乱鳥の書きなぐり

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『報恩講』&『お伊勢講』&『富士講』から、ふと京都を思う

2009-10-28 | 民俗考・伝承・講演


       『報恩講』&『お伊勢講』&『富士講』から ふと京都を思う




『富士講』や『お伊勢講』については宮田登先生や他の先生方の本にも度々出てくる。

 今回、 奈良の佐味田教行寺近くの電信柱に 浄土真宗の『報恩講』の案内が張られていた。

 浄土真宗の『報恩講』は奈良ならず京都でも張り紙を見たような気がする。


 奈良の保存地区である今井町は江戸時代からの家ものこされている。

 歴史の息吹が感じとれる今井町では『報恩講』以外にも何種類かの◯◯講の張り紙や案内があった。

 ◯◯講とは地域に根づいたものなのだろうか?或は檀家等が集まるのだろうか?

 いずれにせよ、宮座(山坊を例に挙げると、文級4年以前に住んでいた人。宮座は各地に残るらしい)や村祭とともにわたしには縁のない未知の世界である。

 奈良ではたとえ旧村に住んでいたとて、宮座以外の家をよそ者と呼び、祭や他の行事に参加できないという。

 新興住宅のベッドタウンに住み、また宮座の文級4年などから考えると、私などはピチピチのよそ者である。

 したがって、祭や地蔵盆は参加する場所はない。

 おそらく次の土日は奈良のどこかしこで祭が行われるだろう。

 近くに住む旧村の方に誘われはしたが、到底祭に参加できるものではない。

 地蔵盆の盛んだった京都になれ親しんだ夫や私にとっては、寂しいものである。


 夫も私も奈良生まれではなく、生粋の京都生まれの京都育ち。

 奈良は好きだが、100%の奈良人に慣れないのはよそ者である引け目の由縁であろうか・・・。

 月に1度は京都に足を運ぶのはそのせいかもしれない。

 

 子どもが京都の大学を選び、今春卒業した時の寂しさは身につまされた思いがしたものである。

 来年は京都に縁あって、行く機会も増える事であろう。

 私の心は奈良と京都を行き来する思いをぬぐい去れない。



 12月は南座の顔見せがある。

 そして毎年この時期になると、京都を思い浮かべる。

 先日参加したフィールドワークのお話の中で宮座なども話さた。

 歩く途中に『報恩講』の張り紙を見つけ、昨日行ったMOTOISE(大江山近く)から『報恩講』&『お伊勢講』&『富士講』を思い浮かべ、ふと京都を懐かしむ心が生じた私なのだろう。
 

  

▼ 提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より、『報恩講』&『お伊勢講』&『富士講』を転載させていただきました。(2009年10月28日現在) ▼

  

     報恩講

報恩講(ほうおんこう)とは、浄土真宗の開祖(宗祖)である親鸞(1173~1262) の祥月命日の前後に、宗祖に対する報恩謝徳のために営まれる法要のこと。 本願寺三世覚如が、親鸞の三十三回忌に『報恩講私記(式)』を撰述した事が起源であるとされる。 浄土真宗の僧侶・門徒にとっては、年中行事の中でも最も重要な法要である。なお、荘厳も、最も重い形式となる。
本山で営まれる法要は、「御正忌報恩講」と呼ばれ、祥月命日を結願(最終日)として一週間に渡り営まれる。(日程は後述。)
別院・各末寺においては、「お取越」もしくは「お引上」と呼ばれ、「御正忌報恩講」とは日付を前後にずらして1~3日間、ないし5日間営まれる。
門徒のお内仏(仏壇)の前においても、所属寺院(お手次寺)の住職を招いて「お取越」・「お引上」にて営まれる。「門徒報恩講」とも。
日付をずらす理由は、すべての僧侶・門徒は御正忌報恩講期間中に上山する(本山に参拝する)のが、慣わしとされるためである。
目次 [非表示]
1 宗派別の御正忌報恩講の日程
1.1 各派によって日程が異なる理由
2 遠忌法要
3 外部リンク
4 関連項目
宗派別の御正忌報恩講の日程 [編集]

1月9日~16日…浄土真宗本願寺派(お西)・真宗高田派
10月25日~28日…真宗浄興寺派
11月21日~28日…真宗大谷派(お東)・真宗佛光寺派・真宗興正派・真宗木辺派・真宗誠照寺派・真宗三門徒派・真宗山元派
11月23日~28日…浄土真宗東本願寺派
12月21日~28日…真宗出雲路派

各派によって日程が異なる理由 [編集]
親鸞聖人が入滅された日は、弘長2年(1262年)11月28日(グレゴリオ暦…1263年1月16日)である。宗派により、旧暦の日付のまま新暦の日付で行われる場合(11月28日)と新暦に換算した1月16日に営まれる場合があるからである。(真宗出雲路派は、月遅れの形をとる。)

  

     お伊勢講

当時の庶民にとって伊勢までの旅費は、相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」と言う仕組みである。「講」の所属者はそれぞれお金を出し合い、それを合わせて旅行費に充当する。積立金から「講」に所属する農地や財産を置く場合があった。誰が行くかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、「講」の全員がいつかは当たるよう配慮されていた様である。くじ引きの結果、選ばれた者は、「講」の代表として伊勢へ旅立つ、旅の期間は農閑期が利用される。
出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。また地元においても道中の安全が祈願される。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種子、松阪や京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産(軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた)を購入する。無事帰ると、帰還の祝いが行われる。江戸の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。
またこの「お伊勢講」は平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが、全国的になったのは江戸以降である。江戸時代が過ぎてもこの仕組みは残った。なお戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより解散させられた(無尽講を参照)。しかし、地域によっては現在でも活動を続けている伊勢講もある。
伊勢講が無かった地域では、餞別が旅費の大半を占めていた。

  

     富士講

東口本宮冨士浅間神社(静岡県小山町須走)にある富士講の記念碑。元々は江戸・麻布の富士塚に富士登山を記念して建てられていたが、講の解散時に須走へ移された。
富士講(ふじこう)は、富士山とそこに住まう神への信仰を行うための集団である。浅間講(せんげんこう)ともよばれる。広義には富士信仰に基づく講集団一般を指し、狭義には江戸を中心とした関東で流行したある富士信仰の一派によるものを言う。
目次 [非表示]
1 歴史
2 活動
3 人穴
4 八海めぐり
4.1 内八海
4.2 外八海
5 関連項目
6 参考文献
歴史 [編集]

狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏(天文10年(1541)-正保3年(1646)。後世、長谷川角行・藤原武邦とも)という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。享保期以降、村上光清や食行身禄(寛文11年(1671)-享保18年(1733))によって発展した。身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は富士山の神への信仰であるが、それ自体は既存の宗教勢力に属さず、従って食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力である。
一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に甲斐国(現山梨県)の富士吉田は北口本宮冨士浅間神社とその登山口(現:吉田口遊歩道)があり、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわい、御師の屋敷が軒を連ねていた(最盛期で百軒近く)。富士講は江戸幕府の宗教政策にとって歓迎された存在ではなく、しばしば禁じられたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたことはなかったようである。
明治以後、富士講の一派不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教など、その一部が教派神道と化した。
また、明治以後、特に戦後、富士山や周辺の観光地化と登山自体がレジャーと認識されるようになったため、富士登山の動機を信仰に求める必要がなくなり、富士講は大きく衰退した。平成18年現在 、十数講が活動し、三軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている。
活動 [編集]

富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成っている。オガミにおいて、彼らは勤行教典「オツタエ(お伝え)」を読み、「オガミダンス(拝み箪笥)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて「オタキアゲ(お焚き上げ)」をする。また信仰の拠りどころとして富士塚という、石や土を盛って富士山の神を祀った塚(自然の山を代用することもある)を築く。現在、江古田(東京都練馬区)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基の富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている。富士詣は彼らの衰退とともにほとんど行われなくなったが、現在でも彼らを富士山で見ることができる。
上に述べたものとは別に、修験道に由来する富士信仰の講集団があり、彼らも富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上で述べたようなものと大きく異なり、富士垢離とよばれる初夏に水辺で行われる水行を特徴とする。また、富士山への登山も行うが大峰山への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる。
人穴 [編集]

角行が修行した地である人穴(静岡県富士宮市)は、富士講の人々にとっては浄土であり、富士講信者は富士参詣(登山)をすませると人穴にやって来たとされている。 後に富士講の人々は人穴に墓を建てたいと願い、仲間の協力を得て碑塔を建てた。それが現在、人穴周辺に見られる200基にも及ぶ碑塔群である。
八海めぐり [編集]

富士講では、富士登山の際に、富士周辺の霊地を巡ることになっている。特に「八海」と呼ばれる湖や池沼をめぐり水行(水垢離)を行うことは重要な修行とされた。八海には富士山周辺の「内八海」・「元(小)八海」(現忍野八海)と関東~近畿地方に広がる「外八海」とがある。
内八海 [編集]
泉水湖(せんづのうみ)泉端・富士吉田市
山中湖・山中湖村
明見湖(あすみのうみ)・富士吉田市
河口湖・富士河口湖町
西湖・富士河口湖町
精進湖・富士河口湖町
本栖湖・富士河口湖町
志比礼湖(しびれのうみ)四尾連湖・市川三郷町
昔は泉水湖の替わりに須戸湖(沼津市・富士市)を八海に数えていた。須戸湖(須津湖)は浮島沼とも呼ばれ、須戸湖は江戸時代から陸化され、現在では住宅地が広がっている。
外八海 [編集]
二見海(二見浦)・三重県
竹生島(琵琶湖)・滋賀県
諏訪湖・長野県
榛名湖・群馬県
日光湖(中禅寺湖)・栃木県
佐倉湖(桜ヶ池)・静岡県
鹿島湖(霞ヶ浦)・茨城県
箱根湖(芦ノ湖)・神奈川県
関連項目 [編集]

富士塚
参考文献 [編集]

岩科小一郎 『富士講の歴史』(名著出版、1983)
井野辺茂雄 『富士の信仰』(『富士の研究』3、古今書院、1928。名著出版によって1973と1983に復刻)
平野栄次  『富士浅間信仰』(雄山閣、1987)
宮田 登  『すくいの神とお富士さん』(吉川弘文館、2006)



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