乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

後藤謙次氏「菅総理大臣は、東京五輪ありきで、安全安心の繰り返しBAKAりで、本質に触れず国民に答えていない。」 「小池東京都知事もまた然り」

2021-05-24 | 乱鳥徒然 Rancho's room.

 2015、09満月

 地球人口が増えすぎているので、いずれ疫病は起こるであろうとは思っていたが、まさか、自分が生きている間に、こんなに恐ろしいパンデェミックが起こるとは思いもよらなかった。2019年12月末頃、北京では京劇など毎夜楽しんんでいたが、すぐ後にコロナウイルスが広がった。こんなことなら、先に、シチリア等に行っておくべきであった。子供が誘ってくれたウズベキスタンにも行って、この国のモスクも見ておくべきだった。後悔することしきりなし。疫病は怖い。だが、利権が絡んだ政治経済や人間はもっと怖い。何も言うまい。言っても勝手に世の中が動く。ワクチンは足りない。各々が自分の立場で物事を考え放ち、それも聞こえぬと世界単位で悪魔が動く。人間の右往左往は、小さな自然界を垣間見ているようだ、、、、、と、どなたかがおっしゃっていました、、、か???いえいえ、それは知りませぬ。

 

 

 後藤謙次氏 他(ABC 6 TV)多くの方々がおっしゃるには

自称ガ○スー総理大臣は、東京五輪ありきで、安全安心の繰り返しBAKAりで、本質に触れず国民に答えていない。」

小○東京○知事もまた然り」(要約)

 

「そもそも、オリンピックの本質って何ですか?!と言うことを考えなければいけない!!!!!」

とおっしゃっていた。

 

 後藤謙次氏、あっぱれ!ブラボー!

 

 経済上色々な考え方があるだろうが、人の命を軽視される世の中。

 そもそもオリンプックの契約書を日本国民に公表せずに、あのように解約できない一方的な契約にサインするとは何事か?

    と、どなたかが、おっしゃっていました、、、か?!

 

古代オリンピック (ギリシア人の血筋を持つ者のみ 裸体で参加、罪を犯した者や女性は参加不可。詩の大会も有り) (英: Ancient Olympic Games)をウィキる

詩の読み上げも無くなり、スポーツに特化したオリンピック。国際オリンピック委員会が創立されたのは、1894年という歴史の浅さである。  再度、「古代オリンピック」について。    

後藤謙次氏「菅総理大臣は、東京五輪ありきで、安全安心の繰り返しBAKAりで、本質に触れず国民に答えていない。」 「小池東京都知事もまた然り」

 

 どなたかが、古代オリンピックについて、  三度言わせていただきたい!らしい、、、

 

  詩の読み上げも無くなり、スポーツに特化したオリンピック。

  国際オリンピック委員会が創立されたのは、1894年という歴史の浅さである。

 

 

 

古代オリンピック (英: Ancient Olympic Games)をウィキる

 

 古代オリンピック(こだいオリンピック、(英: Ancient Olympic Games)

 古代オリンピック(こだいオリンピック、(英: Ancient Olympic Games)は、古代ギリシアのエーリス地方、オリュンピアで4年に1回行われた当時最大級の競技会であり、祭典である。

 ギリシア語ではオリュンピア大祭、オリュンピア祭典競技とも呼ぶ。

 オリュンピアにはエーリスの祭神・ゼウスの神殿があった。

 本競技会・祭典は紀元前8世紀から紀元後4世紀にかけて行われたもので、ギリシア四大大会(後述)のひとつである。

 最盛期にはギリシア世界各地から選手が参加した。

 ギリシア人はこれを格別に神聖視し、大会の期間およびそれに先立つ移動の期間、合計3ヶ月ほどをオリュンピア祭のための休戦期間に挙げた。

 またギリシア語資料では広くオリュンピア祭の回数、すなわちオリンピアードをもって年を数えることが行われる。

 ギリシア人の血筋を持つ者しか参加が許されず、罪を犯した者も参加できなかった。

 

 オリンピック以外の古代ギリシア競技祭典

 四大競技祭典開催地(オリュンピア、デルポイ、イストモス、ネメアー) オリュンピアで行ュンピアで行われるオリュンピア祭は、ギリシアにおける四大競技大祭のうちの一つであった。

 

 これらの四つの競技大会は以下の通りである。

 オリュンピア大祭:開催地オリュンピア 4年に1度開催 

    祭神:ゼウス ネメアー大祭:開催地ネメアー 2年に1度開催 

    祭神:ゼウス イストモス大祭:開催地イストモス(現・イストミア) 2年に1度開催 

    祭神:ポセイドン ピューティア大祭:開催地デルポイ 4年に1度開催 

    祭神:アポロン これら4つの競技大祭のうち、大神であるゼウスに捧げられるオリュンピア祭が最も盛大に行われた。

 

 ゼウスが男神であることから、オリュンピア祭は女人禁制であった。

 そして奉納競技において競技者が裸体となることが関係していたとも考えられる。

 ポリスの日常生活にかかせない体育競技場においては、男性であっても競技を行わず衣服をまとって入場することがはばかられたほどであった。

 

 ただし、戦車競走では御者ではなく馬の持ち主が表彰されたので、女性が表彰された例はわずかにある。

 しかし、女子競技の部ともいうべきヘーライアという祭りが行われていた時代もある。

 これは名のとおりゼウスの妃ヘーラーに捧げる祭りで、オリュンピア祭と重ならない年に行われていた女子のみの祭典となっている。

 競技は短距離走のみで、右胸をはだけた着衣で行われたと当時を伝える像から考えられており、現在の夏季五輪のメダルに浮き彫りにされた勝利の女神はこれを着用している。

 

 競技優勝者にはオリーブの冠と犠牲獣の肉が分け与えられ神域に自身の像を残す事が許されているが、実際は肖像を壁画に残す等の事が多く行われている。

 なお、オリュンピア祭では体育だけでなく詩の競演も行われたことが伝わっている。

 

 初期の古代オリンピック

 古代ギリシアにおいて信じられた直接の起源は、次のようなものである。

 伝染病の蔓延に困ったエーリス王・イーピトスがアポローン神殿で伺いを立ててみたところ、争いをやめ、競技会を復活せよ、という啓示を得た。

 イーピトスはこのとおり競技会を復活させることにし、仲の悪かったスパルタ王・リュクールゴスと協定を結んだ。

 オリュンピアの地に武力を使って入る者は神にそむくものである、というもので、この文字が彫られた金属製の円盤がヘーラーの神殿に捧げられた。

 この円盤はのちに発見された。

 ただし円盤は現存しないことと、協定を結んだとされるリュクールゴス王が実在したかどうか不明のため、この由来には疑問視する声もある。

 

 こうしてエーリス領地内のオリュンピアで始まったオリンピックだが、最初のうちの記録は残っていない。

 記録に残る最初のオリュンピア祭は、紀元前776年に行われた。

 古代オリンピックの回数を数えるときには、この大会をもって第1回と数えるのが通例である。

 勝者はエーリスのコロイボスであった。

 ただし、さきの円盤の作成年代などから推測して、この古代オリンピックの開始年は、もう少し遡ると考えられている。

 競技会の行われた季節は麦の刈り入れが終わり、農民が若干暇になるユリウス暦の8月だったと考えられている。

 最初はエーリスとスパルタの2国のみの参加だったオリュンピア大祭は、正確に4年に一度開催され続け、しだいに参加国も増えてきた。

 そしてついに全ギリシア諸国が参加するようになった。この大会はギリシア共通で使われる暦の単位にもなった。

 オリュンピアードという単位で、これはあるオリュンピア大祭が開催されてから次の大祭が開催されるまでの4年間を示す。

 年を特定するためには「第○○オリュンピアードの第×年」と数える。

 

 中期の古代オリンピック

  オリュンピアのゼウス神殿(復元図)  古代オリュンピア聖域(復元想像図) オリュンピア大祭は、エーリス州のゼウスの神殿が建てられたオリュンピアの聖域にある競技場(スタディオン等)で開催された。

 開催1ヶ月前には開催を告げる使者がギリシア全体を回り、大会開催中の1か月の間は休戦となった。

 のちに参加都市国家が増えると、休戦期間はオリンピック開催時を含め前後に合計3か月伸びた。

 この休戦期間をエケテイリアという。

 この休戦は、オリュンピアに向かう競技者や観客の旅の安全を保障するためであった。

 ゼウスは旅行者の守護神であり、オリュンピア祭への旅の道はとりわけゼウスによって加護されると考えられた。

 そして、この禁を破った国はオリュンピア祭への参加が拒否されたほか、他国から外交関係を絶たれることにもなった。

 スパルタは実際に禁を犯してエケテイリアの時期に他国を攻めたため、オリュンピア大祭に参加できなかったことがある。

 このほか、オリュンピアをピーサに征服されたエーリスが、オリュンピア大祭開催中にオリュンピアに攻め込んだこともあった。

 大祭は初期にはスタディオン走のみで1日で終了した。

 のちしだいに競技種目も増え、紀元前472年には5日間の大競技会となっていた。

 参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人の自由人男子のみで、女、子供、奴隷は参加できなかった。

 不正を防ぐため、全裸で競技が行われ、指導者も全裸だった。

 

 勝者には勝利の枝(この枝の木の種類は諸説あり)と勝利を示すリボンのタイニアが両腕に巻かれ、ゼウス神官よりオリーブの冠が授与され自身の像を神域に残す事が許された。

 競技会は大神ゼウスに捧げられる最大の祭典でもあった。

 祭りであるので殺し合いは固く禁じられた。

 格闘技で相手を殺した勝者には、オリーブの冠は贈られなかった。

 逆に、勝者であれば死者であっても冠が贈られた。

 パンクラティオンで相手が降参するのと同時に倒れて死んだ勝者に対して審判が冠を授けたという。

 

 審判はきわめて初期はエーリス王が当たったが、競技の数が多くなるとエーリス市民からくじで選ばれた。

 選ばれた審判たちは、オリンピック期間中、神官として扱われた。

 審判はエーリスに設けられた専門の施設で競技規則について10か月に渡り専門家から教えを受けた。

 その間に、続々と各国から選手が集まり、1か月前になると、選手とともに合宿練習をして、練習試合の間にまた規則の確認を行った。

 予選もここで行われた。  

 オリュンピアのスタディオン 大会直前になると、エーリスからオリュンピアまで全選手、役員が行進した。

 距離は50キロ以上になる。

 

 競技会初日は開会式兼儀式が行われ、最終日は勝者のための宴が丸1日かけて催された。

 競技は間の3日間で行われた。 競技は第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走のほか、ディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、五種競技、円盤投、やり投、レスリング、ボクシング(拳闘)、パンクラティオン、戦車競走、走り高跳びなどがあった。

 

 少年競技の部もあったが種目は少なかった。

 

 最終種目は武装競走だった。

 盾を手に1スタディオンを走って往復する。

 戦車競走では、勝者への冠は御者ではなく、馬車の所有者に与えられた。

 このため、女性でオリーブの冠を授かった者が2名いる。

 

 体育のほか、詩の競演なども行われた。

 

 女性の参加と観戦に関しては、研究者の間で意見が分かれている。

 そもそも、競技大祭中は、オリュンピアには女は入れなかった、という説と、神殿と競技場には入れずに、外でテントを張って待っていた、という説と、競技場内でもフィールドに立ちさえしなければ実質的には咎めはなかった、という説と、未婚女性に限り、競技場観客席での観戦が許された、という説がある。

 少なくともエーリスの女神官が観戦していたことだけは確からしい。

 女人禁制の掟を破ったものは、崖から突き落とされる(実質的には死刑)というルールであったが、記録に残る限り適用例はなく、象徴的なルールであったとも考えられる。

 オリーブの冠を授かった者は、神と同席することを許された(競技会後、オリュンピアの神殿敷地内に優勝者の像がつくられることに由来する)者として、故郷で盛大に迎えられた。

 祖国の神殿に像が作られた競技者もいるし、税が免除されることもあった。

 いずれにしても祖国の歴史にながく名が刻まれることになった。  

 オリュンピア遺跡にあるフィリペイオン マケドニア王国の人々は、国政が都市国家でない上に辺境に住んでいたため、ギリシア人であるにも関わらず古代オリンピックに参加していなかった。

 しかし、アレクサンドロス1世は自らの先祖をヘーラクレースと主張し、結果としてギリシア人であると認められ、紀元前6~5世紀頃から古代オリンピックに参加できるようになった。

 後にピリッポス2世がカイロネイアの戦いに勝利した際には、フィリペイオンというイオニア式のトロスが献納されている。

 アレクサンドロス大王がアレクサンドロスと名付けられたのも、ピリッポス2世が古代オリンピックで優勝した年に彼が生まれたので、それを記念し、マケドニア王で初めて古代オリンピックに参加したアレクサンドロス1世から名を取ったという。

 ローマの人々も、神話によって自らの祖先がギリシア人であると証明し、紀元前6世紀頃から既にギリシア都市国家に混じって参加を許されていた。

 このように、神話によって民族の系譜を遡り、それが最終的にギリシア人へと行き着くならば、例えバルバロイであっても参加は可能であった。

 

 末期の古代オリンピック

 オリュンピアのゼウス神殿跡

 しかし、この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生んだ。

 祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗した。

 買収を行ったものと応じたものは多額の罰金が科せられただけでなく、その不正の深刻さに応じて肉体的懲罰や大会追放が言い渡された。

 この罰金を元に、オリュンピアに「ザーネス」と呼ばれる不正を象徴する見せしめのゼウス像が作られたが、ゼウス像の数は増える一方だったという。

 

 記録によれば最終的には16体までザーネスが建てられたとされるが、今日のオリュンピアに残されているのはその基部のみとなっている。

 ローマがギリシア全土を征服し、属州に編入した後もオリュンピア祭は続けられたが、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために第211回オリュンピア競技会の日程を本来行うべき65年から無理やり67年にずらしたのみならず、たとえ競技に敗れても優勝扱いにさえなっている。

 ネロの権力の濫用と不正に対する批判は強く、この祭時を変えさせてまで開催を強行した大祭は後に正式な大祭とされず、ネロの死後公式記録から抹消された。

 しかし変更された祭時は戻される事なくそのままで、最後の第293回大祭までこれは変わっていない。

 また、自分の歌を披露するため、音楽競技を追加した。

 ネロは7種目で優勝したとされるが、その競技内容は悲惨で、特に音楽競技は聴くに堪えない劣悪なものだったという。

 ネロの死後、この大会の存在そのものがエーリスの公式記録から抹殺された。

 このため、この大会をオリュンピア大会と認めない研究者もいる。

 

 最末期、キリスト教が広まるにつれ、異教ローマ神の祭典であるオリュンピアは、しだいに廃れていった。

 313年、ローマはキリスト教を認め、392年、国教とした。

 この時キリスト教以外の宗教は禁じられた事によりオリュンピア大祭も禁じられる事になった。

 最後の第293回オリュンピア祭は、翌393年に開催され、これが古代オリンピック最後の年となった。

 この後、ローマの異教神殿破壊令によりオリュンピアは神域を破壊され長い歴史の幕を閉じている。この最後のオリンピックについては、記録が残っていない。

 記録に残る最後の古代オリンピックは、369年の第287回オリンピュア祭で、それも、拳闘の勝者のみが記録されている。

 このためこの回を最終回とする研究者もいた。

 しかし、その後、1990年代になってから、オリュンピアで、末期の361年の第285回オリュンピア祭までの全競技の勝者を記録した青銅板が発掘された。

 それまでは、末期、キリスト教が広まってからのオリュンピアはエーリスとその近隣諸都市だけで細々と行われていたと考えられていたが、青銅板の最後の記録、361年までは、広くギリシア語圏内から競技者が参加していたことが判明した。

 この青銅板が後世の偽作であると疑う意見もあるが、証拠はなく、ひとまず、これが末期古代オリンピックに関する主流の見方になっている。  (以上 Wikipedia)

 

 ギリシアとローマ(イタリア)は学生時代に行ったが、もう、いけないかしらね^^

 古代ギリシャをウィキペディアで改めて調べてみると、私が以前に某書物で読んだ古代オリンピックとは違った側面を持っていた。

 ウィキペディアでは差別は緩やかに記されているが、いずれにせよ、むにゅむにゅむにゅ^^

 聖火リレーが始まったが、世界の人々はどう受け止めているのだろうか。

 アマビエブームの時のように

「日本だから、仕方がない。」

と有名ニュースペーパーで言われるだけでは済まない。

 オリンピック、、、か、、、コロナが拡大しないことだけを願う。

 

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日本絵巻大成 47 【五巻 公卿、庭上に横一列になって、天皇を拝する。】(内大臣以下の束帯姿の公卿が 12人。庭上に横一列になって、天皇を拝する。)九紙〜十二紙 中央公論社 小松茂実

2021-05-24 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

洛中洛外図屏風

 

 

 

日本絵巻大成 47 【五巻 公卿、庭上に横一列になって、天皇を拝する。】内大臣以下の束帯姿の公卿が 12人。庭上に横一列になって、天皇を拝する。)九紙〜十二紙 中央公論社 小松茂実

 

『年中行事絵巻』(P.24〜26)のよれば、公卿、庭上に横一列になって、天皇を拝する内大臣以下の公卿が 12人の横の一人は、靴(かのくつ)を履いて、手には空椀を掲げており、12人に歩み寄る。

 喪唐衣(もからきぬ)の正装を着ている。

 

 建春門→宣陽門→内室→温明殿(東面)綾綺殿→紫辰殿(北戸)へと続く。

 

 

唐衣とは

 男性の束帯に相当する女性の第一正装。

 唐衣はその一番上に着る衣なので、十二単の装束の中で一番美しく構成され、唐服を模したところから唐衣と言われる。

 上半身を羽織るだけの短い衣で、背身頃は前身頃の約三分の二の長さ、袖丈より短い。  

 桁も下の「襲(かさね)」を見せるため短く出来ている。

 奈良朝時代には袖がなかったが、藤原時代に袖がつけられた。

 最初は袖口に置口といって飾りの別裂がついていた。

 襟は裏を返して着る。

 地位により地質・色目・文様に区別があるが、普通には地文の上にさらに別の色糸で上文を織り出した二重織物が用いられ、裏地には板引きの綾絹などを用いる。

 

 

 

 

以前にもい調べたが、、、今一度、、、

束帯姿   (ウィキペディア)

 束帯の構成は下から、単(ひとえ)・袙(あこめ)・下襲(したがさね)・半臂(はんぴ)・袍(ほう)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。

 冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。

 帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。

 公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた。

 なお、束帯には文官・武官による区別があり、文官と三位以上の武官は、縫腋袍(ほうえきほう)を用い、冠は垂纓とした。

 四位以下の武官は、闕腋袍(けってきほう)を用い、冠は巻纓とした。

 さらに、武官・中務省の官人、勅許を得た参議以上の文官は、大刀を佩用した。その場合、大刀は平緒(ひらお)で括り、腰に結びつけた。

 

束帯姿の特徴  (ウィキペディア)

 下襲の後ろ身頃(背部)は長くできており、着用時は長く尾を引くように引き擦った。

 この部位を「裾(きょ)」と呼び、束帯姿の大きな特徴である。

 また、裾の長さによって身分が表されるようになると、下襲自体が長大になった為、下襲と裾が分離するようになった。

 その場合、下襲を着た後に腰に裾を当て、裾から伸びる帯を前に回して結びつけた。

 しかしながら、天皇と皇太子が着用するものに関しては下襲と裾が続くものとされている。

 また、纔著(さいじゃく)と言われる丈の短い裾もあり、地下官人の束帯に用いられた。

 文官は冬期は半臂を廃して着用していた。

 これは文官の用いる縫腋袍は脇が縫われているので、着用の有無を外見から判別出来ない為である。

 夏期は半臂が透ける(袍の布地が薄い為)ので着用されていたが、近世に入ってからは夏期も廃された。

 なお、『今鏡』には、冬期にくだけた場面で袍を肩脱ぎした際、皆下襲が露わになる中で藤原教通のみがきちんと半臂を着用しており、周囲がいたく自らを恥じた、という伝承が残されている。

 この事から、本来は冬期も半臂を着用する制であったことが窺える。

 天皇に関しては半臂を略さないとされる。

 衣冠は本来、宮中に於ける宿直用の装束(とのいぎぬ)であったが、宮中での勤務服として定着するにつれ、束帯は儀式に用いる儀礼的な服となった。

 このため、両者をまとめて「衣冠束帯」とも呼ぶ。

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日本絵巻大成 46 【五巻 公卿、庭上に横一列になって、天皇を拝する。】(内大臣以下の束帯姿の公卿が 12人。庭上に横一列になって、天皇を拝する。)六紙〜十紙 中央公論社 小松茂実

2021-05-24 | 乱鳥徒然 Rancho's room.

滋賀県 信楽

 

 

日本絵巻大成 46 【五巻 公卿、庭上に横一列になって、天皇を拝する。】内大臣以下の束帯姿の公卿が 12人。庭上に横一列になって、天皇を拝する。六紙〜十紙 中央公論社 小松茂実

 

『年中行事絵巻』(P.24、26)のよれば、公卿、庭上に横一列になって、天皇を拝する。

 内大臣以下の公卿が 12人

 青(青緑)の抉剔(けってき)の袴(後ろに長く垂れ伸ばしたもの)「束帯姿」

 

 建春門→宣陽門→内室→温明殿(東面)綾綺殿へと続く。

 

以前にもい調べたが、、、今一度、、、

束帯姿   (ウィキペディア)

 束帯の構成は下から、単(ひとえ)・袙(あこめ)・下襲(したがさね)・半臂(はんぴ)・袍(ほう)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。

 冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。

 帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。

 公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた。

 なお、束帯には文官・武官による区別があり、文官と三位以上の武官は、縫腋袍(ほうえきほう)を用い、冠は垂纓とした。

 四位以下の武官は、闕腋袍(けってきほう)を用い、冠は巻纓とした。

 さらに、武官・中務省の官人、勅許を得た参議以上の文官は、大刀を佩用した。その場合、大刀は平緒(ひらお)で括り、腰に結びつけた。

 

束帯姿の特徴  (ウィキペディア)

 下襲の後ろ身頃(背部)は長くできており、着用時は長く尾を引くように引き擦った。

 この部位を「裾(きょ)」と呼び、束帯姿の大きな特徴である。

 また、裾の長さによって身分が表されるようになると、下襲自体が長大になった為、下襲と裾が分離するようになった。

 その場合、下襲を着た後に腰に裾を当て、裾から伸びる帯を前に回して結びつけた。

 しかしながら、天皇と皇太子が着用するものに関しては下襲と裾が続くものとされている。

 また、纔著(さいじゃく)と言われる丈の短い裾もあり、地下官人の束帯に用いられた。

 文官は冬期は半臂を廃して着用していた。

 これは文官の用いる縫腋袍は脇が縫われているので、着用の有無を外見から判別出来ない為である。

 夏期は半臂が透ける(袍の布地が薄い為)ので着用されていたが、近世に入ってからは夏期も廃された。

 なお、『今鏡』には、冬期にくだけた場面で袍を肩脱ぎした際、皆下襲が露わになる中で藤原教通のみがきちんと半臂を着用しており、周囲がいたく自らを恥じた、という伝承が残されている。

 この事から、本来は冬期も半臂を着用する制であったことが窺える。

 天皇に関しては半臂を略さないとされる。

 衣冠は本来、宮中に於ける宿直用の装束(とのいぎぬ)であったが、宮中での勤務服として定着するにつれ、束帯は儀式に用いる儀礼的な服となった。

 このため、両者をまとめて「衣冠束帯」とも呼ぶ。

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日本絵巻大成 45 【五巻 内宴のため、建春門に参着する公卿】(公卿が建春門や宣陽門に向かう)一紙〜六紙  建春門→宣陽門→内室→温明殿(東面)へと続く。

2021-05-24 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

東大寺 大仏殿内

 

 

日本絵巻大成 45 【五巻 内宴のため、建春門に参着する公卿】(公卿が建春門や宣陽門に向かう)一紙〜六紙 中央公論社 小松茂実

 

『年中行事絵巻』(P.24、25)のよれば、内宴のため、建春門に参着する公卿】(公卿が建春門や宣陽門に向かう)

 

 建春門の屋根の一部を描き、あとは霞で描く。

 

 建春門→宣陽門→内室→温明殿(東面)へと続く。

 

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ドラマ 田村正和さん追悼『松本清張 疑惑』放送 2009年版 脚本 竹山洋 監督 藤田明二 田村正和、沢口靖子、小林稔侍、若村麻由美、笹野高史他

2021-05-24 | ドラマ

柳沢神社『川中島合戦』

 

  ドラマ 田村正和さん追悼『松本清張 疑惑』放送 2009年版 脚本 竹山洋 監督 藤田明二 田村正和、沢口靖子、小林稔侍、若村麻由美、笹野高史他

 

 

 いつもなら、少し怖い気がして、追悼ドラマや映画を見ない私である。

 が、どういう風の吹き回しであろう。

 前日の『古畑任三郎』の加えて、途中からとはいえ、田村正和さん追悼『松本清張 疑惑』を見た。

 

 沢口靖子のあの美貌を覆すかのような真剣な、取り組みの獄中での、デビッド・ボウイのような表情。

「寒いんです。先生、とっても寒いんです(要約)」

の、心の叫びが、ラストの展開につながる。

 あまりにも、切ない。

 

 田村正和の法廷での弁護は、鮮やかであった。

「明白」と言う言葉を二度ばかり使い、証言を強調する。

 この手法は、ソクラテスがおおいに用いる弁論の技術の一つである。

 田村正和の美しさと、こなれた枯れた声の響きが調和をなして、説得力に匠を増していた。

 

 少しかけたが、途中から見ることができて良かった。

 

 

2009年版  松本清張生誕100年特別企画 疑惑 ジャンル テレビドラマ 原作 松本清張『疑惑』

脚本 竹山洋 監督 藤田明二

出演者 田村正和 沢口靖子

音楽 沢田完 製作 プロデューサー 五十嵐文郎ほか

制作 テレビ朝日 放送 放送国・地域 日本の旗 日本 放送期間 2009年1月24日 放送時間 21:00 - 23:21

テレビ朝日開局50周年記念 テンプレートを表示 テレビ朝日の開局50周年記念と、松本清張の生誕100周年を記念して、2009年1月24日21時 - 23時21分にテレビ朝日スペシャルドラマとして放送された。

視聴率は18.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。

事件の舞台を金沢市としている。

主役の田村にとって、松本清張作品への出演は1984年放送の「松本清張の地の骨」(フジテレビ)以来25年ぶりであった。

なお、カースタントではメルセデス・ベンツCクラス(W202)が使用された。

2021年5月23日、田村正和の追悼特別番組として再放送された。

 

 

  • 原作:松本清張「疑惑」
  • 脚本:竹山洋
  • 監督:藤田朋治

 

佐原卓吉:田村正和

白川球磨子:沢口靖子

秋谷容子:室井滋

田中純子:真矢みき

高原マキ:若村麻由美

裁判所の判事:内山理名(友情出演)

桜井課長:渡辺いっけい

野島秀夫:橋爪遼

大堀裁判官:野元学二

原山正雄:津川雅彦

白川福太郎:小林稔侍

小林健 井之脇海 白川球磨子

(少女時代):黒瀬真奈美

酒井部長:矢島健一

佐々木圭子:朝加真由美

木下保:笹野高史

ナレーション:遠藤憲一

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