goo blog サービス終了のお知らせ 

家電製品の故障

2022年04月28日 | Weblog

 

 朝起きてご飯をチンしようとしたが動かない。昨夜使ってなんでもなかったのにどうしたことだろう。

別のコンセントに差し込んだり、本体につながる電線の根元を引っ張ったり押し下げても、そして「奥の手」叩いてみても作動しない。かって旧式のテレビなどは「叩けば」なんとかなったものだ。

説明書を取り出し「故障だと思ったら」の項目をなぞっても原因となる項目がなく途方にくれる。

説明書の表紙には「購入日202011月」・「購入金額27,000円」と記入してあるから使い始めてこの4月で1年と4ヶ月しか経っていない。

 

 前につかっていた電子レンジは10年以上は使い込んだ。そのレンジが不具合になったので、妻と共に量販店へ行って選んだのがこのオーブンレンジなのだ。

今までの解凍・温めだけでなく、「オーブンで調理する」・「グリルで調理する」という文言に惹かれ、値がはるが目をつぶり購入した。

その時は「これを使えば調理の巾が広がり、うまいものが食えるだろう」とのつよい期待があった。

しかし「オーブン」も「グリル」も使うことなく、「解凍」と「温め」だけに使用は限定されていた。

いつかはオーブンやグリルで調理しようとは思っていたが、その機会はなかなか訪れることなく過ぎてしまったのだ。

わが家での食事担当はわたしである。料理に興味や関心がつよいかというとそうでもない。

なにしろ未だもってレシピ本なしに作れるのは「野菜炒め」と「肉じゃが」・「おでん」・「即席ラーメン」ぐらいなもので、手慣れた「カレーライス」なんかもいちいち説明書にたよる始末なのだ。

レシピ本なしに「肉じゃが」をつくれると云ったが、これも「醤油は大匙で何杯だったか、味醂は、砂糖はどうだったろう」と、レシピ本を引っ張り出すことが多々ある。

調理の素養がないのだろう。「この調味料とこの調味料を合わせるとこういう味になる」との想像が及ばないのだ。

そこにいくとわたしの母はうまい料理を食わせてくれた。大匙や小匙を使っている場面は見たこともない。それでも煮物・煮魚など抜群の旨さだった。

それを当然のように食い、「うまい」と労わず過ごしたことが、申し訳なく悔いが残る。

いつまで経っても「おふくろの味」に追いつけずにいる。

 

 

 高額のオーブンレンジを買ったが「宝の持ち腐れ」で、レンジ機能だけの使用に留まって、他の機能を使わないままに不具合になってしまった。

「ご相談センター」に電話し修理に来てもらうことにする。「1年の保証期間が過ぎているので、出張料は3,500円かかる」。「量販店の保証に入っていますか」。量販店で3,000円の保証料を払うと4年間は面倒を見てくれる。このオーブンレンジを買うまでは、店員が勧めるまま3,000円を支払い4年間の保証を受けていた。

電化製品は案外と長持ちして4年以上使っているので、今回は3,000円をケチったのである。

修理に来た技術者は、いろいろ試みた末「この部分に通電していない。これを交換すると15,000円になる。どうしますか」。

接触不良などの単純な不具合でなく、手がかかる故障だと判明した。名のある会社の製品なのに14ヶ月でぽしゃってしまい、保証期間がわずかに過ぎている。

悔しいが諦める他はないと断じて、出張料金3,500円・消費税を入れると4,000円に近い金を払ってお引き取り願った。

 

 ないと不便なのでさっそく量販店に出向く。

今度ばかりは高望みせずに「チン」機能だけのレンジを選んだ。9,000円をすこしこえる価格である。3,000円の追加保証金を費やすのは業腹なので今回もやらない。

 

 悔しく損をした気分で4月を送ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 。

 


弥生3月のご馳走

2022年03月25日 | Weblog

 

 3月になっても寒さは厳しく、春はまだまだ先だと思っているうちに、庭の梅の蕾が膨らみ、10日を過ぎると満開になった。

ほどなくして近くに住む知人が、まだ蕾の堅い「菜の花」を届けてくれた。江戸川土手に群生しているのを摘み毎春持ってきてくれるのだ。

さっそくお湯をグラグラ沸き立てくぐらせると、春の野の青さが目にしみる。小分けにして10日間ほど味わった。

家から5分ほど歩くと江戸川に行き着く。堤防は土に覆われ分厚く高くいろんな草花が生い茂る。

つくし、たんぽぽ、そして菜の花が春の訪れを告げ、まもなくすると小さな鎌を携え「ノビル」や「ヨモギ」を摘む人たちが行き来しだす。

 

 わたしは気が向くとウォーキングコースとして堤防へ上る。遠くに東京スカイツリー、秩父の山並みやひょっとすると富士山が遠くに望めることもある。

春にはヒバリが高い空で甲高い声、初夏にはツバメが素早く飛び交う。広い河川敷では、野球・サッカー・ゲートボールで大賑わいだ。

江戸川の流れは光を照り返しゆったり流れ、堤防はウォーキングコースとしては最適なのである。

たまにしかウォーキングコースとしないのは、江戸川は全国に6河川しかない「スーパー堤防」であることにある。高さは10メートルを超え、階段を一直線に登ると息切れしてしまう。風がもろに吹きつけると進むに難儀する。

無風で日差しがゆるやかな日、ゆるやかなスロープ(車が昇り降りできる坂)をゆるゆる登れば息切れせず堤防の真上に着く。

ジョギングをする人はひきもきらずにいる。わたしもかって65才頃までこの堤防上を走っていたものだ。

母が飼っていた小型犬を連れ、堤防の中段に自転車をおきウォーミングアップを丹念にして川上に向かって走りはじめる。

堤防上はコンクリートで固められているから、足腰の保護のため草が茂る中段を走っていた。小型犬は後になり先になって共に走る。JR武蔵野線の鉄橋までは片道5㌔、往復して10㌔を走りぬけば汗びっしょりだ。整理体操をし犬を自転車のカゴに入れ家路につく。

思い起こせばその頃、自転車を押し堤防の急斜面を登っても、息切れなんかしていなかったように思う。

やはり「寄る年波には勝てず」、無理は利かなくなったものよ。

 

 堤防は軽快な自転車で疾走する人、ジョギング・ウォーキングそしてただなんとなく歩く人、そして先ほど触れたように、野草を刈る人などさまざまだ。

この時期に群生する「菜の花」は、堤防全面にあるのかと云えばそうでもない。あっちに一群がり、こっちにちょびっと、とまだら模様に芽を出している。多分「ノビル」も「ヨモギ」もそうなのだろう。

それらを摘んで春のご馳走としていただけるのがありがたい。

 

 春のご馳走と云えば「菜園」でも思いがけない贈り物がある。

冬枯れした畑地に取り残した「白菜」や「山東菜」、「小松菜」などが数株づつ残っていた。育ちそこないひねこびた株をそのままにしていたのだ。

3月の陽光を受け葉の間から茎が伸び花芽をつける。花が咲かないうちに摘み取って食べられるのだ。一つの株から次から次へと茎が伸びるので、葉物野菜を買わずにすむ。「春菊」も摘みのこしたものを寒さ除けカバーをかけておいたら生き残って、盛んに新芽を伸ばし始めた。

そんなこんなで春の陽光の贈り物が来月4月までつづきそうだ。

おまけに庭の甘夏の木には、100個ほどの実がたわわに稔り、それも食べごろとなった。近所にもお裾分けしたが、毎日食していても食い切れないほどだ。

 

 限りある年金生活のなか、大自然の恵みで豊かさを感じる3月を迎えている。

 


術後2年……

2022年02月25日 | Weblog

 

 一昨年2月に肺ガンの摘出手術をうけた。

抗がん剤投与・放射線治療の必要はなく、経過観察だけに留まり、2ヶ月に一回だったのが、3ヶ月そして4ヶ月に一度となり、今年に入ってからは6ヶ月に一回となった。

年に一回、市の「健康診査」を欠かさず受けていたので、「早期発見」が幸いし命を長らえられたのである。

若いころは粋がって「医者嫌い」を標榜し、いま思えば鼻持ちならない青臭い時期があった。それが終生つづいていたなら、とっくに命を終えていたにちがいない。

 

 わたしが40代半ばに、妻が看護師に復帰し病院勤務についた。妻はわらび座に入る前、現役の看護師だった。わらび座では「医療部」に在籍したことはあったが、わらび座生活後半には、人手を多く要する「営業部」へ配属。

わらび座を辞した後「昔取った杵柄」の看護職に復帰したのである。

妻が勤務する病院が、わたしの職場に近接していたので、わたしは妻の勤める病院に通うようになった。

当時のわたしは、「コレストロール値」が高く、薬剤治療を受けていたので定期的に通院していたのだ。

その折節に「胃」や「腸」の検査を勧められ、「念のためやってみようか…」と、胃と大腸の検査を受けた。

父は胃ガンで61才の若さで他界していたし、わらび座に在籍しているわたしより若いTさんが、大腸ガンで亡くなったという便りもあり、「検査」に前向きになったのだ。

苦しい思いをしての胃カメラ検査、胃は異常なかったが、「大腸にポリープがある。ポリープを放置するとガン化する」との見立て、一日の入院、内視鏡でポリープを切除してもらったのは、40代後半であっただろうか。

ポリープが出来やすい体質らしく、その後も2年に一回ほどの「大腸ファイバー」・内視鏡検査で、小さなポリープを数回切除している。

思い立って検査しなかったら、多分「大腸ガン」で「人生50年」を終えていただろう。

 

 医療の進化のおかげで、大腸ガンは未然に防げたし、肺ガンは無事摘出してもらえた。

いずれも「早期発見」のたまものである。

だが寄る年波だ、妻と高齢の二人暮らし、いつなにが起こるか分からない危惧はある。

わたしは母親から引き継いだのであろう「糖尿」の気があるほか、いくつかの内臓疾患をかかえている。

妻はわたしほどに内臓疾患はないが、過去に数度大きな手術を受けており、その後遺症なのか腰や足の不調がある。

足腰の痛みで出歩くことは少ないが、掃除・洗濯に精を出し、洗濯物を二階のベランダへ運ぶのに、スムーズにとはいかないが階段の昇り降りに不自由はない。

一方わたしは足腰の痛みはなく、病が進行しないよう一日一万歩を歩いて運動療法を欠かさない。雨風雪が吹き募ろうがなんとかやっている。

今年の2月は平年の気温を上回っているそうだが真冬である。雪が降り北風が強い日がしばしばあった。

そんななかで休まず歩きつづけるには訳がある。

「きょうは雨」あるいは「風が吹く」などを理由にやめてしまうと、やめる口実をいつも思いつき継続できなくおそれがあるのだ。

わたしは「タバコをやめたい」と、何年にもわたってやめる挑戦をした経験がある。「この一箱を吸い切ったらやめる」。そして箱が空になる。仲間が煙を吐いているとついつい意地汚く「一本ゆずってちょうだい、これでやめるから」と貰いタバコを繰りかえす。

「みんなに迷惑をかける」との口実で、「最後の一箱だぞ」と買う。買った一箱の一本を吸って、「これで終わり」との強い決意で、残りを水浸しにしたのは幾たびか。そしてまた「こんどこそ一本だけ」との口実で、またまた一箱購入、一本吸って「これでおさらば」と水浸しの刑に処す。

何度も繰りかえすうち「勿体ないことだ。水浸しにしなくても、必要としている人はいるだろう」。これも世のため人のためと、駅のベンチや公園の椅子に置き去りにすることを思いつく。

置き去りにするタイミングはこれでなかなか難しい。目ざとい親切な人が「もしもし忘れものですよ」と、声掛けしないように気をつけ、気苦労が多いのだ。

苦労せず気やすく置き去り出来たのは電話ボックスである。

しかし家に帰ってしばらくたつと「あのタバコはどうなっただろう」。おめおめと電話ボックスに出かけ、公園のベンチを訪ねる。「あった、あった」と勇んで一服したことは数知れない。

なにしろ「これ一本」、「あと一本」でやめる・やめられるとの口実で自分を納得させての所業は何年も繰り返されたのである。

 

 だからはげしい寒さの季節、口実は「打ち出の小槌」を振るようにさまざまに思いつく自分である。

そんな己を知る身であるから、一回でも口実を考えついて「一万歩ウォーキング」を休んだら、「打ち出の小槌」が大活躍するのが目に見えているのだ。

2年前の2月、手術当日と翌日の2日間をのぞいては、「一万歩ウォーキング」はつづいており、そのおかげであろう、今年2月の市の健康診査での数値は、血糖値は高めであるが、他は正常値に収まっている。

 

 

 

 


2022年を「コロナ」と共に迎える

2022年01月30日 | Weblog

 

 元旦は、週二回やっている新聞配達の日にあたり、早々と起き配達区域を一巡りするうち空が白んできた。

配り終え車を庭先に入れ、ふと仰ぐと南天のたわわな実が、新春の朝日をはじき返している。新年をよい天気のもとでむかえられた。

冷蔵庫を開け、生協が宅配した「おせち料理」を皿に盛りテーブルへ……いつもの朝食とは一味ちがう華やぎに彩られ、雑煮を添えての新年の宴がはじまる。

「数の子」や「栗きんとん」それに「ニシンの昆布巻き」などを味わい、「ことしも無事に過ごせるよう…」、年改まった朝に願う。

元旦のもう一つの楽しみは、束ねられて届いた年賀状を、一枚一枚はぐって目を通すことにある。

「明けましておめでとう」の一筆書きもあるが、ことしはやはり寅のデザインが多い。思い思いの意匠で新年を寿いでいる。

一枚めくる毎に、姿、人柄などを束の間だが思い起こしつつ次々にはぐっていく。

「賀状はこれを最後にします」との断りが数通、年々増えていくように思う。

 

 実はわたしたちも80才を越える折、「賀状をどうしよう…」と頭をしぼった。「年に一度のあいさつぐらいはしていこうよ」とつづけることにした。

ことしのわたしたちの賀状は、「誕生日を迎えると、照公83才・和枝82才となり、『共に白髪の生えるまで』の域に達しました。年を重ねても『悟り』に達するにはほど遠く、先ずは達者に過ごせています」との書き出しで90通余を差し出した。いっときは二人合わせて250通ほど出していたが、半分以下に減っている。

勤めを辞め儀礼的な賀状を止めたことが大きいのだが、しかしわたしたちが年を経るごとに相手も年を重ねるから、鬼籍に入る人も多くなる。

目の前に大きく聳えていた山が少しづつ崩れ、周りを見渡すといつの間にやら、わたしたちは「長老」の位置にいるのだ。

還暦・古希を過ぎるころまで、周りには人生の先達者が多く、「まだまだ若輩ものだから」と紛れているうちに、行く先々で最年長の座を占めるようになってしまった。

先達たちはまぶしくみえたものだが、わたしにはそんな光り輝くものはなく、平々凡々と暮らしている。

「世のため人のため」に微力をささげつつ、今年も身の丈に合った暮らしを送れるよう足腰を鍛えよう……。

 

 年金生活者の老齢夫婦の二人暮らしは、社会と途絶せずに過ごせていけているのはありがたいことだ。

だが社会的な繋がりを阻むのが、感染症の流行・拡大である。

妻が通う「ヨガの会」や「絵手紙教室」などはしばしば中止になる。わたしが関わる「知的障碍者の余暇支援」の会合や行事も欠けて久しい。

「不要不急の外出は控えよ」、「マスクをせよ」、「手をしっかり洗え」と云われつづけ2年にもなる。

202016日、「中国武漢で原因不明の肺炎が発生」との報道。またたく間に世界中に「新型コロナウィルス」が広がりはじめた。

2年経つ今年202216日、一日当たりの感染者が111人となり、「全国的に第6波に突入」と医師会長が警告。正月早々縁起でもない事態になる。

昨年20218月に「感染第5波」が到来、20日に25,992人が全国で感染した。ただこの山場を過ぎると8月末から減少に転じ1215日には174人になり、素人目では「やれやれ、もうじきマスクなしの生活に戻れる」と思っていた。

しかしウィルスが「オミクロン株」に置き換わったとの報道、またまた感染者が増えはじめ1231日には506人に、年を越し先ほど触れた16日に111人、翌7日には6,203人にまで急激に増えていく。

 

 わたしたちは勤めをリタイアしているから、医院の予約・食料品の買い物に出かけるくらいで「不要不急の外出」は控えることができる。

しかし出かけなければ仕事にならないのが世の大勢である。

息子の加藤木朗は、伝統芸能継承・表現者として世を渡っている。「三密を避ける」ということで、人が集まることが厳しく制限され、公演活動もままならないのがこの2年間であった。

1月中旬に関東・東北にかけてのツアーが組まれ、出動の準備でわが家に一泊した。急激な感染拡大により、ツアーの一部が中止・延期に追い込まれ、結局わが家で足止めになり連泊することになってしまった。

125日には、全国で65,579人の人が発病している。日々発病者が伸びつづけ「近いうちに10万人をこえるだろう」と専門家が云っているのだ。

おそれをなし苦渋した主催者が、ライブの中止・延期を選択する気持ちも分からなくはないが、事態の出口が見通せない。

わたしは80年余を生きてきて、2年にもわたる社会の閉塞をはじめて経験している。

かっての天然痘・コレラ・スペイン風邪などの流行は、こたびのように2年、3年と猛威をふるったのだろうか。

 

 3年目にはいった「コロナウィルス感染症」は世をさまざまに分断している。

この分断の世がなんとか収まるよう願う年の初めである。

 

 

 

 


八十路を過ぎたが師走はやはり忙しい

2021年12月30日 | Weblog

 

 12月も残りわずかになった。

八十路を過ぎパート勤めもなくなり、「忘年会」・「クリスマス」などとは無縁、遠出することは少なくなった。

でも122日(木)、「和力×びかむ」の饗宴が、東京「内幸町ホール」で催されるので、電車に乗っての遠出を久しぶりにした。

JR新橋駅から徒歩5分とチラシにあり、スマホで検索し会場を目指す。スマホは「4分、3分、2分、1分」と目的地が順調に近づくことを示すが、「1分」のところを過ぎると「4分」になってしまう。それでまた「4321分」と辿りなおして、1分の所で周りを見渡すが、高いビルが立ち並ぶばかりで「内幸町ホール」は見当たらない。3度ほど無駄足を重ねる。妻は杖を片手にすこししんどくなったようだ。

道を尋ねようにもビルばかりで途方にくれる。ようやく路面に面し空いている店があり「内幸町ホールはどの辺りですか」と尋ねる。男の人は即座に「内幸町はもう少し先ですよ」と指さす。「内幸町ホールなのですが」と念を押しても「内幸町に行ったらあるでしょう」とのすげない返事だ。

仕方ないのでまた辿りなおして、1分の所でちよいと方角を変えると、おしゃれな衣装屋さんがあった。その店の女性の方はわざわざ表に出て、わたしのスマホを手に取り「確かにこの辺ですね」といろいろ操作して確かめる。「もう少し先にいったあたりの感じですよ」というので、礼を言って30メートルほど進む。すると立て看板があり「内幸町ホール」と矢印があるではないか。

道を尋ねた男の人にせよ、女の人にせよ、ほんの身近にある区の施設である「内幸町ホール」を知らないとは驚く。地元の人ではなく遠くから通っているのであろう。駅と店との行き来だけで近所に何があるかは不明なのだ。たぶん地元の人たちはビルの高い高い所に住まわっているに違いない。

 

 わたしは10代後半に新橋でバイトをしたことがある。

駅前のパチンコ屋でサクラ稼業だ。「大当たり台」に一日中座って球を弾くのだ。だが不器用なわたしは、「大当たり台」なのに弾いても弾いても球が溜まらない。球がなくなりそうになるとパチンコ台の裏で店員がザザーと補給してくれたものだ。その頃はパチンコ台の裏で、人が球を補給していた時代だった。

その頃の新橋駅の周辺は、パチンコ屋とか飲み屋が雑然と立ち並ぶ猥雑な街で、いまみたいに高いビルが立ち並ぶツンとした所ではなかった。…と昔を思い起こす。

 

 ようやく「内幸町ホール」の立て看板に出くわしたが、またしても所在が分からない。仕方なしに目の前のビルに入り警備のおじさんに尋ねる。「ホールはこの入り口を出たところのエスカレーターで降りまっすぐ行く」と案内されようやくに目的地に着くことができた。

会場はたっぷりした座席が200席ほどあろうか、わたしの弟の雅義、姪の桜子さん、「東葛合唱団はるかぜ」郷土部のみなさんの姿も…年末の忙しい中での参加、ありがたく遠くの席へ眼差しであいさつを交わす。

 

 チラシには、<和力>による神楽の舞・大道芸・祭囃子と、<ぴかむ>の琵琶・尺八・筝がコラポレートし、芸術性と大衆性を兼備した新しい表現を生み出します…とある。

客席の明かりが落ち、和力お馴染みの「コマの芸」が始まり、つづいて木村俊介さんの篠笛が嫋々と会場を包み込み、獅子舞・だんじり囃子など和力の十八番。スケジュールが合わなかったのか小野越郎さんの津軽三味線が欠けたのが残念である。

ユニットびかむ(B come)のみなさんの演奏には初めて触れた。

坂田美子さん(琵琶・歌・語り)

坂田梁山さん(尺八)

稲葉美和さん(箏)のお三方だ。

わたしはテレビで視聴したことはあるが、琵琶を生で拝聴するのは初めてである。張りのある声で「耳なし芳一」や樋口一葉の「十三夜」など数段を語る。琵琶を奏でながらの弾き語りは、登場する人物を彷彿とさせる。落語・浪曲・義太夫などをふくめ、日本の語り文化の豊かさを改めて知る。

琵琶の弾き語りで思い出したのは、わたしの父のことだ。

父は薩摩琵琶だか筑前琵琶の免許皆伝であったそうな。直接その芸に触れることはなかったが、「詩吟」を伝授されたことはある。

父は多芸の人で家の修理なども玄人はだしの腕前でやってのけたが、その器用さはわたしは受け継げれなかった。

 

 師走の月初めに心洗われるライブに出会い、いろんなことを思い起こせもし、「今年もなんとか無事に乗り切れた」とありがたく思う。

この遠出の後はいつもの月にない忙しさに追われることになる。

11月の中旬ごろから「今年も市田柿をお願いしたい」との問い合わせ・注文が入りはじめる。

かって「和力公演」の際に、物販で朗が在住する南信州特産の「市田柿」を扱った。朗の友人の生産農家からの供給で、味は抜群、数量も豊富でファンが増えて毎年、扱うようになったのだ。

12月初めから30を超える個人や団体へ、数量を確かめ集計、生産農家へ発注する。

生産農家から出来上がり時期を確認、受け渡し日時や場所を電話で調整するのは一仕事なのだ。

20日には届いたのでそれを車で配り歩く、指定された場所で落ち合うなどして終わったのは25日になっていた。

この師走の忙しさは例年通りなのである。

 

 

 この一年は、昨年に引きつづく「コロナ」にふりまわされた。幸いにも感染することなく、また「老々介護」にも立ち至らず、年を重ねられそうである。

 

 

 


「わらび座」70周年、「和力」20周年の記念の年に

2021年11月30日 | Weblog

 

「わらび座」は、1951年メンバー3人で誕生、19539人で秋田県に定住、発展・拡大し現在に至り、ことし創立70年を迎えた。

それに遅れること50年、2001年「和力」が設立され、ことし20周年となった。

両者の規模は象とアリほどのちがいがあり似ても似つかぬようにみえる。なぜ並列するのか疑問にもなろう。だが両者の根っこはがっしりとつながっているのだ。

 

「和力」を主宰する、加藤木朗はわらび座で生まれ育った。

いまは知らないが、当時のわらび座での子育ては、乳・幼・学童(高校生まで)が全寮制、24時間保育・教育として行われていた。

わたしは営業部に転部した初任地の静岡県で、「男児誕生」の電報を受け、仕事を終え朗と会えたのは3ヶ月後のことである。

わらび座本部で残務整理・次の任地の仕込み、家族と過ごしたのは2週間ほどで、次の営業地・宮崎県へ4ヶ月ほどの旅に出た。

このようなことを繰り返し全国各地を転々とし、妻や息子に会うのは年に数回にとどまり妻も医療部から営業に転じたから、家族3人顔をそろえるのは更に少ない。

朗は「わらびっ子」として、保母・保父・教育係の分厚い支援のなかで育った。

 

 朗が2才の頃わたしが営業から帰ると、「日本舞踊」のお稽古する時間に行きあった。幼児は丸い輪になり「生保内節」を踊る。朗も輪の中で踊るのだが日本舞踊のたおやかさはない。幼児たちは腕を振り上げ、降り下ろし元気いっぱいだ。

朗が座を辞す17才まで、日本舞踊・花柳流の師範、鳥羽市子先生の薫陶を受け、身のこなしの基本を学ぶことができた。

ある時は、保育室の太鼓に向かって打ち興じ、別の機会には、舞台の稽古を熱心に見学する姿にも触れた。舞台の稽古を見終わった後、子どもたちは、「鬼剣舞」、「さんさ踊り」など、観てきたものを夢中になって真似るのだという。

全国の「神楽」や「笛:太鼓」が息づく空間で育つ子どもらは、「座の後継者を育てる」…座員の熱い願いもあって、幼い時から「伝統芸能」のシャワーをふんだんに浴びて育っていったのだ。

 

 近年の2年余にわたる「コロナ禍」をくぐり抜け、本来であれば「わらび座」は70周年を記念してのおめでたい年になるはずだった。

112日、東京在住のわらび座元座員のOさんから電話が入る。「わらび座が申請していた『民事再生法』の適用が今日認められたようだ」との言。

わたしはOさんの電話で、一瞬わらび座が「倒産」したと早合点した。「えっ」とあわてるわたしに、会社経営に熟達するOさんは「わらび座が雲散霧消するわけではない。仕事は今まで通りしながら再生をはかっていくと云うことだ」、再生法の中身を嚙み砕くように説明してくれた。

そこで一心地ついてインターネットで検索。地元紙・テレビニュースなどで報じられる中身に触れ、更に記者会見の様子などを見聞きする中で、わらび座本来の活動は欠けることなく持続していけることに一安心。

それらの報道を纏めてみると、2007年の売り上げは20億円あったが、2020年は5億円に留まったそうだ。

コロナのため、年間1,000ステージ25万人集客する公演活動は制約を受け、学校公演も先延ばしが相次ぎ、年間150校、15,000人の生徒を受け入れ、田植え・稲刈りなどの体験学習も、皆無となって収入は激減…14億円余の負債を抱えることになってしまったという。

座の苦難は今まで何度もある。2011年の「東日本大震災」もそうだった。

 

 震災後3年余り経った20141015日、「わらび劇場」で和力が出演する機会があった。「国民文化祭 秋田・2014」の一環として「千年の絆 海を越えて 台湾の舞い・日本の響」でわらび座と和力が共演したのだ。

妻と日帰りで参加した際のブログの一部を引用する。
……
「台湾の二団体の後に和力が登場。台湾の歌舞はほぼ20人が舞った。和力は3人で舞台を構成する。鶏舞、篠笛独奏、獅子舞、津軽三味線即興曲、合奏曲・忍者、だんじり囃子、東風とつづく。席の後ろのおばさんたちが、『あやー なんとはぁ いいもんだなす』とため息をついてくれる。次にわらび座の雪中田植、沖上げ音頭、ソーラン節、花笠音頭、飾山囃子が終章を盛り上げる。『わらび座は創立61年目で、わらび劇場が設立され40年になります』と司会者が云っていた。わらび劇場の建設募金集めに微力をつくしたわたしたちは、わらび座で生まれ育った朗が、わらび劇場の舞台を踏む機会を得たことを喜ぶ。(株)わらび座会長の小島さんとも話ができた。小島さんは「東日本大震災の後は、座も危急存亡の瀬戸際までいったが、いまはどうやら持ち直してきた」とおっしゃっていた。」……(201410『わらび劇場での和力公演』)より。

 

 2011年の「危機存亡」は切り抜けた。コロナ感染症は2年を経過しても終息がみえず余りにも長すぎる。

わたしが会員登録している「松戸演劇鑑賞会」でも、例会が中止・延期があり、わたしは上演に向けて稽古を積み上げた劇団の苦衷を偲ばざるを得なかった。

身近な「和力」も公演の延期・中止が相次ぎ、予定していた「20周年記念公演」を来年に延ばすことになる。

全国の劇団・歌劇団・オーケストラ・寄席芸人などが、逼塞せざるを得ない長いトンネルにはいってしまっている。

わらび座では昨年全国に呼びかけ、3月中旬から430日にかけて、なんと1億円以上の支援金が集まったという。70年にわたる歴史と信頼と期待の賜であろう。しかしそれ以降も感染症が収まらず、経済的に息切れしてしまったのだろう。

 

 数多ある劇団の中でわらび座は異彩を放っていた。

わらび座は、都からはるかに遠い東北の地に本拠をおくが、全国から年間数万の訪問者が来訪「地域おこし」・「地域雇用」にもやくだっている。

歴史をさかのぼれば、旺盛に活動を持続している五指に余る「歌舞劇団」の、設立あるいは人員の育成に身をそいできた。

更にはわらび座の胎内で育った後継者たちは、若きエネルギーで座を支えている。

朗の身の回りしか知らないが、朗・小野越郎は独自活動のはか、「和力」としての活動を展開、同じ年ごろでは、落語界では柳家小平太が真打ちとして、陶芸家の石井総君などがいる。

その他にもいるはずで、わらび座は世に文化の担い手を分厚く輩出しているのだ。

 

 わらびの根っこは太く深く地べたを這う。

むかし「飢饉」のときには、その根っこを堀り、人々の命を救った「ワラビ」、生きにくい世ではあるが、いまこそその本領を発揮しての再生を願うばかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わが家の習わし

2021年10月28日 | Weblog

 わが家はなんでも半分コづつで過ごしている。

昔っから、家事の分担はわたしが買い物と食事担当、妻は掃除・洗濯を受けもつ。

家計費も月々定まった金額を同額出し合い賄う。

かっての住宅ローン返済期でも、同じ金額を毎月分担しあって返済に充てたものだ。

庭の手入れにしても妻が花々の面倒を、わたしはもっぱら柿や夏柑・酢橘など実の成る樹木の世話をしている。

唯一半分コでないのは「貸農園」の耕作だけであろう。

 

 それぞれが得る給与や年金は、それぞれの管理だと云うと、家事の分担もふくめて驚く人は多い。

でもそうなるについては、わたしたち夫婦が経てきた歴史的背景があるのだ。

わたしたちは、秋田県に本拠をおく「わらび座」で知り合い結婚した。

いまは知らないが、当時のわらび座での給与は「現金支給」と呼ばれ、年令・男女・座歴を問わず一律同額であった。

わたしが入座(1963年)し初めての「現金支給」は、たしか3,000円であったと思う。当時のサラリーマンの平均月収は26,000円ほどだったから額としては少ない。

しかし、医療費・居住費・食費、それに子どもの養育費は小遣いも含め高校まで保障されていた。

落語の「寿限無」ではないが、「食う寝る所に住むところ」は座が負担、生活するには貧しいながら安泰であったのだ。

 

 わたしはわらび座に入る前、東京の新劇団に所属していた。

あまたある劇団に共通したのは、劇団員は劇団を維持するため、劇団活動以外で身を粉にして働いていたことだ。

わたしもビルの清掃、すぐにやめてしまったが喫茶店のボーイ、パチンコ店のサクラ、建設現場の作業員などを転々とし、生活費と「劇団維持費」を稼ぎ、最終的にバイトの主軸になったのは「筆耕」である。

当時はヤスリ版に油紙の原紙をのせ、鉄筆でガリガリと穴を空け印刷する「謄写印刷」が軽印刷の主流であった。

学校でのテスト用紙・学級通信など、印刷物のほとんどがこれであり、芝居の台本などもすべてガリ版で刷られいた。

わたしは「謄写学校」に通い、「ガリ切り」でなんとか現金を得られるようになり、男性の劇団員の多数がこれで稼いでいたものだ。

女性劇団員の多くは「バー」など接客業で収入を得る人が多かった。

生活費を稼ぎ、「劇団維持費」を収め、かつかつの暮らしで劇団に通っていたものだ。

会場を借り公演を打つとなると、出演料代わりにチケットが割り当てられ、その消化もたいへんな労力がいったのだ。

そんな経験があるから、バイトなしの公演活動だけで舞台と生活を成り立たせる「わらび座」にびっくりした。

 

「閑話休題」

最近知ったのだが、「役者稼業だけで暮らせるように」と、「劇団四季」を10名の若ものが立ち上げたのは1953年であるという。わらび座の誕生は1951年である。

今日において「宝塚歌劇団」をふくめ、この三者が年間公演回数が安定して多い「三羽烏」になっているそうだ。

 

 わたしが在籍していた当時のわらび座は、「地方巡業」が唯一の公演形態で、公演を成り立たせるために「普及部=営業部」員が、実行委員会を立ち上げるため全国に散って活動していた。

3ヶ月ほど任地に滞在し実行委員会を一人三ヶ所ほど組織し公演班を迎える。

わたしは演技者から普及部に、妻は保育所保母から医療部を経て普及部に転部した。

公演回数を安定的に確保しなければ、座の財政が成り立たないから、普及部=営業を担う人数は多数必要であった。

わたしたち夫婦が共に「普及部」で活動するようになってから、いま思えば過酷な家庭生活をおくる破目になる。

一つの県に5~8名が張りつき「○○県普及団」を構成する。それで小さい県で15ステージ、大きな県で20ステージ以上の公演を目指す。

夫婦であっても同じ「普及団」に所属するわけではない。わたしが九州、妻が東北で活動するなどはざらである。

だから会えるのは、世間が休暇に入る年末・年始かお盆、あるいは秋田の本拠での全員会議の折のみだった。

短い逢瀬、親子・夫婦が共にそろって生活する機会は、ほんとうに少なかったなぁ…と回顧する次第だ。

 

 こんな生活であったから、金銭の管理は自らやるし、自炊が身についた。

 

 いまの「半分コ」の生活は、その頃の習慣が生きつづけているだけなのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 


木村俊介コンサートへ

2021年09月30日 | Weblog

 

 923日、浦和市にて「木村俊介コンサート」が催された。

俊介さんがチラシを同封したお便りをくださり、妻ともども公演日を楽しみに待つ。

チラシのタイトルは「竹酔月の宴(ちくすいづきのうたげ)」、副タイトル「彼の岸を想い此の岸を行く」となっている。

満月のもとススキと曼珠沙華が咲き乱れる中、俊介さんが笛、越郎さんは三味線を奏で、朗が烏帽子姿で舞うチラシは、なにやら嫋々たる雰囲気を醸すデザインではある。

チラシ裏面は、「彼岸会、お月見、秋祭り、繰り返されてきた営みが、今ほど愛おしく感じられる時があったでしょうか。実りに感謝し、平穏を祈り、亡き人を偲んで、奏で舞われてきた芸能を基に、今の溢れる想いをのせてお届けします」とある。

 

「お彼岸の中日は、ご先祖がいる『彼岸』と、わたしたちが暮らす『此岸』の境が、いちばん近づく日だと言われています」、俊介さんが開演早々に述べられた。

「ああ、そうだった」…。即ちこの923日は彼岸の中日であり、チラシの絵柄、公演日、そしてタイトル・副タイトルは、ひとつにつながっているのだ。

わが家では春・秋のお彼岸に墓参を欠かさないが、今回は未だ果たしていない。気になりながら連日の暑さでなんとはなしに日延べしていた。

 

 この923日も暑さが厳しく、「ちゃんとたどり着けるかしら」と妻は弱気になる。あれほど舞台を楽しみに待っていたのに怖じ気ついたようだ。

「会場は浦和駅から徒歩7分だとチラシの地図にあるから大丈夫だよ」。

かって「元気者」でならした妻は、2年ほど前から足腰が不調になり、とくに最近では遠出となると「行き着けるか」と案じてしまう。

前回の遠出は5月であった。「立川志の輔独演会」が東京有楽町で催され「和力」がゲスト出演するので早々とチケットをゲット。

楽しみにしていたのに、前夜から「行けるかどうか」悩みはじめた。

わたしはインターネットで検索、「有楽町駅から徒歩2分とあるから大丈夫だ」と励まし出かけたのだ。

いざ歩きだせば杖を片手にしっかりした足どりになるのだが、出かけるまでがいつも不安にかられる。

 

 80才をこえた翁(おきな)と媼(おうな)の道行きだから時間はたっぷりとり、かなり早めに浦和駅に到着、ゆったり昼食をとった。

食事を済ませ直近の信号を渡ると、道端で地図をのぞきこみ方向を確かめる男ふたり、なんと弟の雅義とその友人である。

道行きは4人となり、しばらく行って目的の公演会場にたどり着く。エレベーターで5階へ上がると受付のスペースが目前だ。

そこにいたご婦人が「あら、お久ぶり…。暑い中ありがとうございます」と、迎えてくださる。

コロナ感染予防のマスク越しだったので気づかなかったが、俊介さんの奥方のようである。

なぜ「ようである」かというと、過去に何回もお会いしていたが、当時はいつも和服を召されていた。

だからジーパン姿での出会いは初めてであったのだ。

椅子の位置を直したり、換気用の窓の開け閉めなど、こまめに動きまわる傍らには二人のお子がいて、なにくれと手伝いをしている。

上は小学5年生の女子で下は小学1年生の男の子であるという。

お子の成長した姿に、月日の経つ速さを噛みしめる。

 

 会場はコロナ感染予防のため、椅子と椅子の間を広めにとり50席ほど用意されている。本来であれば倍以上の収容が可能であろうと思われる。

この「柏屋楽器フォーラムホール」は、ピアノなどの教室がたくさんあり、その一つひとつは防音壁で区切られているようだ。

ホールはそれら楽器の発表会を催す場になるのだろうから、小ぶりではあるが天井も高く、反射・残響音はなく、演奏会場としての機能がすぐれている。

 

 久しぶりに堪能する3人の舞台は、「コマの芸」から始まり、朗の語りで客席がどよめき和む。

笛の独奏・津軽三味線曲弾き・津軽三味線合奏、綾打ち・獅子舞、鳥舞など「和力」十八番の演目がながれる。

能・狂言800年、歌舞伎は300年の歴史を刻み、また文楽・落語は江戸時代に集大成され、これら伝統芸能は、それぞれに十八番がある。

「和力」は結成20年の若輩ながら、多くの十八番を持つことができたのは。民衆が何百年と受けつぐ、芸能のエッセンスを会得できたからにちがいない。

安定した一つひとつの演目を楽しみながら、わたしは福島の「じゃんがら念仏踊り」がひとしお心に残つた。

「じゃんがら念仏踊り」は、新盆をむかえた家々を訪れ、その庭前で舞われる供養の舞である。兎の毛を撥にまき、身をかがめあるいは伸び、下腹部につるした太鼓を打ちならしながら唱和し舞う。

わたしがわらび座に所属していた20代の折、福島県いわき市の公会堂で公演があった。わらび座の公演が終わり観客が去った後、主宰者の肝いりだったか地元の青年会の面々の「じゃんがら念仏踊り」が披露されその場に居合わせたのだ。

そしてわらび座の演目とし、わたしも舞ったことがあるなつかしい芸能である。

和力の舞台でも何回となく取り上げられてきた。

今回の舞台では、朗の「地力塾」に学ぶ女性二人の鉦の舞が新たに加わり、先祖を祀る奥深い雰囲気が深まったように思う。

 

 わたしがさらに感銘を受けたのは、これら数々の演目が進む中での俊介さんの挨拶にある。

「わたしたちは、技能を保つため日々の修練を怠りません。しかしお客さんを迎えての緊張関係がなければ、技能は落ちてしまいます。コロナ禍の中、お出でいただき感謝いたします」……。木村俊介さんは思わず言葉を途切らせた。

コロナ禍のなか、創造・表現者は長い期間、逼塞を余儀なくされていた。その思いが募り久方ぶりの舞台で胸が詰まってしまったのであろう。

また、出演者紹介の折には、チラシ裏面に掲載している「10代から舞台への夢を語り合って来た加藤木朗さん。その加藤木さん主宰の『和力』 で出会い、数々の海外ツァーを共にした小野越郎さん。盟友二人を久々に迎え、初演演目を用意し、満を持しての公演です。お見逃しなく。」……を、更に詳しく語られていた。

 

 一期一会、人との出会いの妙、3人が築いていく芸の極みを、多くの方々が見守り楽しみにしている拍手の中、俊介さん作曲の名曲「東風」で「木村俊介コンサート」の幕は閉じられた。

 

 

 


憧れの「晴耕雨読」…

2021年08月30日 | Weblog

 

 世にいう「晴耕雨読」の生活にはほど遠いが、わたしは一昨年80才になりパート勤めを退いて、それに近い暮らしぶりになった。

だが世俗を離れ悠々自適に…とはならない。雨が降ろうが晴れようが、長年培った世俗はついてまわってくる。

80才を期し町会役員は下りたが、「世のため人のため」に尽力する人たちの、片棒の端っこにぶら下がっているから、いろいろな用事が入り、雨の日であっても読書三昧とはいかず、晴れても野面に出れるとはかぎらないのだ。

それでも家から歩いて5分ほどの「貸農園」に通えるから、気分的には「晴耕雨読」を味わえてはいる。

 

 わたしが物心ついたころは「尺貫法」の時代であったので、未だもって面積をあらわす「アール・ヘクタール」の概念がつかめない。

長さの「メートル」、重さの「キログラム」は、日常生活でしょっちゅう出会い、これはいつの間にか身についた。

わたしが貸農園で借りているのは。「15㎥」が一区画と掲示板にある。これを読み解くことができない。

目分量で「8畳間くらいだろう」と判断している。

この8畳間くらい一区画が年間10,000円で、それを二区画借りたのが70才のとき、12年前だ。

わたしが町会役員をやっていた際、会長だったIさんが耕地を「市民農園」として貸し出した。

このあたりの農家は、春先は蕪(かぶ)、夏は枝豆を収穫している。

Iさんは腰を痛め、たぶん後継者もいないのだろう、100区画強の縄張りをして耕作者を募集した。

わたしはすぐさま応募し、抽選の結果二区画を借りたのが70才の折であったのだ。

 

「野菜は買った方が安くつくのではないか」と、耕作者同士でちょいと話になる。

肥料・石灰を施し畝を立て、種を買い、苗を購入し輪作にならないよう狭い耕作地に目を配る。

こんな手間を考えれば、なるほど「買った方が安い」に決まっているのかも知れない。

しかし種を撒き水やりをし、ほんのり土の中から芽がのぞき、それが頼りなげにひょろりと伸び始め、茎が太くなり花を咲かせ実をつける、

育てる作物の顔色を見て、餌と水を与え日ごとの成長に一喜一憂し、その一生につきあう。

そして成長の稔りをたっぷりと頂くことになる。

ジャガイモは2月中旬に種イモ1㌔を二畝に植えつけ、5月になって12㌔収穫した。

玉ネギは昨年9月に種まきし、5月に200個ほど採れ、ジャガイモ・玉ネギともわが家の常備菜として8月いっぱい賄えた。

トマトもキュウリもオクラもナスも豊作、トウモロコシも採り立てに舌鼓をうつ。

だから安いの高いのと云っていられない育てる喜びがあるのだ。

 

 見慣れたお馴染みさんが見えなくなることもある。

耕作者はおおむね仕事をリタイアしたおじさん、おばさんが多いから「体力がつづかなくなった」、「入院する」など引退する人もけっこう頻繁だ。

空いた耕地はすぐさまふさがり、新手の人が現れるから、耕地が空くのを待つ人たちも多いのだろう。

新たな耕作人はなんで情報を得るのか、立ち居振る舞いが堂々として「口をはさまないで頂戴ね」とすこし威張った感じの人が多い。

耕作者の半数以上はおばさんたちであるが、「根切り虫が出たから注意しなよ」、「そらそらカタツムリが若葉を食べ苗を枯らすから取ってあげる」など仲がよい。

会社づとめでどんな役職を経たか知らないが、男性はおおむね態度がでかいのはなぜだろう。

 

 さて「晴耕雨読」も夏のカンカン照りの下では「晴読雨読」に陥らざるを得ない。

幸いな事に暑さ厳しい8月は、春に耕し植えたトマト・ナス・キュウリ・インゲン・大葉・トウモロコシ・獅子唐・ピーマン・オクラなどが次々に稔る時期となる。

日がかげる夕方に摘み取りに行くことにすれば、陽射しを避けることができ、採るだけであまり畑地の面倒を見なくてもよいのは幸いだ。

しかしこの時期は雑草の繫茂がはげしく。多分雑草取りに精出さなくてはならないのだろう。

わが畑は二面とも、カボチャと冬瓜の蔓が地べたを覆い尽くし、雑草がはびこりジャングル状態になっている。

ジャングルを掻き分け、8月末日にカボチャ・冬瓜を収穫した。

カボチャ・冬瓜は春先、畝に埋め込んだ堆肥から自然に芽生えてくるのだ。

堆肥は家で出る残飯と米ぬかと庭の落ち葉を大きなポリバケツで混ぜあわせ、半年ほど発酵させたものを使う。

カボチャと冬瓜の種は、その中に混じり生き延び、種が毎年稔りをもたらしてくれる。

 

 畑を覆っているカボチャ・冬瓜の蔓と葉と雑草、採り尽くしたトマトとインゲンそして大葉・オクラの茎と葉などは9月に入ってから引き抜こう。

そして秋野菜の畝立てをする際、土を深く掘り下げそれらを埋め込み肥料とする。いわゆる「緑肥」として活用するのだ。

本来であれば、発酵させてから使うのが常道であろうが、膨大な雑草群であるので、手っ取り早く埋め込んでしまう。

 

 これらの作業は陽射しの弱くなる、9月に回すことにしよう。

9月になればいくらか「晴耕雨読」の日々が訪れるかも知れない。


コロナワクチンを接種した

2021年07月31日 | Weblog

 

 新型コロナウィルスが世に跋扈(ばっこ)し、1年半がとっくに過ぎてしまった。

 手洗い・うがい・マスクの着用・不要不急の外出を避けろ…と口を酸っぱくして云われ、いまもって周りを気遣う自粛生活がつづいている。

 道行く人のほとんどがマスク姿だ。

 このくそ暑いさなか、都会とはちがい行き交う人などまばらなのに、みんなマスクをしている。

 わたしは買い物で店に入る瞬間にマスクを着用するが、道行く間は外して歩く。

 なぜならわたしは「鼻炎」の気があるらしく、家から外に出、外光を浴びると鼻がムズムズしだす。

 かっては寒い時期だけの症状だったが、今では年がら年中になってしまった。

 ウォーキングの途中、汗をぬぐう度にポケットティッシュで鼻をぬぐわなくてはならない。

 畑ではティッシュ箱を持ち込む。ポケットティッシュでは間に合わないのだ。多分、イネ科の植物に過剰に反応するのだろう。

 畑仕事でもすべての人がマスクで顔を覆っている。

 わたしはマスクをしない。していては思うように鼻をぬぐえず、仕事がはかどらないのだ。

 マスクをしないのは、やむをえぬ処置なのであって決して異端を気取っているのではない。

 

 仕事をリタイアした時期がコロナ禍でなくてよかったとつくづく思っている。

 満員電車で小さなクシャミをしたり、鼻水を拭ったりしたら、あらぬ疑いをもたれたに違いない。

 だが仕事をリタイアしたといえども、世の交わりは多々ある。

 10年余りつとめた町会役員は退いたが、世のため人のため……身を挺する人たちに付き従い、微力をつくしている。

 会合に出、みんなで手分けしてやらねばならないことがでてくる。

「家から出るな」と云われても用事は待ってくれないのだ。

 

 「ワクチン接種」を早く受けたいと願っていた。

 わたしたち高齢者には「接種券」が5月末だったか6月初めに届いたと思う。

 市内の公共施設や学校を会場にした接種予約が始まったが、申し込みが殺到、「一日中電話をかけつづけたがつながらない」などニュースをかざる。

 わたしは騒ぎが収まってから申し込めばいいや…と腹をくくってしばし静観。

 しばらくしたら、妻がお世話になっているケアマネジャーさんが「予約できましたか」と電話をくれた。

 「いいや未だ」と答えると「代わって申し込んでみますね」と奔走してくれたがなかなかとれない。

 二週間ほど経ち、わたしが受診しているかかりつけ医の受診日がきた。

 この診療所で簡単に予約ができ、二週間後の712日、妻と共に一回目の接種を終えた。

 二回目の接種予約は三週間後の82日となった。

 

 一回目の接種を終えた日は、東京に第4回目の「緊急事態宣言」が発せられた日だった。

 わたしの住む千葉県は、「蔓延防止」地区に指定されているが、それは全県にではなく東京に隣接する11市が対象だ。

 わたしが居住する松戸市は人口50万にちかく、目の前の江戸川をこえれば東京である。

 松戸市での感染者は「蔓延防止」指定地区のなかでも有数の多さで増えつづける。

 

 一回目の接種ができたものの、ワクチンは2回やってこそ効果があらわれると云われている。

 ひとたび接種したら欲がでた、「早く早く」と次を望む気持ちがつよまる。

 

 接種して10日経った23日に東京オリンピックが開催された。

 コロナ禍のなか、一方で「自粛」を求めながら、他方で国を挙げての「お祭り騒ぎ」をやるのかなど、賛否両論ある中での実施である。

 案の定7月末までの間、全国的に感染者がずんずんふえていく。

 「救える命が救えない」事態になりそうだと専門家が警鐘をならす。

 「救える命が救えない」とは、コロナウィルス感染者だけでなく、他の疾病にも当てはまるそうだ。

 外出を手控えることによる受診の遅れで疾病が見逃され、持病が悪化しても入院できない、また手術の制限などがあるという。

 「危うかったなぁ…」とわたしはふり返る。

 わたしは昨年2月に肺がん摘出手術をうけた。前年の10月からさまざまな検査をていねいに受け、万全な構えで処置を受けられた。

 これが一年遅かったら…。

 気づかずに過ごす、普段の普通の日常の営みが、いかに大切であったかを思い知る。

 

 731日には、東京でのコロナ感染者が急拡大し、4058人過去最多の数だという。

 千葉県では792人、これまた過去最多を記録し、松戸市は県内5番目に多い53名を数える。

 

 第二回目の接種予約の82日が待ち遠しい日々を過ごしている。