乱鳥の書きなぐり

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天誅組 2   公卿中山忠光 尊王攘夷 天誅組の変

2018-07-11 | 民俗考・伝承・講演
 天誅組  公卿中山忠光 尊王攘夷 天誅組の変



 天誅組は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。
 大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した(天誅組の変)。
 天忠組ともいう。


 天誅組 1  中山忠光 天誅組の変
 天誅組 2  公卿中山忠光 尊王攘夷 天誅組の変

 公卿中山忠光  (天誅組にも記録)
 中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日(1845年5月18日) - 元治元年11月15日(1864年12月13日))は、江戸時代末期(幕末期)の公家。

 権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。中山忠愛は同母兄、明治天皇の生母中山慶子は同母姉にあたる。長府藩潜伏中、現地女性の恩地登美(トミ)を侍妾とし、仲子(南加、嵯峨公勝夫人)をもうけている。
 早くより真木保臣、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。
 文久3年(1863年)2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。
 久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。
 7月18日、水戸藩士吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。
 8月13日に大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村らと共に大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)。

 八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、幕府により追討を命じられた彦根藩や紀伊藩兵などにより鎮圧。
 忠光は大坂へ脱出し長州に逃れた。
 長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、同年11月15日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。
 享年20。
 墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。
 明治3年10月5日(1870年10月29日)、贈従四位。

 なお、長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われているが、実際の華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められ、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、長府藩もその制度に漏れなかったというだけである。



 尊王攘夷
 尊王攘夷(そんのうじょうい)の「尊王」とは、王=すなわち「天皇」を敬い、「攘夷」(じょうい)は、外敵(外国の侵略)を撃退しようとする思想。
 幕末の日本では、外国船が頻繁に日本近海に現れるようになり、江戸幕府に対して開国を要求しました。



 天誅組の変
 天誅組の変は、幕末の文久3年8月17日(1863年9月29日)に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅された事件である。
 大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる。


      ウィキペディア  他


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4 コメント

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尊王思想 (やまとなでしこあん)
2018-07-15 14:25:16
顔真卿を調べていくうちに、「靖献遺言」という書物の存在を知りました。儒教とは何だったのか?とか、神教とは何かとか考えさせられます。まあ、中国では一応孫文などを経て、王朝にピリオドが打たれていますが、漢民族が満州族を追い出しただけでは?ともとは考えすぎ??

「妻はくノ一」というドラマに松浦静山が出てきていましたが、素敵な人物として描かれていました。

さて、奈良は卑弥呼よりも国際的に活躍した聖徳太子にクローズアップしてもらいたいです。
返信する
顔真卿 (やまとなでしこあん様 乱鳥です。)
2018-07-15 18:08:20
こちらにも嬉しいコメントをありがとうございます。

顔真卿、もう一つの返事にも書きましたが、やまとなでしこあん様は書道に精通され、そこから色々と人げて知識を不増やされて、素敵な人生を集まれていらっしゃいますね。
顔真卿の文字自体、余裕を感じて、好きです。

今年に入って『隋書』のごく一部を読む機会にメギまれました。
『隋書』は、「白文」「和刻本正史『隋書』」「『隋書』中華書局 標点本」で、日本との関係箇所が乗った一部だけを読みました。

中国側からの、日本の描き方など、面白いなと感じました。意外とこういう歴史書を読むと、冷静に捉えることができますね。
日本人でありながら、世界規模で考えてしまいます。

「妻はくノ一」、見てみたかったです。
何かで見ることはできないでしょうか?(笑い)

捉え方や脚色によって物事や人物像はいかようにも描くことができるので面白いですね。
私は映画やドラマを見ながら、角度を色々と変えて同時進行で見るのが好きです。

>奈良は卑弥呼よりも国際的に活躍した聖徳太子にクローズアップしてもらいたい
 尤 尤尤 尤
と絵巻物の僧兵のように声を大にして言いたいです(笑み)

今年奈良博の夏期講習に行きます。
テーマは、「仏像」
楽しみです。

嬉しいコメントに感謝します。
暑いのでお身体御自愛の上、楽しんでくださいませ。

返信する
雙星彦馬 (やまとなでしこあん)
2018-07-15 21:03:55
早々に、心のこもったお返事をありがとうございます。

妻はくノ一は、元は小説だそうです。BSのドラマは市川染五郎さんが実直な天文学者の役で、とても愛情の深い素敵な男性を演じられました。私は、再放送までうっとりと見せていただきました。

仏像、いいですね!!昨年の秋に久しぶりにソウルへ行き、一人で地下鉄に乗り、半跏思惟弥勒菩薩像を見に行きました。ぐるりと一周して観れるようになっていましたが、日本の物のお顔などと随分と違い、何となく納得しました。きっとその頃から、国民性の違いがあったのではないかと思われます。それは、知性や道徳性の問題ではなく、気候風土や中国からの距離などの違いではないかと思いました。

それにしても、大事業を行った秦も隋も後の世に多くの物を残しながらも短命な王朝で、そのような原動力は何だったのか知りたいと最近特に思っております。きっと思っていれば、誰かが答えてくれそうです。(なんだか、いつもそんな風です。)

なので、長生きしようと思います。最近、三木清氏について知ることが出来ましたが、短命は嫌ですね!!

乱鳥さん!!いっしょに長生きしましょうね!!
返信する
嬉しいコメントをありがとうございます。感謝感謝です。 (やまとなでしこあん様 乱鳥です。)
2018-07-16 10:31:53
こちらこそ、嬉しい書き込みに感謝いたします。
ありがとうございます。

え!!!
染五郎(現在幸四郎かな?)さんがご出演なさってたのですか!!!
ショック。見ればよかったです。
実直な天文学者の役って、実直なっていうところが彼の芸風にあっていますよね。
若干平賀源内を思い浮かべたのですが、実直な中にもユニークさがあったのか知らん。
彼が出ていたのなら、なおさら見たかったです。

最近、ひとり旅ですか?!!
素敵。
海外で公共の乗り物に乗り目的地に着くと、世界の中の一個の人間としての自分を感じ、至福のひと時ですよね。
羨ましいです。
最近はワンコもいますし、子供も独立してますので、国内さえ、なかなか出かけることができません。
夫は、一人旅していいよって言ってくれてはいるのですが、主婦の私としてはなかなか踏ん切りがつかなくって。
でも、今行かなければダメっていう場所も多いですよね。
踏ん切りをつけて出発しようかな^^

偉人で短命な方は多いですね。
あとで、お話を大きく展開されて。(笑い)
異形の変形で、三白眼や他多くの少し人とは違う形状の方も、偉人に仕立てられますよね。
偉人を調べるのも、おもしろかったです。

日本、中国、朝鮮の仏像って、目の形や耳の形が随分と違いますね。
仏像や仏教はもう少し掘り下げて、人並み程度には知っておきたいと思う今日この頃です。
また教えていただければ、嬉しいです。

あはは、ほんとですね^^
趣味が続けられる元気な体で、長生きしましょう!!
多少の故障は覚悟の上、とにかく、良い意味で、とことん遊びましょうね。

今後もよろしくです^^
返信する

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