goo blog サービス終了のお知らせ 

練馬から矢切を経て野田市・松戸市へ

2015年02月22日 | Weblog


 ブログを長らく更新できなかった。

12月22日(月)に開催された「練馬公演」の後、1月30日佐倉市「S幼稚園」、31日松戸市下矢切「蔵のギャラリー・結花(ゆい)ライブ」、2月1日には初の「野田市公演」、2月7日「松戸公演」とつづき、文章をつづる気持ちの余裕がなく、時間がどんどんと過ぎさっていった。
 実行委員会事務局長として関わった「松戸公演」の後整理が一段落し、一連の公演をようやくふり返えることができるようになったので、印象にのこった事柄を記録しておきたい。



 12月22日(月)に開催された「和力練馬公演」は、新潟県「まきおやこ劇場」の方々が8人、遠路はるばる9時間をかけ駈けつけてくださった。
この日、関東地方は晴天であったが、北陸・信越地方は大雪が降りニュースで大きく報道されていた。
「来る途中は雪で横転した車両があった。渋滞もあり開演時間に間に合うかと心配した」と、みなさんが降り立ったのは開場時間寸前であった。
和力の舞台を楽しんだ後は、すぐさま舞台撤収の作業に入ってくださった。
 練馬公演は今まで午後4時開演が通例で、終演が8時を過ぎても午後10時の撤収まで時間の余裕はたっぷりとれた。
だが今回は午後6時30分の開演だから、8時30分に終わったにしても撤収時間は1時間半しかない。
会館からは「午後10時までには完全に撤収してください」と強く念を押されている。
そこで主催者代表の加藤木雅義は、9月に新潟県巻町で開催された「山どうじ 海どうじ」(まきおやこ劇場20周年記念作品・加藤木朗作・演出)で、ダンス指導をした柿崎麦さん(練馬区在住)に相談をもちかけた。
「舞台をよくご存知なのでぜひ力を貸していただけないか」…麦さんは快く引き受けてくれた。そして「まきおやこ劇場」にも呼びかけてくれたのだ。
舞台慣れした方々のお蔭で撤収時間内に搬出は終わった。
「まきおやこ劇場」の方々は、午後10時過ぎ車に乗り込んで帰路に就いた。来るのに9時間かかり、舞台を見てその片付けをし、また雪の吹きすさぶ郷里へと向かう。帰り着くのは夜明けになることだろう。
文化のありがたい仲間、今でもそのときのひとりひとりの顔が目に浮かぶのである。



「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」でのライブは、2006年から欠かさず毎年1月に開催しているから、今回で9回目になる。
130年前の「見世蔵」は、太い柱と梁でどっしりと建てられている。
40人の座席を確保するのが精いっぱいの空間であるが、和力の音と舞はこの空間によく映える。
ホール公演とは違う演目もたっぷり楽しめるから、このライブに参加して、ホール公演に来てくださる方も少なからずいる。
いつもの年だと、午後1時と4時の2回公演だが、今回は「森のホール公演」が一週間先なので、午後1時開演だけにしぼった。
するとどうだろう。たちまちの内に定員に達してしまい、「和力DVD作製プロジェクト」撮影隊の席が確保できるかどうか危ぶまれる事態になった。
あわてたわたしと妻は、お誘いした数人の方を、翌日の「野田市公演」へ予定を変更してもらうため奔走した。
「定員になりました」と、結花さんは何人もの方を心ならずもお断りしたという。
次回からは、やはり2回興行でいこうと思っている。



「野田和力祭り」と題して、野田市公民館などが主催してくださって初の野田市公演が2月1日に実現した。
担当してくださったTさんは初々しいわかい女性である。
10月に開催された松戸市T中学校へ下見に来て、和力の演奏・演舞にずいぶん衝撃をうけられたようだった。
「和の文化に惹かれました」と、打ち合わせにお伺いしたとき、どこで手に入れたか和力CDや木村俊介・小野越郎さんのCDを持ち歩いていたのにはびっくりした。
また、和力HPなどもよくご覧になっていた。
若き知性と感性に初見の和力が受け入れられた嬉しい出会いであった。
野田市在住の元あらぐさ座座長のOさんが、市内の芸能団体へ働きかけてくださったのは、おおきな励ましだった。



「松戸・森のホール」の2月7日公演は、「寒い時期での晩の公演(午後6時30分開演)」がネックになって、なかなか参加者数が伸びていかなかった。
実行委員のみなさんのがんばりと、チケットを預けた方々の協力により最終盤には参加者が上向いたが、開演時間を早める(前回までは午後4時開演)ことを考えなくてはならないと思った。
舞台の撤収作業は、「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」の方々が、手際良くお手伝いくださり、余裕を持って会場を後にすることが出来た。



 2月14日には、「神楽殿新築記念と良縁祈願」として、松戸神社で和力の「神楽奉納」が午前11時と午後2時の2回行われた。
大勢の観客に混じって、わたしたちの顔なじみの方々が駈けつけてくださったのも、嬉しいことであった。

 春には間がある時期ではあったが、和力があちこちで目に付く、わたしにとっては明るい日々であった。

北陸路での和力公演

2014年12月10日 | Weblog


「3才の子どもと参加しました。子どもたちや若い学生さん方にも、ぜひふれていただきたい内容だと感じました。世界にはばたく子どもたちにこそ、自国の文化のすばらしさを感じてもらえたら、と願います。『和力』の皆様の芸力と話力があれば、子どもも夢中になると思います。わたしの3才の子も、まばたきもせず聴き入りみいっていました。おどろいたことに『だんじり囃子』では、突然眠りはじめました。最前列で。たいこのひびきが胎動にも似ているように思えました。すばらしい体験をありがとうございました」(30代女性)

 富山県上市町で、和力公演が11月30日(日)に開催された。
「上市ファミリー劇場」が5年ぶりに和力を上演、回収された「公演アンケート」の1枚を、Uさんが送ってくださった。
Uさんの添え書き「子どもが舞台に魅入る様子をアンケートに記入してくれたのは、数件ありました」とある。
年若い世代に、日本の伝統芸能が受け入れられた、頼もしいかぎりだ。

「上市ファミリー劇場」は15年前に旗揚げし、今回の和力公演が30回目の公演になるという。
年会費を払い込む会員と、公演の都度協力してくれる協力会員で構成され、安定して年間2回の公演を実施し、来年の前期公演は「前進座」、後期公演は「わらび座」に決まっている。
ご苦労は多いだろうが、営々と鑑賞活動をつづけられた結果、老若男女、観客層に偏りはない。
和力公演にも子連れで参加している、若いおとうさん、おかあさんがたくさん目についた。
そして子どもたちは、舞台に集中し大人と共に楽しんでくれたのは、伝統芸能の力であると共に、日頃からの鑑賞で、心が備わっているからに違いない…と、わたしには思えた。



 富山県には、日本最古の民謡といわれる「こきりこ節」、それに胡弓・三味線・太鼓で囃しながら哀切な節回しで唄い、優美な踊りで街を練り歩く「越中おわら節(風の盆)」、「麦や節」などがある。
わたしたちに比べれば、伝統芸能に触れる機会は多いだろうがアンケートに、「(自国の文化のすばらしさを)子どもたちや若い学生にぜひふれてほしい」と述べているのは、そのような機会が狭まっているのだろう。

 二昔ほど前、「民謡」の定番番組がNHKにあって、ゴールデンタイムの時間帯に野・山・里・海などの生活が、朗々と唄われていた。
NHK人気番組「のど自慢」、少し前までは、伴奏者として尺八や三味線奏者がかならず控えていたものだ。今ではアコーディオン奏者もいなくなった。
テレビ局・ラジオ局、たくさんの番組があるが、下支えしているテーマ―音楽で和楽器演奏は聞いたことがない。
町を歩き自然に耳にする有線放送でも、和楽器演奏や民謡は聞けなくなっている。お正月に「春の海」を耳にするぐらいなものである。
若い世代、子どもたちにとって、お祭りが盛んな地域以外は、笛、三味線、琴、尺八などの楽器そのものが、馴染みのないものになり果てているのではなかろうか。



 馴染みないものになっているであろうが、しかし感性としてはしっかりと受け止めてくれていると確信したのは、上市公演のアンケートであり、翌日の金沢市での公演でもあった。
12月1日(月)、金沢駅に到着。和力金沢事務所の歩未さんが出迎えてくれ、午前10時開演の幼稚園公演に向かった。
雨の中、着いた時にはすでに「コマの芸」は始まっていた。舞台前には園児たちが座り、その後ろの椅子席に父母席がある。
わたしが目に焼きついたのは、正座して舞台に見入る園児たちの足の裏であった。
子どもたちは舞台とかけあいながら、自由に楽しく時間をすごしていた。



 夜の部は、一般公演だったが多くの子どもが参加してくれた。
午前中に観た子もたくさんいたのだろうが、今度は2時間ちかくの演目を楽しんでいたのだ。
「こまの芸」で、舞台に上がったお子さんの親からの礼状を掲載する。
 

……この度は、天徳幼稚園公演のDVDをお送りくださいまして、誠にありがとうございます。 迫力ある「和力」の公演を見せていただいた上、「こま」の舞台に参加させていただき、とても感激しております。 戴いたDVDは家族で何度も見せて頂いています。舞台に上がった息子は、DVDを見る度に、恥ずかしそうですが、誇らしげでもあります。DVDを見て、息子と家族が楽しい時間を過ごせ、とても幸せです。感謝しております。
加藤木朗様、木村俊介様、小野越郎様の技は、どれも和やかですが、研ぎ澄まされていて、今もイメージが心に強く残っています。洗練された日本の伝統芸能とはこんなに良いものだったのかと教えていただきました。家でもCDを聴き、余韻に浸っております。
これからも、国内、海外でのご活躍を心よりお祈り申し上げます。メールにて失礼いたします……。
K.M と家族


 

和力の中学校公演

2014年11月28日 | Weblog


 10月末わたしが住む松戸市の中学校で、「文化講演会」として二時間の和力公演があった。
この中学校ではPTA「文化委員会」が、年に一回の「文化講演」を立案・企画し学校へ提案、そして実施の運びとなる。
「ゆめりあホール」(練馬区)での和力公演へ、PTAの有志が下見に来られたのは6年ほど前だった。
そして3年前にも「やりたい」との引き合いがあった。
いずれも実現には至らなかったが、「和力をぜひ生徒たちにみせたい」との申し合わせが、年々、PTAのメンバーは入れ替わるのだろうが、連綿と引き継がれていたのだろう。

 近くの小学校で6年の間に二回、やはりPTAの主催で和力を取り上げていただいた。
そこで生徒と共にごらんになったPTAのおかあさん方が、中学生になったわが子たちに「和力をぜひ…」と、心の炎を燃やし続けてくださっていたのだ。



 開会のあいさつは文化委員長、閉会のあいさつは生徒会長であった。
そして和力終演後は、和力メンバーを前に全校生徒が「合唱」でお礼をしてくれた。
この全員合唱を聞きながら、受け身ではない「自分たちで考え、決め、みんなの力で実施する」、民主主義の原点がここにあるのではないかと、わたしはふと思ったものだ。

 生徒たちが書いた「感想文」の束の厚さは、10センチ以上もあった。心のこもった感想を一枚いちまい読んで、その抜粋を「和力ニュース」で紹介した。



わらび劇場で「和力」出演

2014年10月19日 | Weblog


 秋田新幹線「こまち」は盛岡駅で、連結していた東北新幹線から切り離され、在来線「田沢湖線」に乗りいれ秋田駅へと向かう。
田沢湖線は単線鉄路で、深い山あいを蛇行しながら走るのでスピードはあまり出ない。
列車が走る両側は切り立つ崖が多く、黄葉が始まりかけ大小さまざまな木々が秋の訪れを知らせてくれている。
所々で上り列車を待ち、その通過を待ってから出発するので、のんびりと景色を楽しむことができるのは以前と同じである。

 わたしたちがわらび座に在籍していた当時は、2両連結のディゼル車がトコトコと走っていた。
盛岡から田沢湖線に入り、新幹線がさいしょに止まるのは田沢湖駅だが、在来線は雫石(しずくいし)→田沢湖→刺巻(さしまき)→神代(じんだい)へと進む。
「山の中から生保内(おぼない・現田沢湖)に出ると田んぼが広がって、あぁ帰ってきたんだなぁ…とホッとした。でも刺巻から神代までの距離が遠く感じられ、はやく神代駅に着いてほしいと思ったっけね…」と妻がなつかしげに呟く。
わたしも妻もわらび座営業部に所属し、実行委員会を立ち上げ集客、公演班を迎えて公演を実施、後整理が終わりわらび座本部に帰還するのは、おおむね4ヶ月ぶりほどになる。久しぶりに会うわが子を思い浮かべて心急くのであった。
神代駅を降り田んぼ道を1キロほど歩き県道に出、さらに1キロほど行けばわらび座本部に到着だ。



 新幹線「こまち」は、いつの間にか神代駅を通りすぎている。次の庄田(しょうでん)駅を過ぎると、左手奥に「わらび劇場」が見える場所がある。
「あっ、わらび劇場が見えたよ」、「どれ、どれ」と云っている間に、森の陰にかくれて見えなくなった。
角館駅に到着。駅前には祭りの曳山がおかれ、録音だが「飾山(おやま)囃子」を奏でている。
その横に「田沢湖芸術村行き」のシャトルバスが、何人かの乗客をのせて時間待ちをしていたので、さっそく乗りこませてもらった。
「あらー」と妻が声をあげる。名古屋のKさんである。Kさんとは新潟県巻町での「山どうじ 浜どうじ」公演でお会いした。なにせKさんは沢田研二の公演は、全国どこへでも出向き、和力公演も欠かさずに参加してくださるありがたい方なのだ。

 わらび座に到着し3人で「お食事処 ばっきゃ」で昼ご飯をいただく。「お狩り場定食」は、秋田に本拠を構えた佐竹の殿さまにあやかっての食事らしい。美味しい鶏肉料理だった。
食事を終え開演まで時間があるのでわらび座の施設巡りをした。
わたしがわらび座を出てはや30年になる。
座員の居住地域だった「独身寮」、「家族寮」は、いまも大切に使われているのだろう、手入れもしっかりされ健在だった。
「あっ、おれたちの部屋だった」…所も分かった。



 道を隔てるとかっての「大稽古場」が「小劇場」として活用され、その向かい「大食堂」だった所は「第一稽古場」となっていた。
その並びは確か「わらび座乳幼児保育所」だったが「第二稽古場」で、見慣れた建物が稽古場としてあちこち第五稽古場まで数えることができた。
ちょうどお昼時だったので、わかい座員に出会う。「こんにちは」と気軽にあいさつして通りすぎ気持ちのよい若者たちだ。



 開演時間が近づく。劇場前の石段に行列ができ始めた。
旧知の座員が案内をしているので挨拶をかわす。
なんと行列には、東京の和力公演に欠かさずに参加してくださる西荻窪のTさんが富山県のUさんと連れだって並んでいる。そういえばお二人は、春の東京での「和力」公演にもお出でくださっていた。
Tさんはわらび座の公演はどこへでも何回でも観に行く熱烈なファンなのである。
Uさんの娘さんは、わらび座の主役を張る女優さんであり、今秋、和力を富山県上市町に呼んでくださる勧進元でもある。
ご挨拶し和力出演者への陣中見舞いまでいただいた。



「国民文化祭 秋田・2014」の一環として「千年の絆 海を越えて 台湾の舞い・日本の響」の幕が切って落とされた。
台湾の歌舞は初めて触れるものであった。若者たちは汗みずくになって舞台いっぱいに跳ね踊る。腕の振りが大きくダイナミックな踊りであった。
台湾の二団体の後に和力が登場。台湾の歌舞はほぼ20人が舞った。
和力は3人で舞台を構成する。鶏舞、篠笛独奏、獅子舞、津軽三味線即興曲、合奏曲「忍者」、だんじり囃子、東風とつづく。
席の後ろのおばさんたちは、「あやー なんとはぁ いいもんだなす」とため息をついてくれる。
次にわらび座の雪中田植、沖上げ音頭、ソーラン節、花笠音頭、飾山囃子が終章を盛り上げる。
わたしはわらび座の歌舞を久しぶりに観て感極まった。沖上げ音頭の男声合唱の力強さ、ソーラン節もわらび座ならではの動きだ。ほかのグループでは出せない味がわらび座にはある。

「わらび座は創立61年目で、わらび劇場が設立され40年になります」と司会者が云っていた。
わらび劇場の建設募金集めに微力をつくしたわたしたちは、わらび座で生まれ育った息子の朗が、プロとしてわらび劇場の舞台を踏ませてもらう機会をいただいたのをこの目で観られたことを喜んで日帰りの旅を終えたのだ。



 多くの同僚だった座員に会うことができ、また終演後には(株)わらび座会長の小島さん、総務部の石原さんともお話ができた。
小島さんは「東日本大震災の後は、座も危急存亡の瀬戸際までいったが、いまはどうやら持ち直してきた」とおっしゃっていた。
わたしが親の面倒をみるため、座を離れて30年になる。身のまわりの厄介事はわたし自身で払いのけるだけだ。
だが座を背負い、創造・経営・運営に尽くし、座を継承・発展させる道筋を切り拓くにはどれほどのご苦労があっただろうか。
それを思うと「ごくろうさまでした」と、深々と心の内で頭を下げるのであった。











海と山~この星とともに~

2014年10月03日 | Weblog


…よせる波の音 かえす波の音 
 幾千万の昔から くりかえしてきた音
 かもめ飛びかう日も 荒れる日も
 星のリズムに合わせて くりかえしてきた音
きららきらら 光がとびかう ゆららゆらら 波しぶきがおどる
ああ たくさんの命を育み 星と共に歩いてきた海よ…

 海と山~この星とともに~は、「まきおやこ劇場20周年記念舞台『山どうじ 浜どうじ』のテーマソングで歌詞は2番まである(作詞・作曲 井野口敏子)。

 新潟市巻町から帰ってふと気づくと、この歌のメドレーがわたしの耳の奥で奏でられている。
音楽の素養・感性が乏しいわたしには、珍しいことなのである。
それとともに「山の生き物たち(8人)」、「海の生き物たち(8人)」を演じたこどもたちの澄んだ歌とその所作が、ありありとうかんでくる。
「浜の合唱隊(10人)」、「山の合唱隊(10人)」は、若いお母さんたちで、中学や高校生もいたようだ。
「大蛇の化身たち(6人)」は、ダンス振付・指導の柿崎麦さん以外は、やはり若いママさんたちであった。
「カラスの母さん」、「カメの母さん」の歌は、初演だった昨年はたしか幕開けに歌ったと思う。その伸びやかな歌唱は一気に客席を舞台に引きこんだものだ。
 再演の今年はドラマが進行しての独唱だったが、さらに磨きがかかっていた。
「浜どうじ」を演じた鈴木裕里加さんは大学生になり、東京に在住しお稽古にあわせて東京と巻町を往復したという。
「山どうじ」の井澤光さんは、大学進学を控え「今回の出演はどうしようかなぁ」と迷ったそうである。
この二人の若者は、歌もダンスも太鼓もせりふも切れがよく、こどもたちが憧れるのも無理がない。



「まきおやこ劇場」が発足20周年を記念し、「音舞語り・山どうじ 浜どうじ」をつくり上げ上演したのが昨年6月であった。
終演後の懇親会で感想文が読み上げられ、「一回きりの上演ではもったいない、再演してほしい」との声がたくさん寄せられた。
わたしは「そうなったらどんなによいだろう」と思ったが、再演は「夢のまた夢」だなぁ…と、そのときは聴いていた。

「こども達によい文化を」と、20年間に200回を越える舞台作品を上演しつづけてきたまきおやこ劇場は、作品のつくり手というよりは、創造団体の作品を鑑賞する側にいる。
渾身の力を込めて創り上げた20周年作品を再演するには、おおきな力をまたまた振るわなければならない。
なにしろ出演者は50名ほどになる。昨年の初演から再演までの1年3ヶ月の間には、いろいろなことがあった。
「大蛇の化身たち」のひとり大森桃さんには、お二人目のお子さんが健やかに成長されていた。
出演すべくお稽古に参加していたが、公演日に前後しての出産という事が分かり急きょ降板という方もおられた。
こどもたちも学年がすすみそれぞれに忙しくなった。
塾や習い事がみっしり詰まっているから、「山どうじ 浜どうじ」の稽古日に全員が集まれることが珍しかったそうだ。
さまざまな障壁をのりこえ9月28日(日)、「山どうじ 浜どうじ」再演の日を向かえたのである。

 開場時間が近づく。お客さんの列が巻文化会館のロビーから外にあふれ、幾重もの列になっている。
チケットの「もぎり」が間に合わないとみた「受付係」が、列に沿ってあらかじめチケットの半券をいただいて歩く。
「開場2分前ですが開場します」、劇場のYさんの指示で入口のドアがひらく。
「本日は満席のため、席は詰めあってお座りください」と、Yさんはお客さんに案内する。
50枚用意した当日券は全部はけてしまい、900ある席はみるみる埋まっていく。

「和力 つゆはらい公演」の後、15分の休憩をはさんでいよいよ「山どうじ 浜どうじ」が始まった。
幼いこどもから小・中・高・大学生、それに若いお母さんたちが、作品に命を吹き込んでいく。
伸びやかな歌、キレのいいダンス、はっきりしたせりふ…みんな舞台作品にたくさん触れてきているから、のびのびと演じている。
ピアノ伴奏は、挿入歌・作詞・作曲の井野口敏子さん、昨年といちばんちがったのは出演者の歌唱指導に、音楽家の田中千登世さんが入っ
たことであろう。



 地域の優れた才能をこどもたち親たちに結びつけ、異なるひろい年令層を一つの目標に向かって集結できるのは、「おやこ劇場」の地域でのながい地道な活動があったればこそと、そのご苦労を偲ぶ。



 尚、今回の懇親会で読み上げられた感想文にも「再再演を期待する」、「この地だけでなく、もっと広く公演してほしい」との声が何通もあった。
懇親会では自然に歌が何曲か歌われた。みなさんは自分の席にいながら口ずさむのだが、快くハモルのだ。井野口さんはキーボードで伴奏する。
井野口さんはいつでもどこへでもキーボードを持ち歩いて、気軽に伴奏するのだそうな。みなさんいつも歌いなれているから、わきおこる歌は気負いもなく、聴く者の心に沁みてくる。

 懇親会も本番の舞台におとらず、和やかなハーモニーにつつまれるものであった。

阿智の夏・2014

2014年09月27日 | Weblog


 新聞のコラムに「猫は200の表情をもつ」と書かれていた。
わたしは以前であれば、「そんなことあり得ない」とあたまから信じなかったであろう。
200もの表情を見分けることはできないが、でも今では「ありかも知れない」と納得できる気分がある。



「動物愛護センター」で生後2ヶ月の雌猫を、二匹もらい受けて1年経った。
センターの獣医さんに「家猫として飼う」ことをつよく勧められ、家から出さず「箱入り娘」として育ててきた。その性格がちがうのにはびっくりしている。
お姉さんの「サラ」は用心深く、妹の「ウリ」は好奇心旺盛である。家の障子紙を破きまわったのはウリであり、隙を狙って家から脱走するのもウリで、ウリを保護しようと追いかけ回していると、サラは心配そうに「ニャーニャー」と家の中からウリを呼ぶ。

 猫と同居する前は、猫とは「かつお節が好きで、露店の魚屋さんの店先から魚をかっぱらい、暇だと塀の上で寝ている」ものと理解していた。
サザエさんの漫画などでそんな「猫イメージ」をもったのだ。
でもそうは単純でなく、好みもやることも猫それぞれにちがう事をつくづく思い知らされている。
だから今年、朗宅に行って犬や猫に会い今までと違う感触を持てたのは、「自前」で猫を飼育してきたおかげかなぁ…と思っている。
 
 信州の朗宅には中型犬一頭と猫が四匹いる。犬の「ビビ」はもとより、猫たちも人懐こく今までにも遊ぶ機会はたくさんあった。
遊ぶ機会はたくさんあったけれども、その心を読み解くことはできずにきていたと今回はつよく感じた。
「今年は新潟へ海水浴に行くので、留守をよろしく…」と朗から連絡があり、7月30日から8月3日まで、わたしと弟の雅義が留守居役として出張った。
動物たちの世話と田んぼの水を管理するのが主な役目である。
信州阿智村に住む朗一家が子どもたちの夏休みを利用し、「家族旅行」をし始めて何年になるだろうか。
磊也と慧は、松戸のわが家に同居しているが、途中で合流するということで、ことしも家族全員6人の旅行になった。



 雅義とわたしは、新宿から高速バスで飯田市へ、出迎えてくれた陽子さんの運転で朗宅に到着した。
中型犬のビビが尻尾をふりふり寄ってくる。
間なしに稽古場から朗と扇子をもったご婦人が出てき、「アメリカでお世話になったSさんです」と朗に紹介された。
ご婦人は「朗さんの太鼓と舞の指導を受けたくてやってきました」、「昨日今日と朗さんにお時間をいただいて充実した時間を過ごせました」と、水気たっぷりのスイカを食べながら自己紹介、「この後は東北の祭りをみて帰国します」と大きなカバンを朗のワゴン車に積み込み名古屋へ向かった。
朗はそのまま「教室」のおけいこなので、帰りは遅くなる。
わたしと雅義は早々と寝床に入った。

 翌朝5時ごろには、雅義がビビを連れて散歩に出かけた。
ビビはわたしたちが来ると、早朝から散歩に連れて行ってもらえるものと覚えていて、夜明けの4時半頃から「クゥーン」と鳴いてさいそくを始めるのだ。
早朝の散歩はいつも雅義が連れて一時間以上あるきまわってくる。 
その翌日もビビは玄関に向かってお座りや伏せをして「クゥーン」と呼びかけているのをわたしは二階の部屋から見ていた。
この日、雅義は所用があってお昼のバスに乗って帰る。
荷物をもって「ビビまた来るからね」とビビに挨拶するが、ビビは小屋に入ったまま出てこない。
上目づかいで見送るだけである。「もう帰ってしまうの…」と問いかけているような目つきで雅義の帰りを見送った。
わたしが驚いたのは翌日の事である。
「クゥーン」との朝の催促はしない。雅義がすでに帰ったのを知っているので小屋から出てこないのだ。
朝食を食べてからわたしと散歩に出かけた。
そして昼過ぎ、わたしが荷物をまとめて帰るのも、小屋から見守るだけであった。

 今までだったらなにも気づかずに見過ごし、「疲れたのかなぁ…」としか思わなかっただろうが、ビビは「帰ってしまうんだね、さびしくなるよ」と多分思っているのだと推察できるのだ。
人間と違って動物には「表情筋」がないから、「あっはっはっ」と笑ったりしないが、その動作、目つき、身体の動かし方で十分に意思を伝え、それがわたしたちとの「会話」になるのだろう。
それを少し読み解けたのは、家で世話をしている二匹の「箱入り娘」たちのおかげである。

猫と暮らせば

2014年07月27日 | Weblog

 わが家に二匹の猫がやってきて、ほぼ10ヶ月が経った。
「動物愛護センター」に依頼し約二ヶ月、「育つ見込みがつきましたよ」と連絡があり、茶虎のめす猫二匹を貰い受けたのは昨年9月である。
生後二ヶ月ほど、体重は500グラムをすこし超え、手のひらに乗る大きさであった。
昨年春、「そろそろ猫を飼ってみたら……」、「飼うなら複数がいいよ」と、わが家に寄った息子の朗がすすめてくれその気になった。
当時、信州の朗宅には猫が五匹、中型犬が一匹いた。
わたしは朗宅を訪問する機会があると、中型犬のビビと朝晩の散歩を楽しみ、ビビもよく付き合ってくれた。
ビビはシェバ―ドと同じくらいの体格で、脚がスラリと長くなかなか美形な犬で、犬辞典で調べると「ニュジランド ハンタウェイ」という牧羊犬とよく似ている。
五匹の猫たちも人慣れして可愛かったが、どのように付き合ったらいいか分からず、傍に寄ってきたら長い尻尾をつかんだりして遊ぶだけであった。

 わが家では、母親が小型犬「マルチーズ」を飼い親しく暮らしていた。母がいるどこにでも、母が行くどこへでも付いていって、いつもいつも一緒だった。
買い物帰りの母が、路傍の石垣で一休みしている所に行き会わせる事が稀にあった。母はいたずらっぽい顔つきで、マルチーズの手綱をそっとわたしに握らせる。
わたしが手綱を引いて歩きはじめる。マルチーズは母とわたしの顔を見比べて、足を踏ん張る。母の顔を見ながら、キャンキャン鳴いてわたしには付いて来ないのだ。
でもこんな時には付いて来た。その頃わたしは休日に、ジョギングを欠かさずしていた。ジョギングシューズを履き準備していると、いち早く察したマルチーズが、この時ばかりは、「連れて行け」とクルクル回りながらせがむ。
江戸川土手を10キロほど走るのが、わたしとマルチーズの楽しみであった。

 思い出したが、わたしがわらび座本部詰め勤務になったとき、昼休みにやはり10キロほど走るのを日課にしていた。
広場で体をほぐして走りはじめると、わらび座員の子どもたちの居住する寮に達する。
ここには体の大きな「ドン」という犬がいて、わたしはドンの手綱を腰に結えて走るのだ。
ドンは昼休みにわたしが来るのを待っていてくれ、一緒に走りそして用水路で水浴びをするのを楽しみにしていた。
だから、犬との付き合いはあったが、猫とはほとんどなかった。
 ただ、わが家に猫がいた古い記憶がかすかにある。わたしが学童前のことだが、住んでいた長屋のわが家にその猫はいた。
ネズミを獲ってきた猫は、部屋に持ち込み母が「あれ、ネズミを獲ったの、えらい、えらい」と猫を褒めていた場面を思い出す。
その他のことは思いだせないにしても、猫との生活も確かにあったのではなかろうか。

母亡き後、わたしと妻はフルタイムの勤め人なので世話ができず、母が飼っていたマルチーズは姪が引き取り育ててくれた。
それ以後ほぼ20年、金魚はおろか小鳥さえ飼うことなく過ごしてきていた。

 この10ケ月、猫と密着して暮らして驚くのは、猫の性格が多様であることだ。
少しだけお姉さんの「サラ」は用心深い。
動物愛護センターで初対面したとき、獣医さんが手を伸ばすと、「フ―」と威嚇音をだし後じさりする。
獣医さんは、「この子はこうだけど、どうされますか」と問うてきた。傍には獣医さんの手にじゃれつく子猫が何匹もいたが、この「フ―」をもらい受け最初は「フ―子」と名付けたが、妻が「サラ」と名付け直した。
少しばかり妹の「ウリ」は、好奇心いっぱいの子猫であった。もらい受け帰る車中で、抱っこしているわたしのシャツのボタンに手を出し、じゃれついてくる。

「家猫として育てた方がいいですよ」、「外は交通事故、草むらでのダニなど猫にとって危険なことがいっぱいあるので…」と、「動物愛護センター」で念を押され、完全な家猫として育てている。
でも、縁側のガラス戸を開けたすきに、脱走したことが数回ある。
ガラス戸を開ける音で、真っ先に駆けつけてくるのは「ウリ」だ。油断している足元からスルリと庭に飛び降り、「あっ、ウリ」と呼びかけるとまっしぐらに、家の裏手へ走り去る。
その隙に「サラ」まで庭に降りる。サラはなんかすまなそうな風情で、こごまりながら歩いているからすぐに保護できる。
サラはジャンプ力があるから、本気になって逃げるとわれわれの手に負えないが、「この人たちに迷惑はかけられない」と、わたしたちの気持ちを忖度する風情がある。
ウリは追いかけるわたしたちの目の前を一目散に駈けて、隣の裏手へ廻りこんだりしての大騒動の末に捕まえるのだ。

 寒い季節、布団に頭を差し入れ強引に入ってくるのはウリだ。サラは絶対に布団の中には入らない。
あぐらを組んでパソコンに向き合っていると、ウリはすぐに抱かさりにきて、わたしのあぐらの中で一休み、サラは新聞を読む紙面の上に横たわるのが癖だ。
意外だったのは、避妊手術を期間を違えてやったとき、留守宅は一匹だけになったときである。
このときばかりは、どこに行くにもひとさまに付きまとってわたしたちはくたびれた。
病院から帰ってきたのを出迎えお互い毛づくろいをやり合って、彼女たちの生活が戻ると必要以上には、人様にまとわりつかない。

 一方は慎み深く、他方は無鉄砲、いつも一緒にいての生活は見あきることがない。


「後期高齢者」になった

2014年06月29日 | Weblog


 この春、わたしは「後期高齢者」の仲間入りをした。
ふだん年令を気にしない生活しているから、自分が何才になったかはついつい忘れがちになる。
「お前さんは後期高齢者になったのだよ」と教えてくれたのは、県の公安委員会と市役所であった。
公安委員会から「運転免許更新時に高齢者講座を受けるよう」にとお達しがあり、市役所からは「後期高齢者医療保険者証」が送られてきた。
 免許更新では2時間の講習、1時間の運転実技があった。講習では「今日は何月何日ですか」と最初に記入し、講師が「これは果物のメロンです。つぎは戦う道具の刀です」など、20余りの絵を示してみなに復唱させる。
つぎに「並んでいる数字の中から、3と5と9に斜線をいれなさい」と数字に集中させ、
それがすんだら「先ほどの絵で果物はなんでしたか、戦う道具はなんだったでしょう」との問いになる。
そして最後に丸い円を描かせ、「何時何分にこの講義がはじまったかを、時計にして示しなさい」で締めくくる。
難関だったのは見た絵を思い出すことだった。「乗り物はなんだったでしょう→ヘリコプター、書くものはなんでしたか→筆」など、八割ほどしか思い出せず時間切れになった。

そしてゲームセンターにあるような機械で、車を発進させ一時停止、走行、停止などをくり返させるテスト、それが終わって運転実技にはいった。
わたしは30才代で運転免許を取りその頃オートマ車はなく、今でいうマニュアル車だけだったから、オートマの訓練は受けていない。
運転席に座り発進し信号で停止、指導教官が「おや、なぜ左足でブレーキを踏むのですか」と問いかけてくる。
わたしは戸惑った。週に2回通っているアルバイト先は全部オートマ車で、わたしは右足でアクセル、左足はブレーキと使い分けスムースに運転しているのだから、これが正しい技術だと疑問を持たなかったからだ。
指導教官は「だれも教えてくれなかったので仕方ないが、右足だけで操作してください」と云う。
わたしは不慣れな右足だけでの操作で、「車庫入れ」や「S字カーブ」に挑戦した。
講習・実技が終わり、一緒に受けた6人の高齢者全員が、「高齢者講習終了書」をもらえて免許更新できることになった。

 わたしの軽自動車はマニュアル車だから、クラッチ・アクセル・ブレーキは右足・左足が分担して運転している。
バイト先のオートマ車は、相変わらず左足でブレーキ、右足はアクセルと使い分けている。
教習所の指導教官が「右足だけで操作するように」と促したけれども、どうにもそれは怖くて街中を走れない。
「老いの一徹」が兆して、人の言うことを聞けなくなったのだろうか。

「後期高齢者」になったなぁ…と痛感するのは、駅に向かって歩く時である。駅へは約2キロあり20分ほどかかる。
直線道路を多くの人が駅に向かう。わたしはべつだんゆっくり歩いているわけでないのに、若い人にはもちろん、おじさんやおばさんにもどんどん追い抜かれてしまうのだ。
65才まで、会社勤めをしていて毎日駅を往復していたが、こんなことはなかったように思う。
 それと買い物や散歩に出かけると途中で、「座りたい」欲求が出てくることである。昔は路傍の石垣などで、一息入れているおじさんやおばさんを見かけると、「お年寄りだから疲れるのかなぁ」と他人事に思っていたのに、いまやわが身になってきた。
メガネや携帯電話をどこに置いたか探すのは、これは以前からの事であるから意に介さないが、近ごろ予定を立てて「なにかをやる」事が億劫になってきた。
わたしは達者だけが取り得で、年がら年中動き回っていないと落ち着かない性分であったが、片付けなければならない事を後回しにするようになってきた。

「後期高齢者」になって、○歩いていて人に追い抜かれる、○歩いていて座りたくなる、○億劫になってやるべきことを後回しにする、などの症状が顕著に現れてきた。
それと、座っていて立ち上がるのに「よっこらしょ」と掛け声をかけ、なにかにつかまらないとスムースに立ち上がれなくもなっている。
安心できるのは車やバイク(250cc)の運転は、人に引けを取らずに素早い発進・加速、いつも先頭にたてることである。
今回の運転免許更新では、なんと「ゴールド」免許になった。毎日のように車を運転していて、この5年間は無事故・無違反であったのだ。
これが今のところの自慢の種になっている。



2014年初春の「和力公演」

2014年04月20日 | Weblog
 前回のブログに引きつづいて、途中まで書いて気になりながらも放置していた記録をまとめた。



 ……すこしばかり古い話になるが、1月11日(土)には、松戸市下矢切「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」で「和力」公演があった。
築約130年の見世蔵を所沢から移築、階下は喫茶店、二階をギャラリーとして文化を発信しつづけている。
「和力」を2006年から毎年1月に開催しているから、今年で連続9回目の企画になるだろうか。

厚い板をさしわたした長椅子に、座布団を敷き客席を設ける。お尻を詰めあってほぼ40名分を確保するのが精いっぱいの空間である。
上を見上げれば、太い材木が縦横に行きたがい、天井板が張ってないから頭の上は広々としている。
太い材木と天井の高さのおかげだろうか、ステージと客席は目鼻の距離だけれど、笛や三味線、太鼓の音は、自然の素材である材木や漆喰の壁に吸い込まれ、柔らかく会場内をただよう。
「この古民家での和力ライブは、ホール公演とはちがう魅力が醸し出される」というファンの方も多くて、ありがたいことに2回公演はいつも満席になる。

 わたしは、この古民家でのライブのたびに思い起こすことがある。
わたしがわらび座に在籍していた頃、集落ごとに祭礼があった。わらび座は田沢湖町神代にあり、田沢湖から流れ下る「玉川」の橋を渡ると、「角館・広久内(ひろくない)」そのもう少し先には「角館・白岩(しらいわ)」という集落があって、お盆の時期に「ささら舞い」が、家々を訪れ庭先で舞われていた。
二頭の雄と一頭の雌の獅子が太鼓を胸に、「悪鬼退散・豊作祈願」を願って舞うのだ。
言い伝えによると、常陸を国替えになった佐竹氏が角館に赴任した折、常陸の獅子踊りをもってきて伝え400年の歴史があるという。
もう一つの伝承は、「角館が秋田美人の発祥地である。それは佐竹氏が常陸中の美人という美人を引き連れてきたおかげなのだ。だから常陸には美人が残らなかった」などという不埒なものが口伝えで残されている。
これは口伝えだけの言い伝え、噂であって文章などにはない。あれば大変である。わたしの父も常陸の人であった。こんな噂を知ったなら郷土愛の強かったわが父は、どんな暴れ方をしたか知れない。

「ささら踊り」は、木の札でつくったささらを打ち鳴らす音頭取りが先導して、三頭の獅子がつづく。神社などでも舞ったのであろうが、わたしが見聞きしたのは農家の庭先での舞であった。家人や近所の人たち30人ほどが迎え入れる。
舞う人、迎える人は指呼の間で隔たりがない。
渾身の力で「悪鬼退散・豊作祈願」、前進、後退、回転し、太鼓を叩き屈み伸び、砂ほこりをあげて舞われていた。
「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」は、屋内であるから砂ほこりはあがらないが、演者の汗・息遣いは眼前でみてとれる。

 加藤木朗の大道芸と太鼓と舞い、そして木村俊介の笛、小野越郎の津軽三味線がみなさんの目の前で進行する。
そして2014年初春の宴では、音舞語り「干支継ぎ」が披露された。
この演目は昨年11月金沢公演で演じられたものである。昨年の干支、巳(み…へび)が、「このまま来年もおいらが年男になる」と駄々をこねて、磊也演ずる「八岐大蛇(やまたのおろち)」が眼光鋭く居直り、来年の干支、午(うま)が困り果てた挙句に、ようやく干支継ぎを果たすという展開だった。
今回は、年男の午(朗)にたいして、山神様の使い番、鹿(磊也)が「午よ、姿かたちがそっくりなわしも一緒に、年男に加えてくれ」と迫るのだ。
朗一家6人は、大蔵流狂言の門下生で、長年その修行に励んでいる。磊也は小学生の時に加えていただき、今も東京道場へ通っている。
だから狂言のやり取りも面白く、お客さんは大喜びでその掛け合いに身を乗り出す。
午は津軽の「荒馬踊り」そのものである。
 わたしがわらび座の演技者のときには、この「荒馬踊り」を舞台いっぱい跳ねて踊った大好きな芸能である。
朗の演ずる「荒馬踊り」は、「勇壮で元気に跳ねまわる」というわたしの解釈ではなく、「祝唄」を口ずさみながら、しなやかに跳ね、ゆったりと歩み、おおらかな午の姿である。
木村、小野コンビが、歌と動作に合わせて音を奏でる。長丁場の演技であるから、朗の額からは汗がしたたり落ちる。

「見る人が少なくても、『命がけでなさっている』わね」との感想をいただいた。

 磊也は修行の身であり若輩者であるが、修業で先生方の力をいただき、「和力」の演目の幅がグーンと大きくひろがったなぁ…とわたしは、初春の和力公演で思ったのである。


「チカラ公演」の感想文

2014年04月11日 | Weblog
 先日、わらび座時代の友人Oさんから電話があり、ずいぶん久しぶりに懐かしい声をきいた。
「まさちゃん(わらび座時代にわたしはこう呼ばれていた)元気だったんだね…それはよかった。定期的にあなたのブログを開くのだが、三ヶ月ばかり更新されていないので『なにかあったのでは』と心配した。元気でよかった、よかった」。

 わたしもブログを更新できていない事が、いつも心にひっかかっていた。
自分が見聞きしたその時々の大事なことを記録しておきたい…と、パソコンを使いはじめてから途切れずにやってきた。
ところが意に反して何ヶ月も間が空いてしまった。書きかけの文章は、3本ほど「マイドキュメント」に残っている。書きかけてそのままにして、目の前のことに追われる日々がつづいたのだ。



 年が明けて1月11日には、松戸市下矢切にある「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」で新年恒例「和力ライブ」があった。
年末から集客に努力し、2回公演がぶじに終わりホット息を継ぐ。演目「干支継ぎ」をはじめ「和力」の新たな発展について、ブログを書きはじめた。
書き始めたが、3月に練馬区「ゆめりあホール」で「東日本大震災復興支援・チカラ公演」があるので、ブログを中断してその「ご案内」発送に取りかかる。
時期を同じくして「町会役員旅行」の幹事を任され、参加募集や集金、「法事が入ったので参加できなくなった」…などの対処に追われる。
100万円をを越えるお金を預かり「こんな大金をもって無事に過ごすにはどうしたやよいだろう」と戸惑う毎日を過ごす。
2月16日出発の旅行は、目的地が大雪のため前夜に突然中止となる。そして緊急の役員会を開き、2週遅れで無事に終了した。
こうして1月、2月はあわただしく過ぎていく。

 一息入れる暇なく、3月11日から12日にかけては、ゆめりあホールで3回にわたる「チカラ公演」で集客に力をそそぐ。
この公演もブログに書きはじめた。
…が3月は町会の決算月となる。わたしたちの連合町会は世帯数2,000を越え、三つの町会からなっている。わたしはその一つの町会の「会計」を引き受け3年になる。
「会計部長をやってくれないか」と要請があったが、それはなんとか固辞した。
会計部長は経理経験がないから、帳簿記帳などを助言している。4月の会計監査に向けて決算作業に入るも、なかなか数字が合わない、それも大きな金額だ。
預金通帳をたどり領収書をめくってようやく「合わない原因」を見つけ決算書をつくる。せっかく決算書をつくったのに、臨時に入出金が発生して決算書のつくり直しは何回にもおよぶ。
そんなこんなで3月が過ぎ、今4月をむかえ会計監査も終え「町会総会」をまつばかりになった。

「フェイスブック」はなんとか継続出来たが、ブログは書きかけては中断して、目の前のことに奔走したあげくご無沙汰になってしまった。

 これでは「いかん」と、書きかけブログの新しいものから、復元・加筆していきたいと思っている。
まずは、ゆめりあホールでの「チカラ公演」感想文を記録しておきたい。




 2014、3.11 東日本大震災支援公演№2 感想文

 練馬区「ゆめりあホール」での、昨年に引きつづく「東日本大震災復興支援チカラ公演」が終わった。
昨年は震災当日の3月11日(月)午後7時開演の1回公演のみであり、チケットは開催一ヶ月前に完売した。
今回は、3月10日、11日、12日と三日間にわたりホールを借りられた。
10日は大工哲弘、植竹しげ子さんたち「沖縄チーム」と「和力」のリハーサルにあてられ、公演は11日(火)昼夜の2回、12日は夜の部、あわせて3回公演を行った。
昨年は「当日券は発行しません」とチラシに予告し、少し余裕をもってチケットの販売を打ち切った。
今回は3回公演にしたから集客に心配があったが、なんとか3回とも満席に近い状態で終えることができた。

 その感想文である。
○楽しかったです。良かった。いろいろ見れて良い体験でした。(女性)
○私も今太鼓をやっているのですが、一番最初の太鼓の演奏は衝撃的でした。あんな演奏の仕方があるのを初めて知りました。
○伝統芸能を見る機会がなかなかありませんでしたが、今日は初めて舞・三味線を目のあたりにして感心しています。おもしろいものです。津波・原発福島はたいへんです。
○あまりにお一人お一人の芸が素晴らしくて感動いたしました。公演の趣旨もよく伝わってきて共感できる舞台、楽しめる舞台、元気になれる舞台でした。ありがとうございました。(女性)
○とても心が和みました。
○第一部感動をいただきました。「和力」の方々がそれぞれの力量をお名前のように「一つの力」にしているのが素晴らしい。第二部植竹さんの「静」津波の波を静めているごとくでした。第三部コラボのご三人の演奏お見事。「和力」の演技の中に狂言の基礎が取りいれられているのには感心しました。(男性)
○素晴らしかったです。この舞台が東北で上演されることを願います。
○「和」の公演を拝見したのは初めてでしたが、なかなかよかったです。特に津軽三味線は一度聞いてみたかったのでたいへんすばらしかったです。(女性)
○3.11より制作活動がすすまなくなったが、きょうから元気がでるかもしれない。ありがとうございます。篠笛、三味線、鶏舞をはじめ、和力ステージは感動した。すばらしい、このステージも勇気をあたえてくれました。(男性)
○出身地の秋田のアーティストと、大好きな沖縄のコラボレーションで楽しめました。東北には祭りが数多くあります。沖縄も然り。口伝承のものも失われつつあるのに、震災のために危機にさらされている伝統も多いはず。ほんの少しでも何かの「チカラ」になりたいと思いました。夜、そして明日も多くの人にパワーを与えてください。東北の人は我慢強いと云われますが…3年は長すぎます。原発事故さえ無ければー。(女性)
○すばらしいの一言。普段は西洋の音楽ばかり聞いていました。和の力、ほんとうにすごい。日本の男子の魅力にほれた!