和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「東大全共闘」の、他では聞けない世界。

2018-05-22 | 短文紹介
聞けないけど読める、現代史の世界。

佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」(幻冬舎)の
なかに、東大安田講堂事件への経過報告の記載が
あります。辞典には載っていないかもしれない。
それじゃ、引用しておいてもよいかもしれない。

「東大安田講堂封鎖解除警備が行われた
1969(昭和44)年1月18日の前夜、
真っ先に東大から逃げ出したのは、
代々木(共産党)系の民青だった。
黄色のヘルメット、樫の鍬の柄で武装して、
1月10日には8000名はいた民青は、
『一年後の第二次安保反対闘争のため勢力を温存しよう』
として、本郷キャンパス教育学部の建物から撤退した。
あとには黄ヘルひとつ、鍬の柄一本残さぬ、
実に統制のとれた転進だった。

これに次いで脱出したのが、
法文系一号館と二号館に籠城していた革マル派だった。
今でも続く中核と革マルの陰惨な内ゲバは、
この東大紛争の裏切りから始まった。

そして攻防戦の前夜、東大紛争の核ともいうべき
東大全共闘は、山本義隆議長を中心に会議を開き、
『七〇年闘争までの勢力の温存』を口実に
東大本郷キャンパスから、安田講堂から脱出したのだった。

念のため、東大安田講堂事件における逮捕学生の内訳を詳しく記すと、

 安田講堂に籠城していた極左過激派 377名
 この逮捕者のうち、東大生は    20名

 東大構内、工学部列品館、医学部など
 22か所に籠城していた全共闘    256名
 うち東大生は           18名

 合計逮捕者 633名中、 東大生 38名

東大生はわずか六%で、あとの九四%は
東大全共闘を助けようと全国からはせ参じた『外人部隊』だった。
外人部隊は最後まで愚直に戦い、逮捕され、
前述のごとく人生を大きく狂わせてしまった。
東大全共闘はその外人部隊を尻目に、
前夜『敵前逃亡』していたのである。

それゆえに七〇年闘争のあいだじゅう、
全共闘は『敵前逃亡』した東大全共闘を
『卑怯者』として軽蔑し、嫌悪し続けた。

仙谷由人氏が所属するフロントは、
安田講堂の立てこもりには参加せず、
後方支援や法廷闘争を手伝っていた。

報道によれば、すでに在学中に
司法試験に合格していた仙谷氏は、
同志たちから『弁護士になって、自分たちが
逮捕されたときの救援対策をやってほしい』
と言われたという。

1971(昭和46)年、25歳で弁護士となった仙谷氏は、
極左過激派の学生たちの弁護士として、
第五機動隊庁舎ピース缶爆弾事件の被疑者を
全員無罪にするなど辣腕を振るい、
一躍極左過激派の『守護神(ガーディアン・エンジェル)』
となった。弁護士時代は日教組など労組に
関連する案件や事件に携わり、
1990(平成2)年の衆議院選に
社会党から立候補して当選している。」
(p128~129)

うん。素人にも分かりやすい記述となっております。
気になる方は本文を直接ご覧ください。






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