和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

などと難ずる。

2008-03-19 | Weblog
武藤康史著「文学鶴亀」(国書刊行会)のなかに、読書日録とあります。ちょいと気になるので、どの本から取り上げられているか覗いてみたら、山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文芸春秋)からです。その箇所を、せっかくだから引用しておきましょう。そうしましょう。

「『発掘 司馬遼太郎』は早くから司馬遼太郎を買っていた人、古くからつきあいのあった人(海音寺潮五郎・源氏鶏太・藤沢桓夫・富士正晴・・・)の発言を掘り起こす。それだけでも大仕事だが、司馬遼太郎自身がその人をどう見ていたかもたどり、交流・交遊のほどをあぶり出す。近ごろはそういうことばかり並べて文学史とか文壇史とか称する御仁もおわするほどなり。ああいうのはどうも依拠資料があやふやでケシカランが、『発掘 司馬遼太郎』は資料を探索し、発掘し、出典をグイグイ明記しつつ並べる。このグイグイ明記するというところがむつかしい。『うるさい』とか『白ける』などと難ずる編集者がいるものだ。しかもそういう引用文を読み易く按排している。資料を博捜する人は多いが、それを読ませるようにする人はすくなし。」(p187)

ところで、
谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書・2008年1月)の本文の終りに、その山野博史氏が語られております。次にその引用。

「彼(山野博史)は専攻は日本政治史なんですが、いま完全な司馬遼太郎の書誌を作るべく仕事にかかっています。」(p184)
「山野さんは司馬遼太郎書誌を作っています。この人もパーフェクト主義ですから、『書誌とはこういうものだ』という、立派なものができるだろうと思います。」(p188)

さて、このように語りながら、いよいよ本文の終りをしめくくるのでした。
そこをちょっと詳しく引用します。

「新潮社から出ている『司馬遼太郎が考えたこと』という、親版全十二巻、あれの60パーセントは山野博史が自腹を切って発掘した成果です。ほんとに草の根を分けるようにして。」その発掘のエピソードを、谷沢さんは幾つか指摘しておられるのでした。ここでは、ひとつのエピソードを引用してみます。

「司馬さんは弔辞の名人です。藤沢桓夫(たけお)さんが亡くなったときに、その弔辞は東京版には出なかった。司馬遼太郎のエッセイで産経、読売、朝日に出ているにもかかわらず、関西版にしか載らずに、東京版には載っていない。ということは、縮刷版に入っていない。その新聞を保存している近畿一帯の図書館を全部調べ上げて、大津の図書館にあるとトコトコ出かけていって、それを全部点検する。あれは十二巻に一千本のエッセイが入っています。そのうち六百本は全部、山野博史が自腹を切って発掘しました。」

引き続き、ここからこの新書の本文最後のページを引用いたします。

「そのときの内容見本に、初めは『資料提供 山野博史』と刷ってありました。それを全部破棄して、『山野博史』を削って新しい内容見本を作った。この著作権というものはまことに難儀なもので、司馬さんが亡くなると著作権がみどり夫人にあります。その夫人は何もできませんから、全部上村洋行という、みどり夫人の実の弟、この弟がいま司馬記念財団を牛耳っているわけです。これがまた、自尊心というか、虚栄心が人並み外れて強い人で、山野博史は、発見したものは当然、全部自分のところに持ってくるべきだというのが、彼の信念なわけです。ところが、そんなバカなことはしませんよ。今度は、山野博史が未刊行作品を発掘したこと自体が許せなくなった。それで、『一切山野博史の名前を出してはならん』ということで、削られたわけです。文芸春秋の司馬遼太郎短篇全集も山野さんが三割ぐらいは発掘しています。それも上村洋行の一言で『絶対に記してはならん』ということで、西山嘉樹文芸出版部長は、うるさい上村洋行をおだてて、なだめて、出版がスムーズにいくように何べんもやって来て、もううんざりして、口直しに僕を晩に呼び出して一杯飲むというようなことでした。」(p190)

谷沢永一氏の新書の題名は「運を引き寄せる十の心得」とあり、
運を引き寄せる人。運から見放される人を、ちゃんと実名で書いている本なのでした。

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