乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

日記 スコットランド国立美術館展

2006-04-30 | 美術・文様・展示物
日記



 スコットランド国立美術館展




  フランス印象派と19世紀スコットランドの画家たち



                奈良県立美術館




 家族と奈良県立美術館に行く。

 各品の点数は多い。

 中には興味深い絵も何点か展示されていた。




 平日ということもあって、会場は空いている。

 私たちは思う存分に、ゆっくりと観られた。



 三時間足らずはいたであろうか。

 満足感と幸福感を胸に、見術館を後にした。






    興味深い作品の数々





 ディヴィッド・ヤング・キャメロン



 油絵2点、後は白黒小品数点。

 面白い。

 特に『モンジー城』は青インクで表現されたようで、浮世絵的。

 水面横線が美しい。




 ロバート・ゲルム・ハッチソン


 『イチゴとクリーム』
 
 優しく季狩が包み込み、風邪を感じる作品。





 ギュスターブ・クルーべ


 『峡谷の川』は色が美しく、透明色を課kら早稲手あるので、重厚感がある。

 全体の青緑をサインのオレンジ色でしめている。

 それぞれを色彩によって質感を出し、素晴らしい。

 特に雪山は見事である。






 アレキサンダー・ネイスミスの『人と羊のいる風景』は重厚感、逆光が心地よい。





 同じく逆光の点で、ホレイショー・マックロックも共通点あり。輪郭がはっきりしていて、空は写実的。





 アレキサンダー・フレイザーの『カゾの森の空き地』は、透明色が重ねあわされている。

 色は美しいが、人物のデッサン力は望めない。

 画面はテレピン使用で、つるつるしている。




 ロバート・ハードマンの『コーリの河岸、アラン島』は細密描写。

 一繰り返しの色は着物の糊おきの色のようで きれいではないが、好きな作品。




 ウイリアム・マクタガートの『静かな日没・・・』は離れてみると、題名の通り静かな水面。風のない夕日が美しい。

 この時代は水面が横に描かれているが、写実主義の時代には水面の筆使いが縦なのは、興味深い。





 上に対して、水面を立てに描いた作品を一部紹介したい。




 ジュール・デュプレの『釣り人』

 水面は縦に描かれているが、光が差し込んでいるように見える。

 色も美しく、好きだ。





 ヤコブ・マリスの作品は共通して構図がした四割以内に集中している。

 空の空間が、日本の俳画を思わせるが、色彩はまるで違う。

 空は背面的で淡色に比べて、四割は細密に描かれる。

 この部分の色は非常に美しい。



 有名なモネの『港の船』の水面は大胆で、面白い。

 色が好き。

 さらりと描かれているが、乗組員の表情は豊かだ。

 モネの後のに作品は、個人的には関心しない。



 ルノワールは一点のみ。

 結構いい作品が来ていた。

 ルノワールとだけあって、作品の前は人だかり。

 やはり有名な画家の作品は人気がすごい。




 カミュー・コローの『柳の木立近くで・・・』は輪郭と光の融合が見事にこなれていた。

 素晴らしい。

 彼の作品は遠近も好感が持てる。

 さすが・・・・




 ナルシス・ディアズ・ド・ラ・べーニャの『森の中の水たまり』は上質の売り絵の様。

 モンテルナスの丘に行くと、こういった絵も多い。

 書き込みすぎて、逃げ場がない。




 フランソワーズ・ボンヴァンの『アスパラガスのある風景』は離れてみると,色感もさることながら、質感が素晴らしい。




 

 







 スコットランド国立美術館展も楽しめる素晴らしい展覧会であった。






 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記  オソメヒサマツ(オソメのゴヤク)

2006-04-30 | 歌舞伎
 日記



   オソメヒサマツ  色読売 オソメのゴヤク 




               浪速ハナガタカブキ 
               ショウチク座


               鶴屋南北作
               タカタロウ アイノスケ 




 本日はオソメヒサマツ色読売を観劇。

 面白かった。

 の早替りは見事で、ワクワクする。

 オソメのため早替りのテクニックも見事で、工夫されているなあと痛感。

 オソメの衣装は華やかで、ブンラクを思い起こさせる。





 ヒサマツを思い、気がふれる。猿回しの夫婦の男にヒサマツを見出し、気の迷いは増してゆく。
  

 タカタロウは最近未来めきと力をつけておられ、好きな役者の一人だ。
 
 気のふれたシーンも 結構真に迫っていた。



 オソメ(町娘)とヒサマツ(ワカ衆)の入れ替わり立ち代りの早替りの場面はたっぷり膨らませてある→お光(田舎娘)→雷(道化)→土手のお六(悪婆)



 上の早替りにおけるタカタロウの演技や装いは見事で、難しい役柄をこなしておられた。

 しいて言うならば、雷の演技はもっとタカタロウここにあり といった印象を植え付けるくらいの迫力があれば最高。

 性格的にまじめでおとなしい方なのだなぁと感じる雷でした。




 早替りで好きだった役柄は 土手のお六(悪婆)

 いつも上品な女役の多いタカタロウが、荒くれ女に変身。

 

 首抜き衣装に身をまとい、襟足を抜いて着こなす。

 すそには大きなマツシマ屋の印の文様。

 カツラにさらりとかんざしさして、頭は小粋な姉御風。

 細めの帯をキリリと締めて、化粧もラインをきつく引く。

 気性を強く、あご引く。

 いつもよりまっすぐに脚伸ばし、大また歩きですそをける。

 こしは落とさず、肩傾けず、親指はいつもより外に出す。




 観てましたよ、タカタロウ!

 いつものあなたも好きだけど、今日のあなたも発見でした。

 本当にうまくなられました・・・・

 さすがにニザエモン様の御子息だと、何でも好きな役者に関連付ける自分が怖い。


 





 この演目でも、アイノスケはニザエモンのようにこの役柄をうまくこなしていた。

 表情から台詞、視線などかなり似ており、ニザエモンの好きな私はワクワクする。

 もう少しニザエモン似にさせるとするならば、斜め立ち。

 役柄にもよるが、立ち姿の際、左足をもっと後ろに引くことだ。

 するともっと小粋な男が出来上がる。

 がんばれ、アイノスケ。

 良い意味で、もっと図太く前に出て!




 吉ヤはやはり男の方にかなりの人気があった様子。

 女形で、彼の演技に(または容姿に)興奮されている方がおられた。

 すごくたいそうな大向こうが、『ツチヤ主税』と同様に、ほうぼうから巻き起こった。




 最近ブンラクが気になって仕方がない。

 今一度いってみようかなぁ・・・





 最後に

 名前部分のさん付けを省かせていただきました。
 好き勝手を書いておりますが、間違いやお気づきの点があればお教えください。
 どうぞよろしくお願いいたします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 ツチヤチカラノマツウラのタイコ

2006-04-30 | 歌舞伎
ツチヤチカラノマツウラのタイコ 





 玩辞サクラ12曲の内 tutiya主税 





         ナニワハナガタカブキ 
         カンジャク  タケサブロウ 他





 さすがに一日で三部見るのはどうかと思い、分けての観劇。

 今日は二部を観た。




 会場は活気があふれていた。

 ベテランの大向こうさんも多い。

 プロ級の大向こうさんは、惚れ惚れする。

 かっこいい~~




 さていよいよおなじみのツチヤ・・が始まった。


 

 この芝居はナリコマ屋の専売特許のような芝居。

 初代ガンジロウの当たり役らしい。



 元は『マツウラのタイコ』が改作されたもので、ほとんど同じといってもよいが、膨らます場面が微妙に違う。

 ただし大嶺大切な部分は同様で、元の題名のように太鼓が遠くから聞こえてくる部分などは、二作品ともに四たたき、四拍子がクレッシェンドで流れてくる。




 私の最も好きな部分は二つ。

 歌詠みの場面と、大高gen吾(ki角)が後のくを詠み、ツチヤチカラが歌の意味を悟るところと、大高ゲンゴが花道から戻った場面。




 歌を詠むシーンは適度な緊迫感、戻ったシーンは胸のすく思いがする。




 では『ツチヤチカラ』と『マツウラのタイコ』ではどちらが好きか。

 あくまでも好みの問題で、作品の良し悪しを言っているのではないが、歌を詠む場面において『マツウラのタイコ』の方が洒落ている。







『マツウラのタイコ』の場合・・・・


 かなりみすぼらしい姿に変わり果てた大高gen吾と俳諧の宗匠である其角は偶然出会う。

 寒空の下、其角のマツウラの紋付の羽織を大高ゲンゴに与える。

 大高ゲンゴ殿別れ際に 其角は歌を詠む。




「年の瀬や 水の流れも人の身も・・・・
           この後くを詠んでみなされ」

「明日またるる その宝船・・・・」
と、付け句。

 何しろ上の場面はカッコが良くて、心をくすぐってくれる。


 後日、マツウラ宅での歌の会の時に、其角は大高ゲンゴにであった話をするが、裏切ったと思い紺下いる松浦はから理の立腹。

 歌を聴き、松浦は大高ゲンゴの本心を把握することになる。





 一方『ツチヤチカラ』の場合ははじめから大高ゲンゴはマツウラの屋敷におり、マツウラは好意的。

 それに対して大高源吾は裏切り者だとののしる其月(薪シャ)は憎憎しい役どころ。

 加えて、其角までがいっしょになってののしりだす。

 
 付け句を読んで大高gen吾の真意を悟った松浦は、二人の姿や言葉に呆れ顔。

 ここの場面はかなり面白い。

 カンジャクの表情の豊かさが、この芝居に面白みを加えている。





 上の場面においてのかっこよい『マツウラの太鼓』と面白みを加えた『tutiya主税』。

 私の場合は、『マツウラの太鼓』が好きである。





 カンジャクは表情豊かで、品が良かった。

 この人も、やっぱりいつ見ても好きだなぁ~~

 ただ良くをいえばもう少し大きな動きをされると、存在感が増すような気がした。

 細やかなしぐさなどに注意を払われ、若い頃の籐十郎に似ている。

 トウジュウロウはここ十余年で先代ガンジロウに方の落とし具合が似てこられた。

 カンジャクも其のうちに先代の面影がうかがえるのだろう・・・




 其角のタケサブロウはさすがにうまい。

 ベテラン芸で、ピカリと輝いている。

 


 大高ゲンゴ役のキ鶴は声が良かった。

 適度に迫力もあり、ファンの方も多かったようだ。

 場面によって実力をストレートに出せる場合と、そうでない場合が目立つ。

 演技が安定すれば、かなり魅力的な役者さんだ。

 舞台で化粧の生える役者さんだなと感じた。



 薪シャは憎憎しいほどに 役をこなされていた。

 


 待女のお園(ウエムラキチヤ)は美しい。

 大向こうの方々は彼の女形が特に好きだったのか、会場中で興奮されていた。

方々(ホウボウ)から
「待ってました・・・」
など色々な掛け声がかかり、時として彼の台詞にまでかぶせる始末。

 おとなっぽい妖韻な色気は、大向こうさんたちにはたまらない魅力なのだろうか・・・・

 とにかく彼が出た瞬間、活気に満ち溢れたようだった。




 芝居知らずの私がこの芝居を観ての感想は、一言に言うと、
「この芝居も面白かった・・・」
に尽きる。


 ああ、面白かった!


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かじわらへいざん ほまれのいしきり

2006-04-30 | 歌舞伎



    
     かじわらへいざん ほまれのいしきり  


          (ツルオカハチマン社頭の場)
            
                



           ソメゴロウ カロク 

           2006/04/* 昼の部 misono座







 この演目も以前舞台で観たことがある。

 上からのつり花の木瓜の花が印象的。





 【あらすじ走り書】

 かじわらへいざん(ソメゴロウ)が名刀の目利きをするが、大庭(カロク)と俣野五郎(キサブロウ)が、
「(人の)二つ切りを・・・」
という申し出。

 生憎在任は一人。二人切りは不可能。

 商談がまとまらずにいると、金策の困る刀職人かが、
「自分を試し切りのもう一人に。」
と、申し出る。

 二人を重ね、かじわらがスパッ!

 刀職人は切らず、罪人だけを切ると、た大庭、俣野は怒って帰ってしまう。



 一方かじわらはその名刀にほれ込み、自分が買うと申し出るが、職人気質の男は、
『不出来な刀・・』と嘆き悲しむ。

 「刀は名刀。」
と、かじわらは 刀職人を切らずに神社の石製の手水八をスパッツ!と二つに切ってしまう。




 適度な緊張と喜劇性と人情を兼ね合わせた演目で、かなり面白い。
 






 【感想】


 ソメゴロウの熱演は心地よかった。

 どういうわけか終始一貫して、この演目においては彼はご機嫌が良かった。

 九月の『ヨシツネセンボン桜』に比べて、彼の演技はますますうまくなっていた。

 彼は『カンジンチョウ感想』でも書いたが、古典カブキがよく合う人だ。

 もう少し声が大きくなれば、言うことはない。

 

 ソメゴロウさんは、演じておられるときは昔の三十歳台のコウシロウ(当時ソメゴロウ)の表情の匂いがする好青年。

 迫力と品があり、古典カブキを演じる彼は魅力的に映る。

 今後も見守っていきたいと思う。




 この演目で印象深かったのはキサブロウ。

 特にキサブロウ演じる俣野ゴロウは腹が立つほど、憎らしい。

 若手としては、名演技由縁であろう。

 目の使い方や形が絶えず決まっていて、カッコが良い。

 カブキを見ているという満足感がます役柄と演じてだ。

 まさしく
「かっこいい~~」
のである。

 彼の声は鍛えられた役者声。

 すずのように響き渡り、心地よくさせてくれる。

 これで、もう少し低音が安定すれば、かなりの実力派となるであろう。

 若手の中で、彼のうまさはカブキの知らない私でさえも、なんとなく理解ができる。

 今後も注目したい。



 カロクさんはさすがに大ベテラン。

 安心してみていられた。

 うまい!



 刀職人の娘役である高麗ゾウも今回頑張っておられた。

 ただ、花道から出てこられた一言は、声が裏返ってしまう。

 会場のあちこちで笑い声が・・・・

 誠にお気の毒であった。

 彼も懸命に演じられ、観ていて気持ちが良かった。

 芝居も後半に差し掛かった頃には落ち付きをり戻され、台詞は安定。

 その口調はヒデタロウさんの調べに共通。

『あれ、この人は将来どんな役者さんになられるのだろう・・・・』
と、期待の念を抱いてしまう・・・・そんなステキな役者さん。







 総合的に考えて、この芝居も面白かった。



『カブキを観た』という満足感を味わえる舞台だったことに感謝。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記  東京タワー

2006-04-30 | 映画
 日記






 映画 東京タワー    2004年
  





楽しめど   ★★★☆☆






           黒木・岡田・寺島・岸谷 他
           
          江国香 織作
          源孝志 監督






 映画 東京タワーを観た。

 結構洒落た展開。

 予想通りに話が進み、それがまた心地がよい。



 台詞は淡々と話され、原作の匂いを残す。

 文庫本を気楽に、を斜め流し読みしているようで、心が落ち着く。

 監督の意図が心憎い。



 内容はいたって単純。

 一言にいえば、金持ちで美しい人妻と 二十歳も年下の男の子との一言では言い切れない 恋愛もの。

 内容は簡単すぎて興味はなかったが、その時々の人々の感情の揺れ動くをうまく表現されていた。

 心理描写がわかりやすく現されており、楽しめる一作品ではないか?

 ただし芸術的に表現されているわけではない。

 あくまでもできのよい 娯楽映画。



 この映画で気になる俳優が二人。

 一人は岸谷。

 岸谷五郎の心理描写は、目を見張るものがあった。

 微妙な顔の変化が役者として魅力的。



 あと一人は、駐車料金所のおじさん。

 名前は度忘れ・・・情けない。

 駐車場の料金のやり取りだけ。

 短い時間だが、彼の表現力は光っていた。

 うまい役者さんの一人だ。



 今回注目していたのは、寺島しのぶ。

 彼女は尾上菊五郎の娘で、松録や菊之助と兄弟。

 かわいい女の面と 本能の二面性を表現。

 とにかくかわいかった。



 黒木瞳と岡田は、下手をするとどろどろド人間模様を、二人の美しさで美しい映画に仕上げ、ラストのハッピーエンドで閉め。

 少女マンガの好きな人には、たまらなく魅力的は終わり方だったのではないか・・・



 色々な人間模様を深く描考とはしている作品だった。

 これすなわち全て東京タワー下の一個の人間の物語。

 その各自のドラマは、時とともに変化し流れ行く。

 けして彼らだけのことではなく、形こそ違えども、全ての人間に置き換えられる。

 そしてそのドラマは、各個人にとっては、この上なく大切な出来事なのだろう。



 東京とは限らず、地球全体。

 ドラマは生きている能を持った全ての自然界の良き物にさえも当てはめられる。

 単純に観ると娯楽映画だが、一方 哲学的な映画ともとれる秀作。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きつねび (ほんちょう 二四こう) 名古屋ミソノ座

2006-04-30 | 歌舞伎



  
    しゅんよう おおかぶき



      kitunebi (ほんちょう 二四しこう より) 

               





          やえがき姫 中村シバジャク
          きつねび場面より少し短め、ダイジェスト版
               

          ミソノ座 2006/04/11




 ほんちょう 二四こうは私にとって馴染み深い演目の一つである。

「翼が欲しい、羽が欲しい・・・」の部分は好きで、何度聞いてもワクワクする。

 今回のきつねびの池に映る姿が狐となる場面。

 この演目名を知った時は、愕然としてしまった・・・・

 何しろカンジンチョウが今回の目的とはいえ、三本ともが好きな芝居。

 だが・・・

 ほんちょう 二四こうにおいてはできるならば二、三階で観たい。





 一方カンジンチョウに関してはできることならば、花道を最後まで見届けたい。





 カジワラヘイザン ホマレノイシキリは真正面の一階が良い・・・・

 




 色々な考えが頭をよぎる。

 ぅん?

 今回私は、カンジンチョウのために、名古屋遠征をするんだった・・・

 私はコウシロウのカンジンチョウを優先した席を予約した。




 カンジンチョウとカジワラヘイザン ホマレノイシキリに関しては、申し分のない席であった。

 が、こと一階席では、二番目のきつねびがいけない。

 一階席を購入してはいたが、この演目が始まる前に二,三階席に空席があれば、行こうかと真剣に悩んだくらいだ。




 人から見れば、陳腐な話だろうが、そのときは真剣であった。

 やはり、芝居は演目によって、席や一階或いは二階席以上を選ぶのが、癖になっている。

 他の方々も、演目によって、席選びをしておられるのでしょうが、今回の演目の組み合わせは少し戸惑ったのが本音というものです。





 きつねびが始まった。





 見慣れたとおりに順序良くこなされていく。

 多少中村シバジャクさんに対して、
『がんばって』
という親心が生じてしまった。

 彼もうまく、頑張って演じておられたが・・・。

 最後まで楽しみながらもはらはらさせられる今回のきつねび。

 トウジュウロウさんが演じられた後だけに、やりづらい部分もあるのであろう。

 それを割り引いて考えると、好感の持てるまじめな演じ方だった。




 神棚の前までやえがき姫が行く。

 いつもなら太鼓の音にあわせて、狐の尻尾のようなものが現れるのだが、今回は省かれていた。

 結構私にとってはポイント、漫画感覚で面白いシーンなので、少し寂しく思った。





 さて問題の池の場面。

 太鼓の音にあわせて、
『さぁ、今だ。狐が現れるぞ・・・・だが、一階では観えないな・・・・』

 案の定今回も狐は現れなかった、というよりも、一階からは狐の影さえ映らず、愕然とさせられる。。

『演目によっては、きつねびは立体的に見える二階席以上が好きなんだ・・・』
と、一人頭に血がのぼっている。

 横で家族も、
『なぁ~~んだ。』
と、微妙な表情。

 家族は、
「以前のシーンを意識下において観ていた。」
と嘆いていた。




 大切なシーンを、各個人が思い出して、心の中で合成しなければならない生舞台って、一体何なのだろう・・・

 水面くらいまで持ち上げてくるとか、池を斜めにする。或いは、上に鏡をつける方法や、モニターテレビを設置するなど、何らかの表現方法がありそうなものである。

 時代のニーズに合わせて、大道具や屋舞台造りは工夫されて入るが、カブキのことこのシーンに関しては発展性がみられない。

『だから、言わないことじゃない・・・』
と、やり場のない悲しみ。





 この芝居も好きで、一月にはブンラクの初体験までさせてくれた演目である。

 でも肝心要の場面が見えなければ意味がない・・・・

 カンジンチョウときつねびを同一公演で持ってきたセンスってどうなのだろう。

 今回に関しては少し首を傾げてしまった。

 席に関して、動きがとれない!




 今回は限られた役者さんや人数での公演のようで、それにあわせての演目決定だったのであろう。

 観客は、とんだ災難である。




 それにつけても今回はカンザブロウ襲名披露の『シラナミ五人オトコ』の時のように着物姿の方やカブキファンの方がかげを潜めていた。

 舞台好きの、近場のご年配の方が多く観られた。

 イヤホンガイドを借りられている方も多く、カブキが初めてという方も結構多かったような気がする。

 初めてきつねびを一階席で観た方は何がなんだかわからなかったのではないか・・・

 イヤホンガイドを借りられた方はイメージで場面を補われただろう。

 だが、何度かこの演目を観たことのある私も、観ている私も面白みは半減以下であった。

 しかし・・・

 イヤホンガイドも借りておられない方は、わかるのであろうか・・・・

 

 誠にお気の毒としかいいようがない。




 表現法を考えるのは、大道具山野演出家の今後の課題だということを念頭においてこの芝居に挑んでいただきたい。





 それにしても今回のミソノ座の観客の方の中には、始終イヤホンガイドの説明のままにを、奥さんに伝えておられる方がいらっしゃった。

 非常に耳障り。

 真後ろのご年配のご夫婦だったので、とんだ災難だった。

 まあ良いようにに考えるならば、借りたことのない私にとって、ガイドの方法や内容が少しわかったかな?

 意識して舞台に集中することに専念するのは大変だった・・・
 




 カブキ・イヤホンガイドは 各自借りられたし。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カンジンチョウ マツモトコウシロウ 796回目 

2006-04-30 | 歌舞伎

       

      カンジンチョウ
               

  

           マツモトコウシロウ  ミソノ座 796回目 
                                

             2006/04/11 昼の部

 


 昔から私の好きな マツモトコウシロウのカンジンチョウ。

 彼のカンジンチョウを始めてみたのは高校生の時。

 確かタカオ(現ニザエモン)と組まれていました。

 

 今回のトガシはご子息のソメゴロウさん。

 彼の実力はこのところめきめきと腕をあげられていて、成長が楽しみの役者さん。

 彼は古典カブキがうまいと私は思います。

 

 私のお気に入りの役者さんの一人 コウシロウさんのカンジンチョウ。

 今回はちょっと遠いけれど、名古屋まで行ってまいりました。

 ミソノ座は今回で二回目です。

 

 2006年4月11日 昼の部公演で、コウシロウはカンジンチョウ 796回目。

 惜しい。

 800回まで後4回でした・・・・

 

 4月11日のカンジンチョウにおいては、前半1/3(3~4割)過ぎた頃から、迫力が増した。

 急にこしを落とされ、声は通る。

 ベンケイの衣装をふんだんに大きく広げ、存在感と重厚感が伝わってくる公演で、心が打たれました。

 手の先は力強く、するどく みえを切られ、幸四郎ここにあり。

 一流役者の心意気を垣間見ることのできる舞台の日に観劇でき、感動の上の感動。


 

 コウシロウの能のような舞は優雅で気品、迫力を感じ、ミソノ座の舞台が小さく観えました。

 私は彼の舞とともに心が躍り、食い入って見入っていたようです。

 しなやかであでやか。

 彼のお人柄が感じられる演じ方で、非常に好感が持てました。

 

 トガシ(ソメゴロウ)とのやり取りや、空で読み上げる時のテンポのよさはさすが名人芸。

 心の奥底で、リズムを取りながら、彼のテンポの心地よさに引き込まれていました。

 

 30年前に比べて、カ威力的には相当きついのか、汗は公演中に何度も拭かれてはいましたが、終始一貫していい表情をみせて下さり、私たちを大満足させてくださいました。

 会場の周りの観客の方々も口々に感嘆され、熱気に満ち溢れた言いお舞台。

 素晴らしいこの穂の公演に行くことができ、家族ともども 喜んでいます。


 

 花道での投げ六法やみえの切られたこの日の彼のお姿は、私の生涯でも忘れえぬものとなるでしょう・・・・

 


 あわよくば関西公演を心待ちにしております。

 数年前は子どもの中学受験で機会を逃してしまった私。

 できればもう一度、ミナミ座で観たい・・・・

 

 

 

       芝居内容は有名なので、ここでは省かせていただきます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記  ロスト・イン・トランスレーション

2006-04-29 | 映画
日記






  ロスト・イン・トランスレーション(米・03)



   スタッフ
 監督・脚本:ソフィア・コッポラ
 音楽プロデューサー:ブライアン・リエトゼル
 衣装デザイナー:ナンシー・スタイナー
 プロダクション・デザイナー:アン・ロス、K・K・バレット
 編集:サラ・フラック
 撮影:ランス・アコード
 ライン・プロデューサー:カラム・グリーン
 アソシエイト・プロデューサー:ミッチ・グレイザー
 エグゼクティブ・プロデューサー:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・ロス
 プロデューサー:ロス・カッツ、ソフィア・コッポラ
 フォーカス・フィーチャーズ提供
 アメリカン・ゾエトロープ、エレメンタル・フィルムズ製作


    キャスト
 ビル・マーレイ
 スカーレット・ヨハンソン
 ジョバンニ・リビシ
 アンナ・ファリス
 文浩


 
 品が良く、終わってからすがすがしさが残る。

 清涼飲料水のような映画。

 しかし各シーンは細やかでシャープな感覚で切り、仕上げられている。

 映画館に行っても良かったのではないかと思われる一作品。





 会話の身でみせる映画ではなく、二人の表情が見もの。

 心情の揺れ動き、二人をとりまく、異空間である日本。

 二品の時間的流れは、二人の周りを、二人を置き去りにしてまわり流れる。

 それは無意識の意識下における走馬灯のようなカメラアングルで、私個人としては好きな散る方であった。




 外国から日本は首を傾げる面白さと、かなり納得し感心する二面性を兼ね備えていた。

 哲学的、観念的な、どのようにでもとれる映画で、興味深い。

 湾曲された「日本」を見るのは、私にとっては新たな世界の中の日本の発見。

 ただ、この映画はセンスと品が良く、海外映画における『藤山芸者』といった低次元な表現法は、一切ない。

 むしろ普段私たちが首を傾げたくなる日本人の行動などを、鋭い裁きできっている。そしてこのことに対し、感心させられる方が多かったのも事実である。





 日本の表現としてテレビや若者、日本の遊び人など面白いと思った。

 中でも、女が小指の痛みを見てもらうために、総合病院にいったときのこと。

 待合室で有名な映画俳優であるビルとシャーロットは前列に座っていた。

 すぐ横には、神経内科にかかっておられる風の男性と臨席していた。

 男は杖を持った患者にひじで合図をして、話始める。

 杖の患者は、彼を有名人とはまったく思っていない。

 
 二人はコミュニケーションをとろうとはするものの、英語を知らない患者と日本語を知らない男。

 まったく会話にならない。

 患者は神経内科の病気のために言葉のイントネーションははおかしいものの、患者の彼なりに一生懸命だ。

 その一部始終を耳を澄まして聞きながら、二人のどぎつい化粧をした中途半端な金持ち中年女の見舞い人二人は、域を潜めながらも、露骨にクスクス笑う。

 このシーンを観て、字本の福祉的観念の低さを恥じるべきであると、私は恥ずかしい思いをしながら観ていた。

 外国からは、日本の弱者に対する対策や民間人の感覚は、このようにとらえられている点は、各自が大きく反省すべきである。


 話が通じないのは患者と男に限らず、同時通訳の不親切や病院の受付、果てはコールガールにいたるまで同様で、日本人が一方的に、スローテンポとはいえ、日本語を話す。

 ゆっくり話しても、相手には通じていないことをわかりながら、半ば強引に。


 ところが患者はどうだろう・・・

 知らない英語を次々と身振り手振れで通じさせようと努力し、果てには男の方が、
「 おぉ~ミュージック♪」
といって、患者の言葉をハミングにしてしまう。

 素晴らしい。

 コッポラ監督の女性的な感性が生きている。

 しかしながら・・・

 二人の中年女は、厚化粧な日々が入らんばかりに、笑い続ける・・・・



 日本に滞在中の二人のアメリカ人、ビルとシャーロットの現実的夫婦問題と孤独を描いた作品。

 少しなを潜めた、ハリウッド・スターのビルは、CM撮影のために来日中。

 撮影現場でのやりとり―使えない通訳、意味の通じない英語。

 脳もなさそうな、偉そうなカメラマン。

 そんな中で身の置き場に困るビル―だったり、ホテルの自室でぼんやりとテレビを見たりしている姿には、どこにもスターらしくはなく、普通の一個の人間であり、男であった。

 ただ、日本に来てもそうだが、家庭に帰っても同様。

 妻はアメリカから時差も考えずに明け方の四時頃に、平然と電話をかけてきたり、儒ータンの入りはどれにするかなど、小包まで送って来る。

 まるで夫は日本に遊びに言ったような錯覚を持っているように、自分勝手な二十五年の夫婦生活なのだ。

 哀愁漂う中年男之居場所のない、居心地の悪さが前面ににじみでている。





 一方、新妻のシャーロットはカメラマンの夫ジョンの来日についてきた。

 夫は仕事が忙しく、満足にかまってもらえない。

 一人で出歩くにも言葉が通じないため、シアンばかりで行動が取れない。

 シャーロットは華道教室にふと入り、意味もわからず花を生ける。

 京都で偶然見かけた結婚式の様子は、外国人らしい見方。

 構図や色のコントラストやシャーロットが見せる表情は洒落ていて、息を飲むほどの美しさがあった。




 私が一番印象深かったのは、ラスト。

 男はこれからホテルを出るという。

 理由をつけて女之部屋に電話。

 女はロビーに降りて来た。


 日本の仕事の関係者が集まる中、二人は互いに駆け寄るが、思うように話すこともままならない。

 一致奇の逢瀬を阻まれ、男は関係者の元に戻るが、悲しみをこらえて出て行く彼女の方ばかりを見つめている。

 本当の別れだ・・・


 男はタクシーに後、空港へと向かう。

 途中で信号待つち。

 ふと見ると小道の雑踏に毛行く彼女を発見。

 彼はタクシーに、
「少し、ここで待っていてくれ。」
という言葉を残し、彼女を追いかける。

 不利澪た彼女の目のまわりは真っ赤で、深い悲しみに襲われていたことが読み取れる。

 彼は道の真ん中で、誰にはばかる頃もなく彼女を抱きしめ、キスをする。

「今度こそ、お別れだ。」

 彼女の思いは満たされ、目には光が差していた。



                        END

                          8 BSフジ にて
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アシュラジョウノヒトミ

2006-04-29 | 映画




 asyuraアシュラジョウノヒトミ 





          土屋南北 作
          somego郎、宮沢rie、小日向、渡部atusi、樋口kanako、他
          滝田洋二郎 監督 (劇団四季)




 3/24と3/25で2回、asyura城の瞳を観た。

 気楽に楽しめるものでレンタル料金380円が損したとは感じられない作品であった。

 


 まずは江戸の町並みや橋のごった返した面白み。

 映画やドラマで見た昔の見世物小屋の中を覗き込んだろうなせわしなさで活気があり、良い。

 映画はこのまま進むと思いきや、舞台は転々と展開。

 サトミハッケンデン伝や京劇、映画の『ゾンビ』、『HERO』や『スターウォーズ』などを取り入れられており、その場面に応じてその内容を思わせる音楽が流れる。

 その恩学区は妙にマッチしており、かえっていびつな感はぬぐわれない。

 また、劇中劇はこの映画の身どころのひとつ。

 イチカワソメゴロウの魅力を再度発見。

 この映画はソメゴロウのために作られたもののような錯覚を起こす。

 ショウチク株式会社のソメゴロウに対する思い入れを感じ、カブキ界でますます彼が腕を上げ、コウシロウとニザエモンのいいとこどりといった立場になるのであろう・・・

 コウシロウとニザエモンのファンとしては、彼の存在も大いに期待できると感じた映画であった。



 このところの彼の腕の上げようは、うなぎのぼりのように感じる。

 この作品では、彼の美しさと演技に対する前向きな姿勢がうかがえた。

 劇中劇の中の彼は若かりし頃の彼の父、現コウシロウと似ている面もあり、また違った見得の切り方をしていた。

 意図的に臭い目の芝居6倍くらいの演じ方をカブキ役者として演じていた。

 その臭さは好感の持てるものである。

 劇中劇以外では、過去の苦い重いから逃れる為に、江戸の自由な若者に見せかける若者を演じていた。

 よって少し軽めのセルフの言い回しで、劇中劇での台詞と変化をもたせていて自然であった。

 

 場面の随所随所にソメゴロウのこぼれんばかりの魅力を取り入れ、思わず身を乗り出して見入ってしまった。

 特に劇中劇の後の楽屋のシーン。



 左目の隈取の化粧お年をする。

 右は隈取を残し、左は素顔・・・・

 なんてエロティックでステキな名のだろう。

 見とれていると、鏡に彼の隈取をした顔が・・・


 カブキ好きの人間にとっては、
『もうアカン。』
の状態なのである。



 今までそんなに彼のファンというわけでもなかったのに今は好きな役者にひとりとなった。

 ああぁ~、ショウチクの思惑にのっちゃったな、と一人ほくそ笑む。


 それにしても、彼はマツモトコウシロウとフジマ紀子のいいところばかりを選んで受け継いだ面。

 二枚目だ。



 彼の演じ方は空気のように気持ちが良かった。

 船に乗って鼻歌といあったシーンも、歌がじゃまにならずに好きであった。

 彼とミヤザワの自然な台詞を南北役の小日向と樋口のぴんとはずれな声色や芝居長の臭さで変化をもたせ、退屈をさせない。

 樋口の被り物を採ったシーンはしわが目立ち、少し無理を感じた。

 小日向の
「いや~いい、実にいい。」
は台詞は山椒の役目を果たしていた。
 
 上手い。



 ここで抜かしてはならないのは、アシュラ役のミヤザワ。

 美しい。

 女の私が見ていても、ステキでかわいい。

 ソメゴロウとの息はあっており、テンポも良い。

 人間の時には高い軽い口調、asyuraになってからは声を低くゆっくりと話最後のしに行く前のシーンでは、噛み含んで話していた。

 アシュラも彼女のはまり役のひとつなのではないか。

 また、普通の演劇や映画とは逆で、彼女はソメゴロウの美しさを充分に引き立てていた。

 それでいて、彼女の器の大きさは一層引き立つ。

 花と実力を兼ね備えた、素晴らしい女優である。


 少し気になったのは演出の問題であるが、彼女がsomego郎の楽屋に、かんざしを取り戻す為という理由で自分を正当化させて忍び込んだ時のこと。

 帰れ際、彼女はあわてて窓から出て行く。

 その際左のすだれは派手にちび落ち、右のすだれは右側が外れて 窓の真ん中の方向に傾く。

 その角度があまりにも計算され過ぎて、構図の遊びがない。

 彼女の心情の変化を表したいのであろうが、押し付けがましい。

 残念である。



 最後の出雲とアシュラの戦いは見ごたえがあった。

 美しい。

 剣のからみといい、二人の表情といい、エロチックだ。

 間接的表現で、カブキの手法を取り入れられていた。

 それがかえって、そそられるというものだ。


 ただ・・・

「お前の中に(この剣を)突き立てたい」
と行った台詞は露骨過ぎて、2度とも大笑いしてしまう。

 映画間ではみんなはどんな雰囲気でこの台詞を聞いていたのだろうか。

 劇場に行けばよかったと、今になって後悔する有様だ。


 

 この映画の衣装は全体に重厚さにかけた。

 ただし劇が等に出てくるような、一般うけする美しい装いではあった。

 ソメゴロウとミヤザワの衣装はあの程度でよかったのであろうが、樋口の死ぬ前の装いは いただけない。

 まるで70年代後半のグラムファッションのようなメークと衣装。

 彼女の死に際のこけるシーンは失敗。

 邪空二重ならぬようにこける場所を探し、ちゅうちょしていた。

 プロ意識を持って欲しいと思うのは私だけか。



 最後まで気になったのは、南北の作品をも薄腰強調してもいいのではないか、ということ。

 もう少しアシュラの心情や身体的変化を加える方が、南北らしく仕上がるのではないだろうか。

 ソメゴロウにスポットを当てる意図的な配慮は把握してはいる。

 しかしアシュラにスポットを当て、ふくらますべきと頃は膨らます。

 そうしないと単なる恋愛ゾンビになってしなう。



 江戸のシーンも良かったが、最後に出雲がアシュラ城に入る込んだシーン。

 地球から見たアシュラ城はさかさまに、アシュラ城から見た見える江戸もまたさかさまに・・・

 まるでエッシャーのだましえのようで、楽しかった。



 アシュラ城と江戸、阿修羅と出雲・・・・

 二人の透き通るような美しさは、一層 運命のいたずらと神秘を感じさせる。



 最後に・・・

『アシュラ城の瞳』は芝居で観てみたいと感じさせる映画だった。

 芝居となるとまた違った演出法を楽しめるのだろう。

 近日中に似て似たいが・・・

 DVDレンタルはあるのだろうか?


 芝居で観たいというジレンマにさいなまされる一本であった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記  舞踏詩劇『女と影』

2006-04-29 | TVで 歌舞伎・能楽
日記 






    舞踏詩劇『女と影』 
                        



                   fukusuke
                   ポール・クローデル作


 
 kabuki舞踏と舞踏のコラボレーション。

 始まりは印象派のようなスクリーン、それを囲む水墨画とも取れるまわりの舞台は額縁の役割をも果たす。

 また、月と女二人は7~80年代に流行ったアングラ劇の動きと人形jyoururiの動きを兼ね備えている。

 ライトのアラり肩と消え方は、アングラ劇手法を取り入れられ、私にとっては懐かしいものでは合ったが、わが子においては斬新なものに受け止められたようである。

 動きのバランスは良く、舞台と一体化している。

 また役者も舞踏も魅力的であった。

 音楽も良い。

 舞台衣装も細微にわたる機の使いようである。



 では一体どこが釈然としないのか・・・・



 まずはじめに舞台天井から真っ赤な血とも感じさせる牡丹の花が落ちてきて、舞台に刺さる。
 牡丹は・・・冬から春。

 女の影(蛾)のの出現。
 蛾は・・・夏。

 女出現、猫柳の手書き友禅の装い。
 猫柳は・・・冬。

 女の帯の後ろには桜のような小枝が挿してある。
 桜のような花は・・・春。

 月の精が蛾として羽を広げる。
 蛾が羽化し、は根雨を広げるのは・・・春~夏。

 月を神秘、また特別な力としてとらえるのは全世界の傾向であるのはわかる。
 月を出すことによって、内容と神秘性は高まるが・・・。
 満月のイメージは・・・秋。

 説明では6のつく月らしいから秋とは限らない。
 ただし6は・・・冬にはあてはまらない。

 舞台のイメージが、
  yotuya怪談→kaさね→耳なし芳一
 に変化する場面がある。
 怪奇物は・・・夏。

 最後のシーンの空が冬のものではなかった。
 空の色彩が・・・秋。

 最後に雪が降る。
 雪は・・・冬。


 以上これらを考えると 冬に統一できずに、日本の四季がばらばらであった。

 ポール・クローデルという作家が日本びいきであることは伝わってはきたが、どうにも陳腐である。

 これは外人からみた日本。

『富士山芸者、侍』
の世界なのである。

 ポール・クローデルがわざわざ7~80年代にkabukiの役者のために書き下ろしたらしいが、ポール・クローデルからみた日本を描くよりも、もともと書き上げられた作品をkabuki役者などが演じる方が良かったのではないか。

 外国人から見れ場日本はああいう風に目に映るのかということを痛いほどに痛感させられるべく、一作品であったといえよう・・・。
 



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナツノヨノユメ

2006-04-29 | 舞台・芝居
今回は辛口でごめんなさい。
好き勝手に独断で書き込んでおりますので、間違いやお気づきの点がありましたら、お教えください。


  
       『NARU no YO no yume』感想

                 

      



『ナツノヨノユメ』  シェークスピア 原作
         小池竹美    脚色
         加納幸和 脚色・演出

         ショウロク 村井國男 菅野菜保之 ハナ組他







 久しぶりにお芝居に行きました。

 この日は『ナツノヨノユメ』とあって、花道は当たり前のごとく影を潜めている。

 シェークスピアの原作とあって、心なしか教育熱心な親子の姿も多い。

 だが、加納幸和の脚色・演出であるこの芝居は、原作からは大きくかけ離れていた。

 みたい芝居とは大きくかけ離れ、芝居知らずの私の期待を見事なまでに裏切ってくれた一作品である。



 ショウチクにおける『ナツノヨノユメ』はエロ表現が露骨であった。

 もちろん、表現の自由。

 演劇界においてエロス表現は切っても切れないことは承知している。

 高尚な芸術だと皆が思っている様な演劇等においても、婉曲な表現や露骨な表現を交えて演じられていつのは、観客側も楽しい。

 以前千之丞演じる狂言会で『起き上がりこぼし』を見せて頂いたことがある。
千之丞さんは、
「さぁ、皆さんもごいっしょに~~」
と、にこやかに会場に降りてこられた。

 その会場は親子劇場の母親だけを対称にしたものであったが、みんながいっせいに千之丞さんに続いた。

 お母さん方は声をそろえて、
「京に京に流行る~~、起き上がりこぼうしやあゥ~~、合点か~、合点だ~~、合点、合点合点だぁ~~」
と合唱し始めたからたまらない。
 
 内容を把握した人間は顔を紅くしながら、まわりを見渡し、千之丞さんとお母さんたちの顔を見比べていた。

 千之丞さんのあの時の悦に浸った、かわいらしいいたずら顔は、今でもはっきりと覚えている。

 あの時の千之丞センスのエロは見事な成功例といえよう。



 何がいいたいのかというと、エロにはエロの必要性とセンスといたずら心と、最後に抜け道が必要だということである。

 芝居知らずの私においては、シェークスピアを観に行ってまで、露骨なエロを必要とはしていない。
 


 一番驚いたのは、女王にのろい(魔の花の汁)をかけて、一番初めに見たものを愛するといった場面。

 女王がおきて最初に見たものは、醜いがまであった。

 女王は麻痺うにかけられたとおりに、その醜きモノを愛することとなる。

 愛?

 言葉が美しすぎる。

 とにかくやる、やりまくる。

 お付の者どもの前で、
「あぁあぁあ~~~」
ともだえ、がまは女王にまたがり除夜の鐘状態。



 ZUDO~~N!

 お付の者ども曰く、
付き人たち:「ひと~~~つ!」
女王   :「あぁあぁあ~~~」


 ZUDO~~N!

      「ふたぁあ~~つ!」
      「あぁあぁあ~~~」

 ZUDO~~N!

      「みっつぅう~~!」
      「あぁあぁあ~~~」

 舞台はいかがわしく回りながら、全部で十一つき。
マイケルトミオカの腰の大きな動かし方は、品位にかける。


 この調子で舞台は進行するのであるから、水色のワンピースを着て、シェークスピアにつれてもらったっ小学生低学年の女の子はたまったものではない。

 どうしてもこういう表現をとりたいのであれば、『12k』なり、せめて『9k』なりの表示をするのが親切というものではないだろうか・・・。



 シェークスピアはもともとは祝典劇であり、軽やかさが必要である。

 この点において私は今回の芝居に疑問を覚える。

 膨らまして欲しい場面はさらっと流され、間延びしたダジャレや冗談揚げ足の繰り返しで時間を引き延ばしていたように思われる。

 通常繰り返しのパターンは三回であることが多く、その点では問題ない。

 ただスローテンポで粘っこい。



 佐藤エリコは背が高く足が長いことを強調。

 保田圭の背の低さや足の短さを、本人たちやまわりの男たちが強調する。

 なんとも聞き苦しい。


 
 これではショウチク座ではなく、隣の劇場に足を運んだ方が、子どもに安心してみせられる分だけ良いのではないだろうか。


 また、舞台が『夏』を表現仕切れていなかったのは誠に残念としかいいようがない。

 ライトや舞台、大道具などどれをとってもアナログ的で、今の時代にはかえって斬新な感じはしたものの、それを生かせられるだけの役者た血とはいいがたい。

 役者たちは踊りですらぴたっと合わずに、みている側はジレンマを感じる。

 みんなが違ったおどりだということを行っているのではない。

 別々の踊りであったとしても、統一感は必要である。

 みんながアップテンポでステップを踏んでいる中、佐藤eri子はまるで自分のステップに酔いしれているかのように、ゆっくりと上手さを強調していたのが、鼻につく。


 先ほど出てきた円形の舞台は、品のなさを引きずったまま右に回り続ける。

 時の流れのなかの ほんの夏の一夜、一コマの出来事に過ぎないことを現しているつもりであろうか・・・あまりにも単純であった。


 アジアンブームのさなか、東南アジアや京劇、灰色(石)の鳥居、果てはバッセーラ(?)までを思わせ、なんだかイメージの寄せ集めにすら感じる。

 また役者陣も集客を踏まえたバラエティに富んだ人材ではあったが、思いのほか女優目当ての男性は少ない。

 まわりを見渡すと、オノエショウロク目当ての芝居好きの男性が多かった。



 収集のつきにくい舞台において、ショウロク一人七五調で声も通り、演技においても見ごたえがあった。

 彼の台詞は群を抜いてリズム感があり、心地よく心に響いた。

 なかには細切れ、尻上がりの台詞の役者も何人か目につき、芝居が途切れる。

 素人芝居に迷い込んだ感が拭い去れない。


 ただ・・・

 パック役でまずはじめにイメージするのは、ジェラール・フィリップ。

 日本人ならば、藤原達也・・・といったところであろうか。

 惜しいことにあの演技の上手い松録サンの顔の表情は硬く、パック役にしては軽やかさと笑いが少なく思えた。

 ショウロクさんのこの舞台においての日々の苦悩が伺えるように感じたのは、私だけでしょうか。



 喜劇はその場で発散させて後に残らないというのがベストといったご意見があるのは知っているが、悪い意味で・・・・・。

 観ている時は楽しいのだが後に何も残らなかった。

 むしろ一万円以上の大枚を複数枚どぶにそ手たという口惜しさが、あとをひく。

 演劇を観てこんな屈辱は初めて味た。

 これもまた授業料。



 最後に、私はまったくの芝居の知らない人間のために独断と偏見により、好き勝手に自分個人の感想を述べています。

 人によっては感じ方も違われ、非常に不愉快な思いをなっさった方もいられるかもしれません。

 未熟者ゆえ間違いだらけの陳腐な感想をお許しくだされば、幸いに存じます。


 これから『ナツノヨノユメ』を観劇しようか迷っておられるか方はどうぞ劇場に足をお運びになってください。

 そして私の力量ではわかりづらかった演出や舞台の良いところを 教えていただきますように、よろしくお願いいたします。


 最後に、ショウロクさんはやっぱり魅力的であった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノブナガ

2006-04-29 | 舞台・芝居
日記






『ノブナガ』


 上演中の「ノブナガ」を観ました。






「敵はホンノウ寺にあり」で始まった一幕目。


 物語はノブナガの父・ノブヒデの葬儀から始まります。


 尾張一の大うつけ。


 葬儀の場でも大暴れして、平手政秀が諫死。


「俺が乱世を終わらせてやる!」


の力強き信長の一声は、天命に従って天下統一へ・・・


 次の場面は、1553年の春。


 斎藤道三に濃姫を貰い受ける。





 1960年の桶狭間の戦いに続いて1568年、美濃制圧。


 三十分の幕間を挟んで二幕目は、1571年の比叡山焼討ちから。


 光hideは自分の心を押し殺して、女、子ども、赤子までも切り、刺し殺すが、この辺りから光秀の信nagaに対する想い が揺れ動いてくる。


 この芝居の光hideは先を読む力があるという設定になっていて、ミツヒデは『乱世 を終わらせる星=ノブナガ』であると信奉。





 ノブナガも同様、自分は神に選ばれた 男だと信じています。


 1573年 ノブナガ 対 浅井長政。


 1579年 安土城完成と話は進み、ミツヒデは、ノブナガは神に選ばれて 乱世を救う男ではなく、自らが神になろうとしている恐ろしい男だと感じ始める。」


 1582年の、「ホンノウジの変」


 ホンノウジの炎の中での立ち回割りは構図もスピード間も役者軍の技術も満足しました。





 立ち回りの祭のエビゾウさんの迫力もさることながら、障子に刀を刺した時のこと。


 障子から出てきた手が、弓矢で殺された妻の着物(ノブナガが持っていた)を握り締め一筋のライトが当たる。


 このときばかりは、正直背筋が凍りついた。

 見事な演出で、こういった表現は好きです。





 よくある神に選ばれし男・ノブナガではなく、『神に弄ばれた男・ノブナガ』を描いた芝居だったように思う。






【衣装について】



 エビゾウの装いは、焦げ茶色の地に鮮やかな色彩の羽根の模様。


 次の場面では装いもがらりと変わり、紺色の正装で凛々しい。

 最後は赤いビロードのマントに、黒い洋装+長髪を撫で付けたような西洋かぶれなノブナガ。





 この姿は一番彼に似合っていた。

 ただ・・・

 マントの色彩と質感はピアノのカバー風。


 マントをはじめとして一時が万事、この舞台の装いは全体において衣装は簡単目なのかしら。



 




 【女優の化粧について】


 女性(妻、妹)二人においては、声が高め。



 目元のラインと 口元の紅は赤。

 女性たちの化粧は念入りで、ルージュは濃い目でした。


 二人の化粧にさほどの違いがないのは、演出家の意図的なものなのでしょう・・・






 【エビゾウの目力】



 

 舞台で見る彼は目力と表情がよく、華がある。



 





 全体を通して



 かなり楽しめる舞台でした。

 役者の前向きな姿勢がうかがえる、秀作の一つ。

 一度は見たい舞台の一つ。

 芝居、舞台らしさの感じられる一作品といえるように思います。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カナテホン  ニザエモン様

2006-04-29 | 歌舞伎
今日はミーハーな内容でごめんなさい。
間違いやお気づきの点がありましたら、お教えください。




新春大カブキ『カナテホン チュウシングラ』のニザエモンさんの死ぬシーンは素晴らしい




 ニザエモンさんは素晴らしい役者である。


 私の好きなニザエモンさんが一杯出てこられ・・・今回の新春大カブキは楽しかった。

 あまりの楽しさに、昼夜それぞれ二回、合計四回行ったが、もう少し通えばよかったという思いでいっぱいである。


  ニザエモンさんが好きといった方にとっては、満足の行く公演。 ニザエモンさんを満喫できるのである。





 【家族全員で幸せの観劇】  


 昼夜一回づつは家族四人で観た。

 一人観劇も好きだが、家族全員で見る芝居も、またおつなものである。

 近くのがんこ寿司で弁当を購入。

 芝居も上手い。

 弁当も美味い。

 家族の幸せそうな面を見るのは、楽しいものだ。


 




 【観劇感想】


 ニザエモンさんはめっちゃかっこヨカッタ。


 大向こうさんの声も聞こえてきて、活気があった。

 大向こうさんは昔から、小生のあこがれである。

 あの声を聞くとたまらないほど、魅力的に感じるのは、小生だけであろうか。




 ニザエモンさんが素晴らしくて・・・





 予約追加。




 理由はまだあった。

 ニザエモンは1/中旬に涙ながらの演技をなさっていた。

 いつも芝居によっては事務的に涙を流されているのか、はたまた感無量で感情移入なさったときの涙なのかを確かめたかったのである。




 よって私は観劇の日をつめて、二日後にどう演目鑑賞の道を選んだのである。

 結果は・・・・





 さすがにニザエモンさんである。

 事務的に素人芝居の役者のように涙を流しているわけではない。

 それが証拠に、1/中旬二日後には涙は流されなかった。

 私はますますニザエモンさんという役者の魅力に取り付かれる。



 しかし・・・

 一言で言うならば、あまりにもニザエモンさんが素敵だったので、明後日も夜の部で観劇することにしたというのが、一番の理由である。





 急遽チケットを購入・・・OK、チケットは確保できた。





 ニザエモンさんはみえを切ってもカッコイイが・・・





 死ぬシーンは絶品!の役者である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンシュンカブキ センシュウラク

2006-04-29 | 歌舞伎


    センシュウラク




     シンシュンカブキ センシュウラク 観劇感想





 シンシュンカブキに行く。

 ニザエモンさんの『イザヨイ清心』の素晴らしさは声に出ない。
 アイノスケさんの『ゲンペイヌノビキ』は涙ながらの大熱演。


 彼は*日に比べて彼のみえの切り方は一層こなれ、ニザエモンさんのそれと相通じるものを感じさせてくれる。


 センシュウラクにふさわしく満足のいく公演であった。


 さすがに今日はセンシュウラクということもあり、客席も男女を問わず大向こうの方が多い。方々で始終笑いや拍手が巻き起こり、活気が感じられる。


 楽しいひと時を過ごすことができた^^
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イザヨイセイシン / カナテホンチュウシングラ

2006-04-29 | 歌舞伎




 寿初春大カブキ 


            イザヨイセイシン
            カナテホンチュウシングラ




       昼の部  二回   1/中旬 + 1/下旬   ニザエモン
       夜の部  二回   1/上旬 + 1/中旬   ニザエモン







 「イザヨイセイシン」はニザエモンの良さが充分に味わえ、ニザエモンファンの私とってはたまらない演目の一つ。



 彼の柔らかな演技と力強さの二面性を同時に味わえる秀作である。


 ニザエモンの好きな私は、家族四人で、昼夜一回を一階席で観た。

 満足!

 あまりにもニザエモンの素晴らしさを堪能できたので、急遽チケットを追加して、三階席で昼夜一度づつ、一人観劇をした。



 では・・・・

 ニザエモンの独断による見所としては・・・






 【ニザエモンのかっこよさ】


 (例)

  花道で真っ白な手ぬぐいなどをきりりと締める姿は、

 身震いするほどに美しい・・・





 【タマサブロウの・・・】


  (a)タマサブロウの変貌ぶりは見事だが、二日のうちの一日は少し男性面が見え隠れしたことが、残念・・・


 、(b)荒れた生活の身に落ちたイザヨイが身請けしてもらった白蓮拓に、金のむしんに行き、キセルをかりた前後シラナミのベンテンのようなポーズと台詞口調のパロディ。

   



 では、昼夜どちらがお勧めか・・・・



 【ニザエモンとヤジュウロウの決め台詞の連続】


 a)台詞は七五調の連続で、芝居を観ているという満足感が得られる。


 b)(2b)を受けての、シラナミを思わせる口調とツラネも素晴らしい。


  これも白波のパロディとも言え、百蓮も元は大泥棒。

  後に盗人同士、兄弟のの名乗るをあげる。




 【**演劇(小芝居)との比較】


 この芝居から色々な**演劇にシーンや台詞に取り入れられている箇所が数多くあった。


 a)**演劇も観た経験がある為、取り入れられた箇所探しが結構楽しかった。


 b)カブキと**演劇の演じ方の比較をしながら観ていると、今までとは違った楽しめ方も出来た。


  楽しめる一演目であったことは確かだ。





 【では昼と夜の部では、どちらがたのしめるか?】


こればかりは人によっての好みの問題があるのでなんともいえないが・・・





 【初めてカブキに行かれるのならば】


 初めてカブキに行かれるのならば、独断と好みの問題だが、夜の部をお勧めする。

 カブキらしさと華やかさ、あらすじやメリハリや変化がはっきりしていて、面白いかもしれない。


 ニザエモンの出る「カナテホンチュウシングラ」は申し分がないくらい素晴らしかったが、その前の「心霊ヤギリノワタシ」もあらすじの構成とヒデタロウの熱演振りが、心地よい。


 満足のいく舞台だといえよう。




 ただし「ハルノシラベ ムスメナナクサ」に関しては、独断だが、配役的に無理がみられる。







 【ニザエモンが好き!】という方にとっては

 これも単なる独断による私見に過ぎないが・・・


 ニザエモンが好き!という方にとっては、昼の部もお勧めしたい。


 理由は先ほど書いたが、

とにかく【かっこいぃいぃ~】のである。

      


 いずれにしても今回の公演は、私にとってはお年玉のように素敵な公演。


 ニザエモンの魅力を十二分に堪能できる舞台であった。





 後数回追加観劇すればよかったと後悔・・・・・
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする