レネーゼ侯爵家の月見会。
「今度の夜会は若君が何か仕掛けるという噂ですけれど、アステ様はそれをご存じ?」
そう尋ねてきたのは、学友の誰だったか。
そんな事を聞かされたアステは一瞬で頭に血が上ってしまったので、その場に誰がいたかも覚えていない。
「当然ですわ、兄上様の事ですもの!」
でもそれを口にしてはいけませんの、お解りになるでしょう?と後に続く会話をぶったぎり、立ち上がる。
「私もお手を貸さなくてはならないので、屋敷に戻る手筈ですわ」
あくまでも寝耳に水であることは秘しておかなくてはならない。
さも当然のように、屋敷に戻るそぶりを見せれば、そんなアステの粗を突くように背後からかかる声。
「え?でも、今から戻られても間に合わないのでは…」
なんと愚劣な!学友たちの前でこの自分に恥をかかそうとする輩はどこのどいつだ!成敗してくれる!!
と振り向いた先では、一様に全員がきょとんとした顔でアステを見ていた。
全く稚拙な学友ばかりで対処に困るわ、とアステは満面の笑みを浮かべる。
「兄上様は優秀な方ですのよ、夜会に私の手助けなど必要とするはずもないでしょう?」
その後ですわ!と、両腕を広げて力説する。
「夜会で皆様をもてなした後の心配りに私を必要としておられるのです!」
「はあ」
「まあ、お解りにならなくても仕方ありませんわね、レネーゼ家が如何に皆様に尽くしているかなど公にするものでもございませんもの」
そんな事、アステだって解りはしないがもう引き下がれない。
では御機嫌よう来週には戻りますわ、と言い置いて学舎を飛び出してきた。
大体なんだというのだ。
何でそんな重要な事を、それも兄に関する重要な事を学友の誰それが知っていて、自分は知らないのか。
不愉快極まりない。
ないがしろにされている、とアステは思う。祖父にも、兄にも、…これは家を継承する男性陣営の壁の高さではあるが、
それにしても同じ女性陣営の母でさえも、この自分をないがしろにしている。
唯一の味方からのこの仕打ちはどうだ!
こんな大事な時に、学び舎などというぼんやりした場所で、ずんぐりした顔の教師とのっぺりした顔の学友に囲まれて
だらだらとした授業など受けていられるとお思いなのか、わが神よ!!
…という一大決心で休学届を出し、その足で馬車に乗り込み着の身着のまま駆けつけた。
「帰りますわ!」という一言に何の異も唱えず素直に着いてきた傍仕えのマリスも一緒だ。
一緒に、兄に説教されている。
「一週間も休学届を出す奴があるか!三日で帰れ!」
「帰れませんわ!来週戻ると言ってしまったんですもの!三日で帰ったらまるで私が役立たずのようではありませんの!」
「それはお前が発言した事だ、最後まで自分で責任をとるのが筋だ、帰れ」
「責任をとって一週間休学しますわ!」
「責任の取り方がおかしいだろ!お前が休学して困るのは学舎側だ、どれだけ迷惑がかかるか考えてみろ」
「迷惑などかけませんわ、一週間程度の授業の遅れなどこの私には取るに足らない内容です!」
「お前は良いかもしれんがマリスはどうする、マリスだってお前のお遊びで授業を放棄させられているんだぞ」
「ヒドイ兄上様!私の侯爵家に掛ける意気込みをお遊びというなら授業なんて幼児のお遊戯ですわ!!」
「きゃーお名前をお呼び頂けるなんて身に余る光栄でございます!それだけで私の授業なんてお遊びで結構です!!」
「お前らなあ…」
屋敷に戻った以上、母に会わねばならない。
父の元に匿ってもらっても良いのだが、あの父は自分の身を挺してまでアステを庇ってはくれない。
とても優しい父だから「婿養子で母上様に頭が上がらないのですわね」と憎まれ口をたたくアステに、ただ笑うだけだ。
大門から母の住まう館まで、馬車はゆっくりと走らせたけれど。
久しぶりに会った兄と交わした会話は、アステの休学届の事についてだけであっという間に終わってしまった。
「先に母上に話があるから待っていろ」
と兄に言われて、隣の小部屋で待っていたアステと傍仕えのマリスだが。
それぞれ別室に呼ばれ、アステは母の厳しいお説教を半時間ほど聞かされた。
その時間でさえも、考えるのは兄の事だった。
馬車の中で、兄は良くアステに構ってくれた。そのほとんどが説教でしかなかったが、それでも、今までの兄とは別人のように、
アステの話を聞き、それに対する自分の考えを述べてくれ、傍仕えのマリスの事も気に掛けてくれたのだ。
アステの知っている、優雅で優美で、学友の誰と比べても圧倒的な品行方正、完璧で非の打ち所がない紳士像だった兄ではなかったが
その美しい紳士像を殴り捨てたとしても、ちゃんと向き合って話をしてくれたことが嬉しかった。
だから。
母の説教も、なるべく口答えせずに耐えた。つまらない小言の時間など早く終わらせて、兄の元に戻りたかったからだ。
なのに。
なのになのに!!
「若君様はもうお出になられましたが…」
と、部屋仕えの女中に告げられて、なんでなのよー!!!と喉も張り裂けんばかりに絶叫しているアステである。
昔と同じだ。
これでは、昔と同じだ。兄に構ってほしくて癇癪を起してばかりだったあの頃と。
大声で泣き叫んで手にしたあらゆるものを振り回して投げ飛ばして、床に大の字になって暴れたことだって数えきれないほどだ。
その度、兄は困ったようにただじっと傍に立ち尽くしていた。アステが周囲になだめられ落ち着くまで、そこにいてくれたのに。
今は、別れの一つもなく去ってしまうのか。
これでは昔の方がまだましだ。昔の方、が。
「兄上様は昔からそうですわっ、正しくてお美しくいらっしゃるけど冷たくて私に対する情けなどないのですわ!」
「まあまあ、アステ様、そう仰らないで」
騒ぎをきいて駆けつけたのは、母の侍女だ。
レアは怒りのやりどころのないアステの背を優しく撫で、落ち着かせてくれる。
「兄上様は、昔からアステ様に格別優しくていらっしゃいますよ」
「どこがよー!」
「アステ様をここまで送ってくださったのでしょう?」
「だって、兄上様は母上様に用事があったからだわ私なんてついでなのだわ」
自分で言って悲しくなる。こぼれた涙を、レアがハンカチで優しく押さえながら、あらあら、と言った。
「ミカヅキ様はミソカ様に、妹を叱ってやってくれるな、とお願いに来られたのですよ?」
先に母上に話があるから、とアステを部屋に残して出ていった兄。
その兄の話。
「え?」
顔を上げると、レアがにこり、と笑った。
「アステ様がこのように取り乱して戻ってきたのは、自分が突発的な行動を取ってしまった事が原因だから、と」
妹を驚かせてしまったのは少なからず自分にも非がある、まだ幼い彼女の心情を汲んでやってほしい、と言い。
「休学した事に関しては自分が馬車の中で叱ってしまったので母上様にはほどほどに、って仰られていましてよ」
「そんな事…、兄上様が?」
「ええ、私ちゃんとこの耳でお聞きしてましたもの」
「そんな事、そんな事言って、…母上様はしっかりお説教されたじゃないのー!」
「まあ、アステ様、半時間ほどで済んだじゃありませんか」
ミカヅキ様のとりなしがなかったら半日かかっていましたわよ、と大真面目にいうレアには笑えない。
母は本当に半日説教をするだろうことが解るだけに笑えない。
「だってだって、終わったら兄上様ともっとお話ししようと思っていたのよ」
「…まあ、そうでしたの」
「一緒にお庭に出て、習ったばかりだけどお茶を淹れて差し上げたかったわ」
「きっと褒めて下さったでしょうねえ」
「その後バイオリンを聴かせて下さってピアノも手ほどきを頂いて、ご本も読んでいただこうと思っていたのよー!」
「そ、そんな時間はありますかしら…」
ミカヅキ様はとてもお忙しくていらっしゃるから、とレアがいうことは解る。
ずっと兄を見てきたのだ。いつも大人たちに囲まれて、後継者としての教育ばかりで一日が終わっていた。
その忙しい合間を縫って兄妹として過ごしてもいても、兄は遊び相手ではなく、後継者だった。
「レア様、ちょっと」
と、女中に耳打ちされたレアが、「アステ様、急いでおいでになって」と、アステの手を引く。
レアに連れられて部屋を出、廊下を少し行った先で窓の外を見るように言われる。
窓の向こう、階下では今にも馬車に乗り込もうとしている兄の姿が見えた。
こっちを見上げている。まるでアステがここに立つまでそうしていたように。
「少し待っていて下さったんですわね」
と言ったレアが、下のミカヅキに手を振ると、それを見て兄は会釈を返した。
綺麗な礼だわ、と思う。教科書に載るような、規範の姿。アステのよく知る、兄の立ち居振る舞い。
ほらアステ様も、とレアに促されて、アステもぎこちなく手を振って見せた。兄の反応を知りたいような、知りたくないような。
そんな葛藤を知るはずもない兄は、軽やかに手をあげた。
その別れ一つが潔く。
兄はわずかな名残も見せず、馬車に乗り込む。従者が扉を閉め、その場から離れれば、兄を乗せた馬車は走り出した。
「姫様っ」
馬車が見えなくなるまで窓の外を見ていたアステに、マリスが駆け寄ってくる。
「マリス、駆けてはいけません」
傍にいたレアに注意され、マリスが慌てて背を正す。
「ゴメンナサイ、…あっ、いえ、申し訳ありません!」
「学校でのお転婆は私もよくやってしまいましたけど」
と言ったレアが、アステとマリス二人を交互に見て、
「こちらではちょっと背伸びして、優雅な貴婦人でいる自身を楽しんでいらしてね」
茶目っ気たっぷりにそんなことを言われて二人、その言葉を考えていると。
もう大丈夫ですわね、とレアがいう事にアステはうなずいた。
母のもとに戻るレアの姿を見送って、アステも自室へ戻る事にする。
「どこへ行っていたの」
「姫様と同じです、お説教されていました」
と、明るくふるまうマリスに、今更ながら申し訳ない気持ちになった。
兄に言われた事が、現実味を帯びる。
「ごめんね、マリス、すごく怒られた?」
「すごく怒られました、けど、姫様もすごく怒られたでしょう?同じですねっ」
同じかしら、とアステが困惑すると、マリスが、これ、と二つに折りたたんだ用紙を手渡してくる。
「姫様の兄上様からです」
「え?」
兄が自分に言葉を残してくれたのか。
慌ててそれを広げ、何が書いてあるかを確かめる。
そこには、城下町の住所と宿の名前が書いてあった。
「なにこれ」
「あの、これからは休学届を出す前にまず、ここに連絡しろ、って言われました」
「これ、兄上様の字かしら?」
「そうだと思いますけど」
「ふうん」
もう一度、住所と宿の名前を見る。
「知らない宿だわ、ここに泊まれって事なの?」
「いいえ、姫様が兄上様に会いたいって連絡したら、兄上様の方から会いに来て下さるって事です」
「えっ、兄上様が来て下さるの?!」
「あ、手が空いてたら行くから、っていうことでした」
「学舎まで来て下さるの?」
「そうでしょうねえ」
と言ったマリスが、にっこりと笑う。良かったですね姫様、と嬉しそうに。
怒られちゃったけど怒られた甲斐はありましたね、なんて不届きなことを言う。
不届きだけど。
そうか。もう、すごく怒られるような真似をしなくても、兄が会いに来てくれるのだ、という実感がわく。
あの学び舎に。
教師たちがこぞって絶賛する兄が、学友たちが先輩たちのうわさを拾って夢中になる兄が、実際に来る。
誰もが憧憬する幻想だった兄が、実在するアステの兄として、あの場所に来るのだ。
「あ、兄上様は、いつもはもっと物静かでお美しい方なのよ?」
と、マリスを見れば、マリスはにこにこと頷いた。
「はい、そうでしょうねえ」
「あのね、今日はちょっと怒っていらしたから、あれなんだけど」
「はい、怒られちゃいましたもんね」
「解ってる?いつもの兄上様はすごく素敵なのよ!」
「はい、今日もものすごく素敵でいらっしゃいましたよね」
「え?素敵、だった?」
「すごーく素敵でしたよ、私ずっとどきどきしちゃいまして…姫様は違うんですか?」
違うのか、と言われて言葉につまる。
それをマリスは、ああ、と解ったように頷く。
「姫様は小さい頃から兄上様をよくご存じですもんね、私なんて姉様たちがきゃーきゃー言ってる話でしか知らなくって」
「ええ、そう、そうね」
「実際お会いして、あんなに厳しく怒られちゃうと、姉様たちは怒られたこともないんだわ、って優越感で胸が満たされます」
「あ、ああ、そう、なの」
愛らしい顔をして、結構腹黒いことを口にする傍仕えの少女には、時々気後れすることがあるものの。
そう言われて、ずっと穏やかでなかった心中は、自然に和いだ。
学友に夜会の話を聞かされた時からずっと、心をざわつかせていたもの。
いや、それよりもずっと以前から、アステを翻弄し、惑わせ、苛立たせていたものは。
幻想の兄。
屋敷にいた間は兄ではなく後継者という幻想であり、そこから抜け出した先、学び舎では周囲が創り上げた理想という幻想だった。
誰よりも自分が知っているはずの兄は、その幻想の中にあってどうにも捕まえられず、虚勢を張ることでしか立てなかった自分。
その幻想を、今日の兄は、乱暴に蹴散らしていった。
粗野な振る舞いで、優雅さや気品などというものなど歯牙にもかけず、あっという間にアステの虚勢もろともをぶち壊した。
それは高く、潔く、アステのこれまでを無にしておきながら、最後には優しい。
兄上様は昔からアステ様に格別優しくていらっしゃいますよ、そういっていたレアの声が心に響く。
そうだ、兄は優しい。
「姫様」
「手紙を書くわ」
零れ落ちる涙を手の甲で拭いながら、アステは兄を思う。
「兄上様はお忙しいから、きっとすぐにはいらしてくれないでしょうけど」
「はい」
「できれば次の学園遊会にお招きしたいと思うわ」
「いいですねっ、絶対来ていただきましょう!だって普段でもあんなに素敵なんですもの」
園遊会での兄上様は壮絶に素敵なんでしょうね、というマリスが、その時は私も横にいさせてくださいね、と
ちゃっかり笑わせてくれることに、もちろんよ、とアステはその手を握りしめる。
存分にマリスの姉様たちを羨ましがらせるといいわ、と笑顔で約束をする。
何もいわずただついてきてくれた少女に、いつもそばに寄り添ってくれる少女に、粗野な兄を素敵だと言ってくれた少女に。
素直な感謝を込めて。
「この上ない優越感を味わわせてあげるわ!」
「はいっ、楽しみですっ」
幻想を抜け、広い世界に向けて吹きすさぶ感情は、もう誰からもないがしろにされることもない。
優しい嵐を呼ぶ。