{妻が面倒見ていた、いつの間にか芽吹いてきた)
妻・和枝が詠った詩がある。(1966,6月、ある青年誌の読者文芸欄に掲載)
おかあさんありがとう 秋田 境 和枝
二つみつっの小さいときは お湯が目に入らんように
ゆっくり目おさえて髪あらってくれた
五つのとき 熱出して ねていたら
仕事からかえった母さんが
かわいそうに かわってあげられたらね
とひたいに手をあててのぞきこんだ
小学二年の時
父ちゃんは熊本に仕事に行った
母ちゃんのもとに 小一小二小四の子どもが残った
なれない畑の草取りをしても 働いても働いても
ボロボロの麦ごはん
もらった衣類しかなかった
勉強すること 三人仲よく助けあうこと
いつも子どもに教えて 母ちゃんはだまって働いた
母ちゃんにおこられたことはない
どんな苦しい時でも
母ちゃんは こびへつらいは断固としてしなかった
私たちでも 不思議な程に 体にしみた体臭のように
けっぺきさから一歩も出なかった
ひとのわる口は一度もいわなかった
うわさを流すことも絶対にしなかった
熊本から秋田まで 三十二時間
おまけにすごい吹雪で十時間もおくれて
結婚式に 来てくれた
こうして母ちゃんのねいきをきいていると
切ないほどのどかだ
母の愛をいつも全面的に受けて育った私
いつも母ちゃんに反ぱつした わがままだったなー
もっということよくきいて やさしくしてあげればよかった
貧乏で潔ぺき
母ちゃんによく似ていると云われ乍ら 育った私は
未来をかちとる闘いの隊列に加わった
そして闘いの中で愛情をたしかめあって
まさちゃんと結婚します
母ちゃん ほんとうにありがとう
母ちゃんのそばに ずっといたい気がしないでもないけど
私はみんなと手を取り合っていきます
「あんたには過ぎたる嫁さんだよ」…何人かの先輩に冷やかされ、生活を共にして56年になる。
母親譲りの潔癖さとやさしさ、そして白髪まで似て来ていた。
わたしが外出から帰ると、「ただいま」をいう前に、「お帰り」の大きな声、いたわりとねぎらいの声かけがいつもあった。
その声がとうとう聞けなくなってしまった。
発病して6ヶ月余、入院して2ヶ月と2日で力尽きたのだ。
家のあちこち、庭のあちこち、道路のあちこち、行くところ踏みしめる所、どこにも妻の痕跡がある。
車の助手席にもいない。寝床の隣にもいない。食卓の椅子にもいない。
仏壇の上の遺影がにこやかに笑いかけているだけだ。
こんなはずではなかった、帰って来てほしかった。たとえ車いす生活になったにせよ、もっといっしょにいたかったのに。
2023年3月28日朝5時43分に旅立ってしまった。享年82才。死因 老衰。 遠因 癒着性腸閉塞。
4月1日、コロナ禍のもとでもあり、息子夫妻と4人の孫、在京の家族と地域の友人たちとだけ、40名ほどで見送lった。
ある新聞の訃報欄の経歴に、「元荒川生協病院労働組合委員長」と記されている。
姉上からの弔電 桜が舞い散る4月、いいお天気です。さようなら。
寂しくなりました。さようなら。 熊本より貞子
弟君からの供句 <子どもの頃の思い出より>
囲炉裏火や 家族囲みて ふかし芋
麦踏や 草履小さく 寒波吹く
<学校卒業後久しぶりに学校を訪ねました>
校舎跡 森林暗く 猪ぞ跳ぶ 大阪より健亮
看護学校時代の4人の友人からの供花に添えられた言葉と供句
加藤木和枝さん聞こえますか。こんなに早くお別れするなんて思ってもなく、本当に残念です。
「今度、会いに行こうね」と4にんで話し合っていたのに……。間に合いませんでしたね。返す返すも残念でただただ悲しくてなりません。
皆、40才を過ぎてからの3年間の勉学、正看護師を目指して、5人で励ましあって乗り切りましたね。一番年上だったあなたの頑張る姿には、ずい分励まされました。
ありがとうございました。
あなたの大好きだったお花を4人で相談してお供えすることに決めました。
お花に囲まれて安らかにお眠りください。
お別れの 言葉交わさず 君は逝く 頑張りぬいた 人生残して(つむぎ)
よききょうだい、たくましく育つ子や孫、よき友に恵まれ、楽しく明るく 一途な人生を全うした。