の座席ではため息がもれていました。

名古屋からわざわざお越し下さった、加藤木教室の生徒さんおふたりは、和力出演中、周囲のみなさんの反応に耳をそばだてていたそうです。

にぎわい座の初日は、以下のプログラムで進みました。

落語30分

落語40分

(休憩)

和力30分
(だんじり囃子、津軽じょんから節、忍者、鶏舞)

落語40分

開演 午後6時半
終演 午後9時10分

和力の出番は30分でしたが、気魄のこもった舞台でした。



にぎわい座、第二日目。
本番中、初日にはなかった出演者紹介をしました。緊張がほぐれてきたのかもしれません。
和力は初日と演目を替えて舞台にのぞんできました。
① 鹿踊り
② 三味線と篠笛の合奏(こきりこ節、砂山)
③ 獅子舞
④ だんじり囃子
以上で、ぴったり30分。出演順は、昨日と同じ。
第一部が終了すると幕が降り10分間の休憩にはいります。
第二部開始。
落語の出囃子が流れ、スルスルと幕があがると鹿踊りの装束に身をかためた朗が後ろ向きに立っています。
見慣れない出で立ちに、「一体何がはじまるの?」という戸惑いの空気が会場に流れます。
和力ファンにはお馴染みでも、志の輔師匠を聴きにきたお客様にとっては異様な風景として映ったに違いありません。
客席にいてもアウエー感が漂います。
鹿踊りが終わって、朗のMCがはいりようやくお客様の戸惑いが少なくなる。
「ここから、私は楽屋にさがりますが、その退場の仕方が大変なので笑わないでくださいね」と、あらかじめ朗の説明。
にぎわい座は寄席風に作られていますので、舞台から楽屋に通じる出入り口は木戸です。噺家さんが通ることだけを想定した高さ一間、幅が半間の小さな空間。
ところが、頭上にササラという飾りを押し立てた「鹿」は優に2メートル半くらいの高さがあります。さてどうやって帰るのか?
「ザリガニが巣に戻るようになります」と予言したとおり、朗は後ろを振り向きお尻から先に木戸に入れて、お辞儀をする格好で楽屋に入っていった。
ササラがハサミのように映り本当にザリガニが巣に帰るような図だったのです。その姿が可笑しいとお客様が喜び会場の空気がなごんだ。
すでに客席は和力のペースです。
富山出身の、志の輔師匠を意識してか、富山県に伝わる「こきりこ節」を演奏し、初日にはなかった獅子舞が舞台で跳ねました。
猫のような仕草で耳をピクピクさせる場面で会場は沸きます。
そして流れるようにだんじり囃子に移り30分の持ち時間、ぴったりと終了したのです。
演目の構成も最高で、短さを感じさせない見応えのある舞台でした。
2階席に陣取ったわが特派員は、最前列のお客様が目の前の手すりに掴まり、演技が進むにしたがい身を乗り出していった、と終演後、語っています。
こちらは1階席。
だんじり囃子が終わったとき、たくさんのお客様が頭上に手をそろえ拍手しているのを目にしました。




にぎわい座三日目

せっかく独演会に来ているのですから、師匠のお噺もレポートします。
3つの演題のうち、第一席は「ハナコ」。3人のサラリーマンが黒毛和牛食べ放題を目当てに温泉宿にいく物語です。
いざ、食事になるときに宿屋の主人が、これから料理するという牛を、生きたまま部屋に連れてきて宿泊客に紹介する。
「名はハナコと申します」。客は驚いて、「名前を言うな。愛情がわいて食べる気がなくなってしまう」と怒りだす騒動を描いて会場の爆笑を誘っていました。

楽日の和力の演目は、
① 荒馬の踊りから、番楽の舞→狐の面を被っての舞
② 津軽じょんから節→忍者

③ だんじり囃子
の3点でした。

第二部。
 いつものように幕が開くと、朗が客席から荒馬の装束をつけて登場。登場の仕方が意表を突いて、そして見なれない装束。
昨日に引き続いてお客様は、一体、何が始まるのかとポカンとしています。

朗は口上を述べて舞台に上がり、荒馬の舞。荒馬を脱ぎ捨てて番楽の踊り。すぐに面をつけて狐の舞を披露します。今日は舞の大サービスなのでしょう。
でも、まだ客席は戸惑ったままです。

津軽三味線の独奏→合奏で、ようやくお客様の頭がリズムに乗って小さく揺れ始めます。
こちらは、少しは耳馴染んだ音だったのかもしれません。

客席が和んだところで、だんじり囃子が始まる前に朗がお客様に楽器の説明を始めます。
「長唄などの細い竿の三味線に貼られているのが• • •タマです」。すると、客席は「そうらしい」とうなずく気配。
「津軽三味線は太い竿なので貼られているのは• • •ポチです」「なるほど、そうなのか」と納得するお客様。
イヌネコと表現しないのが、直接的でなく良い感じです。

そして次に朗が指し示したのがこれから演奏する宮太鼓です。
「この太鼓に貼られているのが• • •」…やや間があったので、お客様の頭の中で
「貼られているのは・・・」と反芻するのが見えます。

その間合いをみて、すかさず朗が「ハナコです」と言います。
たった今、聴いた噺と関連づけられたのですから、客席は笑いの渦に包まれます。
最初に戸惑っていた分、この笑いの爆発力は大きなものがありました。
きっと、これも朗の計算のうちだったのかもしれません。

だんじり囃子が終わると、2階席から「イイぞ!」と野太い声が掛かり、
指笛までが鳴った最終舞台でした。

超一流の噺家さんを聴きにきた耳の肥えたお客さんを向こうにまわし、演奏も舞も、そしてトークも冴えて、和力の3日間はこうして幕を閉じたのです。

かとうぎ桜子・三期目へ

2015年04月29日 | Weblog
 


 わたしの姪、かとうぎ桜子さんが、練馬区議会議員選挙に立候補し三期目を目指した。35才である。
「私は、高校生のころからハンセン病の問題をはじめ、さまざまな社会問題-特に福祉にかかわる問題に関心を持ってきました。病気や障害、貧困など、どんな状況にあろうと人が社会から排除されることなく、誰もが『うまれてきてよかった』と思えるような社会を作りたい……そのおもいで、地域や議会で活動してまいりました。
二期目の4年間は議会のない時間を使って、困り事を抱えた方の電話相談や路上生活者支援のボランティア活動にも参加し、そこから見える社会的課題を政策に生かすとりくみもすすめてきました。みなさんの生活の中の声を受け止める区政をめざし、今後もとりくんでまいります」(議会活動レポート)。

 練馬区議選に挑戦したのは、8年前であったから弱冠27才のときである。
生まれも育ちも、練馬と縁がなかったにもかかわらず、初挑戦で当選をはたすことができた。
このときの投票率は47%、50人定員の第6位、5,743票の支持を得たのだった。
選挙には、「鞄(かばん)」、「地盤」、「看板」が必要などといわれているが、そのいずれもない中での高位当選にわたしたちはびっくりしたものだ。
思い当たるのは、立候補をきめたときから、人びとの中に入ることを徹底していたことにあるとわたしは思う。
政策リーフを片手に、一軒一軒を訪問し対話をかさね、それと共に日替わりで3つの駅頭に立ち、リーフを配り政策を訴えていった。
そして駅頭立ちは、選挙期間中だけの行動ではなく、週に3回から4回くり返して行われている。
それが8年間つづくことは、わたしの身のまわりをみても稀有なことがらである。

 二期目をめざす4年前は、投票率45%、第7位、5,775票を獲得した。



 そして今回(4月26日投票)の結果は、投票率42%、第2位、7,065票に票も順位も大きく躍進したのだ。
そういえば、選挙カーの車長をしていたわたしの弟、雅義(桜子・父)が、「反応が今までと様変わりしているよ」と云っていた。
「桜子が住んでいる町に入って『町内に住むかとうぎ桜子です』と挨拶すると、自転車に乗っていたおばさんが『えっ、あなたこの町に住んでいたの』と、のけぞるように自転車をとめて『がんばってね』と声をかけてくれた」。
「選挙カーで流すだけでなく、町内の商店街を挨拶して歩いていたら『桜子ちゃん』と、腰に抱きついてきたおばあさんがいた」。
ランドセルを背負った男の子が、「桜子さんは黒い上下の 服装だけど、お葬式みたいだから変えたらいい」と、注進してくれたそうだ。

 老いも若きも、自分の身近に「かとううぎ桜子」がいるのは、選挙の期間だけ自分の名と顔を売るのではなく、常日頃、自分のおもいを伝え、寄り添い、解決への道を共に考えようと、行動しているからに違いない。

 そんなことを少しばかりのお手伝いの中で感じた。



※この記事は、選挙直後に書き進んでいた。したがって4月の記事として掲載する。


和力のグラウドファンディング

2015年03月27日 | Weblog
 わたしは昨年「後期高齢者」の仲間入りをして今年が二年目になる。
わたしの世代のみなが、「そうである」と断定できないが、わたしだけに限って言えば「横文字」に弱く「漢字」の方に親しみをおぼえる側にいる。

 わたしが高校に入って通学に利用したのは、そのころ東京都内を縦横無尽に走っていた路面電車「都電」であった。
一時間ほどかかる電車での行き帰りは、もっぱら本を読んで過ごしていた。
どんないきさつで手に取ったか忘れたが、「新唐詩撰」(岩波新書)で李白や杜甫の詩などに触れ、唐詩にのめりこんでいった。
唐詩そのものをすらすら読了できるわけではない。
「新唐詩撰」著者の吉川幸次郎(当時京大教授)の傍証に助けられて読みとおせたのだ。

 江碧鳥愈白    江(こう)は碧にして鳥は愈(いよいよ)白く
 山青花欲然    山は青くして花は然(もえ)んと欲す
 今春看又過    今(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぐ
 何日是帰年    何の日か是れ帰る年ぞ

「新唐詩撰」冒頭に杜甫の五言絶句が収められ、右が吉川先生の訓読みである。
漢字の字面だけでも、色彩の鮮やかさに先ず圧倒された。
「碧」、「白」、「青」などが情景と共にありありとイメージできる。
視覚が「碧」を捉えたら、紺碧の川のようすがすぐさま思い浮かぶのである。
横文字だとそうはいかない。「Green」と出てきたら、わたしの語学力ではすぐさま読めないで、「う、うん、グリーンね」とカタカナ転換→「緑」と認識する。「碧」までは思い至らない。
「白」も「青」も同じように横文字をカタカナ転換、更に漢字転換、それでもってイメージが浮かぶ、漢字で認識するより二手間、三手間かかるのである。
だから今とり組み中の「和力のグラウドファンディング」も、なかなか覚えられず「グランド…えっとなんだったっけ」とうろたえて過ごすありさまであったのだ。

「伝統芸能を今に伝える『和力』を、映像を通じて多くの人に知ってほしい」と、加藤木雅義がうごき始めたのは昨年の春であった。
加藤木雅義は、和力の舞台があれば遠近を問わず、重い三脚とビデオカメラを背負って行き収録、それを出演者へ即座に送ってくれる「和力映像記録担当」なのだ。
自分の撮影だけに飽きたらず「練馬公演(2014.12.22)の舞台撮影をプロに頼みたい」と云いだし「だったら飯田基晴監督にお願いしてみたら…」と、娘の加藤木桜子さんにヒントを与えられた。
飯田基晴監督は、新宿の路上生活者に密着した「あしがらさん」を2002年に発表、当時大学院で福祉を学んでいた桜子さんが、学友と実行委員会を結成して「あしがらさん」上映会を催し、上映会には監督にもお出でいただいたとのことだった。
「あしがらさん」以降も「犬と猫と人間と」、最新作は「逃げ遅れる人々―東日本大震災と障害者」(2012年)など、ドキュメンタリーを中心とした作品をつぎつぎに発表されている方なのだ。
お忙しいスケジュールの中で、幸いにも「和力練馬公演」の撮影・編集を引き受けてくださった。

「飯田基晴監督に撮ってもらうのだったら、練馬公演だけではもったいないよ」と桜子さんが雅義に提案、「それもそうだ」と雅義。
「生活の中で伝統芸能をどのように磨いているのか」、加藤木朗が住まう信州・阿智村への訪問に、監督とカメラマンがはいったのが撮影の皮切りになる。
6月に、新潟県「まきおやこ劇場」の20周年記念作品「海どうじ 浜どうじ」(加藤木朗作・演出)再演の舞台けいこから本番までを撮影。
10月には「中学校公演」、12月「練馬公演」、1月「蔵のギャラリー・結花(ゆい)ライブ」、2月「松戸公演」など、形態の違う和力公演に監督・カメラマン・音声などのスタッフがはいった。

 当初は「練馬公演」だけと企画していたのに、次から次へと構想がふくらみ予算が大きくなっていく。個人で購うにはとてもたいへんな金額になってしまった。
「グラウドファンディングを活用したらどうか」と提案があり、桜子さんが「グラウドファンディングとはなにか」から研究を始めて、わたしたちにその実像や取り組み例などを示してくれたのは2014年11月24日からであった。
以後2月7日にスタートするまでの二ヶ月余、桜子さんが「応募金額帯」、「プレゼント内容」等を検討、皆の合意を得ながら実行母体として「Motion Gallery」を選んでいった。
事務局と打ち合わせをかさね、実務を何回もやり直しながら、2月7日「和力松戸公演」当日から開始された。

 プレゼンターとして、わたしが松戸公演開幕前に「グラウドファンディング」をアピールすることになった。
あいさつ文の要旨は桜子さんがまとめてくれていたが、わたしはどうしても「グラウドファンディング」が覚えきれず、発音にも自信がないのでこの言葉は使わずに「和力を知っていただく映像プロジェクトを本日より発足させました」と云うことにした。
あとから調べたら、Crowdは「群衆」、Fundingは「資金調達」であり、「多くの方々からの資金調達」との意味だと分かった。
耳慣れない資金調達の方法は、日本では2008年から始まったようである。

 多くの方々からの資金調達が始まってほぼ2ヶ月、目標金額200万円に対して140万円弱(達成率69%)の応募があり感謝する日々を送っている。
締め切りの6月6日までほぼ2ヶ月ある。和力を多くの方々に知っていただくこの運動の中で、資金も目標近く集まればよいなぁと願っているのだ。