和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

自在とは本来、禅語だった。

2023-05-25 | 正法眼蔵
講談社学術文庫に、増谷文雄全訳注の「正法眼蔵」全8巻がある。
すぐ飽きる私は、これが読み続けられない。
読めないながら、本棚に鎮座しております。
はい。いつかは、読もうと思うばかり(笑)。

ですから、道元と聞くと、ちょい気になるのでした。
すぐ飽きるのですが、それなりに興味がわいてくる。

司馬遼太郎に「道元と須田さん」という文がありました
(「司馬遼太郎が考えたこと 12」新潮文庫)から引用。

司馬さんは、道元についてこう簡単に記しております。


「 24歳で入宋し、26歳でかの地の天童山で如浄(によじょう)に会い、
  28歳で帰国し、30歳をすぎたころ『正法眼蔵』の著述にとりかかっています。

  しかしながら、その文章はまことに独自なもので、しばしば、
  道元が手作りで創りあげた勝手な言語表現ではないか、
  と溜息が出るほどのものです。
  道元は、漢文で書かず、日本文で書いたのです。

  当時の日本語の文章は、叙情や叙事においては
  すでに何不自由ないものとして発達していましたが、
  
  抽象的な観念を表現するには、言語として未熟でした。
  というより道元以前に、日本語によって大規模に
  思想を表現した例はないにひとしかったのです。

  本来、中世日本語が思想表現にむかなかったのに、
  道元がそれを思いたったのが『正法眼蔵』の
  企(たくら)まざる雄図でありました。

  その上、道元は、その文章でもわかるように、
  うまれついての思想家であり、
  それを思索しつづけるほど、
  強烈な英気を持っていました。
  かれは思索しぬいた人です・・・・

  かれは、未熟な段階の日本語に、
  豊富で綿密な思想をのせてしまったのです。

  道元の言語は掠奪者のように、古い漢文や仏典から
   ――古い建築から古いレンガを外すように――
  その場その場の思索の表現にもっともふさわしい言語を
  ひつ剥がしてきて、しばしば意味まで自分流に変えて、
 
  いきいきとした新品のことばとして再生させました。
  それでも追っつかず、中国留学中に耳目に入った当時の
  現代中国語まで日本語に仕立てなおしてつかったのです。
  ・・・・・・

  道元の表現者として勇敢さは、
  技巧上の大胆さということではありません。

  おそらくいのちを言語に叩きこんで、
  叩きこむことで自分の思索をたしかめたい、
  という切迫した動機から出たものだと思います。

  十に三つぐらいは他者にわかるように、
  という願いも感じられます。
 
  あと七つはわからなくてもいい、
  という思いつめも感じられます。・・・・   」(p413~415)


この文を、引用してパソコンに打ち込んでいると、
ああ、司馬さんは須田剋太さんのことを語っているのだなと
つい、須田剋太画伯の装画を思い浮べながら引用しています。

「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫に
『真の自在(「須田剋太展」)』(平成元年)と題する文が載っております。
その文の最後も引用したくなりました。

「この人(須田さん)は曹洞禅の道元に参じ入って半世紀ちかいが、
 すでにひたるようにして道元の世界にいる。

 刻々矛盾の中にいながら、刹那に矛盾を解きあかし、
 つねにあかるく自己を解放している。
 自在とは本来、禅語だった。・・・・     」(p289・文庫)




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