わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

人間について

2012-04-01 12:57:41 | 癒し
 私のあまり広くない家の庭ですけれども、庭には
色んな花が咲いておりまして。その花の生命
といいますか、自然の造形の美しさというものに
見とれることがしばしばあります。そして、自然
というものの持っている霊妙な心といいますか、神の
心を映した精妙さというものにしばしば感動
することがあります。花なら花の生命、木なら木の
生命そのものにも感動致しますけれども、やはり、
その木を生かしている、木が木であること、花が花
であること、ありのままのそのままの生命のままに
咲いてるその姿に感動を覚えないではいられない
訳であります。
 人間というものも、生まれたての頃といいますか、
この地球に降りてまいりました頃というのは、
そのままの有りのままの生命でありまして、こういう
業が今のように地球の内を蔽っているという風な、
そういう世界でなかった頃というのは、本当に
やさしい言葉で言えば、神様と人間がツーカーの
間柄であった訳であります。ツーカーの間柄
というのはどういうことかというと、それこそ神様と
直接話が出来てという風なそんな親しい間柄で
あった訳であります。それは、話しが出来て偉い
とか何とかじゃなくて、神様の心を心として生きる、
つまり、あるがままに生きるということが出来た時代
から、この地球世界というのは始まっていった。

 ところが、この地球世界というのは元々荒い波動
でありますから、何度も申しておりますように、
色々な物質現象などを出現させて、そして、人間も
だんだんに肉体というものをまとっていきませんと、
この荒さの中では生存が出来なかった。その生きる、
生きていく、毎日を競争して、色んな天敵なんかと、
あるいは病気なんかと戦って生き残ってゆく。
 その為には随分と工夫も努力も、あるいは科学の
発達も医学の発達も色々なものを産み出して
いかなければならなかった訳ですね。つまり、
科学療法といいますか、対症療法といいますか、
そういうものを産み出してゆかないと、この肉体
そのものを養ってゆくということが不可能になった。
 そういう時代になって行った訳です。

 そういう時代になるに従って何が薄れていったか
というと、神様とのつながり。ね、自分の元々の
本体が霊であって、霊なる生命であって、そうして、
その奥の体の自分と、光そのものである自分と、
神様からの愛というものが本当に一つで、純粋無垢に
一つで、昔は赤子のように頼り甘え、対話も出来、
そういう時代があったんだということ自体
本心本体はわかっておりますけれど、肉体をまとって
しまって我というものを生まれさせた人間からは、
なかなか想像も出来ない様な遠い世界のように
思わせてしまった。そういう時代がもう何十年
何百年何千年何万年と続いて今になっている訳で
あります。

 こういう世の中になってまいりまして、現実の
世の中に目をうつしましても、なかなか自分の
思い通りにならないとか、自分の欲求することが
叶わないとか、そういう現実ばかりにつき当たって
おりますと、人間というものはだんだん諦めて
しまう様になって、そして、諦めるところから今度
何といいますか、第一線から身を引いてしまう様に
なって、第一線からというのは仕事の場だけじゃな
く心の部分からいっても、第一線から身を引いて
しまうようになって、そうしてだんだんだんだん
人間の本来の生命からいうと、その生命が萎びて
しまうような、そういう世界になって来ている訳で
あります。で萎びきったらもうそこで終わりってな
もんですけれども、萎びきりはしないわけ。なぜか
というとそれは、神様からの生命でありますから
萎びる訳がない訳でありまして、萎びる訳がない
けれども、一歩誤れば萎びるかもしれない。その
切り岸のところに立って、危ないところに立ってる
人間の今の状態というものを神様の方がごらんに
なってですね、そうして何をすればいいか、どう
すればいいか、人間を元のとおりにね、人(霊止)に
かえす為にはどうすればいいか。そのことをずっと
お考えになって色んな人を出しました。私なんか
御用に呼ばれてですね、そうして世界平和の祈り
というものを受けて、この地球世界の浄化という
ものをですね仰せつかって、そうしてこの運動
というか、この神様の愛を広める、その為の場所
として私の生命が使われた訳であります。

 こういうことを考えておりますとね、人間という
ものの可能性の深さということね。つまり人間の
方から、肉体の人間の、ややこしいですけれども、
肉体の我におおわれちゃった、我に邪魔されちゃった
肉体人間の意識の方からすると、人間なんてものは
果敢無い(はかない)もんで、生命が消えちゃったら
もうその人はこの世の中にいないわけだし、そこで
どんな働きを今までしていようが何していようが評価
されていようが、どんなに財があろうが何があろうが、
そこで断ち切られちゃったら終わりになる訳
ですけれども、そうじゃない。

 つまり、生き通しの生命の霊界の方神界の方から
見ますとね、神様の愛というものは、財力を失わせて
あるいは財力を与えて、だから万歳とかだから良く
なかったとか、ここで人の可能性を切っちゃうとか
そんなもんじゃないんですね。神様というのは
あくまでも、どんなことがあっても人間を愛し抜く。
 愛して赦して赦して赦しっぱなしの生命なんですね。
 あるいは愛しっぱなしの生命なんです。そうして、
その愛というものには尽きることがない。無限
なんですね。

 その無限の愛を注がれた人間の本体というものを、
私達は、私達の肉体のこの奥に持ってる訳です。
 そうして実は、この肉体を養っているものの無限の
愛の種をもってる自分自身、本心なんですね。
 だから、それが自分なんだっていうことに
気がついた時の人間の可能性ですよ。その可能性
というものはね、これは無限なんですね。これは
ひたすら天命というものに向かって走り抜いてゆく
生命なんです。天命というものは、これは一生二生の
もんじゃない。何十生何百生何千生のものなんですね。

 私なんかがお浄めをします。先生うちの子が熱を
出しました。学校へ行けません。あるいは家で喧嘩が
たえません。もちろんそれは悲しいことです。苦しいし、
悩みごとでしょうね。だから、私はそこで柏手を打つし、
必要であれば、印もきる。統一会では印も
切りましたよね。今もきってる。だけども目の前のこと
だけで私は印を切ったり柏手を打ったりする訳じゃ
ないんですよ。お医者さんがお腹が痛いと言ってる
子供に頭痛の薬を与えないのと同じようにね、そんな
ことする医者はいません。その腹痛の子には腹痛の
薬を、止める薬を与えますよね。だから、それ相応の
光なら光というものを与えて安心はさせます。現象を
止める。それはしますけれども、それだけじゃない。
 皆さんのこの世だけじゃない生命ね、貫いてる生命、
天命に向かってゆくその限りない生命というものを、
私は一人一人を引き受けている訳です。だから、
引き受けてるその天命が滞りなく、できるならば心を
真白にして天命を走り抜いて、神様のみ許に、神様の
愛の中に、ただ中に貫いて走ってゆけますように、
その為に光を送る。その為に私は印をきるし、それから
柏手を打つし、色々な法話も話したりするわけ
なんですよね。

 だから、目前にいる皆様のことをもちろん心配して
います。皆様が不幸にならないように出来るだけ
暗い想いにならないように、揉め事がないように
色んなことを想いますよ。思いますけれども、しかし、
心配している私がいると同時に、本当には心配して
いない私もある訳なんですよ。先生そんな不人情だ
非人情だというんじゃない。ね、私はなんで
そんなこと言うかといったら、皆さんの生命、想い、
皆さんそのものがこの世だけの生命じゃないという
ことがわかっている。ここを通り抜けていって、又
次の障害を通り抜けていって、そうして一生二生
三生ね、十生百生千生貫いていった時に辿り着くね、
光明の光明体のあの世界というものを私は体
でもってね、この全身でもって心でもって分かってる
訳ね。だから、そこへ何の障りもなく出来れば
送り込みたい訳ですよね。だから柏手も打つ。
 そうして、世界人類が平和でありますようにという
祈り言のエレベーターにのってエスカレーターに
のって、皆さんを送り届けたいわけね。一人も
逃したくない。

 今の私の想いとしたら、白光の人であろうと
なかろうとね、やっぱり、この祈り言に目をとめ心に
想い祈りをしている人、その人達を先駆けとして、
全部の人を救っていきたい。そういう手伝いを
してくれる人をやはり増やしてゆきたい。だから、
色々なことを無理を言うこともあるかもしれない
けれども、しかし、その無理というのは、皆さんの
能力以上の無理は私は言わないつもりです。
 それは、私があなた方の本質本心、働きの深さ
という本質的なものですよ、それを知っているから。
 現象的には無理をいうこともこれからあるかも
しれないけれども、だけども、こちらに任せて
下されば、私はあなた方の一生二生だけではない、
全部のね、天命全体についての責任を私はあなた方に
負っておりますから、それを果たすべくね。
 諦めないですよ。諦めるというのは本当は
萎んじゃうという意味じゃなくって、真理を明らかに
する、自分の本体を明らかにする、自分が何者で
あるかというものを突き詰めて見つめる、掘り下げる
という意味ですから、そっちの意味のあきらめる
という意味で、自分を深くして、そうして掘り下げて
生きてゆく生命というものに対して、私は責任を
持ってる訳です。

 だから、安心してというのも、安心もし切れない
でしょうけれども、色んな想いが出てもいいから、
私の方へどうぞ任せて、進んで行って下さい。

          昭和63年5月5日
             五井 昌久