和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「さん」付け。

2007-06-11 | Weblog
谷啓の追悼手記「植木等とのクレージーな日々」(文藝春秋7月号)で、あらためて、私に印象深かった箇所があります。それは谷啓さんが、植木等・ハナ肇に対して、どう呼びかけようかと躊躇している場面でした。

その箇所を二つとも引用しておきます。

「ぼくよりも五歳年長だったから、本当は『植木さん』と『さん』付けで呼ばないといけないのだろうが、ぼくは生来の照れ屋で、親しい人に対して、面と向かって名前を呼びかけるということができない。さすがに出会ったばかりの頃は『植木さん』と呼んでいたが、あまりに恥ずかしくて洒落で『植木屋』と言ってみたら、すっと気がラクになった。おかげさまで仲間うちでも定着したので、ぼくは最後まで『植木屋』とか『植木屋ン』で通させてもらった。」(p164)

ハナ肇についてもあるのでした。
「年齢は昭和二年生まれの植木屋の方が上なのだけれど、クレージーの方向性やしかけ的なことは、いつもハナちゃんが考えていた。実際、そういった方面のことが好きだったんだろうと思う。じつは冒頭にも書いた理由で、ぼくはハナちゃんのことも面と向かっては『ハナちゃん』と呼ぶことができなかった。本人のいないところでは『ワルガオ(悪顔)』と呼んでいたのだが、いくらなんでも当人にそう言うのは失礼だから、上唇と下唇の間に舌を挟んで『スィーッ』と吹く、妙な口笛で合図していた。ところが、人通りの多いテレビ局の通路では、すれ違いざまに合図しても、鳴りが悪かったりすると気づいてもらえない。・・・ぼくは忙しいさなかだというのに、仕方なく先回りして待ち伏せして、来た瞬間に『スィーッ』。すると向こうも気がついて『おっ、谷啓』。じつに苦労したものだ。」(p167)


名を呼ぶということは、日本文化としては(大袈裟かなあ)、奥が深そうな問題なのでした。すぐに、関連して私に思い浮かぶのは2冊あります。

一冊は、司馬遼太郎著「ひとびとの跫音(あしおと)」(中央公論社・中公文庫)
二冊目は、板坂元著「日本人の論理構造」(講談社現代新書・古本)

「ひとびとの跫音」には「タカジという名」と題した章に、あります。
そこにこんな箇所があったのでした。

「かれは旧憲法の時代に思想犯として牢屋にいた。
昭和九年から敗戦の年までという十二年間で、明治36年(1903)うまれのかれとしては、三十代から四十代初期までという人生のもっとも重要な時期に、社会から隔てられていたということになる。筆者は、刑務所を知らない。かれが生前語っていたことによると、これほど物を考えることだけが無限に自由な場所はない、ということであった。ある日、かれは人間の個々につけられた名前について考えた。とくにロシアをふくめた西洋の習慣のなかで、友人になればたがいに姓をよばずに名をよびあうという一点について、錐でもみこむように考えぬいた。そうあるべきものではないか、という結論に達した。以下は十分傍証のあることだが、・・・・のち、かれは私に・・・『呼び名だけでよびあうと、はじめて会っても、それだけでじかに心が通いあえるようになるんだ』と、私にいったときも、ちょうど私の家で家事の手伝いをしている高知県出身の娘が、冷えた素麺をもってきた。この娘はタカジが好きで、自分の敬愛の心をあらわしたいために平素以上に茶目になっていた。食器を置いて出てゆこうとする娘をタカジはよびとめて、『君のお父さんやお母さんは、君をどういう名でよんでいる』『はいっ、マサミであります』と、ジーパンで直立不動の姿勢をとった。『じゃ、おれはこれからマサミとよぶよ。おれのことをタカジとよんでくれ』といった。しかしこの娘はその後も、祖父のような齢の相手をつかまえてよびすてで名をよぶことははばかり、かれが死ぬまで、ぬやまさんとか、ぬやま先生などとよんでいた。かれにいわせればこの種の気づかいは古き律令官僚制の残滓ということであったろう。ついでながら、かれの筆名は、ぬやま・ひろしで、本名は西沢隆二である。」(単行本。上巻p109~110)

引用ばかりでなんですが、もう一冊の板坂元著「日本人の論理構造」から

「・・万葉集の冒頭の雄略天皇の長歌に『家聞かな名のらせね』と相手の女の名前をたずねる表現があるが、あれは恋歌であって、もし女がそれに応じて自分の名前を相手に教えれば、それは相手の求愛を受け容れることを意味した。そういう慣習の上に立った表現である。レヴィ・ブリュ―ルによれば未開社会では他人の名前を口にすることはその名前の持ち主に直接手を触れることと同じであり、あるいはその人を攻撃し危害を加えたり、その人の出現を強いたりするといった危険を招来する行ないであった。いわんや神の名を口にすることは、きわめて慎重に行なわなければならなかったのである。『さわらぬ神にたたりなし』という、今では比喩的にしか使われない言葉は、大昔は字義通りのものとして通用していたのである。」(p10)


谷啓さんが植木等を追悼する、その最初に、呼びかけの言葉をもってきているのが、あまりに印象深かった。あらためてもう一度、谷さんの言葉。

「さすがに出会ったばかりの頃は『植木さん』と呼んでいたが、あまりに恥ずかしくて洒落で『植木屋』と言ってみたら、すっと気がラクになった。・・ぼくは最後まで『植木屋』とか『植木屋ン』で通させてもらった」。

そして、この五十年の歳月を振り返る谷啓さんは、
追悼手記でも、つねに『植木屋』と語っているのが印象的なのでした。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 意外と谷啓。 | トップ | 案の定。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事