goo blog サービス終了のお知らせ 

2013年 金沢・名古屋公演

2013年12月31日 | Weblog

金沢打ち上げ会で磊也 


 12月14日(土)は「金沢市民芸術村ドラマ工房」にて和力公演、20日(金)には「名古屋市中村文化小劇場」で今福優、内藤哲郎、加藤木朗を軸にした「凸拍子」公演があった。
両公演に妻と参加した。


越後湯沢駅ホーム

 金沢へ向かう4日ほどまえから、「日本海側は大雪のおそれ」とニュースや気象情報で連日報道されていた。大雪で列車が止まったらと心配になり、出発を早めて午前8時台の上越新幹線で「越後湯沢」へ向かう。
関東地方は透きとおった青空であったが、高崎を過ぎていくつかのトンネルをくぐったら雪のちらつく地帯にはいり、「越後湯沢駅」では一面の雪景色であった。
そこから特急列車で2時間ほど乗って金沢駅に着いたが、金沢では雪は降っていなかったが大粒な雨が降っていた。
開演前には雷も鳴ったりして荒れた天候になった。


開演前の会場内

 ステージも客席も手づくりだから、実行委員の方々の苦労がしのばれる、あたたかい空間で舞台が始まった。
演目第一部が、こまの芸、綾打ち、横笛独奏、獅子舞,津軽じょんから節即興曲、合奏曲「忍者」、鶏舞。
15分の休憩をはさんで第二部は、だんじり囃子、「音舞語り 干支継ぎ」となる。
第一部は、歌舞伎でいえば「十八番・おはこ」といえる和力の手練れ演目だ。
音舞語り「干支(えと)継ぎ」は、金沢公演に向けて創作された新作であった。今年の干支の巳(み)が「1年だけでは物足りない。来年もおいらが干支を引き継ぐ」と駄々をこね、八岐大蛇(やまたのおろち)が大騒ぎをする。治まらないのは来年の干支を引き継ぐ午(うま)である。
午の親類筋であろうか「獅子踊り」(岩手)がササラを背負い舞台いっぱい踊り、馬頭頭巾をつけた「えんぶり踊り」(青森県八戸)、「荒馬踊り」(津軽)など馬に因んだ芸能が舞台で次々に舞われる。
そしてめでたく午年に引き継ぐという演目であった。お客さんたちは楽しく大笑いしていた。


名古屋開場前の受付周辺

 名古屋の「凸拍子」公演は、休憩なしで次の演目が並んだ。
火伏せ舞い、大地の詩、だんじり囃子、石見神楽、魂音、こまの芸、屋台囃子、登山囃子、日本海幻想。
今福優さん、内藤哲郎さん、加藤木朗の三人三様の芸が新鮮だった。そしてそれぞれの芸が安定してみる方々も楽しんでおられた。

 わたしは両日の公演をとおして、磊也が新しい演目を身につけていっているのを嬉しく見た。
金沢での「干支継ぎ」では、「獅子踊り」を一頭仕立てで舞い、名古屋では、「屋台囃子」の大太鼓を立て打ちで披露、そして「登山囃子」においては、大きな御幣を掲げての行進を朗と共にやっていた。


開場を待つ方々

 精進して一芸を身に染み込ませた先達の方々、それに混ぜていただいて幸せな青春を送っていることに祖父として感謝する年末の公演であった。

「こもれびホール」での和力公演

2013年11月16日 | Weblog
 

 前回のブログでは、「こもれびホール」での観客席のようすを、名古屋市在住KさんのFBより転載させていただいた。Kさんは「和力」の公演があると、北海道であれ、九州であれ遠近を問わず、職場の都合をつけて駈けつけてくださっている方なのだ。また「ザ・タイガース」の大ファンで、開催地をはしごして回ってもいる。
一方、東京在住のTさんは、2006年5月、「和力」が初の東京公演を「吉祥寺シアター」で開催したとき、チケットを電話で申し込まれて以後、都内公演があると必ず参加してくださっている。Tさんは「劇団わらび座」の大ファンで、わらび座の首都圏公演、秋田のわらび劇場公演をやはりはしごして回っているようすが、Tさんのブログで知ることができる。Tさんが「和力」を知るきっかけになったのは、かって「わらび座・響合奏団」で演奏していた小野越郎さんが、「和力メンバー」として出演したのを知ったからであったとわたしは記憶している。「わらび座」と共に「和力」を愛してくださっているTさんが、「こもれびホール」での「和力」公演をあたたかく述べてくださっている。Tさんの了解を得てこのブログを転載させていただいた。




和力公演をみて        A.T
http://tokutokura-ra-ra.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-449c.html

「和力」の公演を観るのは、昨年の練馬公演以来。
ちょうど一年ぶりの「和力」公演です。
とにかく楽しい♪。そして素晴らしい~!!。
「和力」の公演は、いつも主宰の加藤木さんの「コマ芸」から始まります
が、それがスゴク、スゴク楽しくって会場内が爆笑に包まれます。
芸はもちろん!目を見張るものがあるのですが、トークも楽しいのです。
こうして、会場と一体となりお客様を和ませてから
「和力」のスゴ技を次々と披露されるのです。
木村さんの「しの笛」は、いつも心に沁みます。
加藤木さん親子の「獅子舞」… まるで獅子は生きているかのような
表情をあらわし、会場内の空気は最高潮となります。
越郎さん作曲の「北風に踊る」は初めて聴く木村さんとの
三味線合奏曲です。色んな手法を取り入れた演奏に魅了されました!。
お二人とも実に楽しそうに演奏されていたのが印象的です。
加藤木さん親子で舞う「鶏舞」も圧巻でした!。
確か、私が始めて「和力」の舞台に出逢ったのは8年ほど前。
その頃の「鶏舞」は、加藤木さんおひとりで舞っておりました。
それがお父様以上?に立派な体格に成長され、芸に精進されている
磊也くんと共に舞って魅せてくれました!。

この「鶏舞」が始まる前!?… 加藤木さんは客席の後方から
鶏舞の衣装で「トウテンコウ、トウテンコウ~」と言って登場します。
客席の最前列にいらした時、加藤木さんは、いきなり!私の隣り席に
座っていた“あっく”をご指名したのです!。
加藤木さんに次いで客席に向かい大きな声で「東天紅~」と言うことに!。
一瞬 固唾を呑む客席に向かって、あっくは臆することなく堂々と
「トウテンコ~!!」と大きな美声を張り上げたのです!。
多分、加藤木さんとてこの声は期待していなかったでしょう?。
(元わらび座員ということはご存知なかったはず!。)
もちろん!会場からは大きな拍手です!。

右隣りに座っているSちゃんに「あっく情報を?」とコソッと訊ねると
「何も知らないはずよ!」って。
序盤からキャッ キャッ笑う ノリの良い観客だ!ということが
加藤木さんにマークされていたのでしょうか?。
それがあるとしても、あっくにはそんなオーラがあるのよね、きっと!。
青山円形劇場でも 同じような事があったもの…。
終演後、見知らぬお客様があっくに近寄り「素晴らしい声ですね!」って。

「綾打ち」 「だんじり囃子」では加藤木さんのバチさばきの巧みさに
只、只、くぎづけでした!!。
アンコール曲…木村さん作曲の「東風」も素晴らしかった~!!。

当公演の日程を知らずにいて、うっかり見逃してしまうところだった
今回の「和力」公演。
Sちゃん情報のおかげで行くことが叶い、本当に良かった!。
前日の誘いにもかかわらず、同行してくれたあっくのおかげで
楽しさも倍増でした!。

昨夜、帰宅後にブログを書こうかな…と思うも「和力」の余韻に満たされ
気持ちが高ぶっていて、どうしてもブログを書く気分にはなれず…と
言うか、あまりの感動と楽しい気分で言葉がなかったので…。
少し気分を冷まして、今朝 書いてます。
さて!、本日は横浜まで!…あっくと待ち合わせです。へば。

11月 8日 こもれびホールにて
和力
出演: 加藤木 朗
     小野 超郎
     木村 俊介
     加藤木 磊也 (敬称略)
演目: こまの芸
     綾打ち
     しの笛 独奏
     獅子舞
     津軽じょんから節 即興曲
     合奏曲 「北風に踊る」
     鶏舞
     合奏曲「竹田の子守唄~砂山」
     だんじり囃子





「レジナ幼稚園」と「こもれびホール」での和力公演

2013年11月15日 | Weblog
 11月7日(木)は、江戸川区の「レジナ幼稚園」で和力公演があり、翌8日(金)は西東京市での公演があった。
レジナ幼稚園では、やや天井の低い「幼稚園ホール」、西東京市は「保谷こもれびホール」、レジナ幼稚園では幼い子どもたちが対象で、西東京市は成人男女が集った。
 会場条件も年齢層も大きく異なったが、舞台に見入る姿はまったく同じで、日本の伝統芸能の力を思い知った。
転載するのは、レジナ幼稚園父母の会のMさんからのお便りと、和力関連の公演に国内遠近を問わず駈けつけてくれる名古屋のKさんのフェイスブックからいただいた、公演の様子である。




○和力のみな様
先日の公演、懇親会ともにありがとうございました。
日本の音楽、伝統芸能を知り、感じることができたこととても感謝しています。

子どもたちは口々に「あたま咬まれたよ(^◇^)」や枯れ枝を両手に持ってタイコの叩き方を報告したり、ふだん家で幼稚園の話をしない子も「とても楽しかった~!!コマすごかった~!!」と話してくれたと喜ぶ保護者がいたり・・・和力ムーブはとても大きいです。

子どもも、大人も和力のみなさんの舞台、伝統、人を大切にするこころ、響きに感銘を受けています。
子どもたちのこころに「たね」が植えられました。
これからは、「たね」を育む環境作りをみな考えていくことと思います。

本当に素晴らしい舞台を見せていただきありがとうございました。

またご縁がありますことを願っております。
ご多忙と存じますが、お身体にご留意されてますますご活躍下さいますようにお祈りいたします。

レジナ幼稚園 父母の会 M 




○今回もまた、いろいろとお世話になりましてどうもありがとうございました。

「こもれびホール」に集まった皆様。
歓声やら、どよめきやら、大拍手やら、そのすなおな反応に、わたしもビックリやら納得やらで。
これで、また、和力ファンがいっぱい増えたものと確信いたしました。

わたしも、より一層、追っかけ精進いたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
 


25回目の「元わらび座員の集い・in箱根」

2013年10月17日 | Weblog



 わたしは25回目を迎えた「元わらび座員の集い」の会長に指名された。わたしはわらび座に23年間在籍しており、年齢も相応にくっているので「歳の順」として会長職を引き受けた。
わたしが「集い」に参加するようになって10年ほどになるだろうか。
この間「集い」の中心になっていた方々の、何人もが極楽へ旅立った。
中心メンバーの高齢化、そして交通費などが負担になり、この25年の節目をもって広域的な集まりをフィナーレにしようと、一区切りつける「箱根の集い」となったのだ。
10月12日(土)から13日(日)にかけての集いは、天候に恵まれ楽しく有意義な時間を過ごせた。
わたしは、挨拶は苦手であるのだが、なんとか開会のあいさつと、すべて終わってのあいさつを次のようにして締めくくった。



 開会のあいさつ

 南は沖縄、北は秋田から、遠いところをお集まりいただきほんとうにありがとうございます。
わたしたちの集いは、今回で25回目を迎えました。
25年の年月はやはり長く、それぞれに老い、体にもさまざまな障害が出てまいりました。
25年の節目をもって、全国を統一する「集い」を終結する、今回は記念すべき「東日本・西日本合同」最後の集いとなります。

 この集いの会場「吉池」は、幕末に坂本竜馬とも親交があった土佐の岩崎弥太郎の別邸でした。竜馬が「海援隊」を組織し、世の中が落ち着いたら船をつらねて、海外との貿易をもって世界に乗り出そうと夢見ていましたが、非業の死を遂げてしまいました。竜馬と同郷の岩崎弥太郎はまさに海運業をもって「三菱財閥」の基礎を築いたのです。

 幕末から明治にかけ、波乱万丈の人生をそれぞれの人が切り拓いたわけですが、わたしたちも60年の歴史を刻んだ「わらび座」のある時期、青春をかけ誇り高く生き抜いてまいりました。
志を同じくしたみなさん、これからもお元気にお過ごしください。これからは近場の仲間が寄り集まって親睦を深めてまいります。

 記念すべき「集い」に際しまして、「太陽企画」の小野瀬孝行さんが、多大な援助をして下さいました。
宿泊・宴会などの折衝から、その費用の大部分を負担していただき、参加費10,000円という破格の低料金でわたしたちは懇親の場を提供させてもらえました。
あわせて深く御礼もうしあげます。

 ありがとうございました。



 終わって記念写真を送る際に添付する挨拶

 25回目をもってフィナーレとなる「元わらび座員の集い」は、箱根湯本の「吉池」で37名が参加して開かれました。
参加者は1953年に「わらび座」を設立したメンバー横山孝子、安達幸子さん、最年少は「第24期学習班」卒業生と、彩りも豊かでした。

 宴会場正面には、「私たちの歩んできた年月  みんな星のように輝いてきた」との横断幕が掲げられました。
わらび座での在籍期間が、長い短いはあるけれど志を同じくし、共に青春の血をわかせたわたしたちの歴史を言い表すフレーズが、みんなの心をとらえました(世話人下野夫妻が共作)。
一晩かぎりの短い逢う瀬でありましたが、みなさんの近況をお聞きし「星のように輝いて来たし、輝きつづけている」と励まされたのは、あながちわたしだけではないだろうと思っているところです。

 お忙しい時間を割き、また遠方より参加してくださったみなさん、ありがとうございました。
また、開催にむけ遺漏がないよう細心の準備をしてくださった本間敬一さん、100名にちかい社員をかかえる会社経営の激務の中で、格式ある「吉池」の確保、予約から変更などを一手に引き受け、あまつさえ宿泊・宴会費用の大部分を購ってくださった小野瀬孝行さん、その他、世話人のみなさまに心から感謝いたします。

 近い将来、なんらかのかたちでみなさまとお会いできることを祈念しております。
どうぞお元気にお過ごしください。

                             加藤木 照公





 

大腸ファイバー検査

2013年10月11日 | Weblog
 わらび座を辞め2年ほど経ち、サラリーマン生活が身につき始めた頃、健康診査に出向いた。
胃カメラではずいぶんつらい思いをした。大腸も検査するとなって、なにやらドロドロした液体を飲み下しレントゲン撮影をした。
当時は45才で若かったから、他はなにも異常がなかったが、大腸にポリープがあるとの診断で、三日間ほど入院をし「内視鏡」でポリープを切除してもらった。

「一年に一回は検査をしなさい」と勧められ、74才のこの歳になるまで何回も「大腸ファイバー」の検査をうけた。
この検査のつらいのは、検査二日前から「消化の悪いたべもの、海苔やワカメ、玉ねぎ、ごぼう、キャベツ、ほうれん草…限りないほどの食事制限」があることだ。
やむを得ない外食で、ラーメンを食べるとき「ネギはダメ、ワカメもとりのぞこう…」と気をつかうこと限りがない。これで一先ず疲れる。
2日前の晩に下剤を飲む。下剤の効果は抜群で、翌日は何回もなんかいもトイレ通いとなり疲れる。その晩はさらに下剤を服用する。夜9時以降は絶食になる。

 検査当日は、9時に病院へ行って大きな容器を渡される。1.8リットルの下剤を一時間ほどかけて飲むのだ。この飲む作業も難行苦行なのだ。スポーツドリンク様に味付けしてあるが大量の溶液だ。三口位のんで腸の働きをよくするために動き回る。そしてまた飲んで歩きまわるのをくり返すのだ。
昨晩の下剤とこの大量の溶液で、午前中いっぱいトイレに駆けこむ。駆けこんで便の状態を逐一観察しなければならない。
すこしでも色があったり、滓(かす)があるようだと「まだ、腸内がきれいになっていませんね」と、看護師さんから合格がでない。
「こんどこそ大丈夫だろう」と、10回ほどのトイレ通いでヘトヘトにくたびれ果てる。

 ようやく合格、「診察室」にたどり着き、肛門からほそい管を入れられて盲腸までカメラが行くのがモニター画面で映される。
小さいポリーブは切除してくれ、今回は4ケ取り除いてくれた。
「大丈夫でしたね」と医師が云って、管が肛門の近くまでたどり着いた。医師は「うむ」と云う。肛門に近い直腸にすこし大きめのポリープがあったのだ。
「ポリープをすこし採って組織検査をします」と告げられて、検査がおわったのが8月中旬だった。
9月に入って検査結果を聞きに行く。
「6ミリほどのポリーブがあり、検査の結果、悪性ではないがこのままポリーブが大きくなると癌化するおそれがある。入院して内視鏡で切除しましょう」とのことだ。

 わたしは後悔した。「一年たったら検査しなさい」と云われているのに、食事制限で気を使うのが億劫で、そのうえ1.8リットルの溶液をのみ、「今度は大丈夫か」と何回も便の色を確かめ、そのたびに不合格、さらに水を飲み足して「もうこれ以上は出尽くして出ません」の状態まで追いつめられる気苦労が嫌で、今回の検査は3年目だったのだ。
せめて2年目の去年に検査を受けていれば、このポリーブも小さかっただろうから内視鏡で摘まんでもらえたにちがいない。
 
 10月2日に入院して無事に切除してもらったが、今年は難行を二回も味わう羽目になった。
でも考えてみれば、医学が発達していない時代であれば、大腸にポリープが出来たのに気がつかず、それが大きくなり癌化して命を落としていたにちがいない。
わたしは、45才でポリープを発見したのだから、昔であれば50才ほどで寿命が尽きていたことになる。
 検査に伴う難行苦行はあるけれど、これからは二年に一回は確実に検査に出向こうと思っているのだ。

家族が増えた…子猫が二匹

2013年09月14日 | Weblog
 孫ふたりがわが家に寄宿し学びの生活をしている。
家事の分担は、磊也(らいや)が夕食後の食器あらい、慧(けい)は浴室のそうじと土曜日の夕食づくり、せんたくは自分たちでやるから手はかからず、磊也はお稽古ごとの費用をバイトで捻出、慧は奨学金で通学しており、わたしたちの金銭的な負担は大きくない。
 ただ、目に見えない出費はあるもので、水道料金がわたしたち夫婦だけのときに比べると二倍になった。したがって下水道料金もそうなる。電気料金・ガス料金は、水道料金ほど極端ではないが少し増えている。
食費は、二人ともわたしのつくる粗食に甘んじているから、そんなに伸びはないだろう。
 8月に車の車検があった。10万円をこえる「車検料」は、月々の家計費がたまっていって、支払いどきには「家計費」からスムーズに捻りだせたものだ。
しかし、今年の車検費用は「家計費」から捻りだせなかったので、夫婦してびっくりした。

 今年の春ごろから、家にネズミが出入りするようになり、保管していた米袋がかじられ、それを容器に入れて保護したら、ジャガイモやバナナが被害にあうようになった。
この秋口には、朗が収穫した米が大量にわが家に到着する。
田んぼに堆肥を大量にすき込み、無農薬で育てた米は、「味がよい」とわたしたちの知人が、何人も出来あがりを楽しみにしているのだ。
それをネズミに食い荒らされるわけにはいかない。
信州で猫を五匹飼っていた朗が「猫を飼えばその日からネズミはいなくなるよ」と云うので、二か月ほど前「メスの子猫二匹」を友人に頼んだ。
保健所で引き取った子猫を「県の施設」が飼育して、「もう間もなく引き渡せますよ」との連絡が入った。
9月6日(金)、引き取りに行くことにして、まずは猫のトイレと砂をそろえた。
引き取り当日、友人の案内で林に囲まれた県の施設に行く。飼育ゲージの中には三匹の茶虎きょうだいがいて、二匹がメス一匹がオス猫であった。オス猫はじゃれついて可愛い。メス猫のうすい茶虎も人懐こいが、濃い茶虎のメスはゲージの隅にいて、獣医さんが手を出すと「フーッ」と威嚇する。
「今のところ人慣れしない猫ですが、いかがしますか」と尋ねられた。人懐こいオス猫に心移りしそうだったが、家のみんなとの約束は「メス猫二匹」だったので、メス猫だけをもらい受けて帰る。生後一ヶ月半との推定で、体重は500グラムと540グラムである。
帰りがけに子猫用フードを友人に教えてもらい買う。子猫用フードは値が張る。その上、予防接種・避妊手術など経費がかかる。
とても「家計費」を頼るわけにはいかない。

 どうしたものか。
「案ずるより産むがやすし」…、わたしに収入の道がひらけたのだ。

 わたしは、65才で退職し「和力事務所」を立ち上げた。その際に「空いている時間があったら手伝って」と地域の知人に頼まれ、知的障害者の余暇支援をする「は~いビスカス」と云うグループのスタッフになった。
「うたごえ喫茶」、「シネマの会」、「フリーマーケット」、「米の販売」などをやり、家賃や運営資金をつくりだす。
事業活動だけでは家賃に足りないので、スタッフは、樋口一葉さんを一枚月々出しあって、なんとか七年間活動をつづけていたのだ。
今年の二月に「は~いビスカス」は、「福祉作業所」を他のNPO法人とタイアップして始めるようになった。
「うたごえ喫茶」や「知的障害者との会食会」、「フリーマーケット」はつづいているが、月に10日間ほど「は~いビスカス」で一日仕事に費やしていた時間が、大幅に激減した。
 
 妻の看護学校時代の友人から、「ディサービスの事業所を手伝っている。所長はわたしの古くからの友人で元看護師。以前住んでいた地域にわらび座の人が来ると、自宅に泊めいろいろ協力していた人。そのディサービスで利用者さんを送迎する人手が足りず困っている…」との話が妻にあった。
月曜と火曜日、わたしに手伝ってもらえないだろうかとの相談である。
最初わたしは余り気乗りしなかった。なにしろわたしは今年74才になり「お年寄りの面倒は見切れない」と思ったのだ。
しかし、わらび座員の世話をした方が「困っている」と聞けば、わたしも全国でいろいろな方にお世話になり、なんの恩返しもしていない。とにかく行ってお礼だけでも云ってこよう。
所長と話をして、車の運転は好きだし、週二回ということで7月から通いはじめたのだ。
「は~いビスカス」は、まるきりの無償というか持ち出しのボランティア活動だったが、「時給」がつく。

 そして80才、90才のお年寄りのお相手も楽しいものなのだ。同じ話を何回も繰り返し聞かされるが、それぞれの人生が想像される。
軽い体操や、トランプ・カルタ、輪投げ、などを楽しんで時間はあっという間に過ぎて行く。

 猫にかかる諸費用は「家計費」からでなく、わたしのここでの稼ぎからだすよ、と妻に宣言した。
9月6日に引き取った猫は、生後一ヶ月半と推定されている。二ヶ月になったらワクチン接種、半年後には避妊手術がある。
当面は、「猫タワー」を購入したいとインターネットで調べている。
わたしが新聞を読んでいると、お嬢さんたちはわたしの背中によじ登りじゃれあうのだ。ずり落ちそうになると爪を立てるから痛いのだ。
猫タワーは月末に「時給」が入ったら「注文するからね」と猫のお嬢様たちに云っている。
家に来てから一週間が過ぎネズミは退散、子猫のお嬢さんたちは家じゅうを走り回っていて見あきることはない。

※パソコンの環境が変わったせいか、「画像」がアップロードできません。可愛い子猫の写真を貼り付けられませんので、フェイスブックをご覧ください。原因を探して画像を貼り付けられるよう研究してみます。

阿智村滞在記 犬は食う

2013年08月30日 | Weblog
※わたしたち兄弟が、留守番として阿智村に滞在していた時に、弟の雅義がお友達に様子を書いていたらしい。
 それが、わたしの最新ブログの「返歌」として送られてきた。
 わたしにとっては、少々腹にすえかねる部分がなきにしもあらずだが、興味深いので掲載することにした。



「返歌」   加藤木 雅義

 磊也(朗の長男)は今、東京近郊の祖父(わたしの兄)の家に寄宿して、芸の修行をしています。
時間の空いている午前中は、朗の従兄弟が経営する食肉商社でアルバイト生活。
この食肉商社の名前が「中條」です。

この夏、
磊也が阿智村の夏祭りで帰郷するといった時
中條の社長が
「みんなで食べなさい」と牛ロースを一本送ってくれたそうです。

それがどんなものか、私には想像がつきますが、
他のひとにはわからない。
牛ロースというのは牛の背中のことで、
それが一本というのは、牛の半身一頭分の大きさなのです。

 どれだけ大きいのか。

そんなものは、ホテルが数日がかりで消費する分量です。
兄によれば、「値段の見当はつかないなぁ…」というほどの高級食材なのだとか。
社長(朗の従兄弟)は気前が良いことをします。

 わたしと兄が阿智村に滞在していた昨夜、
朗の家の
冷凍庫を覗くと、その残りらしき肉がありました。
「よし、今晩はこの肉を焼こう」と兄。
それで、畑で取れたジャガイモ、人参、ピーマンと肉を塩コショウで炒めて出来あがり。

兄が作る料理は、下ごしらえをしないのです。
ジャガイモもちょっと下ゆでをして炒めれば美味しくなるのに、それをしません。

だから、ジャガイモはゴロゴロして生っぽい。
味付けも、勉強をしないで、自分の感覚で適当にやるから
美味しい食材も引き立たないのです。

その日の肉炒めは、塩コショウを振っただけの簡単なもの。
人参もジャガイモもゴロゴロして、全体に塩コショウをまぶしただけ。

 中條さんのお肉は、高級レストランやホテルに納める業務用ですから、
スーパーで売っているお肉とは別物なんですよ。
だから、野菜がゴロゴロしていても、味が薄味でも、
お肉は美味しい。

「うまいね」と兄が云うので
「うん」と答えましたが、
明日からは、私が台所に立ったほうが良いだろうと思いました。

 磊也も慧(朗・長女)もこの兄の家に寄宿していて、
一家の料理はこの兄が担当しています。
2人とも、
「あまり食べない、体重管理を徹底してやっているらしい…」と兄は言いますが、
彼らが食べない理由がよくわかった気がします。



 晩ご飯が始まる前に、ビビ用にペットフードを皿にいれて犬小屋の前に置きました。
食事あとに、犬小屋を見に行ったら兄が
「ひとつも口をつけていない」
とぼやきながら母屋に帰ってきました。
「ビビは人間が食べているのと同じものがたべたいのではないか」
と私。
「そうか」と言って兄は、
食べきれないで残っている「ゴロゴロの野菜、肉炒め」を犬用の皿に盛り付け
そこにご飯を混ぜて
再度、ビビに供しました。

そうしたら、ビビはそれを完食したではありませんか。
兄の料理は人間には不評ですが、犬は喰う?
の巻でした。

まさよし

2013年8月はことさらに暑かった

2013年08月29日 | Weblog

朗宅の庭


 8月が間もなく過ぎ去ろうとしている。
8月が暑いのは例年のことだが、今年はことさら身にしみる暑さであり、「熱帯夜」が「統計を取りはじめてからもっとも多い」、「熱中症での搬送・死亡が昨年を上回った」など連日のように報道された。
「二八(にっぱち)」、寒さが厳しい2月と暑さの盛り8月は、客足が遠のき景気がわるい月だと俗に云われている。
しかし、かなりの忙しさで駈けまわる加藤木 朗と磊也などの姿があった。

 8月3日(土)、埼玉県「岩槻大師寺」さんで、朗・磊也・慧が午前1回、午後2回のイベントに出演した。
本堂前にブルーシートを敷きつめ、ステージが設えてある。大きなお寺さんだが、本堂前には木立がなく直射日光が降り注ぐ。
見る人たちは、テントや山門など日よけがあるからなんとか凌げるが、出演者にとっては「日照り苦行」となり、「鶏舞い」、「獅子舞い」、「だんじり囃子」は、汗だくの公演となった。
見ている人たちは、「あんなに動き回ってたいへんよねぇ。ほら…あんなに汗が…」と気の毒がってくれ、自分たちも汗をぬぐいながら一つ一つの所作に喜び、拍手を惜しまない。
獅子が厄払いに会場を巡る。我先に頭や肩などを噛んでもらおうと待ち構え、何人かの人が獅子に「寸志」を咥えさせてくれる。

 住職夫人たちに見送られ午後4時半に岩槻大師を出発し、首都高速に乗り中央高速道を目ざし新宿方面に向かう。
順調に走行し中央道への分岐点に来たら、車列が長く伸びて動かない。なかなか中央道に入れないのだ。30分ほども待っただろうか。業を煮やして一般道へ出て八王子方面に向かう。午後5時を過ぎて一般道も渋滞気味だ。ようやく八王子から中央道に入れたのは、岩槻から3時間ほども経っていた。
信州阿智村の朗宅に着いたのは、午後10時半になっており、わたしと共に阿智村の朗宅で「留守居役」を勤める弟の雅義はすでに着いていた。

 4日から8日までは、朗一家恒例の家族そろっての「海水浴キャンプ」である。
仕事柄、家族そろって憩う時間がもてない。
何年前からであったか、子どもたちの夏休みを利用して「海水浴」に数日間行くようになった。家族水入らずのこの数日間をとても大切にしているのだ。
この留守の間、わたしと弟の雅義が、犬と猫の世話係を拝命して阿智での夏休みを楽しむ。
4日の早朝、みんなで貯めた「海水浴貯金」のビンを開けて、磊也・慧・晟弥・野詠が数える。「ビンにこんなに沢山…」とびっくりするほどの金額が溜まっていた。
朗一家6人が車に乗り込み出発して行った。
わたしと雅義は、スケジュールに追いまわされない休暇をたっぷりと楽しんだ。雅義の料理は相変わらず美味しかった。同じきょうだいでありながら、なぜわたしとは料理の腕前が格段に違うのだろう。わたしは風呂焚きや猫のトイレ掃除などで力をふるった。


飯田市「命響館」での太鼓製作

 朗たちは8日に帰宅し、10日には飛騨高山市で、朗・磊也・慧・晟弥・野詠のファミリーで「朝日新聞名古屋本社主催」のイベントに出演。
翌11日の晩に朗と磊也が松戸に来着した。12日成田空港からアメリカへ渡るのだ。
この日、東京での気温は38度3分(平年30度5分)を記録し、ものすごい暑さに襲われた。
渋滞に巻き込まれながら到着したのは、午後11時ちかくになっていたが、昼間の熱気は家の柱にほてりを残していた。
わが家の省熱対策は扇風機である。寝るときはひとり一台を独占して風に当たりながら寝る。
ただ、この日ばかりは寝つかれそうもない。一台だけあるクーラーをつけてなんとかみんなと無事に寝られた。

 12日、成田空港へ出発間際、磊也が二階から下りて来て「とうさん、俺パスポートを阿智に置いて来てしまった」と報告。磊也も慌てただろうが、朗もあまりのことに一時呆然となった。
事の次第は磊也の「FB」に詳しいが、なんとか一日遅れの便で磊也が出発できたのは幸いであった。

 サクラメント市州立大学でのワークショップと公演がすんで帰国したのは、23日であった。
翌24日は金沢市でワークショップが朝10時から開催された。
10時に間に合うためには、帰国した23日、車の荷物を入れ替えて金沢に向かったのだろう。時差ぼけはなかったのだろうか…と余計な心配をしている。
金沢では、午前と午後のワークショップの後、ちょうど来演していた「ほうねん座」(仙台)の公演を楽しんだようだ。
25日に阿智村の自宅に帰り、一日置いて27日から29日まで長野県佐久市での中学校公演がある。
一日3回の公演であり、どうも1回ごと移動してのステージらしい。
仕込み→リハーサル→本番→ばらし→移動が午前と午後に三回つづくのだ。
信州の佐久だから、気候はこちらよりも過ごしやすいにしても、強行軍であることに変わりはない。


高台から朗宅の屋根を望む

 
 29日に学校公演が終わり、31日、9月1日には、名古屋「踊(とう)」のメンバーが、飯田の「命響館」で泊まりの合宿に入る。
朗はみなさんと一緒に「さんさ踊り」を満喫するのであろう。



一難去ってまた一難

2013年08月02日 | Weblog


 最近わが家にネズミが住みついたような気がする。今年に入ってから、とつぜん壁づたいにザワザワという音がして素早い速度で移動する。
「なんだろう」、けげんに思っていると屋根裏を這いずりまわり、「チュ」との鳴き声を聞いたから、たしかにネズミだと合点した。
並び立つ家々はとにかく、わが家にネズミは無縁であった。

 家の隣には80才を越すおばあさんが住んでいた。おばあさんは一人暮らしだから、食べ残しが出る。
むかし気質の人なのであろう、食べ残しでも「捨てるのはもったいない」と思ってか、門柱にご飯粒を置いて、小鳥たちに上げていた。
この頃はなんの問題もなかったが、その内に地べたに茶碗ををおいて、残り物を入れるようになった。
おばあさん宅の隣には飼い猫がいて、おばあさんはその猫を可愛がり餌を与えるようになったのだ。
飼い猫は5匹くらいいた。飼われている家でもじゅうぶんに食事をしていたのだろうが、やはり「外食」の魅力には勝てず、朝になるとガラス戸を引っ掻いて催促するようになった。

 おばあさんは、食べ残しだけでは間に合わなくなり、キャットフードを買い込んで食べ残しと共に与えはじめた。
飼いネコさんたちは、食べ終わると満足してウツラウツラ居眠りをし、あるいは日向ぼっこをする。そして丸く円陣を組んで会議をしているようなこともあった。
こんどはこの猫たちの食べ残しが出るようになった。
すると猫の社会にはどんな伝達手段があるのか、野良猫が集まりはじめた。
野良猫も飼い猫も喧嘩をせず、おばあさんの提供する食事をなかよく食べ、10匹ほどがおばあさんの庭で一日中過ごす。夕方になると飼い猫は自分の家に帰るが、野良さんたちはおばあさんの庭で夜を過ごし、生まれた子猫たちもそこで生活し始めた。

 おおぜいの猫たちである。なにも悪さはしないが、食べたからには出さねばならない。近所の庭、もちろんわが家の庭にも被害がおよぶ。ホームセンターで猫が嫌がる粉末や、トゲトゲのプラスチック板など、ずいぶん高い買い物をした。
それでも効果はなく、近所の人が寄ると「こまったわねぇ」とヒソヒソ話。でも正面切っては云えない。「お年寄りだからねぇ」……。

 この猫のパトロールのお蔭で、たぶんネズミはこの界隈に近づかなかったにちがいない。
おばあさんが腰の痛みを訴えて入院したのが1年ほど前である。
入院を知らされていなかった猫たちは、いつもの時間になるとガラス戸をひっかき、おばあさんを呼んでいた。呼ぶ甲斐もないので猫たちはその内、ちりじりになりおばあさんの庭から去っていった。
 たまには飼い猫が、近所をパトロールしているが、パトロールの頻度が少なく、目こぼしがあるのだろうか、家のミカンの木にネズミが登るのを妻が見たのは、昨年の暮れであり、わたしも早朝にネズミが道路を横断しわが家の庭に入るのをみた。

 前には猫が庭をガサガサやっていると、その排泄物を片付けるのが嫌で「シッシッ」と追い払っていたが、ネズミを見てからはご機嫌をとり「しっかりパトロールしてね」と猫撫で声をだし、友好的な態度で接するようになった。だが猫さんは前のことを覚えているのだろうか、連れないそぶりである。

 以前は猫の糞尿被害で迷惑だったが、その被害が去って思わぬ難事が出てきた。世に言う「一難去ってまた一難」とはこういう事を云うのだろうか。

和力 ブラジルへ

2013年07月24日 | Weblog


 7月17日、わが家を経由し朗と磊也が「成田空港」で和力メンバーと落ち合い、ブラジルへ向かった。
4月から5月にかけてのアメリカ・カナダツアーのときには、「中部国際空港」から出航しわが家に寄らなかったが、昨年の東欧ツアーをふくめほとんどの場合、成田空港からの出航が多い。
わが家は千葉県松戸市にあり、幸いなことに交通の利便がよい。
 
 渡航前日、朗は愛車のハイエースに「衣装」、「獅子頭」、「小道具」などを積んで信州・阿智村から車でやってきた。太鼓など大物は別便で送っている。
わが家に一泊しそのまま車で成田へ直行、車は帰国まで駐車場業者に預けると云う。
わたしは、帰国まで8日間の駐車料金が気になり、「なんだったら、うちの軽自動車で送って、ハイエースはうちの駐車場に入れておこうか」と云ったら、「空港まで高速代をかけて二往復するより駐車料金の方が安い」とのことだ。
そして、磊也と共に出発して行った。

 19日、20日、21日の三日間、「本公演」、「ワークショップ」、「日本祭り」への出演などさまざまな形態での公演があったようだ。
電波の関係からか、ブラジルでの活動の様子を送ることが出来ず、和力メンバーは焦ったようだが、帰国間際にまとめての通信が入ってきている(メンバーのFBをご参照ください)。
いずれにしても、どこでも「スタンディングオーベーショーン」であたたかく終えられたようだ。
 本日、24日14時過ぎに「成田に到着、磊也は松戸へ向かうが、私は渋滞が心配なので信州に直行する」とのメールが昨日、朗から入った。



 和力がブラジル公演に招聘されたいきさつや、公演会場などを「信濃毎日新聞」が紹介しているので、その記事を転載する。



阿智の民俗芸能グループ、19日からサンパウロ公演 練習に熱 (2013年7月16日)

※八戸の「えんぶり」を稽古する朗と磊也の写真が紹介されている。(ブログにはうまく取り込めなかった)。

 サンパウロ市での日本祭りに向けて練習に励む加藤木朗さん(左)と磊也さん
 阿智村伍和(ごか)の舞台芸能師、加藤木朗(かとうぎあきら)さん(46)が代表を務める民俗芸能グループ「和力(わりき)」が19~21日、ブラジルのサンパウロ市で開かれる「日本祭り」に参加し、公演する。15日は、共に舞台に立つ長男の磊也(らいや)さん(20)と練習に励んだ。
 祭りは、国際交流基金(東京)の現地機関、サンパウロ日本文化センターが主催。同基金の支援などで和力が昨年2~3月、欧州バルカン半島で公演した縁で、同センター職員が加藤木さんに出演を打診した。和力の5人は19、21日に三味線や琴、獅子舞などを披露し、20日には地元の学生らに太鼓や琴、三味線を指導する。
 加藤木さんはこの日、自宅の稽古場で青森県八戸市などに伝わる芸能「えんぶり」の動作を確認した。春に米国やカナダでも太鼓演奏などを指導した加藤木さんは「伝統芸能を通じて日本という国を知ってもらいたい」。磊也さんは「米国やカナダでも観客が喜んでくれて手応えを感じた。和力の一員としてやれることをしっかりやっていきたい」と抱負を語った。
(提供:信濃毎日新聞)