乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

Halloween(元はカボチャではなく、カブでランタンを作った収穫祭、悪魔祓いに仮装した、ケルト人とはなんぞや?)

2018-10-31 | ことのは


 本日Halloween
(元はカボチャではなく、カブでランタンを作った収穫祭、悪魔祓いに仮装した、ケルト人とはなんぞや?)

     

 本日ハロウィンとかや。

 ハロウィンは未だ馴染みのない我が家ではあるが、世間が騒ぎ立てるゆえ、今日と知ったか知らぬとか。

 ハロウィンはもともと収穫祭のお祭りと聞いたがや。

 日本でいう秋祭りに相当するのかとしないとか。

 稲を刈った田に残された案山子が言うたとか言わぬとか。

 

 元はケルト人から始まった祭り。

 元はカボチャではなく、カブでランタンを作ったと、案山子が笑う。

 アメリカに移住したケルト人が、ハロウィンを祝おうとしたがや。

 ところがアメリカではカブはあんましとれなんだそうな。

 昔の人は考えた。


     そうだ!カボチャでランタン作ろう!とな。

 そこで乱鳥も考えた。

 家にはオカボもカブも無いけんど、

     冬瓜やったら、ごじゃりまする、とな。

 

 ハロウィンの仮装は、悪魔に似せて仲間と思わせる目的とかや。

 または悪魔祓いという意味もあるらしい。

 ほなら、鍾馗様でもお札でも、成田屋の睨みでも良いと案山子が言うたとか、言わんとか。


    祭りが多いのは、ええこっちゃ!


     

 ケルト人  Celt, Kelt
 中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。
 古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていた。
「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

 ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。
 現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語。
 古代から中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。
 そのため
歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。

       wikipediaより引用

      

 

 ご覧くださいましてありがとうございます^^
 


 
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今から掃除。リビング、台所へと、いざ!参るぞ!

2018-10-31 | 乱鳥徒然 Rancho's room.


 
 
 写真は京大博物館前。京都恒例自転車。
 とはいえ、最近では河原町三条や他多くの場所での歩道一時自転車駐車を見かけなくなった。
 
 

 

 
 写真は京都恒例京大前立て看板。
 とはいえ、最近、京都の景観を理由に強制撤去があった。
 京都人の知人たちは口々に首を傾げている。
 強制撤去?これも……(あら不思議!電池切れ)




 一時間ばかり前に起床。

 外は真っ暗だったが、今は空が薄明かり。

 ただいま5:57

 空調してない部屋に来ると、冬の寒さを肌で感じる。


 今から掃除。リビング、台所へと、いざ!参るぞ!





 ご訪問くださいまして、誠にありがとうございます。



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静脈瘤が喜ぶぞ^^

2018-10-30 | 乱鳥徒然 Rancho's room.

 家族と二人でスポーツジムに行き、教室二つとマシンなどをこなして帰宅。

 今日は少々長めで、二時間半ほど楽しませていただいた。

 帰宅後、遅めに昼食。

 体を動かした後なので、たんぱく質とお野菜がたっぷりのメニュー。

 今日の昼食においては、炭水化物は控えた。

 少し体がなまっていたので、隅々まで丹念に動かすと、血流がよくなり、足の先までスースーと息吹を感じる。

 時間的に負担がない程度で、変えアラを動かすことは大切だと感じる。

 明日は家中の大掃除を兼ねて、体を動かそう。

 きっと、静脈瘤が喜ぶぞ^^

 


 ご訪問いただき、ありがとうございます。



 

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早稲田大学蔵 資料影印業書 国書篇 第三十九巻 『仮名草子集』より 「角田川物かたり」上を、絵も含めて書き写しました。

2018-10-29 | 草双紙:洒落本、仮名草子、黄表紙、黒本、赤本、合巻 等
 写真は 大和川





 早稲田大学蔵 資料影印業書 国書篇 第三十九巻

    『仮名草子集』より 「角田川物かたり」上





 
 「角田川物かたり」上
  
    上一オ 〜 上十八ウ

    281頁 〜 312頁 (早稲田大学蔵 資料影印業書 『仮名草子集』)

 平成六年九月十五日初版



 図書館に数時間ほど閉じこもり、「角田川物かたり」上(上一オ 〜 上十八ウ)を絵も含めて、完読完写。

 書き写し終えたら、利き手が痛かった。

 絵は8ページにも及ぶ。

「角田川物かたり」は上中下に分かれているが、上を読んで感じたことは、ページ数の割に絵が多いということ。

 絵は細かで表情豊かに描かれているが、私は早く読み進めたいがために、クロッキー風にアウトラインを描き、その場をしのいだ。

 だが、大切なところと文字は細かに書き込んだので、今ノートを見てもよくわかると直持参している。

 画には固有名詞が添えられているが、文章が無いのはありがたかった。

 
 なぜこのように手書きで写したかというと、国会図書館から借りて頂いたため、複写ができないため。

 また、自宅には持ち帰ることはできず、近隣の図書館で読まなければならない。

 わたくしは国会図書館と近隣の図書館のご好意により、早稲田大学蔵 資料影印業書 国書篇 第三十九巻を手にすることができ、素晴らしい書だということを知った。


「角田川物かたり」上(上一オ 〜 上十八ウ)は和本にして32頁。

 ノートは一行の行間を開けて写したので、大学ノートにして24頁を使用した。

 
 内容はいたって面白い。

 今月の松竹座で演じられた右團次丈(^^v)の芝居『雙生隅田川』(ふたごすみだがわ)の元本だとされている。

 次を読みたくという気持ちが大きいが、あいにく今日は図書館が休館日。

 なので、近松や江戸時代に描かれた團十郎の脚本を読んで楽しんでいた。


 今日は今から何をしよう。

 とりあえずお夕食や雑用、あとは自分の時間に当てたい。


 

 ご覧くださいまして誠にありがとうございます。


 

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山城屋!

2018-10-29 | 舞台・音楽 雑感メモ

 山城屋!
    坂田藤十郎



 十二月一月と二ヶ月間、
 
 京都と大阪で

 藤十郎丈のお芝居が見られるよ。

 良かったね。

 うん!良かった♡




 ご訪問いただき、ありがとうございます。





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「夏祭浪花鑑」2018年6月 歌舞伎座 中村吉右衛門,尾上菊之助,中村歌六,中村雀右衛門,中村東蔵,嵐橘三郎,中村錦之助 他

2018-10-29 | TVで 歌舞伎・能楽
 写真はイランの ビーセツゥーンにある遺跡跡

 

 

 




   「夏祭浪花鑑」



 2018年6月
 歌舞伎座
 2時間5分00秒
 楽曲 「夏祭浪花鑑」


 出演者

 中村吉右衛門,尾上菊之助,中村種之助,中村米吉,寺嶋和史,中村吉三郎,中村吉五郎,市川左升,中村吉兵衛,澤村宇十郎,市川蔦之助,中村吉之丞,中村松江,大谷桂三,中村錦之助,中村歌六,中村雀右衛門,嵐橘三郎,中村東蔵,竹本葵太夫,竹本司太夫,鶴澤寿治郎,豊澤長一郎,鶴澤祐二,

 団七九郎兵衛…中村 吉右衛門、団七女房 お梶…尾上 菊之助、玉島磯之丞…中村 種之助、傾城 琴浦…中村 米吉、団七伜 市松…寺嶋 和史、こっぱの権…中村 吉三郎、なまこの八…中村 吉五郎、医者 竹庵…市川 左升、職人 兼八…中村 吉兵衛、町人 梅吉…澤村 宇十郎、町人 松吉…市川 蔦之助、大鳥佐賀右衛門…中村 吉之丞、役人 堤藤内…大谷 桂三、一寸徳兵衛…中村 錦之助、釣船三婦…中村 歌六、徳兵衛女房 お辰…中村 雀右衛門、三河屋義平次…嵐 橘三郎、三婦女房 おつぎ…中村 東蔵、義太夫…竹本 葵太夫、三味線…鶴澤 寿治郎



 馴染みの「夏祭浪花鑑」を中村吉右衛門さんで楽しむ。

 色々な役者さんで「夏祭浪花鑑」は楽しんでおり一部台詞も随分と覚えてはいる。

 本芝居は髪型芝居であり、役者さんにより大きく言い回しが異なる演目のひとつ。

 なので、台詞台詞を他の役者さんのイントネーションを思い浮かべながら見ると、二倍三倍と楽しむことができる。

 素晴らしい役者さんたちで、歌舞伎の面白さが感じられる舞台であった。


 とてもうまい役者さんたちばかりなので、夫が横で見ていて、台詞を言っていた。

 松竹座の七月昼夜の歌舞伎鑑賞で歌舞伎は二度と見ないと言い切っていた彼であった。

 ところが、吉右衛門さんを始め素晴らしい役者さんたちの、面白い演目なら、テレビでは歌舞伎を見てくれていた。

 七月のK屋親子の舞台でショックを受け、歌舞伎は見切ったと言い切った彼である。

 よかった、安堵した。

 わたくしと知り合って以来、三十数年は歌舞伎を見た彼である。

 押しに押せば、またいつかは、劇場にも行ってくれそうな気配である。

 そう行った意味でも嬉しいありがたい舞台であった。


 わたくしはといえば、歌六さんと雀右衛門さんが出てこられると歌舞伎を見ているという満足感が大きい。

 歌六さんの台詞や見得が繰り広げられると
「かっこいぃ〜!!」
と、わたくしも今や結構良いお年頃(^^汗)だというのに、大向こう風では無い阿呆な声を出していた。

 歌六さん
 最近ますます、重厚で素晴らしいお舞台を見せてくださいますね^^

    

 ご覧くださいまして、誠にありがとうございます。
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角田川物語 [室町物語影印叢刊 71]と早稲田大学出版部の仮名草子集を購入。だから芝居は面白い『雙生隅田川』

2018-10-29 | 草双紙:洒落本、仮名草子、黄表紙、黒本、赤本、合巻 等


 右團次丈と右近(タケル)ちゃんの十月松竹座『雙生隅田川』がとても良かった。

 もともと謡曲の『隅田川』は好きな演目のひとつなので、DVDで買い求め、毎日見つつ、バックミュージックとして聞いていたわたくしである。

 歌舞伎の『雙生隅田川』にも期待をかけていた。

 舞台の面白さは思いの外素晴らしく、二度とも静かなる波が押し寄せ、舞台の鑑賞中に大泣きに泣いた。


 芝居中の義太夫の言葉にもある『山椒大夫』の載る説経節(東洋文庫)は以前に読んでいたので、歌舞伎の『雙生隅田川』は興味深い。

 近松全集では浄瑠璃の『雙生隅田川』を読み進めたが、近松の字には浄瑠璃の癖がありすぎて、恥ずかしながら今の私の力ではどうに文字が読みにくい。

 なので、岩波の新古典全集で『雙生隅田川』を読むことにした。


 もともと凝り性の私である。

 興味が出たら、やめられない。

 歌舞伎の『雙生隅田川』に舞台の面白みを感じ、数日前に次の本を注文した。

       角田川物語 [室町物語影印叢刊 71]

 さらに図書館では、国会図書館ら早稲田大学出版部の仮名草子集を取り寄せていただけるという。

 実物本を見てみると、早稲田大学出版部の仮名草子集は素晴らしい出来具合であった。


 仮名草子集の中に含まれている『角田川物かたり』は芝居の『雙生隅田川』の元となった仮名草子である。

 昨日は図書館にこもること数時間で、『角田川物かたり』の上が文字も絵も全て書き写した。

 全て書き写したとはいえ、次が読みたい。

 次が読みたいが、図書館は明日は休館日である。

 読み出すと止まらない性格。加えて、文及び絵を書き写し続けて、右手も痛くなった。

 この歳で利き手腱鞘炎なんてことになれば、シャレにならない。

 なのでせっかく国会図書館からお取り寄せいただいたが、早稲田大学出版部の仮名草子集も購入することにした。


 早稲田大学出版部の仮名草子集は全部で八編。他にも面白そうな仮名草子が載っていた。

 しばらく遊べそうな一冊である。


 ネット通信が広まり、出版社に問い合わせたり、書店に注文したり、古書店(古本屋)を駆けずり回る必要がなくなったのは大変ありがたい。

 そして感謝は松竹株式会社にも及ぶ。


 関西で内容的にも面白みを感じる歌舞伎『雙生隅田川』を取り上げてくださいましたこと。

 また、出演されました全ての役者様たちが体当たりで舞台に挑んでくださいましたことで、さらに隅田川関係や芝居の元本を読みたくさせて頂いたことに感謝せざるおえません。

 だから芝居は面白いと、今回の舞台を拝見させていただきつくづく感じました。




 ご覧くださいまして、誠にありがとうございます

 
 


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乱鳥、文書に取り組んでおりまする。

2018-10-28 | 乱鳥徒然 Rancho's room.
 写真はイランの シャムシール村。
 2012年当時では知り合った村人たちがおっしゃるには、訪れた日本人は私たち夫婦が初めてらしい。




 早朝から課題に取り組んでいた。

 完全に読めたと思っていた文書が、あら!残念。

 書き出して整理してみると、二箇所もあやふやな文字があることに気がついた。

 だから古い文書は難しくもあり、面白くもある。


 今日はその文字、判明させましょうか!…と、意気込みだけは立派な乱鳥。



 

 ご覧くださいまして、ありがとうございます。
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菅原道眞 (道真)23 菅原伝授手習鑑- 菅丞相 役も当たり役の十五世片岡仁左衛門丈が2018年、文化功労者賞を受賞

2018-10-27 | 菅原道眞

 写真のポスターは2011年7月  松竹座前にて




 

 

 

 

 十五代目 片岡 仁左衛門 孝夫さん、おめでとう!!

 菅原道眞 (道真) 23 菅原伝授手習鑑- 菅丞相 役も当たり役の十五世片岡仁左衛門丈が2018年、文化功労者賞を受賞




 菅原道眞 (道真)
 菅原道眞1 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
 
 菅原道眞2 秀才道真、業平と親交が深かったか…

 菅原道眞3 東風吹かば… 春を忘るな・(春な忘れそ) 『大鏡』『拾遺和歌集』

 菅原道眞4 メモ

 菅原道眞 5 大宰権帥に左遷。「日本三代実録葉」完成を報告したのは、時平と大蔵善行(901年)

 菅原道眞6 菅原道真は ろ号券 五圓紙幣にも登場していた。

 菅原道眞7 手向山八幡宮 このたびはぬさもとりあへずたむけ山 紅葉の錦神のまにまに

 菅原道眞8 北野天満宮 梅花祭(御祭神菅公の祥月命日に行われる祭典) 2月28日

 菅原道眞9 北野神社 2014年2月28日 北野梅園 梅!只今五分咲きです。(4景)

 菅原道眞10『北野天神縁起(光信本)』(北野天神 宝物殿)と、 絵馬堂の絵馬 

 菅原道真11 『北野天神縁起(光信本)』(北野天神 宝物殿)「牛が動かなくなった場面」や「雷となった道真さんから歌を教えられる場面」など

 菅原道眞12 北野天満宮 2014年2月 宝物殿 『北野天神縁起(光信本)』「長谷川等伯の大型絵馬」

 菅原道眞13 神戸 北野天満宮神社では展望台では異人館「風見鶏の館」と神戸港を見る事ができます。

 菅原道眞14 八坂神社・石見神楽『天神』 東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

 菅原道眞 15 天神祭  花火と船能 『翁』『羽衣』『土蜘蛛』観世流   2014年7月15日

 菅原道眞 16  菅原道真 16 名がわからない天満宮と、「菅原道真公」の絵馬  「稲葉そよびて秋風のふく」  (5景)

 菅原道眞 17 太宰府「梅ヶ枝餅」 元は梅の枝に栗餅を巻き付けて道真公に差し入れたらしい。 (5景)

 菅原道眞 18 仁左衛門が太宰府天満宮で「三月大歌舞伎」(歌舞伎座)成功祈願

 菅原道眞 19 仁左衛門丈が菅丞相 通し狂言『菅原伝授手習鑑』 三月歌舞伎座 チラシあり

 菅原道眞20 『決定版 番付集成』より「日本國中 天満宮鎮座」 青木美智男編 柏書房

 菅原道眞21 京都観世会9月例会〈其のニ〉 (能) 雷電 替装束 橋本忠樹

 菅原道眞22 『観世流謡曲続百番集』『雷電』(らいでん)  445頁から454頁(10枚)

 菅原道眞23(道真)菅原伝授手習鑑- 菅丞相 役も当たり役の十五世片岡仁左衛門丈が2018年、文化功労者賞を受賞

   ☆ ☆ ☆
 北野天満宮所蔵『北野天神縁起絵巻〈承久本〉』「平成記録本」全9巻 京都文化博物館 京の至宝と文化

 乱読記録2012年97:『日本絵巻大成21 北野天神縁起「承久本」』解説/ 岩波古典『菅原文草 菅家後集』

 『天神縁起の系譜』「北野天神絵巻」(承久本)から巻一、巻二 須賀みほ編




 私自身はドラマ自体をあまり見ない人間なので、仁左衛門丈と雖ドラマに関してはほとんど見たことがない。
 また、映画も半分ほどしか見tれないのが口惜しい。

 女殺油地獄は海老蔵さんのお怪我の代役をしてくださいましたので、松竹座で三度見ることができました。
 仁左衛門丈の女殺油地獄はもとよりたいそう見たかったので、海老蔵さんには手を合わせつつも、人生への贈り物だと幸せを噛み締めていました。

 上に書かれた主な当たり役以外にも、心に残る演目が多くあります。
 
 仁左衛門さんは孝玉時代から南座で見ていました。
 私が十代、孝夫さんが三十代でした。
 歌舞伎を全く知らなかった高校生の頃の私でさえ、お上手だな、美しいか、かっこいいなという三拍子が揃った役者さんの一人でした。
 高校生の頃の私にとっての歌舞伎は学生の頃見ていたお能と同様、、言葉を聞き取るのもままならず状態でした。
 しかしそれを上回るほど、見せ場を作ってくださいます役者さんのお一人でしたことを覚えています。

 菅原道眞が好きな私にとっては、仁左衛門丈の菅丞相 役はこの上なき喜びです。
 私にとっては、有原業平とも菅原道眞とも曾我五郎 とも感じられる片岡仁左衛門丈がこの度名誉ある文化功労者賞を受賞され、大変嬉しく感じております。





  屋号 松嶋屋
  定紋 七つ割丸に二引 
  生年月日 1944年3月14日(74歳)
  本名 片岡孝夫
  襲名歴 1. 片岡孝夫
        2. 十五代目片岡仁左衛門

  父 十三代目片岡仁左衛門
  兄弟 五代目片岡我當
     二代目片岡秀太郎
     片岡静香(女優)
  妻 一般女性
  子 片岡孝太郎
     片岡サチ
     片岡京子
  当たり役
    歌舞伎
      『女殺油地獄』の河内屋与兵衛
      『菅原伝授手習鑑』の菅丞相
    テレビ
      『眠狂四郎円月殺法』の眠狂四郎
      『太平記』の後醍醐天皇
 表示
 十五代目 片岡 仁左衛門(じゅうごだいめ かたおか にざえもん 1944年3月14日 - )は、日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡「片岡仁左衛門」の当代。屋号は松嶋屋。定紋は七つ割丸に二引、替紋は追っかけ五枚銀杏。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。
 本名及び旧芸名は片岡 孝夫(かたおか たかお)。半世紀近くにわたって本名のまま舞台に立ち続けていたので、大名跡「仁左衛門」を襲名した今日でも「孝夫」と呼ぶ人は多い。


 受賞歴[編集]
    1986年 芸術祭賞
    1988年 日本芸術院賞
    1999年 毎日芸術賞、大阪舞台芸術賞
    2003年 朝日舞台芸術賞
    2006年 紫綬褒章、芸術院会員
    2010年 第13回坪内逍遙大賞
    2018年 文化功労者


 歌舞伎
 主な当たり役は以下の通り
    女殺油地獄 - 与兵衛 役
    伊賀越道中双六 - 呉服屋十兵衛 役
    伊勢音頭恋寝刃 - 福岡貢 役
    菅原伝授手習鑑 - 菅丞相 役
    勧進帳 - 弁慶 役
    助六曲輪初花櫻 - 曾我五郎 役
    与話情浮名横櫛 - 与三郎 役
    廓文章 - 藤屋伊左衛門 役
    恋飛脚大和往来 - 忠兵衛 役



 ご覧くださいましてありがとうございます。

 

 

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乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 7  「文化功労者」と「文化勲章」  仁左衛門丈が「文化功労者」を受賞されたので調べてみたい。

2018-10-27 | ことのは
 写真のポスターは、2014年7月  松竹座にて





 

 

 

 
 さらに古典を掘り下げたい 文化功労者に片岡仁左衛門さん





 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 7  「文化功労者」と「文化勲章」





 気がつけば、乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱が多いことに気づく。
 だいたいはわかる。感覚ではわかる。
 だが、その実、しっかりと内容を把握せず、日常的に使っている言葉。
 そういった言葉に気づいた時点で、これからも取り上げていこうと思う。



「文化功労者」と「文化勲章」

「文化功労者」
 文化功労者(ぶんかこうろうしゃ)とは、日本において、文化の向上発達に関し特に功績顕著な者をいう。
 文化功労者年金法[1](昭和26年法律第125号)に定められる。
 文化勲章よりも多くの者が選ばれ、文化勲章に次ぐ栄誉となっている。
 文化勲章受章者は、すでに亡くなっている人物を除いては、文化功労者にあわせて決定される。

 選考基準
 文部科学大臣が候補者の選考を文化審議会に諮問し、その選考した者のうちから文部科学大臣がこれを決定する(文化功労者法第2条)。
 文化功労者には、終身、政令で定める額の年金(年額350万円・平成21年度予算計約8億円)が支給される(同法第3条)。
 なお選考に国籍要件はなく、2014年(平成26年)末現在で、1978年(昭和53年)の南部陽一郎(物理学者])、1999年(平成11年)のマリウス・バーサス・ジャンセン(日本研究家)、2002年(平成14年)のドナルド・キーン(日本文学者)、2010年(平成22年)の王貞治(野球選手・監督)の4人の外国国籍者が選ばれている(南部陽一郎とドナルド・キーンは文化勲章も受章)。
 1989年(昭和64年/平成元年)に服飾デザインの森英恵、1990年(平成2年)に将棋の大山康晴・水泳の兵藤秀子、1991年(平成3年)にグラフィックデザインの亀倉雄策、1992年(平成4年)に囲碁の坂田栄男・野球の川上哲治、1994年(平成6年)に漫画の横山隆一、2012年(平成24年)にサッカーの岡野俊一郎、2012年(平成24年)にアニメーションの宮崎駿が選ばれるなど平成時代に入ってから対象ジャンルの拡大が顕著である。
 2009年(平成21年)には元横綱の大鵬幸喜が選ばれている。

 年金・褒賞金について
 日本国憲法第14条に「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」とあるため、文化勲章受章者に年金や褒賞金を支給することができなかった。
 このため1951年(昭和26年)に勲章とは別制度として「文化功労者」を設け、これに年金を支給することで実質的に文化勲章年金の機能を持たせた。
 なお、憲法の趣旨を潜脱する目的で文化勲章と別の名称にした経緯があり、一時の褒賞金に留まらず、掛金なしで高額の終身年金を与えることは特権であるとして憲法違反であるとする説もある。
 年金支給額は文化功労者年金法施行令(昭和26年政令第147号)で定められ、現在の額は1982年(昭和57年)に規定された年間350万円である。


 文化功労者との関係
 文化勲章には金品等の副賞は伴わない。
 これは日本国憲法第14条の規定(勲章への特権付与の禁止)によるものであるが、文化の発展向上への貢献者に報いたいとの意図により、文化勲章とは別制度として1951年(昭和26年)に文化功労者顕彰制度が創設され、前年度までの文化勲章受章者で存命者を一斉に文化功労者として顕彰するとともに、以後も文化勲章受章者は同時に文化功労者でもあるように運用することとした。これにより、文化勲章受章者は、文化功労者年金法に基づく終身年金(現在は年額350万円)が支給される。
 制度上は別のものであるとの制度設計であっても、実際の運用上において文化勲章受章者と文化功労者とを完全に同一にすると憲法の規定に抵触するおそれがあるため、文化勲章受章者とは別に、文化勲章受章者以外にも文化功労者として顕彰する者を選定する運用が行われてきた。
 1979年(昭和54年)度以降は、文化勲章受章者は原則として前年度までに文化功労者として顕彰を受けた者の中から選考するように改められた。



「文化勲章」
 文化勲章(ぶんかくんしょう)は、科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者に授与される日本の勲章。
 当時の内閣総理大臣・廣田弘毅の発案により[1]、1937年の文化勲章令(昭和12年2月11日勅令第9号)を以て制定された。

 勲章のデザイン
 文化勲章の場合、制式と図様も1937年の「文化勲章令」(昭和12年2月11日勅令第9号)により定められている。
 賞勲局及び造幣局の嘱託で東京高等工芸学校教授の畑正吉がデザインした[2]。意匠案と昭和天皇との関係は別項を参照のこと。
 文化勲章は、章、鈕、環、綬の各部から構成されている。

 章
 勲章は橘の五弁の花の中心に三つ巴の曲玉を配する。鈕にも橘の実と葉が用いられる。綬の織地は淡紫色。

 授与
 2000年11月3日、皇居にて明仁天皇(手前左)から文化勲章を授与される筑波大学名誉教授白川英樹
 親授式が毎年11月3日の文化の日に皇居宮殿松の間で行われ、天皇から直接授与(親授)される。
 1997年(平成9年)から現行の天皇親授に切り替えられたが、それまでは宮中で天皇臨席のもとに内閣総理大臣が勲記と勲章を手交する伝達式の形式で行われていた。
 そのため、以前は同じく宮中伝達式により授与される旧勲二等と同位に位置づけられていたが、現在では同じく天皇親授により授与される大綬章(旧勲一等)と同位に位置づけられている。

 受章者選考手続き
 文化庁文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会の意見を聞いて文部科学大臣が推薦し、内閣府賞勲局で審査したうえ、閣議で決定する[4]。文化勲章受章候補者推薦要綱(平成2年12月12日内閣総理大臣決定、平成2年12月14日閣議報告)によると、文部科学大臣は、“文化の発達に関し勲績卓絶な者”を文化功労者のうちから選考し、毎年度おおむね5名を内閣総理大臣に推薦する。文化功労者以外の者でも必要と認められる場合には選ばれることがある(この場合、併せて文化功労者になる)。
 慣例として、当年のノーベル賞受賞者が文化勲章未受章の場合にも授けられてきた。
 この慣例は、未受章者であった江崎玲於奈が1973年(昭和48年)に物理学賞を受賞した際翌年受章することになったことに端を発し、それ以降のケースではノーベル賞と同年となった(これが“ノーベル賞受賞で政府が慌てて文化勲章を授ける”ように見える一因である。
 江崎以前のノーベル賞受賞者は全員が先に文化勲章を受章していた。
 但し1974年(昭和49年)に平和賞を受賞した佐藤栄作は「文化に直結しない」として授与されておらず[5]、1994年(平成6年)に文学賞を受賞した大江健三郎は辞退している)。
 しかし2017年(平成29年)に文学賞を受賞したカズオ・イシグロは文化勲章が贈られず、この慣例は破られた[5]。幼年期に母国日本を離れており作品を英語で書いているイシグロが、日本文化への貢献が顕著かどうか解釈が分かれるため、慣例通り文化勲章が授与されるかは注目された。
 なお、文部科学省はイシグロが文化勲章の選考から漏れた理由をコメントしていない。
 イシグロは翌2018年(平成30年)4月29日付の春の叙勲で文化勲章や大綬章よりも一つ下の旧勲二等格である旭日重光章に叙されている。

 

 
               (ウィキペディア)


 



 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 1 「引歌」と「本歌取り」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 2「影印」と「印影」、「影印本」(景印本、影印)と「覆刻本」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 3 丈(じょう )と 丈(たけ)
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 4「草紙」と「草子」と「双紙」と「冊子」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 5「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 6「千秋楽」と「千穐楽」と「千穐樂」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 7乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 7  「文化功労者」と「文化勲章」 


 



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片岡仁左衛門丈が平成30年度文化功労者に選出された。  おめでとう!考夫さん!!!

2018-10-27 | 舞台・音楽 雑感メモ
 写真のポスターは、2018年2月松竹座


 

 

 

 片岡仁左衛門が平成30年度文化功労者に選出「ただただ、歌舞伎が好き」



 片岡仁左衛門丈が平成30年度文化功労者に選出された。  
 おめでとう!考夫さん!!!



 片岡仁左衛門が平成30年度文化功労者に選出された。
 ああ!やっと!と嬉しい気持ちが波寄せる。
 考夫さん、おめでとうございます!!!

 孝玉の頃から演技が好きだった仁左衛門丈
『惜しいな』と思われるうちに辞めたいとおっしゃっているが、先代のように。上手からしもてへ歩かれるだけでも良いので、舞台好きの心意気を最後まで見せていただきたいと説に願う。
 今や十代の頃から大変好きだった役者さんといえば、唐十郎丈と仁左衛門丈だけである。
 いついつまでもお元気で、私たちに本当の歌舞伎を見せ続けていただきたいと願ってやみません。  



 
 「死ぬまで修業」 文化功労者に片岡仁左衛門さんら(18/10/26)

 
 2018年10月26日 11:30

 文化功労者は、文部科学省が決定する、文化の向上発達に功績を残した人に送られる称号。
 仁左衛門は歌舞伎での功績を認められ、このたびの選出となった。
 選出に際し、取材に応じた仁左衛門は
「栄誉に浴しまして、身の引き締まる思いでございます」
と挨拶。
 市川團十郎が助六を勤める公演のビデオを自宅で観ている最中に、受賞の知らせを電話で受けたと言い、自身と妻の2役を演じそのシーン再現してみせ、会見場を和ませる。

 記者から当日の装いについて尋ねられ、中学1年か2年のときに父から褒美に贈られたという腕時計を「いつも着けている物ですが」と紹介する片岡仁左衛門。

 記者から当日の装いについて尋ねられ、中学1年か2年のときに父から褒美に贈られたという腕時計を「いつも着けている物ですが」と紹介する片岡仁左衛門。
 自身の原動力を「ただただ、歌舞伎が好きということですね」と語る仁左衛門は、
「正直、廃業しようという時期もありましたが、やはり歌舞伎の魅力から離れられなかったと言うか、逃げられなかったと言うか……」
と振り返り、「常に挑戦」「何でも命がけ」と歌舞伎に対する貪欲な姿勢を見せる。
 そして1993年の大病からの復帰を、
「非常におこがましい言い方なんですけれども」
と前置きしながら
「神様が『歌舞伎のためにもっとがんばれ』とおっしゃってくださったんだと思いました」
と回想し、
「私から歌舞伎を取ったら何もなくなります」
とコメント。さらに
「うぬぼれ……甘えではないのですが、お見せしても恥ずかしくないと思える段階、『惜しいな』と思われるうちに辞めたい
と引き際についても言及した。

 父から贈られた腕時計を見つめる片岡仁左衛門。

 父から贈られた腕時計を見つめる片岡仁左衛門。
 歌舞伎界の今後については
「とにかく古典ものの掘り下げ。そして掘り下げることで生まれる芝居の新しい魅力を、歌舞伎をご存知ないお客様方に訴えたい」
と目標を掲げ、
「お客様を目新しいことで捕まえるのではなく、掘り下げる努力をすることが一番大事だと思います」
とやわらかな表情の中にも真摯な持論を忍ばせる。続けて
「言い古された言葉ですけど、『死ぬまで修行』。我々に終点はないわけですから、とにかく体力の許す限り“歌舞伎”というものを、多くの人に伝えていきたい」
と語り、“歌舞伎”の箇所で声に力を込めた。

 一方で、来年2019年で芸歴70年を迎える自身の展望については、
「私は本当に頼りない男でね」
と笑い、
「不逆流生(ふぎゃくりゅうせい)という私が作った言葉があるのですが、“流れに逆らわず、流れを生かす”が私のモットー。だから来年は、どういう流れが来るか次第ですね」
とフワリ、笑顔でかわす。
 そして仁左衛門は「今までのこういう会見の中で、私が一番阿呆でしょ?(笑)」
と、終始笑いの絶えなかった会見場を笑顔であとにした。
     (ステージ ナタリーより)




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ひとりごと

2018-10-26 | ことのは
 写真は中国  黄姚古鎮にて


     子豚が四頭  並んで歩き
     子豚が十六脚 古家に消えた
     窓から湯気が いい匂い

               by ババァ・グース







   楽しいことだけ、考えよう。

   このひとときが大切だから♩






 
 見てくださいまして、ありがとうございます^^


 
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中村 直三(文政2年〜 明治15年)  奈良県出身の老農(篤農家)・農業指導者

2018-10-26 | ことのは
 写真は奈良公園






 某理由で米についてここしばらく本を読んだり調べていたが、如何にもこうにも思い通りの資料が見当たらない。

 仕方がないので今日はネットサーフィンで米について調べていると、中村直三という名を再三見かけた。

 私の調べたい内容ではなかったのだが、中村直三という名前は覚えておいて良いだろうと思い、記録することにした。



 中村 直三(なかむら なおぞう、文政2年3月8日(1819年4月2日) - 明治15年(1882年)8月13日)
 奈良県出身の老農(篤農家)・農業指導者。
 群馬県の船津伝次平、香川県の奈良専二と並び、「明治の三老農」の一人として明治農法の確立に努めた
 また、従来の農書とは別に、角力番付、一枚刷り、小冊子など、農民にわかりやすい形式を活用して、自らの農法を積極的に広めた。


 略歴
 1819年、大和国山辺郡永原村(現天理市)の貧農の家に生まれた彼は、幕末各地で起きた農民一揆を機に、米の増収こそ問題解決の根本であると考え、1863年以後イネの比較試作による品種改良を終生の仕事とした
 その成果は着々と実り、1868年、永原村など11ヶ村の耕地実測や農事改良、稲種選抜などの功績で大和各藩から表彰された。
 のち1872年に『地蔵早稲』を、1877年には76種の優良稲種を明治政府勧業祭(現農林水産省)へ提出、秋田・宮城・石川・大分各県の稲作指導にもあたった。
 さらに1881年、第二回内国勧業博覧会には実に740種の稲種を出品、全国の代表的稲種品種改良家と仰がれたが、翌1882年8月13日に病死した。

 著書
   『勧農微志』
   『伊勢錦』
   『筆松といふ者の米作りの話』
   『畑稲』
   『ちわら早稲』
   『稲種選択法』
   『稲田収量実験表』など

 中村直三農功之碑 - 奈良市・奈良公園内

             (Wikipedia)




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乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 6  「千秋楽」と「千穐楽」と「千穐樂」

2018-10-26 | ことのは
「千秋楽」「千穐楽」「千穐樂」






 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 6  「千秋楽」と「千穐楽」と「千穐樂」





 気がつけば、乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱が多いことに気づく。
 だいたいはわかる。感覚ではわかる。
 だが、その実、しっかりと内容を把握せず、日常的に使っている言葉。
 歌舞伎鑑賞歴は随分と長いが、その実、「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」の違いをはっきりと認識してない。
 そういった言葉に気づいた時点で、これからも取り上げていこうと思う。



「千秋楽」と「千穐楽」と「千穐樂」
 もうお気付きであろう。

「千穐楽」の「穐」は漢字の「秋」の異体字。

       「穐」は異体字
       「秋」は正字
       「龝」は本字

       読み
       (音読み)「シュウ」
       (訓読み)「あき」「とき」
       意味
        あき。四季の一つ。
        とき。大事な時期。
        とし。年月。



「千秋楽」「千穐楽」と「千穐樂」の「楽」と「樂」の違いも、上を見ればまたしかり。

 「樂」は「楽」の旧字
 他にも上から
          白
      てんてん てんてん
          木
 という文字もあるが、こちらはおそらく異体字であろう。(くずし字用例辞典  楽)

 「樂」
   音読   ガク [1]      意味 [1] おんがく。
        ラク [2]         [2] たのしい。たのしむ。よろこぶ。
        ギョウ [3]        [3] このむ。愛する。ねがう。求める。
        ゴウ [3]
   訓読み  たの(しい)
        たの(しむ)
        かな(でる)
        この(む)
                  意味  [日本] らく。たやすい。心身に苦痛がなく、のびのびする。


 結論として、「千秋楽」と「千穐楽」と「千穐樂」は上どのの文字を使っても、千秋楽の意味をあわらす。
 個人の好みかあるいは時代性を洗わせての字の選びなのかは、定かではない。
 最下青文字で記入のウィキペディアによれば、次のように記されている。
    「千穐楽」など異体字での表記は「秋」の文字にある「火」を忌んだものである。
     これは、江戸時代の芝居小屋は特に出火や延焼に悩まされることが多かったためである。
 (重複)

「千秋楽」「千穐楽」「千穐樂」とは
 千秋楽(せんしゅうらく、千穐楽、旧字体:千龝樂)は、複数日にわたって同じ演目を行う興行において、「最終日」を指す業界用語。縮めて楽日(らくび)や楽(らく)ともいわれる。 
 本来は江戸期の歌舞伎や大相撲における用語だったが、現在では広く演劇や興行一般で用いられている。
 これにちなみ、千秋楽の前日、もしくはひとつ前に行われる公演は前楽(まえらく)、また、ひとつの演目で各地を巡業した場合、最後の公演地で行われる千秋楽の公演を、特に大千秋楽(おおせんしゅうらく)、略して大楽(おおらく)ともいうことがある。
「千穐楽」など異体字での表記は「秋」の文字にある「火」を忌んだものである。
 これは、江戸時代の芝居小屋は特に出火や延焼に悩まされることが多かったためである。

               (ウィキペディア)


 



 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 1 「引歌」と「本歌取り」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 2「影印」と「印影」、「影印本」(景印本、影印)と「覆刻本」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 3 丈(じょう )と 丈(たけ)
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 4「草紙」と「草子」と「双紙」と「冊子」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 5「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」
 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 6「千秋楽」と「千穐楽」と「千穐樂」


 



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乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 5  「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」

2018-10-26 | ことのは





 乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 5  「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」 




 気がつけば、乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱が多いことに気づく。
 だいたいはわかる。感覚ではわかる。
 だが、その実、しっかりと内容を把握せず、日常的に使っている言葉。
 歌舞伎鑑賞歴は随分と長いが、その実、「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」の違いをはっきりと認識してない。
 そういった言葉に気づいた時点で、これからも取り上げていこうと思う。



「清元」
① 「清元節ぶし」の略。
② 清元節の家の名。
   (大辞林 第三版)
 
 
 《日本舞踊》 清元 「お祭り」 坂東三津二郎

「清元」
 1.歌舞伎の伴奏音楽 - 清元節
 清元節(通常、単に清元と呼ばれます)とは、江戸時代後期(文化11年・1814年)に生まれた三味線の伴奏による豊後節系浄瑠璃の一つで、浄瑠璃の諸流派の中では最も新しいものです。

 創始者は清元延寿太夫(初世、1777~1825)で、初代富本斎宮太夫の門弟になり、二世富本斎宮太夫を襲名しました。その後富本節から独立して、文化9年9月中村座にて豊後路清海太夫の名で、再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)に出演しております。
 その後文化11年11月、市村座公演より清元延寿太夫を名乗り清元節を興しました。

 清元は、主に歌舞伎の伴奏音楽として発展してきましたが、歌舞伎を離れた、純粋な観賞用音楽としての作品群もあります

 2.古典声楽の中の「語りもの」- 浄瑠璃
 清元は浄瑠璃の一つです。
 この「浄瑠璃」という言葉は、清元を理解する上で一つのキーワードなわけですが、その時代や人々、状況によって異なる使われ方をして、多義的で曖昧な単語ですから、少なからず説明が必要と思われます。

 伝統的に古典声楽においては、その諸作品を「語りもの」と「唄もの」に大別しており、この「語りもの」を通称、浄瑠璃と呼んでいます
 又、この浄瑠璃を語る人のことを、一般的に太夫と呼びます

「語りもの」には、義太夫節、一中節、常磐津節、新内節、清元節、浪曲、等があり、「唄もの」には、地歌、長唄、小唄、等があります。
「語りもの」はその名のとおり本来的には、叙事的な、ストーリー性の強い歌詞を歌い、又、「唄もの」は叙情的な歌詞を歌うわけですが、実際は「語りもの」の中にも叙情的な部分があり、「唄もの」のなかにも叙事的な部分はあるわけで、音楽的にはこれは、程度の問題と言わざるをえません。
 例えば、浄瑠璃(「語りもの」)の一つであった繁太夫節は、現在 地唄に吸収されていたり、又、各浄瑠璃にしましても、当時のはやり唄を取り入れていたりと、両者の違いは、その歴史的な系統ということが、主な違いであります。
 その為、演奏者の意識としては、「語りもの」では、旋律的な美しさの追求よりは、日本語の抑揚を活かし言葉を語るような感覚で歌う事が重要視され、又、「唄もの」では、この語る感覚よりは、旋律的な美しさを重要視する、という傾向にあると思われますが、現実にはこれも個々の演奏者の解釈により差があり、更に、一つの流派の中でも、各作品によって違い、当然、一つの作品の中でも、場所によって違うわけであります。
 つまり、この「浄瑠璃」という言葉は、現在において、古典声楽を分類する際に、その系統上の違いを表すために便宜上用いられているだけといった感じで、浄瑠璃と唄ものを概念的に区別するのは、非常に困難な事でしょう。
 因みに、「浄瑠璃」という言葉の起源ですが、これは、織田信長の侍女であった、小野お通の作であるといわれる、牛若丸と浄瑠璃姫を題材にした「浄瑠璃十二段草子」という物語を、室町時代後期に琵琶法師たちが琵琶の伴奏で語りだしたものが普及して、その為、「浄瑠璃」という登場人物であるお姫様の名前が、語り物の代名詞として用いられたといわれています。
 3.江戸浄瑠璃の流れ
さて、清元は「豊後節」と呼ばれる浄瑠璃の流れを汲む音楽で、先ずはその辺りから述べることにしましょう。
 豊後節は宮古路豊後掾(1660~1740)によってはじめられた浄瑠璃です。
 豊後掾は京都の人で、一中節の始祖、初代都太夫一中(1650~1724)の門人で、はじめ都国太夫半中といい、上方の歌舞伎に出演しておりましたが、師の没後、宮古路豊後掾となり、やがて江戸に下って(享保19年・1734)、江戸で爆発的に流行しました。
 心中道行物を題材としたその曲調は、艶があり官能的で、煽情的なものであったようですが、当時の江戸では心中事件が頻繁に起こっていたため、風紀を乱すという理由で、元文4年(1739)豊後節は禁止されました。その後、豊後掾は何人かの弟子たちを残して、江戸を去って京都へ帰り、元文5年(1740)にこの世を去りました。
この豊後掾の弟子に宮古路小文字太夫という人がいました。
 彼は幕府による豊後節弾圧の後、兄弟子の宮古路文字太夫が常磐津節を起て、常磐津文字太夫となった折(延享4年・1747)、その傘下に入り、常磐津小文字太夫と名乗りましたが、翌年の寛延元年(1748)には、常磐津節から独立し、富本節を興し、富本豊前太夫と名乗り流行しました。
 清元節は、更にこの富本節から分かれて出来たものです。
4.延寿太夫の代々
 清元節の先祖と言われていますのは、富本節の太夫である初代富本斎宮太夫(1727~1802)という人です。この人は、もと九州筑前の藩士清水多左衛門の次男で徳兵衛といいましたが、江戸へ出て宮古路豊後掾の門人となり、宮古路斎宮太夫となりました。その後、富本節に入り富本斎宮太夫と改名しました。これが57歳の時で、それから訳あって清水屋太兵衛と改めて茅場町で米屋をしていましたが、初代豊前太夫の没後、剃髪して清水延寿斎と名乗り、二代目豊前太夫の後見をしていました。これが清元で代々の家元が「延寿」と名乗る起こりです。
 清元節を興したのは、この初代富本斎宮太夫の弟子である初代清元延寿太夫(1777~1825)です。この人は横山町の岡村屋という油商の子で岡村吉五郎といいましたが、幼少のころから音曲を好み、寛政9年(1797)二代目富本斎宮太夫になりました。しかし、師匠である初代富本斎宮太夫の没後、富本節の家元であった二代目富本豊前太夫と不和になり、独立して、文化8年豊後路清海太夫を名乗り、その後、文化11年(1814)に清元延寿太夫と名乗って清元節を興しました。初代延寿太夫は世間の評判を博し、非常な勢いでありましたが、文政8年、市村座に出た帰り不慮の事故により亡くなりました。
 二世延寿太夫(1802~1855)は初代延寿太夫の実子で最初は栄寿太夫を名乗っていましたが、父の没した翌日から市村座へ出て、これが人々の評判をとり文政8年(1825)二世延寿太夫を襲名しました。この人は大変な美声家であったようで、その粋で洒脱な語り口はそれまでの清元浄瑠璃の流れを変え、今日の清元の礎を築いたと言われております。
 三世延寿太夫は、二世延寿太夫に男子がいなかった為、その弟子である浅草の材木商藤田屋の子繁次郎が妹婿となり、延寿太夫を襲名しましたが、流行り病で安政5年に38歳の若さで没しました。
 四世延寿太夫(1832~1904)は谷中の三河屋という質屋の子である斎藤源之助が二代目の婿養子になり、二世の娘である清元お葉(1840~1901)と結婚して安政五年延寿太夫を襲名しました。四世は河竹黙阿弥の作品を多く初演し、大変な美声で評判をとりました。 妻のお葉も又大変な名人で、幕末から明治初期にかけて活躍し、清元節の名曲「三千歳」はこの人の作曲です。初代市川九女八、三世哥沢芝金とともに明治の女性芸人の三幅対といわれました。
五世延寿太夫(1862~1943)本名岡村庄吉。この人は、始め三井物産の社員で、趣味で清元をやっておりましたが、三井を退職した後、明治23年、四代目延寿太夫とお葉の養子となり、明治27年五世延寿太夫を襲名しました。五世は、その広範な学識により、明治時代の高尚趣味にマッチした知性的な語り口で、以前の退廃的な曲調を上品なものに改め、清元節を広く世間にアピールし、今日の清元の方向性を示唆した名人です。
 六世延寿太夫(現家元の父)昭和元年生れ。本名岡村清道。父は惜しまれつつ早世した四世栄寿太夫。昭和16年栄寿太夫襲名、NHK放送隅田川で祖父五世家元のワキを語り披露。昭和23年延寿太夫襲名、四月演舞場に於て助六を語り披露。三味線栄寿郎の薫陶を受け、その語り口は格調高く繊細。
昭和55年8月病に倒れ同62年1月再発、2月5日不帰の人となる。墓所は歴代家元の眠る深川浄心寺。
 七世延寿太夫(現宗家家元)昭和33年8月12日、東京高輪生まれ。本名岡村菁太郎。父六世清元延寿太夫、母多喜子(六代目尾上菊五郎の次女)。四才で「延寿会」の舞台を踏む。昭和56年3月「藤間会」で清元菁太郎デビュー。"偏路"を語る。同5月六代目尾上菊五郎三十七回忌追善興行の歌舞伎座で"魂まつり"。同9月九州巡業興行で"吉野山"。昭和57年2月菊五郎劇団興行で"雪の道成寺"を務める。同5月六世栄寿太夫を襲名。歌舞伎座の"保名"及び"三社祭"で披露する。
平成元年3月七世延寿太夫を襲名。
5.梅吉の代々
 初世梅吉(1841~1907)清元梅次郎の門下。慶応3年(1867) に寿兵衛と改名。その後明治3年に弟子の清元梅三郎に梅吉の名を譲りました。作曲に「宮比御神楽」。実子は三代目清元太兵衛を名乗りました。
 二世梅吉(1854~1911)本名松原清吉。初世梅吉の弟子。神田の生まれ、初名を梅三郎、慶応4年10月江戸中村座で初舞台。明治3年(1870)に二世梅吉を襲名。四世・五世清元延寿太夫の立三味線を務め、妻は四世延寿太夫の長女はる。作曲に「隅田川」「三千歳」「清海波」「雁金」などがあります。
 三世梅吉(1889~1966)本名松原清一。神田生まれ。大正から昭和にかけての清元三味線の名人で、父である二世梅吉に師事し、明治38年(1905)二世清元梅三郎を襲名し、明治44年(1911)三世梅吉を襲名。昭和30年(1955) 孫の梅太郎に梅吉の名を譲り、自身は二代目清元寿兵衛を襲名しました。梅吉襲名以来、家元である五世延寿太夫の相三味線を弾いていましたが、後に延寿太夫と不和になり、大正11年(1922) 12月、清元節の新たな流派として「清元流」を興し家元となりました。
 作曲に「幻お七」「津山の月」などがあります。
 四世梅吉(現清元流家元) 昭和7年(1932) 赤坂生まれ。本名松原清之介。父は三世梅吉の養子である初世清元梅寿太夫。前名は清元清之介、昭和21年清元梅太郎を襲名。昭和30年(1955) 歌舞伎座において四世清元梅吉を襲名。昭和42年(1967)祖父二世寿兵衛の死去により、清元流二世家元を継承。松原奏風の名で自身が起こした新邦楽『奏風楽』の演奏・作曲も行い、東明節では東明吟清、荻江節では荻江友次郎の名も持つ。歌舞伎興行には流儀として昭和52年(1977)頃を最後に出演せず、舞踊会や素浄瑠璃の演奏会を主な活動の場としています。 また、演奏のみならず作曲の才能にも優れ、清元はもとより自身が創始した奏風楽、小唄、などの作曲が多数に及んでいます。
6.清元の現在
 清元流創流以来、清元は、清元延寿太夫を家元とする「宗家高輪会」と、清元梅吉(寿兵衛)を家元とする「清元流」の二つの流派に別れて発展してきました。
 昭和39年(1964)外部の仲立ちと、両派の家元、演奏家同士の話し合いで、延寿太夫を会長とし、寿兵衛を名誉会長とする清元協会が設立されました。これにより両派の歩み寄りが期待されましたが、合同演奏が実現しないまま清元流が清元協会から離脱し、最近に至るまで二つの流派の交流は有りませんでした。
 平成22年(2010)、NHKエンタープライズの企画・仲立ちにより、八十八年ぶりの延寿太夫・梅吉、両家元コンビによる合同演奏会が催されました。この画期的な合同演奏を契機として両派の交流が深まり、平成23年に「清元協会」が再び両派合同で運営されるという協会設立時の形に戻って、より一層の清元の発展を目指し現在に至っております。
【監修】 清元美治郎
  清元資料館 清元の歴史概要より引用させていただきました。

 

「常磐津」
 三味線音楽の一流派
 一般には単に「常磐津」と呼ぶ。
 豊後節から派生した浄瑠璃で,広義の豊後節の一派
 創流者は1世常磐津文字太夫
 師である宮古路豊後掾の始めた豊後節が江戸幕府から禁止されたため,延享4 (1747) 年改名独立して新流を開いた
 初め関東文字太夫と称したが,奉行所から関東の姓を差し止められて常磐津と改めた。
 以後代々の家元はほとんど常磐津文字太夫の名を継ぐ。
 流派結成の翌年家元のワキを語っていた常磐津小文字太夫 (富本豊前掾〈1世〉 ) が独立して富本節を樹立,以後勢力争いが絶えず,分派と復帰 (合流) を繰り返した。特に万延1 (1860) 年4世常磐津文字太夫のときに起こった5世岸沢式佐を中心とする三味線方の岸沢派の独立は大きな事件であった。7世常磐津小文字太夫 (常磐津林中 ) の時代に両者の和解がなったが,死後再び分裂。
  1927年常磐津協会のもとにその対立は解消した。
 今日常磐津の演奏家は,ほとんどが常磐津か岸沢の姓を名のる。創流以来常磐津節は歌舞伎と提携しながら舞踊音楽として発展した。その結果,舞踊に適した音楽であることを第一義とし,リズムやテンポの変化は少なく,語り方も清元節のように細かい技巧を凝らさず,発声法も比較的自然で,全体に重厚で素朴な味を特色とする。広義の豊後節のなかでは最も語り物的要素が強い。三味線は中棹を用いる。
『蜘蛛の糸』『関の扉』『双面』『戻駕』『将門』など武張った豪快な時代物舞踊劇に優れた作品が多いと同時に,『乗合船』『三世相』など市井風俗を盛り込んだ陽気で滑稽な内容の曲にもぬきんでている。明治・大正期には名人常磐津林中の出現によって常磐津節は隆盛期を迎えるが,同時に明治の高尚趣味を反映した新作活動も盛んとなった。
『竹生島 (→竹生島物 ) 』『紅葉狩』『釣女』『お夏狂乱』『駕屋』『狐火』『戻橋』などの名曲が生まれた。代表曲としては以上のほかに『靫猿』『老松』『角兵衛』『三人生酔 (さんにんなまえい) 』『道中双六』『宗清』『山姥 (やまんば) 』などがある。

「常磐津」
 浄瑠璃の流派の一。
 延享4年(1747)常磐津文字太夫が創始。江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展した。
 時代物にすぐれ、曲風は義太夫節に近い。  
    (デジタル大辞泉)  

 
 日本舞踊◆ 常磐津 将門 坂東寛二郎 中村富美香

 

「長唄」
 三味線を伴奏楽器とする歌曲の一種
 歴史的名辞は江戸長唄
 歌舞伎と歩みをともにし,当初はその演奏者の出生地にちなんで江戸長唄,大坂長唄などと記されていたが,劇場出演者が江戸出身者によって占められるようになって,享保 12 (1727) 年以降,単に長唄と呼ばれるようになった。
 初期の長唄は目の不自由な音楽家の伝承音楽の影響下にあって,上方風の三下りの優艶な曲が多く,『娘道成寺』『鷺娘』などの傑作がある。
 その後,一中節より転向した富士田吉治 (富士田吉次〈1世〉 ) によって,浄瑠璃の曲風を摂取した唄浄瑠璃の様式が創始され,また上方風を脱却した曲もつくられるようになった。
 2世杵屋六三郎,1世杵屋正次郎の活躍した明和,安永,天明期 (1764~89) には長唄独自の性格が確立され,化政期 (1804~30) 以後,別家9世杵屋六左衛門,別家 10世杵屋六左衛門,4世杵屋六三郎らによって『越後獅子』『賤機帯 (しずはたおび) 』『鶴亀』『勧進帳』などの名曲が作曲されて,江戸長唄の全盛期を迎えるとともに,六左衛門家は長唄宗家としての地位を不動のものとした。
 また文政9 (1826) 年,10世六左衛門が大薩摩の家元の権利を預ったことにより,その曲節を利用した曲もつくられるようになった。幕末から明治にかけては積極的に能の三味線音楽化をはかり,2世杵屋勝三郎の『船弁慶』『安達原』あるいは3世杵屋勘五郎の『望月』などが作曲された。
 また,長唄そのものを芸術的歌曲として鑑賞しようという態度も養われ,それとともに舞台の制約を離れた演奏本位の長唄も誕生した。4世杵屋六三郎の『吾妻八景』,10世杵屋六左衛門の『秋の色種』はその代表。
  1902年4世吉住小三郎,3世杵屋六四郎による研精会の結成も,長唄を一般家庭に普及させ,それ以後,各流派による演奏会も数多く開かれるようになった。長唄はその内容が多種多様ではあるが,便宜上これを大別すると次のようになる。
   (1) 舞踊曲長唄 『越後獅子』『娘道成寺』『五郎』『鷺娘』など。
   (2) 浄瑠璃風長唄 『安宅の松』『靫猿』『賤機帯』『綱館』など。
   (3) 謡曲風長唄 『竹生島』『船弁慶』『望月』『鶴亀』など。
   (4) 演奏本位長唄 『吾妻八景』『秋の色種』『四季山姥 (しきのやまんば) 』『紀文大尽』など。
   (5) メリヤス 『黒髪』『明の鐘』『五大力』『無間の鐘』など。

      (ブリタニカ国際大百科事典 )
 
 杵屋裕光 『二人椀久』 "Ninin Wankyu"  Hiromitsu Kineya



「義太夫」
 義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。国の重要無形文化財。

 17世紀末に成立し、播磨節、嘉太夫節、小唄などを融合した、豪快華麗な曲節が特徴である。
 近代においては豊竹山城少掾が芸格を広めた(山城風)。
 人形浄瑠璃の伴奏に、またそれを元にした歌舞伎の義太夫狂言(丸本歌舞伎)
 なお、浄瑠璃は義太夫節のことであるという説明が往々にして見られるが、これは誤りである。
 義太夫節はあくまでも浄瑠璃の一流派であって、同一のものではない。
      (ウィキペディア(ウィキペディア)

「義太夫」
 義太夫節の略で、浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派
 もともとは、現在の文楽につながる人形浄瑠璃の音楽やせりふ、ナレーション、効果音などとして生まれた
 人形浄瑠璃では、近松門左衛門らによって名作が生まれ、それが歌舞伎にもとり入れられた。
 歌舞伎の世界では、その演目を「義太夫狂言」という。
 群馬には県古典芸術義太夫協会という組織があり、会長は安中市松井田町の八城人形浄瑠璃城若座保存会の原田徳四郎会長(90)が務めている。
           (2007-11-23 朝日新聞 朝刊 群馬全県 1地方)

 
 菅原伝授手習鑑 ~寺子屋の段~

 


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