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妻が逝ってしまった

2023年04月07日 | Weblog

{妻が面倒見ていた、いつの間にか芽吹いてきた)

 妻・和枝が詠った詩がある。(19666月、ある青年誌の読者文芸欄に掲載)

 

    おかあさんありがとう    秋田 境 和枝

       二つみつっの小さいときは お湯が目に入らんように

       ゆっくり目おさえて髪あらってくれた

       

       五つのとき 熱出して ねていたら

       仕事からかえった母さんが

       かわいそうに かわってあげられたらね

       とひたいに手をあててのぞきこんだ

 

       小学二年の時

       父ちゃんは熊本に仕事に行った

       母ちゃんのもとに 小一小二小四の子どもが残った

       なれない畑の草取りをしても 働いても働いても 

          ボロボロの麦ごはん

       もらった衣類しかなかった

       勉強すること 三人仲よく助けあうこと

       いつも子どもに教えて 母ちゃんはだまって働いた

       母ちゃんにおこられたことはない

 

       どんな苦しい時でも

       母ちゃんは こびへつらいは断固としてしなかった

       私たちでも 不思議な程に 体にしみた体臭のように

       けっぺきさから一歩も出なかった

 

       ひとのわる口は一度もいわなかった  

       うわさを流すことも絶対にしなかった

 

       熊本から秋田まで 三十二時間

       おまけにすごい吹雪で十時間もおくれて

       結婚式に 来てくれた

       こうして母ちゃんのねいきをきいていると 

                  切ないほどのどかだ

 

       母の愛をいつも全面的に受けて育った私

       いつも母ちゃんに反ぱつした わがままだったなー

       もっということよくきいて やさしくしてあげればよかった

       貧乏で潔ぺき

       母ちゃんによく似ていると云われ乍ら 育った私は

       未来をかちとる闘いの隊列に加わった

       そして闘いの中で愛情をたしかめあって 

       まさちゃんと結婚します

 

       母ちゃん ほんとうにありがとう

       母ちゃんのそばに ずっといたい気がしないでもないけど

       私はみんなと手を取り合っていきます

 

 

「あんたには過ぎたる嫁さんだよ」…何人かの先輩に冷やかされ、生活を共にして56年になる。

母親譲りの潔癖さとやさしさ、そして白髪まで似て来ていた。

わたしが外出から帰ると、「ただいま」をいう前に、「お帰り」の大きな声、いたわりとねぎらいの声かけがいつもあった。

その声がとうとう聞けなくなってしまった。

 

 発病して6ヶ月余、入院して2ヶ月と2日で力尽きたのだ。

家のあちこち、庭のあちこち、道路のあちこち、行くところ踏みしめる所、どこにも妻の痕跡がある。

車の助手席にもいない。寝床の隣にもいない。食卓の椅子にもいない。

仏壇の上の遺影がにこやかに笑いかけているだけだ。

こんなはずではなかった、帰って来てほしかった。たとえ車いす生活になったにせよ、もっといっしょにいたかったのに。

 

 2023328日朝543分に旅立ってしまった。享年82才。死因 老衰。  遠因 癒着性腸閉塞。

41日、コロナ禍のもとでもあり、息子夫妻と4人の孫、在京の家族と地域の友人たちとだけ、40名ほどで見送lった。

ある新聞の訃報欄の経歴に、「元荒川生協病院労働組合委員長」と記されている。

 

 

 

姉上からの弔電  桜が舞い散る4月、いいお天気です。さようなら。

         寂しくなりました。さようなら。   熊本より貞子

 

弟君からの供句  <子どもの頃の思い出より>

         囲炉裏火や 家族囲みて ふかし芋

         麦踏や 草履小さく 寒波吹く

         <学校卒業後久しぶりに学校を訪ねました>

         校舎跡 森林暗く 猪ぞ跳ぶ      大阪より健亮

 

看護学校時代の4人の友人からの供花に添えられた言葉と供句

 加藤木和枝さん聞こえますか。こんなに早くお別れするなんて思ってもなく、本当に残念です。

「今度、会いに行こうね」と4にんで話し合っていたのに……。間に合いませんでしたね。返す返すも残念でただただ悲しくてなりません。

皆、40才を過ぎてからの3年間の勉学、正看護師を目指して、5人で励ましあって乗り切りましたね。一番年上だったあなたの頑張る姿には、ずい分励まされました。

ありがとうございました。

あなたの大好きだったお花を4人で相談してお供えすることに決めました。

お花に囲まれて安らかにお眠りください。

 

   お別れの 言葉交わさず 君は逝く 頑張りぬいた 人生残して(つむぎ)

 

 

 よききょうだい、たくましく育つ子や孫、よき友に恵まれ、楽しく明るく 一途な人生を全うした。

 

 


悔しきはコロナでの「面会禁止」

2023年03月07日 | Weblog

 

 妻・加藤木和枝が入院して6週間になろうとしている。

ときどき足りなくなった品々を看護師さんから電話がきて、それを届けに何回か病院は訪れた。

その品物の受け渡しはエレベーターホールで行われ、病室には行かれない。「コロナ禍で面会を禁止する」と方々に張り紙がしてある。だから入院以来、妻には一目も会えていないのだ。

 

「庭の梅の蕾が膨らんできたよ。サラもウリも(猫の名前)帰ってくるのを待っているよ」と、先日は手紙を添えた。そして「なにか必要なものがあれば、書いて投函してもらうといい」と、わが家の住所と私の名を宛先にして書いたハガキを数枚、看護師さんに託した。

その返事はまだない。筆まめな妻なのにどうしたことだろう。

携帯は病室では掛けられないだろうと家に置いてある。

 

 

 妻はほぼ30年前の19941月に大腸ガン手術のため、都内にある「東大病院」に入院した。

 

 その頃を思い出すと面会は、時間の制約はあったが堂々と病室まで行けたものだ。

わたしは仕事の合間に職場のバイクを借り、汚れものを受け取り、洗濯物を届けに職場の休み時間、あるいは休日ひんぱんに病院通いをして、同室の方と少しばかりおしゃべり、妻の顔色、立ち居振る舞いなどを行くたんびにみることができた。

数週間にわたる放射線治療、患部を放射線でたたき小さくしてから、ガン細胞を切除した。

記憶は定かでないが、二ヶ月ほどの入院生活であっただろうか。

退院に際して主治医が抗がん剤の服用に触れたら、妻はそれを即座に断った。お医者さんは「医療従事者のあなたがそう言うなら」と無理強いはしなかった。

 

 わたしはお医者さんの「云う通りにならない」、妻の意志の強さにびっくりした。

幸いなことに再発せず無事に今までで30年ほどが経つ。

今回の「腸閉塞」での入院は、どうもこのときの大手術に関りがあるようだ。

放射線で患部を叩いたから、その近辺が剝がれそのせいか血尿がしばしば起こり、病院に駆けつけたことが何度かある。

そういうトラブルはなくったが、4年ほど前から腰から足にかけての痛みで杖は手放せなくなっていた。

それまでは78才まで、都内のディサービスに週に二回、看護師として電車通勤していたのだ。

 

 30年前の大手術の影響が、知らず知らずのうちに進行していたとしか思えない。

今回の病は10月初めの食欲不振から始まった。

病院を変え「腸閉塞」との診断が下されたのが1月の26日、病いの特定までほぼ4ヶ月の期間を要してしまったたのだ。

この4ヶ月は食が進まず、「あ、今日は食べれたな」と喜んでいると、嘔吐に見舞われてしまう。

今は、だから全身に栄養がいきわたらず、手術ができない状態なのである。

早くに特定されていれば手術は可能であったろうに…。

その無念さで、わたしは一日中もだえている。「俺が早く病院をかえていたら」と悔やんでいるのだ。

 

 わたしが過ごしているのは、妻と共に築いた場である。

テーブルの向こうにはいつもいた、いっしょにテレビを見、掃除・洗濯、庭の手入れ、猫の世話、この家のそこここに妻の痕跡があるのだ。

この空間に当然居るべき女主人がみえないことほど寂しい辛いことはない。

 

 どんな気持ちでベットに横たわっっているのだろう、

わたしは妻がいなくなった家で、茶碗を洗ったり、猫砂を掃除したり、寝間で本を読んだり、洗濯ものをベランダで干したりする空間に、肝心かなめの彼女がいないことで茫然自失、あまり眠れない日々を過ごしている。

本人に面会できて顔をみ、少しでもいい話ができれば、どんなに心安らぐであろう。

 

 今日は気温が高く4月並みの陽気だという。

ふと思いついて、今日は白封筒に宛先病院・宛名加藤木和枝と書いて、一通したため投函した。

面会できないなら、これからも手紙を書きつづけていこうと、少しばかり気がはれる心地になっている。

 

 


妻の入院

2023年02月05日 | Weblog

(妻が臥せっていた福祉ベットで日を浴びるサラ)

 

 202325日、妻・加藤木和枝が入院して11日が経つ。

 入院ができ、病変の特定それに基づき治療方針がしめされたので、予断は許されないが光明がみえてきた。

 これまでの闇が永かった。

 

 昨年の10月初め、嘔吐したので近くの医院で診察。医師は腹周りを擦って「整腸剤」3日分を処方。

この際、妻が以前には定期的に通院し、貧血だかで偶に輸血していたが、最近は行っていないなぁ…と思い出し、T総合病院の「血液内科」に向かう。

血液検査の結果、貧血はさほどでもないが「炎症値」が高く抗生剤を処方された。2週間おいた診察日には「炎症値」はやや下がったものの未だ高水準。

以後、抗生剤をとっかえひっかえ試すが効果はでない。

 

 この間、食欲不振がつづく。

 

 上部消化管(食道から小腸・十二指腸)までのCT検査は異常なく、つづく胃カメラでも異常はないという。

まわされた消化器内科のドクターも「整腸剤」の処方でお茶を濁すのみである。

 

 9月末に40㌔だった体重が、10月に1㌔、11月に1㌔減り、新年明けての体重測定では、ひと月間で6㌔も減少したとディサービスからの連絡、あわてて翌日に受診。

6㌔も減ったから、即入院と告げられるかと思ったが、点滴と消化剤の処方で帰された。

 

 入院が不能なら「在宅医療」を受けようと、ケアマネジャーと相談。

「訪問看護」と「在宅医療」のドクターがきまり、福祉用ベットも設置されて、118日に在宅での1回目の診察、以後毎日の点滴が始まった。

 

 相も変わらず食事はすすまない。ヤクルト一本は飲むが・ヨーグルトはほんのひと口、固形物は受け付けない。ドラッグストアで「総合栄養液」を購入してなんとか飲ませる。

 

 123日、夜半に吐き、明け方にも吐く。固形物は食していないので、胃液しか出ていないようだ。

点滴に来た訪問看護の看護師さんが、腹周りが堅そうだと診立て、在宅医療のドクターが緊急に来てくれた。

「腸捻転のおそれ」…救急搬送でT総合病院へ。ここでの結果は「腸捻転はない」。下剤を処方だけで帰された。

 翌25日(水)は「在宅医療」の二回目の定期診療だ。

ドクターが「原因不明の病気を診る『総合診療科』が市立病院にある。紹介状を書くから行くとよい」と、後刻持ってきてくれた。

 

 翌26日、朝8時半に家を出て「松戸市立総合医療センター」へ向かう。予約なしだから待ち時間はそうとうかかる。

妻は待合室の長椅子に横たわったりして過ごす。

諸検査の結果、「内科としての所見は、『腸管閉塞』と判断した。内科としてできるのはここまで。消化器外科に引き継ぎます」。

消化器外科では、「選択肢は二つある。管を腸内に入れて老廃物を吸い取ること、もう一つは手術だ」という。即座に手術をお願いした。

「それでは7時に手術を開始しましょう」となり、さまざまの書類に署名をする。

病名は「術後腸閉塞」とあった。

妻は19941月に大腸ガンの摘出手術を受けている。その後遺症として腸管が癒着してしまったようなのだ。

 

 癒着した部分を引きはがす手術は予定されたが、それは延期になった。

なんとなれば、3ヶ月余にわたってほとんど食事をしていない。癒着を引きはがすには腸などが脆弱になっている。

先ずは栄養の補給などをはからなければならない。

 

 入院が決まり、本日で11日目になる。

原因も分かり治療方針もたてられ、医療スタッフに見守られながら妻は過ごせるようになった。

ここに行き着くまで、ケアマネジャー・在宅医療のドクター・訪問看護のみなさんの多大なお力添えがあり、感謝しても感謝しきれない。。

 

 病室には立ち入れないのでその後の様子は知れないが、栄養液の投与などで体力は回復しているだろうことを願って、長い一日を過ごしている。

 

 

 

 

 

 

 


4回目の高齢者講習に

2022年11月30日 | Weblog

 

 わたしはことしの春83才となった。

11月初め運転免許更新の通知がきた。来年5月までに「高齢者講習」を受けるようにとの案内である。なんと期限切れの6ヶ月も前から受講できるのだ。

 

 75才を過ぎると「高齢者講習」が義務化され、認知機能検査・実技試験に合格すると3年間免許が延長となる。わたしは今までに3回ほど受けている。

 

 運転実技はほぼ毎日乗っているうえ、無事故無違反の「ゴールド免許」だからなんの心配もない。

問題は「認知機能」試験にある。「今日は何年・何月・何日ですか」、「今はほぼ何時ですか」との設問には自信があり、それはいつも満点だ。

心配なのは、16枚の絵を次々に提示し記憶させる設問である。

例えば「ライオン」の絵を提示し「これはライオンです。ライオンは動物です」。そして「ライオン 動物」と唱和させる。「耳  身体の一部」、「テントウムシ 昆虫」…など16問、後で「動物はなんですか、身体の一部とは…」を答えるのだ。

今までは無事クリアしたが、その点数が前回低下した。そのとき思ったのは「次回うけるときには、かなり集中しなければ」という緊張感であった。

 

 そんな緊張感をもってまで免許にこだわらず、返納したらよかろう、もう年なのだからとおおかたの人は言うだろう。

ニュースなどでも高齢者の交通事故がひんぱんに取り上げられ、肩身の狭いことこの上ない。

「高齢者ははやいとこ免許を返納すべし」との声が高まるにつれ、わたしの天邪鬼な気持ちは反発を強める。

「何を言うか、ひとそれぞれだろうが」との思いが噴きあがるのだ。

 

 わたしは30代前半で免許を獲得、わらび座在籍時代は大阪・和歌山・宮崎・鹿児島などを仕事で巡った。

わらび座を辞し、サラリーマンになってからは都内各地に配送しまくる。退職後は80才まで都内のディサービスの送迎の仕事に従事、すべて事故はなく乗り切ったのだ。

体力的には2年前「肺ガン」が発覚、医師には「体力的に十分耐えられるから」と即座の摘出手術を勧められ、術後2年の今も毎日一万歩ウォーキングを欠かさない、畑づくりもしている。

 

 免許延長にこだわるのは、運転実績や体力の裏打ちがあることに加えて、やはり日常生活で必要なのだ。

わたしの住む地域は、都市近郊で交通網は発達している方だ。電車に乗れば都心に20分ほど、バスの便もある。

しかし居住地内での移動はかなり困難を極めるのだ。

例えば妻の病院通いがある。行くにはバスで駅へ、電車に乗り換えて目的地に…。車だと15分もあれば行き着くのに、交通機関だと行き帰りで半日仕事になってしまう。

妻のヨガ教室、絵手紙教室の会場も、バス、電車、バスに乗り換え一時間もかかろうか。車だと10分の距離なのに。

 

 そのうえわたしは週に二回、新聞配達をしている。ボランティアに等しい活動なのだがこの地域に根づいて40年以上やっている。

つい先だってまでは、250㏄のバイクで走りまわっていたのだが、バイクは処分してしまった。

自転車で回るのはさすがにきついので車で回っているのだ。

 

 そんなこんなで、もうしばらくは免許を手放せない。

無事免許を取得できるか、122日がその試練の日である。後2日先のことになった。

 

 


高校時代の友人と会う

2022年10月31日 | Weblog

 

 10月某日、小雨そぼ降る中を駅に向かう。

一週間ほど前、「次の木曜日、都合つくか」と友人のMから電話があった。

いつものメンバーで久しぶりに一杯やろうじゃないか…との誘いである。年に数回は会う仲間たちだ。

定時制高校の同級生である。卒業して65年ほど経つ。長い長い付き合いだ。

 

 高校生の頃には、夏休みになると山登り、キャンプにいそしんだものだ。男性5人に女性5人の気の合ったグループで、「夜灯虫」(やとうちゅう)と名づけて、大学ノートに好き勝手なことを書いて回していた。

このグループは、40人ほどいた同級生の中で、勉学に抜きんでたり、気障を売り物にするグループとは一味ちがうものだった。

向上心がほどほどにあり、成績にはあまり拘らず、さりとて学業に置いてけぼりを食うわけでもない。

M君は生徒会長、わたしは「定高協」(定時制高校連絡協議会)役員に立候補し、その任を果たしたこともある。

 

 この生徒会選挙でわたしがぶった演説が、後に大騒ぎになる。

「最近、マンボズボンやらが流行っている。これをはいて喜んでいる輩がいるが、おかしな事だ。そんなにはきたいなら、いっそのことお百姓さんが身に着けている、『股引』でもはけばよい」…。(マンボズボン=裾が狭まった細ーい仕立て)。

役員選挙の中身に関係ないこの演説は、気障を気取るグループの機嫌を損じた。

下級生が「加藤木さん、ちょっと顔をかして」と教室に呼びに来て、階段上の暗がりに行くと待ち構えていた数人が、「この野郎」とわたしをボコボコにしたのだ。

上級生にボコボコにされたのはこれで2回目となる。

定時制に移ったのは、高校12学期からであった。都心の都立高に合格したが経済的に逼迫して1学期しか通わなかった。

この全日製高校では「新聞部」に所属した。コラム欄でわたしが書いた文章が上級生を怒らせた。

「校舎屋上で南蛮渡来のタバコとやらを吸って粋がっている輩がいるとの風評がある。吸っては白い煙を吐きだす。なにが面白いのだろう。忍術使いの児雷也が大きなガマ蛙の上に乗って印を結ぶと、ガマは白い煙を吐き出し姿を覆い隠す。いくら粋がってもそれには負けるではないか」。

このコラムは匿名であったから、だれが書いたか分からないはずだ。ところが敵は新聞部長を締め上げたにちがいない。わたしを屋上に呼び出しボコボコにした。

それが原因で退学したのではないのだが、2度も同じ目にあったのだ。

 

 ただこのボコボコ事件、わたしは学校に訴えることはしなかった。

ただ2回目のことは、クラスの友人たちの知るところとなり、HRで大騒ぎになった。

わたしは教員室に呼び出されて、ボコボコは「誰にやられたか」問いただされたが、「暗くて分からない」と…。

名前を明かさなかったことに恩義を感じたのだろう、親しくなりはしなかったが、以後何事もなかった。

 

 授業を抜け出して近所を散策、柿をもぎって食したりもした。

近くに早稲田大学があり、その当時は街に溶け込んだ学園として塀などはなく、誰でもいつでも学内に入れたものだ。

われわれは大隅公の銅像前の池に向かい、鯉を生け捕りにしようと努力した覚えもある。

 

 Mは卒業後、地元の区役所に勤め堅実な生活を送る。がしかしどこかおかしなところがあり、酒をしたたかに吞んで家に帰りついたはいいが、バス停の標識をゴロゴロ曳づって玄関先でそれを枕に寝入って、家族を途方にくれさせる…いまであれば「公務員の悪行」と新聞種になりそうなことを仕出かしたりもした。

彼は新婚旅行先の一つに「わらび座」を選んでくれ、あまりおもてなしは出来なかったが奥さんともども秋田の風景を楽しんでもらった。

 

 それから幾星霜、Mにはいろいろお世話になった。

福祉分野一途に勤め上げた彼は、定年後 区内の労働組合・団体が「運営委員会」に結集する「障がい者福祉事業所」の所長に迎えられる。

バーベキュー大会、総会パーティーなどのときには、わたしに「ソーラン節」などを躍らせみなさんの馴染みになるよう計らってくれた。

おかげで「運営委員会」などで、わたしの息子が主宰する「和力」のアピールもでき、公演では労働組合・団体の協力を大いに受け、「和力」ファンを拡大できた。

 

 長い長い付き合い、Mは杖を頼りに、Wは奥さんに付き添われて待ち合わせ場に現れる。

一杯吞んでの話題はもっぱら体調の報告会である。

かっての悪戯っ子の面影はもはやないが、人生を全うに生き切った安堵はお互いにあるのだが、この先どれほど会える機会があるのだろうか。

 

 帰りには雨が上がり、歩道の片隅に溜まる水面に外灯の光が揺らめいていた。

 


妻の厄災

2022年09月30日 | Weblog

 

 妻の左親指の根元に、小さなシコリが出来たのは9月の初めであった。

「あれれ、なんだコレ」…翌日になると腫れが広がり痛みを伴う。ディサービスにお世話になる日だったので、病院へは行かずにディへの迎えの車へ乗り込んだ。

 

 ディサービスでは、転倒したのでないかと心配し、「病院の診察を早くうけるように」と連絡帳に記入してきた。

もちろん病院へは行くつもりだったが、土・日にひっかかり月曜日に行く。この二日の間に腫れが広がっており車で病院へ急ぐ。

予約なしなのでかなり待されるだろう。「診察が終わったら連絡するように…すぐに迎えに来るから」と、わたしは家にとって帰す。

どの病院へも送迎だけ、妻は看護師なので医療に素人のわたしは、診察に同席することは今までしていない。

菜園で鍬をふるっていたら妻の携帯からの着信音。案外早く済んだなと、携帯に耳を当てると、「病院の看護師ですが、診察に立ち会ってください。これからレントゲン撮影がありそのあとに診察となりますので」とのこと。

 

 鍬を放り出し病院へと急ぐ。

待合室には妻は居らず、看護師さんに尋ねる。「GT検査に行っていますので少しお待ちください」とのことだ。

やがて妻が戻り診察室へ。お医者さんは「改めて窺います。発症したのはいつですか」…。これでわたしが診察に同席を求められた委細が分かった。

最初の診察で妻の答えがしどろもどろだったのだろう。妻は2年ほど前から、直近の記憶があやふやになってきている。

お医者さんの問診にとまどったので、わたしが同席を促されたにちがいない。

撮影された画像をみながら、「加齢によって骨の老化が進んでいる。原因は特定できないが」と、ギブスで手首を固定し「一週間後にきてください。その折にはあなたも同席するように」と、念を押された。

 

 一週間後に病院を訪れる。

その結果をディサービスの連絡帳に記したのが下記の文章だ。

「妻がいつもお世話になりありがとうございます。通院して一週間が経った96日(月)、松戸整形外科病院にて『偽痛風である』と診断されました。痛み・腫れは引いており、包帯・ギブスを外し、ふつうの日常生活OKとなりました。暑さが激しくなると発症する、水分を多めに摂るように、それもお茶などではなく、真水がよいとの指導です。ご心配・お手数をおかけしました」。

この件に関しては「一件落着」と相成った。

 

 わたしは83才、妻は82才になる。向こう三軒両隣では突出した高齢世帯であるが、幸いなことに二人とも日常生活に支障はない。

「老々介護」になっていないのはありがたいが、このところ「ヤバサ」を感じることが多い。

今回の「偽痛風」もそうだが、妻の足腰の痛みは日常のことになり杖は必需品だ。その杖をよく忘れてくる。心当たりを探して巡りまわったのは幾たびぞ。

とうとう行方不明になって今は2代目の杖である。

 

 妻は明朗闊達、人への優しさに満ちた頑張り屋である。

40代でわらび座を辞し元の看護職に服したが、「医療の進歩にわたしの経験が追いついていない」と、10倍余の難関を制して看護学校にはいり直した。

その受験勉強の真剣さには圧倒されたものだ。3年間の学生生活をパート勤めをしながら凌いだ。

「ケアマネジャー」制度が発足すると、猛勉強を開始し「ケアマネ」第一回目の試験に合格。

パソコンも携帯など最新機器に挑戦したのも妻であり、わたしは後塵を拝して追随する身であった。いわばわが家の知的大黒柱であるのだ。

 

 加齢のせいで節々が痛み、「今日は何日だっけ」…同じことを何回も聞き返してくる。

しかし月のはじめの週は「ヨガ」、中頃には「絵手紙」、終盤は「女性の会合」に小まめに出かけている。

老いたりとはいえ、進取の気概はいきつづけ、仲間の出会いを大切にしている。

 

 ヤバサはこれからもひんぱんに出てくるだろう。

なんとかそれを一つひとつ受け入れ、焦ることなく乗り越えていかなくてはならないのだ。

 

 


猛暑の8月に

2022年08月31日 | Weblog

 

 8月は、先の「戦さ」がさまざまな視点で取り上げられる月だ。今年は戦さが終わって77年となる。

わたしは終戦時、「国民学校1年生」であった。1945年8月、疎開していた新潟県の山村で戦さの終わりをむかえたが、「戦さが終わった」との記憶はない。

 

 夏休みが終わり、2学期が始まる。

授業は、硯(すずり)で墨を摺る事から始まった。それを筆にたっぷり含ませ、教科書を黒く塗りつぶす作業が夏休み明け最初の授業であった。真夏の太陽が差し込む教室でやったのを鮮明に思い出す。

音楽の教科書には、飛行機や軍艦や戦車など、色鮮やかに描かれていた。それらを先生の指示で塗りつぶしていく。

「カッコいいのを、黒く塗りたくるのはいやだなぁ」と…でも先生の云う通りに黒く塗っていった。

 

 国語の教科書は、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まり、これまた色鮮やに桜の花びらが描かれていた。

国語教科書は、黒塗り作業ではなく没収され、新たに紙質が粗く色彩が一切ない教科書が配られる。冒頭は「ワタシガ アルケバ オツキサマ モ アルク」だったように思う。

 

 教科書の黒塗りや没収がなぜやられるのか、国民学校1年生の2学期をむかえたわたしは分からず、「絶対の存在である」先生の云う通りにやっていた。

 

 校庭は掘り返され、学年ごとの区画にサツマイモやカボチャを1学期に植えつけ、2学期の秋口に収穫したサツマイモを食べた記憶も残っている。

 

 山深い山村だから、「敵機襲来警報」などはなく、戦時下であってもしごくのどかな日々を過ごしていた。

そういう中でも「小国民」として、やらなければならない作業はあった。

「落穂拾い」などに駆り出され、「お国のために無駄にはできない」と、組を作り刈り取りが終わった田んぼを巡って「落穂」を拾いあるく。

終了時には横一列に整列、上級生が「拾い足りない」と、平手でピンタを張る。拾い集めた数量に関係なく、全員を平手打ちにするのだ。まさに「軍隊」の真似事そのものであった。

戦時下であるのはそんな事で分かってはいた。

 

 わたしは学齢期前に母の実家がある新潟に「縁故疎開」したのである。母の兄が出征しており、祖母が留守を守る家にお世話になった。

 

 わたしが生まれ育ったのは、東京下町の向島だった。父は腕の良い理髪店の主で、何人かの弟子を抱えていたという。

戦火がすすんで父は徴用工となり理髪店を閉じ。鉄工場で働くようになった。

それに伴い向島から、大河川の荒川を越え郊外の「お花茶屋」へ引っ越した。

 

 ますます戦火が迫るようになったのだろう。父は東京に居残り、母とわたし、妹の3人が母の実家に移った。

1945310日、「東京大空襲」の夜間空襲では一夜のうちに10万人の生命が奪われた。生まれ在所の向島は跡形もなく焼き尽くされたのだ。疎開していなければ、その惨状の真っただ中にいたにちがいない。

 

 父や母の弟が一年に一回ほどであろうか、東京からやってくる。

その話の端々で、焼夷弾に焼かれた黒こげ遺体が道路にあふれていた、などを訪ねて来た村の人に語っているのを聞く。

ある晩、村人の一人が「日本刀」を携えてやってきた。父は「本土決戦になったらこれで身を守れる」と、鞘をぬきはなった刀身に見入ってつぶやく姿を思い起こす。

 

 疎開生活で戦火は直接受けなかったが、この戦争でわたしの弟が犠牲になった。

新潟で生まれよちよち歩きまで育った「誠」である。

狭い庭を這いずりまわり、活発な弟だった。ある朝ごはんのときだった。わたし、妹そして誠は、いろりを囲んで座っていた。いろりにはみそ汁が煮えたぎっていた。母はごはんの用意で忙しい。

誠が前のめりにいろりに落ちた。熱湯を浴び泣き叫ぶ。その瞬間もわたしの目に焼き付いている。

母は、10㌔ほどもある町まで誠を負ぶい、何日か通ったが幼い命ははかなくなった。

 

 8月はこの弟の命日でもある。

先の戦さがなければ、弟の命が奪われることは、なかっただろう。

戦さは戦地、被災地で多くの命を奪っただけではない。

 

 8月のお盆では、祖母の色変わりした写真、父母と誠の位牌に明かりを灯し、迎え火をたいて迎え、そして送る。

他の月にはなく、いろいろと思うこと多いのが、8月なのである。

 

 

 

 


忍び寄る老い

2022年07月15日 | Weblog

 

 日常の生活で、わたしは年令を意識することはあまりない。

役所などで届け出するときなど、「年令欄」があると戸惑うことがよくある。「70代」とか「80代」とかの大枠は承知しているが端数がすぐ出てこない。年毎に端数は増えていくので、改まって問われるとまごつくのだ。

 

「認知機能テスト」に、「今日は何月、何日ですか」と問うのがある。高齢者の運転免許更新時にはきまって出される。

サラリーマン時代には、25日が「給料支払い日」であったから、「あと何日で給料がはいる」と、日にちには敏感であった。

しかしパート勤めになると、「月曜と金曜」など曜日での出勤となり、日にちへのこだわりが薄くなる。

 

 80才を越えパート勤めがなくなると、生活の場では「火・木・土が燃やせるゴミ、水曜が資源ゴミ」、スーパーの卵安売りは「火曜と土曜日」など、曜日によっての生活リズムが基本になっていく。

月々の集まりの一つは「第三日曜」で、もう一つは「第一月曜」、週に二回やっている新聞配達は、金曜と日曜である。また通院している病院の予約も曜日で指定される。

唯一の例外は「年金の振り込み日」で、これは偶数月の15日だ。

 

 だから高齢者に「今日は何月、何日ですか」と問うのは、実態に合っているのだろうか、酷ではないかとわたしは思う。

 

 それはさておき、年令を気にせず日々を過ごせていることはありがたい。

年令を気にしないと云っても、実際には年を経るごとに持病が増え、服用する薬が多彩になってきている。

また、つい先だって保育園の傍を通ると、園児が「おじいちゃん、こんにちわ」と、小さな手をふる。わたしは「おじいちゃん」はどこにいるのか、周りを見渡したが誰もいない。

「おじいちゃん」とは、紛れもなくわたしなのだ。これには少しばかりのショックを覚えた。

自分では「年を気にしていない」と力んでも、身体も、外見も年老いてきているのだ。

 

 そして老いを認識する事件はついに発生した。歩行中に二度も転倒したのである。

わたしは持病を悪化させないため、一万歩ウォーキングを長年つづけている。

会社勤めのときは、家から直近の駅からは乗車せず、一つ先の駅へと向かう。歩道橋や8階建てのビルの階段などをねらい、アップダウンがきついコースをとり、一時間ほど歩いてから電車に乗ったものだ。

退職後もウォーキングは続け20年以上のキャリアを誇る。歩行中の転倒など一度もない。

思い出すと転倒したことは、昔々に一度だけあった。

息子の朗が小学生の頃の運動会のときだ。「父母参加の100メートル走」に参加した。

わたしは、中学時代に陸上部に所属し、そこそこに活躍していたプライドにかられ、「負けてなるものか」と疾走。

ゴールに走りこんだが足がもつれて転倒、腕と膝に大きな擦り傷を負い、応急処置を受けた。

ゴールに入ったら少しづつ速度を落とし、ゆっくり止まれば、転倒などすることはないのに、ゴールに入ったとたんに止まろうとして足がもつれたのである。走るのから遠ざかっていたから、感覚が鈍りケガを誘発したのだ。

 

 一ヶ月ほど前の転倒はそんな道理や理屈などはなく突然の出来事であった。

アスファルトのなんの変哲もない平面の道路をいつも通りにウォーキングしていた。右足につっかえたような感触があったと同時につんのめり、右ひじ、右ひざ、左オデコを地べたに激突、思わず前後左右を見わたした。

「このような無様な恰好をみられたくない」と一瞬おもったのである。それぞれの部位から血が滲み、近くの公園の水道で洗い流して家路についた。

後でその現場を確かめると、親指の先ほどの小さな窪みのようなものがあり、多分これに足を取られたのだろうと推測、なんでもない小さな穴ぼこなのだ。

 

 転倒は一度ならず再び襲来した。傷口が完全に治った後だから一ヶ月も経った頃である。

午前中のウォーキング、炎天下3,000歩を超える距離になり、タオルで汗を拭きふき歩む。。

車の通る歩道がない幹線道路だ。行く手左方では、なにやら工事をしている。何の工事だろう…見ながら行き過ぎようとした途端につんのめる。今度はおでこは打たなかったが、右上腕部と右もも下に裂傷、近くのスーパーの手洗い場で、滲んだ手足の汚れを洗う。

この転倒現場は道路が交差する十字路で、わたしが歩く側は用水路が平行に流れ、橋部分の小さな突起が突き出していた。これは一目瞭然たるもので、ふだんこれに引っかかることなどあり得ない。

しかしわたしは引っかかって、つんのめり擦り傷を負ったのである。

 

 かってのわたしであれば、つんのめったにしても、体勢を整え持ちこたえたにちがいない。

つんのめって腹ばいになること二回。

老いは忍び寄っているのだなぁ…と、治りかけのカサブタをみながら、つくづくと83才のわが身を思う昨今ではある。

 

 


菜園歴10年に…

2022年06月30日 | Weblog

 

 今年の「関東甲信越」の梅雨明けは、平年より22日も早く、627日に宣言された。

梅雨入りは66日であったから、一ヶ月半ほどかかるのに3週間で明け、「史上最速」なのだそうだ。

それにまたこの梅雨期間、わたしが住む地域は「空梅雨」で雨がほとんど降らなかった。

例年の半分ほどの雨量だという。

 

 わたしは2012年、近所に開設された「市民農園」へ申し込み、10年にわたって野菜づくりをしている。

8畳間ほどの区画を2面借りての耕作だから、「野菜づくり」など云うのは、ちょっと大げさかもしれない。

しかし農薬を使わず、家で出る野菜くずと米ヌカそして雑草を混ぜ合わせ「堆肥」をつくり、化成肥料は控えめに、連作を避け、季節ごとのみずみずしい野菜を採るのはあんがいと難しいのだ。

 

 一つは種を「撒く」時期の難しさがある。

白菜と玉ネギは9月下旬に種を撒く。とくに白菜はタイミングを外すと、育つには育つが葉が巻かない。

また絹サヤ・スナップエンドウは、早く蒔きすぎると、伸びすぎて霜にやられ溶ろけてしまう。寒さが迫る10月末に種蒔きし、小さく芽吹いたままで冬を越させる。

わたしは両方ともに「撒どき」を誤り失敗した経験がある。

 

 次に連作を防ぐことに気を遣う。

一つの区画で5つしか畝を立てられない。2面借りているから合計10畝だ。

畝ごとに春にはなにを育て、秋にはなにを植えつけたかを記録しておく。

ナス・トマト・ジャガイモ・ピーマン・唐辛子などは、「ナス科」だからこれらを植えた畝は2年か3年は、ナス科以外のものを植えなければ「連作障害」をひきおこす。

絹サヤ・スナップエンドウ(マメ科)などは、4年から5年も空けなければならない。

大根(アブラナ科)、玉ネギ(ユリ科)などは1年以上、トウモロコシ(イネ科)は連作可能と、植物の種類によってその空かせ時間は異なる。

この5月には、昨年9月に種撒きした玉ネギを200玉ほど収穫した。周りのベテランたちも玉ネギに挑戦しているが、収穫前に黒ずんだり溶けたりして失敗する例が多くなっている。うっかり同じ科目の野菜を植えつけてしまい「連作障害」を引き起こしてしまったのではなかろうか…とわたしは思う。

 

 過保護にしないで丈夫な個体をつくる。

わたしは種撒きした後あるいは植えつけた後は水やりを欠かさないが、きちんと根付いたとみれば、天の配材に任せてあまり水やりはしない。

周辺の農家を見ても畑地への水やりを見かけることはないからだ。

わたしの素人考えだが、育ち盛りの苗は水分が少なければ、水を求めて根をグングン深く張り巡らせていくのではなかろうか。

100区画余りある菜園では、多くのおじさん・おばさんが立ち働く。育てる作物可愛さに水やりを生きがいのように絶やさぬ人が多い。

菜園に一つしかない水道の前はいつも混みあっている。

わたしは「そんなにしなくてもいい…」、「少しストレスがある方が…」との立場であった。

 

 しかしこの「立場」は、今年通用しなかった。

空梅雨と梅雨の明ける速さで、あやうく一畝の作物をダメにしそうになったのだ。

隣の畑のおじさんから、「鷹の爪」の苗を10本ほどいただいた。

一畝に均等に植えつけ、3日ほどはたっぷり水を与え、「これで根付くだろう、梅雨の季節だから後は天に任せよう」と水やりを終えたのだ。

しかし一向に雨は降らず、記録的な猛暑だともいう。気象情報で雲の動きをみて、「明日は一雨きそうだ」とか「夕立ちが…」と期待するもすべて空振りだった。

そのうち植えつけたうちの3本ほど、元気がなくなってくる。あわてて水やりをしたが手遅れで枯れてしまう。

残る7本はなんとか生き延びたようだが、可哀そうなことをしてしまった。

 

 例年なら適度に雨が降り、苗たちもすくすく成長しただろうに、この6月は記録的な少雨・猛暑で、地べたは乾ききってしまったのだろう。

 

 ゴールデンウイーク時に植えつけたトマト、種から育てたナス・キュウリ・トウモロコシ・オクラは、まずは順調に育っているから、これらは地中深く根を張り水分補給しているにちがいないと、素人考えながら推測している。

 

 10年間、二面の菜園を切り盛りしてきたが、試行錯誤をくり返しているが、採れたての味わいは抜群だと自賛しながらこれからも励んでいこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わらび座・はるかぜコンサート・俳優座小劇場

2022年05月30日 | Weblog

 

 519日(木)1030分開演、わらび座ミュージカル「いつだって青空」を有楽町のオルタナティブシアターで観た。

「キッタカサッサー」の威勢のいい掛け声、若さ溢れる5人の女性が「秋田音頭」を舞い踊る幕開けである。のっけから元気に明るく時代を切り拓いていく息吹に充ちている。

男性演技者2人を加えて総勢7人、カーテンコールで「18日、19日の昼夜4回ご覧いただいたわらび座の東京公演は、3年ぶりになります」。

そうか「3年ぶりだったのか」。そういえば3年前に北千住駅前の劇場で公演を観て以来になるのだ。

終演後、当時劇団社長だった山川龍巳さんが見送りに出ていて、「来年、座は70周年を迎える。いろいろ企画するので協力をよろしく」と挨拶された。わたしがわらび座在籍当時、山川さんは営業部で若手の同僚だった。

しかし感染症「コロナ」が社会を席捲し、人々は家に逼塞せざるを得なくなり、この状態がほぼ3年に及ぶ。

年間1,000ステージを誇っていたわらび座の公演は激減し、3年もの長い期間、東京公演を打てなかったのだ。

 

 今回のわらび座公演を知ったのは、1週間ほど前である。

元わらび座員で会社経営をしているOさんから電話、「久しぶりにわらび座が東京公演をするので、協力してほしいとTさんが来た。Tさんは相変わらず元気はつらつだが、杖が手放せないらしい。しかしすごいよね。80才をこえて杖をつきながらでも現場をとびまわっている。チケットを何枚か引き受けた。行けるならわたしが招待する」、ありがたい言葉に便乗し妻と連れ立って会場に向ったのだ。

会場ロビーにはTさんが昔にかわらない迫力ある体躯で迎えてくれた。

Tさんと会うのは何年ぶりになるだろう。わたしが45才でわらび座を離れて以来だからざっと38年になる。

Tさんとは、わらび座の営業部で苦楽を共にした。わたしの妻とおない年であり82才になるだろう。妻もTさんも杖を片手に久方ぶりの会う瀬を懐かしんだ。

 

 522日(日)は、「東葛合唱団はるかぜ」の第15回コンサートだった。

2年毎にコンサートを開催しており、いつの頃からかわたしは表方の責任者を仰せつかっている。

今年わたしは83才になるので、30名を超える表方要員を束ねるのは「どうだろう」との危惧をもった。

しかし「昔取った杵柄」とばかり今回も出張ることになり、なんとかやりこなす。

わたしは合唱団員ではないが、創立当時からの因縁がある。

「東葛合唱団はるかぜ」が創設された半年後、「郷土部」を立ち上げるお手伝いをしたのだ。

チラシやプログラムの「郷土部」紹介の項に、「団創立と同時に、元わらび座・加藤木照公さんに指導を受け、始まりました」とある。

「指導を受け…」との文言は面映ゆいかぎりだ。基礎の基礎、わたしがわらび座時代に見よう見まねで身に着けたものをお伝えしたにすぎない。

太鼓のリズムのきざみ方から始まり、「西馬音内の寄せ囃子」などを打ち込む。団創立当時、太鼓はないから、古タイヤにむかってバチを振るったから、バチは真黒になったっけ。

踊りは「ソーラン節」から始まって、究極は「さんさ踊り」(岩手)まで行き着いた。

わたしは10年ほどで身を引いたが、現在の部員がほぼ30名、33年間にわたり活動が永続していることに、いくらかお役に立ったかも知れないなぁ…と八十路の翁は思う。

チラシには、指揮・演出・ピアノの諸先生方に並んで、加藤木 朗が「郷土部指導」と列記され、郷土部紹介の項に「和力の加藤木朗さんには毎回、コンサートの演出を依頼しています」とある。

折に触れ、郷土部は朗を招いてくれ、作品の手直しや演出の役割を与えてくれているのだ。

今回のコンサートにあたっては、「コロナ禍では、練習会場が確保できず、しばらく休みましたが、やっと再開でき仲間と息を合わせる喜びを噛みしめています」とあった。

 529日(日)は、「松戸演劇鑑賞会」の第185回例会があった。

俳優座小劇場による「罠」である。スピーディーな舞台運びを堪能した。

演劇鑑賞会は、コロナ禍以前には800名をこえる会員数であったが、この3年間に退会者が続出、いまでは500名を切るまでに減少してしまっている。

 

 こうしてみると、わたしが5月に関わった、「わらび座」・「はるかぜコンサート」・「演劇鑑賞会」例会、すべてがコロナの影響を大きく受けているのだ。

わらび座は、公演数・来訪者数の激減によって、「民事再生法」を申請して再建団体になり、郷土部は練習会場の確保が難しく、しばしの休会を余儀なくされたというし、演劇鑑賞会は、会員数が激減してしまった。

 

 元通りの日常を回復するには、まだまだ日時を要するにちがいない。

この困難が「昔語り」になることを願うばかりである。