宇治拾遺物語絵巻 チェスター・ビーティー・ライブラリィ所蔵
アラン【Alain】『幸福論』8 デカルト「情念論」(フランスの哲学者 1596年~1650)「精神は考えるモノ」「精神は考えるモノ」
アラン『幸福論』P.254-256 memo
デカルト「情念論」
「情念論」は、フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596年~1650年)著
1649年
本書でデカルトは心身二元論の観点から「情念」(Passion)について論じている。
精神は考えるモノ
精神は考えるモノ
デカルトは『省察』で主張していた。
精神と身体はあくまで別々に存在する。
しかしここで難題が生じてくる。
人間は考えるモノである
延長をもつモノ
私たちは精神としても、また身体としても存在している。
精神と肉体のつながり
デカルトいわく、
私たちの精神にとっては、身体が最も「能動的」なものだ(ここでいう能動的とは、意識の向こう側から働きかけてくる、ということ。
自律的と言ったほうが分かりやすいかもしれない)。
一方、情念は精神と同じく受動的なものだ。
情念を認識するためには、精神と身体の違いを吟味して、私たちのもつ機能が精神と身体のどちらに属するかを見なければならない(デカルト)
「精気なんて無いけれど?」と言う前に
現代の水準から言えば、精気が神経を通って筋肉を動かしているとする主張は正しいものとは言えない。
だがそうした批判自体にあまり価値はない。むしろ大事なのは次のことだ。
デカルトは、私たちの身体は神の意志によってではなく、それ自身のメカニズムによって運動する、と考えた。
これは当時の水準から考えると、とても卓越した視点だったと言える。
当時のヨーロッパでは、人間は神の被造物だという見方がいまだに強い力をもっていたからだ。
デカルトによれば、情念は、脳に含まれる精気が心臓の動きを早めたり遅めたりするのに役立つ方向へと流れるときに生じてくる。
したがって、ドキドキしたり、ビックリして心臓が止まりそうになるときには情念が働いているということになる。
身体の運動をリードしているのは意識(精神)ではなく情念だ、ということだ。
私たちは自分がしようと意思していないことを(むしろそれに反対しているときでも)してしまうことがある。
たとえば私たちは誰かを愛そうと思って愛することはできない。
なぜなら愛は自分の意識(精神)によって完全にコントロールできるものではなく、精神のかなたから到来してくる感情だからだ。
デカルトの、喜怒哀楽
デカルトによれば、私たちの基本的情念は、驚き、愛、憎み、欲望、喜び、悲しみの6つだ。
確かにそれらはどれも意識して得られる感情ではない。
驚こうと思って驚くことはできないし、悲しいときに嬉しくなろうと思っても無理だ。
嬉しいときは嬉しいし、悲しいときは悲しい。
デカルトいわく、なかでも欲望は特別の位置を占めている。
なぜならそれらの情念は、驚きを除いて、欲望を通じてのみ行為を引き起こすことができるからだ。
それはなぜか。喜怒哀楽が現在に限定されているのに対して、欲望は精神に未来の対象を目がけさせる本性をもつからだ。
デカルトの欲望コントロール
私たちの情念は欲望を通じて、精神に対して未来の対象を目がけて行為するよう意志させることができる。
私たちにとって欲望はとても重要だ。
なぜなら欲望があってこそ、私たちは「善」を目がけることが出来るからだ。そうデカルトは言う。
しかしデカルトは私たちは欲望の赴くままに行為するべきだと言うわけではない。
私たちはまず、何が善であるかを理性と経験によって見て取らなければならない。
それによって私たちは善と悪を区別し、本当の善を目がけることができるようになるからだ。そうデカルトは主張する
アラン『幸福論』
岩波文庫
1998
アラン (著), Alain (原著)
神谷 幹夫 (翻訳)