絵図は二巻
日本絵巻大成 44 【五巻 内宴】(内裏の仁寿殿(じじゅうでん)に作文(さくもん)(漢詩)に才ある臣下を集めて行われた詩宴が起源。)一紙〜三十二紙 中央公論社 小松茂実
『年中行事絵巻』(P.24)のよれば、内宴の行事は、正月二日か二十一日〜二十三日までに、子(ね)の日があれば、それを当日と定めた。
内宴とは (日本大百科全書)
朝廷年中行事の一つ。
毎年、通常は正月20日、正月21日から23日のいずれか1日が子(ね)の日であれば当該日を選び行われた。
天皇主催による内々の宴の意。内裏の仁寿殿(じじゅうでん)に作文(さくもん)(漢詩)に才ある臣下を集めて行われた詩宴が起源。
史料上の初見は嵯峨天皇の809年(大同4)。
812年(弘仁3)、813年などの諸説がある。
本来は不定期の宴であったようだが、仁明(にんみょう)朝(833~850)頃より式日が定まった。
後一条天皇の1034年(長元7)以後は途絶し、1158年(保元3) 内裏新造を機に藤原通憲(ふじわらのみちのり)(信西(しんぜい))らが再興し、翌年も続行されるが以後は途絶えた。
同時期に作成された行事絵『年中行事絵巻』中に具体的な式場の様子等が描かれている。
院政期頃より和歌・詩会の遊宴の典型例として、以後の宮廷文芸行事の行事内容にも影響を与えた。 [佐多芳彦]
『倉林正次著『饗宴の研究 儀礼編』(1965・桜楓社)』
『山中裕著『平安朝の年中行事』 (1972・塙書房)』
『鈴木敬三著「年中行事絵巻『内宴』について」(「日本歴史」134)』
内宴とは (ウィキペディア)
内宴(ないえん)とは、平安時代に1月下旬に内裏にて行われた宮中の私宴。
中国(唐)の風習に基づいて嵯峨天皇の時代に始められたとされているが、具体的な成立年については大同4年(809年:『類聚国史』)、弘仁3年(812年:『年中行事秘抄』)、同4年(813年:『河海抄』)と諸説に分かれている。
当初は特定の期日は無かったが、仁明天皇の時代以降に原則は1月21日、ただし1月22日もしくは23日が“子の日”であれば、その日に開催されることとなった。
なお、この日程に開催されることになった背景には一連の新年の儀式が一段落し、天皇がそれらに参加した貴族らを慰労する意味があったと言われている。
当日は天皇が仁寿殿の南面東廂に出御して三献を行った後、文人の詩や内教坊の舞姫の女楽奏舞の披露、後宴と采女や更衣による陪膳を伴う後宴などが実施された。
後一条天皇の長元7年(1034年)を最後に中絶し、その後保元3年(1158年)に信西によって再興されるが、翌年発生した平治の乱で信西政権が崩壊すると、再度中絶して再興されることは無かった。
子の日 (「ねのび」とも) (日本国語大辞典)
① 十二支の子にあたる日。
特に、正月の最初の子の日をいうことが多い。
この日、野に出て小松を引き若菜を摘み、遊宴して千代を祝う。《季・新年》
※亭子院御集(10C中)「ねのひに船岡におはしましたりけるに」
② 「ね(子)の日の松」の略。 ※後拾遺(1086)雑四・一〇四六「君がうゑし松ばかりこそ残りけれいづれの春の子日なりけん〈源為善〉」 [補注]「ネノヒ」は「根延(の)び」に通じると解され、「日葡辞書」「書言字考節用集」に「ネノビ」と三拍目が濁音の例が見られる。