ドラクエ9☆天使ツアーズ

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マシロの帆

2022年06月06日 | ツアーズ SS
マシロが望む場所にマシロの個室を用意してやるよ、と兄は言った。
でも。
(ここは最悪)
と、揺れの収まらないベッドの上で体を丸めて硬く瞑っていた目から涙が流れる。
感情的なものではなく、生理的な現象だ。
初めて乗った船は最悪に居心地が悪かった。
村から出て慣れない道を歩いて兄についてきたマシロを悩ませたのは疲労よりも深刻な人酔い、さらにそれを超えて辿り着いた船で船酔い。
(だから村の外なんか嫌い。何にも良いことなんかなかった)
知っていた。自分は知っていたのに、それでも兄がいてくれるなら大丈夫かも知れない、と思ってしまったのは、おそらく先に弟のセイランが村から出たから。
自分より年下のセイランはその学力を認められて世界的に有名な学園へ入学するのだという。村ではその話題で盛り上がり、普段マシロとすれ違っても挨拶程度しかしない村人たちまでもが「すごいわねえ」と話を聞きたがり近づいてくる。
それが鬱陶しかったから、どこか遠くへ行きたかった。
(本当に行きたかったわけじゃない)
だからバチが当たったのだろう。
兄の真心を、村での弟への賞賛から逃げ出したいという一心で利用したマシロへの罰だ。



翌朝。
ゆらゆらと揺れるばかりだった感覚が幾分かマシになっているようで、体を起こしてみた。まだ少し頭がふらふらするけれど、それよりも。
(お腹すいた)
思えば村を出た時から食事もままならなかった。
ヒロはマシロの為に色々と気を遣ってくれてはいたが、疲労と緊張とストレスでろくに味もしないなんだか分からないものは喉を通らなかったからだが。
ベッドの脇にマシロの為に置かれている水差しには柑橘らしき実が入っていて、それをコップに注いで水を飲んだら、腹の音が鳴った。
(兄ちゃんはどこだろう)
マシロの意識がある限りは、ずっと枕元についていてくれたヒロの姿はない。
兄をさがして部屋を出る。
船の中はさほど広くはないがそれでも詳しくないマシロは一つずつ部屋の扉を開けてみた。誰もいないのかと思ったが、今までのどの部屋よりも広い部屋には金髪の男の背があった。
(えっと、兄ちゃんの友達で、蜘蛛が怖い人)
ミカヅキはマシロの気配に気づいて、やっと起きたか、と立ち上がった。
「体調はどうだ?」
「兄ちゃんは?」
二人同時に言葉を発してしまったことで、僅かな沈黙。マシロにとってミカヅキからの質問には関心がなかったので黙っていると、先にミカヅキが口を開いた。
「町まで買い物に行ったぞ」
「えっ、何でっ」
具合が悪い妹を放って何を買いに行くのか、という非難めいた口調にミカヅキが顔を顰める。
「何で、って、お前が要求したんだろ」
りんごパイ、と続けられて、そう言われれば、と昨夜、いつだったかの会話を思い返す。
何か食べられそうなものはないか?とヒイロに心配されて、自棄っぱちにりんごパイが良い、りんごパイしか食べない、あれじゃないと死ぬ、と言った気がする。
(何でりんごパイ…)
特別好きなわけでも、村で普段から食べられているわけでもない、余り馴染みのないお菓子の名前を口にしていた昨夜の自分はどうかしていたと思う。
そのためにヒイロは今いなくて、自分は一人で。自業自得と言えばそうなのだが、何も真に受けなくてもいいじゃん、と八つ当たりめいた感情になるのは、この男がいるからだ。
一人きりにされていた方がよっぽど楽だった。
そうだ、部屋に戻ればいいんだ、とマシロが気づいた時、それで、とミカヅキが再び先程の質問を口にする。
「体調はどうだ」
あんたが放っておいていてくれたら最高だけど、と思ってはいてもそれを口にできるほど他人に関わりたいわけじゃない。そんな心情のまま、口にしたのは。
「最悪」
と言うぶっきらぼうな一言だけ。
だが意外にも、そんなマシロの態度の悪さを気にするでもなく「だろうな」と言った彼は「座れ」と椅子をひいた。
「起きられるようになったなら、横にならない方がいい」
少ししんどいだろうが座っている方がマシになる、と言われ、寝たらまたぶり返すぞ、と言われたことに、もう思い出したくもない気持ち悪さが蘇って、あれはもう2度とごめんだ、とマシロはその椅子におとなしく座った。と同時に、再び情けない腹の音が鳴って、空腹にへこたれそうになる。
「ビスケットなら食えるか?」
とマシロの前に出されたカゴの中には馴染みある焼き菓子が入っていて、思わず手を出したが。
「これ誰の?」
と、背後に立っているミカヅキを見上げる。
兄のいない今、マシロのものは何もないに等しい。誰かのものに手をつけて、あとでヒイロが困りはしないかを考えたマシロに、ミカヅキは「別に誰の物でもないが」と不思議そうな顔をする。
「自分のものは他人のもの、他人のものは自分のもの、じゃないのかお前たちの村」
お前たち、とは、ヒイロとマシロの事だろう。
村ではそうだけど。
「村の外は違うじゃん」
それくらい知ってる。父やヒイロに聞いたのだ。何も知らないと思って馬鹿にしてないか。と精一杯、虚勢を張ってみたが、それにもミカヅキは物静かに返す。
「ああ、そういうことか。」
安心しろ、ここは村の外だが船の中はお前の家のようなものだ、と言う。
(あたしの家?なんで?どこが?)
それを考えようとして、そんな事より、という声に思考を邪魔されたことに僅かな苛立ちを覚えたマシロに。
ミカヅキは「お前かまど使えるか?」と聞いてくる。
彼が差している鉄の扉、珍しいそれに興味をひかれて椅子を立つ。扉を開ける。村のレンガや石で作られたかまどとは違うが、薪を入れて火を付けるのは一緒だ。
「これが何?」
と聞けば、使えるなら茶を入れてくれ、と言う。
「え?かまど使えないの?」
「やったことがない」
「火入れるだけじゃん!」
なんなの、この人。と二の句が継げないマシロに、じゃあ頼む、と火打ち石を渡してくる。
「いいけど」
とそれを受け取って、普段村で使っている火打ち石よりよほど上等のそれを見て、ふと頭によぎったのは。
「人を使うならそれなりの報酬を出すのが当然じゃん」
そういえば、それまで淡々としていたミカヅキが初めて、驚いたような声を出した。
「えっ、お前、金とる気かよ」
「対価だよ、労働に対する対価」
よほど意外なことだったのか、今度はミカヅキの方が二の句が継げない状態だ。
その反応に、マシロも自分の言ったことがおかしいのか?と自信がなくなってきた頃にようやく、わかった、とミカヅキが部屋を出て行った。
小銭を探してくる、と言って。まだ火はつけるな、と言いおいて。
(お金ももらってないのに、火なんかつけるわけないじゃん)
と考え、何もおかしくないよね?と、弟のセイランを思い返す。村の神童、なんて言われて祭りあげられている弟はいつも「労働には対価が必要です!」と言うではないか。
神童が言うくらいだから正しいのだろう。それと同じことをマシロが言うのも、正しいはずだ。
そう考えているとミカヅキが戻ってきた。
「これで良いか」
と差し出されたもの、それを何も考えず手を出して受け取って、手のひらに載せられた鈍い光を放つ銅貨に、確かに感動した。
「わあ、すごい。初めて見た」
思わずそう声に出ていたくらいだ。
それにもミカヅキが驚く。
「はあ?!初めて見た?!だと?!」






ヒイロが言っていたこと、マシロのための個室を用意してやるよ、と言う意味。
マシロ一人くらい守ってやれる、と言っていた意味。
村の外に出る、たった一人で外の世界と対峙する、それがどういう事か、この船の人たちは知っている。知っているから、自分を守るための居場所を作った。



護り手

2021年08月27日 | ツアーズ SS
人の手は、自然から繊細な素材を紡ぎ、しなやかな糸を生み出す。
生み出した糸を撚り合わせ、長く頑丈な一本へと仕上げる。
仕上げた多くの糸を縦横に並べ、柔らかな一枚の布を織る。
その一枚に鋏を入れ、一本の糸で縫い合わせ、人の形の一着が出来上がる。
その流れが、人の業だ。
決して滞る事のない、一流の業。
自分は、それを受け継いできた家に生まれた。

<1>

オレガノ=ハリートは、たった今、一人の女性によって命拾いをしたところだった。
18歳になり、家の仕事を一人でも任せられるようになって、一週間かけ布を買い付けに行った帰り道。
山道で突然現れたモンスターに襲い掛かられ、必死で馬車を駆って逃げ惑い、森の奥へ追い立てられて絶体絶命。
馬車に取り付いた数匹に恐れをなして、無我夢中で飛び降りた。草むらに転がり落ちた衝撃と、こちらに飛びかかってくる影の勢いが交差した瞬間に、「死んだ」と思ったのは確か。
死んだ。自分は、こんなところで。誰にも知られず、一流の職人としての名も残せず、これぞという作品さえも世に出すこともなく。
(母との約束も果たせず)
それが最後の思いだったか。
鮮烈な一閃、硬く瞑った瞼の裏で、ぎらついた銀の軌跡がその最後の思いを一刀両断にしたのは理屈ではなかった。
「ちょっと、あんた。大丈夫?」
と、柔らかな低音がオレガノを正気に返す。
体を縮こまらせたまま目だけがその光景を捉えていた。
午後の陽を受けて、強烈な光を放っているのは重厚な金属の大剣。
それを軽々と肩に担いでこちらを見下ろしている人物は逆光になっていてよくわからない。ただ若い女性だとだけ、わかった。
その体の線で。
体の線を惜しみなく晒している防具のせいで。
「なんか言いなさいよ」
と詰め寄られ、急死に一生を得たはずのオレガノは今起こったこと全ての衝撃を全身で受け止めて、勇気を振り絞って声をあげていた。
「服を着てください!!」
「はあ?」
それが、後の妻となるサフランとの出会いだった。

<2>

人は服を着る。必ず服を着る。あらゆる外敵から身を守るために。生きていくために服を着る。だから、私たちの仕事は不要とされることはないの。
それが祖母の言葉。
古くは綿農家だった曽祖父の代から続く服職人の家系に生まれたオレガノは、母に背負われる頃から職人たちの作業場に出入りし、母や祖母たちの仕事ぶりを見て育った。
初めて針を持った日の事は覚えてもいないが、「お前は得意そうに自分の手の平を縫って見せてねえ」というのは、いやと言うほど聞かされた話だ。
とにかく針を持てることが嬉しかったのは覚えている。さすが職人の子だ、上達が早い、と周囲に持て囃され、それを喜ぶ母に褒められることが当たり前の日常。自分はこの家に生まれたからこそ、家の名を世界に響かせるような立派な職人になるのだと、疑いもしなかった。
そんなオレガノに、母が語って聞かせたハリート家としての心構え。
古くから続く祖母の言葉は勿論、それを継いでいくオレガノのための言葉。
「大昔なら身を守るためだけの物だった服が、人が着飾るための物になった。人が安全に暮らせるようになって、装飾が持て囃されるようになった。男性も女性も、競い合うように素敵な服を求めるようになったわね」
必要品から、贅沢品になった。
それは人の世が豊かになった証。この先も、もっと豊かになれば服の意味もどんどん変わる。
「それでもハリートの名を継ぐなら忘れてはいけない事は」
服に向き合う心構え。
ハリート衣料品店として、ハリートの名を冠する職人として服と向き合うための覚悟。
「男性も女性も着飾るけれど、男性と女性が着飾る事の意味合いを忘れてはいけません」
男性は華やかに、周囲の目を殊更引きつけるために、着飾る。そうする事で注目を集め自分にはそれだけの力があることを誇示する。そうできる者がより華美な装飾を求める。男性が着飾るのは力の象徴。
女性もやはり華やかに着飾るけれど、男性と違い己の美を誇示するためではなく。自分の身を守るために装飾を身につける。
「胸元のリボンは二つの胸から視線を逸らすために、膨らんだ袖の形は華奢な腕を隠すために、大きく広がったドレスは二の足を意識させないために、ね」
女性が男性よりか弱い存在であることを、視覚化させないように女性は着飾る。女性が着飾るのは自分の魅力を服へと逸らすため。女性の装飾は賢さの象徴。
「あなたがこの先、どんな服を作ったとしても、それを忘れないで。ハリートの女性服はドレスもリボンもレースも女性を守るために作られなければならないのよ」
それが早くに逝ってしまった母の、絶対の言葉。
1日たりとも忘れた事はない。オレガノが女性服を作ることを得意とするのは、第一にその信条があるからだ。
それなのに。
その話を、オレガノの大事な信条を、サフランは鼻で笑った。
「ばっかばかしい」
と言ったサフランは、大きな胸としまった腰と丸い尻をこれでもかと見せつけて「全部あたしの武器だわ」と、大剣を誇るように鍛え上げた肉体を誇る。
そして「そんな窮屈なものに守られなくても女性は強いってことを教えてあげるわ」とオレガノを揶揄い、無理矢理一夜を共にし、町まで馬車で一週間の道のりを強引に同行したのだ。
道中ではモンスターを蹴散らし、ならず者をねじ伏せ、豪快に暴れ回る彼女は美しかった。今まで女性を守るために作ってきたはずのオレガノの服、それが彼女にはまるで必要のないものだったという現実は確かにオレガノを打ちのめしたが、同時に、強く惹かれてやまなかった。
か弱くどこか儚げで慎ましい暮らしぶりしか思い出せない母と真逆の生き方だったからだろうか。自分はまだ、母に、母の言葉に縛られているのだろうか。そんな迷いをだきながら、彼女に引かれていく自分を止められるはずもなく、それからも度々、遠方への買い付けには彼女を護衛として雇った。都合が合えば必ず依頼を受けてくれる彼女もまた、オレガノに好意を持ってくれていたのか。自分の何が彼女のお気に召したのか分からないまま、そんな関係が二年ほど。
ある日、父が宣言した。
ハリート衣料品店の職人、従業員、家族を集めての宣言。
「ハリート衣料品店の後継は、ヌーノとする」
その場の空気は、やはり、というものだっただろうか。
父は職人上がりの婿養子だ。母が早くに他界し、高齢の祖父母は表に出られず、店と工房をやりくりするのにもひどく苦労しただろうと思う。ややあって後妻に迎えたのは隣町の服飾店の娘だった。ヌーノは彼女との間にできた、オレガノの義弟になる。
「オレガノには、隣町に出す支店を任せようと思う」
そう続けられたことにも、やはり、という反応。おそらくは、オレガノの知らないところで大体の話は進んでいたのかもしれない。
職人たちはオレガノに同情はしても、自分たちの生活を捨ててまで味方をしてはくれなかった。義母の実家である装飾店の影響力は、オレガノの知らないところですっかりハリート衣料品店を飲み込んでいたのだろう。
後継でなくて構わない、せめて母のいた工房を離れたくない、という実の息子の懇願にも父は耳を貸さなかった。
「オレガノの腕を見込んで新しい店を任せたい」「オレガノでなければ支店は成功しないのだ」との表面的な賛美を持つ父の言葉は、弱った祖父母らにも特に異を唱えさせるものではなく。
家を離れる。
自分が名を継いでいくのだと子供の頃から信じてきた家を離れることは、耐え難い。
あの時の自分は、ただ絶望の淵にいた。
職人たちの同情も、祖父母の励ましも、若いオレガノの心を動かす事はなく。
その日を迎えるまで、胸の内に渦巻く理不尽な現実への鬱憤を断ち切ったのは。
たまたま店に立ち寄ったサフランの一言。
「あんたって、本当にガキねえ」
隣町の支店を任された、当分の間自由に店を出たりはできないだろう、だから君に護衛を依頼することもしばらくはない、そう項垂れたまま説明するオレガノに降ってきたのはそんな言葉。
年上の彼女は、束の間の宿での休息時には、必ずそうしてオレガノを揶揄ったりするものだったが、この時の声はそんな甘いものではなかった。ただただ呆れたような声音に、それまでの鬱憤もあって店先で恥も外聞もなく吐き捨てていた。
「君に何がわかるっていうんだ!」
生まれて初めて負の感情を他人に向けたことに震えた。慣れないことに、あまりにも安っぽい台詞。通りの人目も、店内の人の目も感じながら、頭に血が上って、サフランを見ることもできなかった。
二人で旅をした数日が幾重にも重なって情けなくも瞼を熱くした。
「だからあんたはガキだって言うのよ」
言われなくても身に沁みる羞恥に顔を上げられずにいるオレガノに、サフランが畳みかける。
「誰かにわかってもらわなきゃ生きていけないわけ?そもそもわかってもらえるほどの努力を何かしたっての?その上でそれを言えるほどあんたは他人の事がわかるとでも?」
返す言葉もない。年上の彼女の言葉は正しい。いや、年上だからではなく。強い彼女の言葉は、何者にも怯む事なく、自信に満ち溢れている。
「君は強い」
「そうよ。あたしは、あたし自身が武器よ」
あんたは?と問いかける声は、少しだけ柔らかいように感じて思わず顔をあげる。
サフランは、強者の笑みを浮かべていた。
「他人を守る服ばっかり作ってるからそんな体たらくなのよ」
そうだ。母の教えだ。母は祖母から、祖母はその母から、ずっと受け継がれてきたハリートの服。戦えない女性が身を守るためにと確固たる信念で作られてきた服だ。
自分自身を武器だと言えない女性たちの力になれるように、願って仕立てられてきた服なのだ。その一着を纏うことで堂々と生きることができるように、作り手の祈りと希望が服という形になって女性を守る。
「僕にはそれが武器だ」
自然に口をついてでた、本心。
「つまんない自己満足」
「わかってもらえなくても良い。僕にはこれしかないんだ」
「そうやって守りに入ってるだけのガキに何ができるとも思えないわね」
「皆んなが君みたいに強くあれるわけじゃない」
それは決別。わかりあうための言葉の応酬ではなく、自分の主張をぶつけ合うだけの、決別宣言。
衆目を集めながらもただ意地を張るだけのように、互いに譲らず、そうしてサフランと喧嘩別れのように離れた後、オレガノは隣町の任された店へと移り住んだ。
新しい職人たちは義母の実家である店から送り込まれ、オレガノは一番の年長者として彼らをまとめる役を務めた。満足に糸を撚ることもできない子から独自の癖が抜けない子まで足並みは揃わず、工房はお飾り状態だと位置付けられているのだと分かったのは一月後。店に並ぶ商品は本店から送られてきてはいたが、それも初めのうちだけ、経営は義母の実家が握り、半年もすればオレガノが作る服は棚の端に追いやられた。
丁寧に時間をかけてどうする、と店を切り回す壮年の店長は笑った。丈夫な服を作れば、それだけ新しい服が売れないではないか。修繕する機会も減ればお代を回収することもできない。手間隙をかけた高価な一着を売るより、単純に手に入る一着を大量に並べることで、それを着る人間が多くなり、そこここで宣伝してくれる。店の名は確実に広まる。そう主張する店長は、「何のために服を作るのか、考えなさい」と言った。
呆れて二の句が告げないオレガノの様子を勘違いして、「わからないか。店のためだよ」と宣うのには呆れさえも通り越した。
「店が繁盛すればそれだけ手広く服が作れる。多くの服が世に出れば値段が下がり、今までお洒落義を贅沢品だと言って手を出さなかった人間も購買者になれるだろう。店が儲かると言うことは、回り回って世のため、人のためになるということなのだよ。そこまで見通せないから君はいつまでも古臭い職人気質のままなんだ」
困ったことだね、とわざわざ工房で他の職人に聞かせたのは、その方針を末端まで行き届かせるためだろう。根気よく教え込むオレガノのやり方を、それは効率が悪いと若い職人たちに気づかせるための一幕に打って出たと言うことか。
「わかりました。これからは、それがこの店の方針ということなんですね」
「おお。分かってもらえて嬉しいよ」
「僕のような古臭い職人気質の人間がいてはご迷惑でしょうから、ここを辞めます」
「何?」
そんなつもりで話をしたのではないが、と店長は大袈裟に驚いて見せてから、まあ君からそう言い出したことは残念だよ、と残念さのかけらもない、引き止める気などさらさらない薄い別れの挨拶をくれた。
家に戻る場所はない。
わずかな資金さえもない。
頼る人もいない。
身の回りの簡単な荷物だけをまとめて、町を出る。
当てがあるといえば、実家にいた頃に時々布の買い付けに行っていたいくつかの綿農家。素知らぬ縁では無し、頼み込めば住み込みで働かせてもらえないだろうか、という微かな希望を頼りに、ただ街道を行く。
懐に忍ばせた裁縫道具。
(僕の武器はこれだけだ)
あの日彼女に向けた台詞は、そのまま自分の身に返る。
若手の職人たちを引き連れることもできず、店の方針を変えさせることもできない。
(何が武器だ)
こんなになってまで、守ってきたものは何だ。
分かってもらおうともしないで。
(つまらない、自己満足)
ぽつり、ぽつりと雨が地面に水玉を描く。こりゃ大振りがくるぞ、と同じ街道をいく誰かの声。行く先の空は晴れ渡っている。後ろを振り返れば、黒い雲が追いかけてきていた。
まばらだった人影が、雨足に追い立てられるように一群になる。
大粒の雨に痛いほど体を叩かれながら、木の影や身を寄せられそうな岩場を探して走り。
もつれた足が二度ほど空をかいて転びそうになった時。
その腕を後ろから強く引っ張られた。
「サフラン」
激しい雨音に再会の罵声はかき消された。

<3>

その後、サフランは強引にオレガノの身を囲った。
「あんたは狭い世界でしか生きてこなかったから、そんななのよ」と言い、オレガノを自分の旅に同行させる。国の境さえもその腕一本で超え、向かう所敵なしの強さであらゆる脅威をねじ伏せていく。手も足も出ないオレガノにとってそれはただ目の前を流れていく暴力でしかなかったけれど、いつしか彼女の暴力に巻き込まれても恐れることもなくしっかりと両足で立ち会えるようになった頃。
彼女の生まれた村に居を構えた。
彼女との旅はそこが終焉。理由はただ一つ、彼女がオレガノの子を身籠ったからだ。
かねてから「子供はいらない」と主張していたサフランは、当然のように子を堕ろそうとした。それを必死で止めたのはオレガノの、父としての自覚だろうか。
「僕が守る。その子が、君の足手纏いにならないように、僕が育てる。君と同じ強さを手にするまで、僕が責任をもつ」
旅先の予期せぬ体調不良が妊娠だと分かった夜、診療所で必死に訴えるオレガノを冷めた目で見ていたサフラン。オレガノの父としての能力など頼りにしていないことなど明らかだったし、伴侶として信用もされていないと痛感したが、どうあっても彼女の決断は間違っていると思った。
「君が言ったんだ。僕は狭い世界しか知らない、って。君だって同じだ。戦うだけの世界しか知らないじゃないか。強さを持って生まれて当然なら、そうでない弱い人間は生きていけるはずもない。けど世界はそんなふうにできてない。弱い人間がこれだけ多くの生を勝ち取ることができているのは何故なのか、君はそれを知るべきだ」
それが彼女をうまく説得できたのだとは思っていない。いつものように、…それこそ出会いから、何度も振り回されてきた彼女の気まぐれが、それだけが自分と彼女の縁を繋いでいる現実。この時も「くそ生意気だ」「偉そうに言わせとくのが腹立たしい」と不機嫌そうにオレガノに背をむけてその夜を明かした朝、産んであげるわ、と言った。
「勘違いするんじゃないわ、あんたに二度とあんな事を言わせないためよ」
具合が悪いだろうに、顔色も冴えないというのに、強気に笑みを浮かべてオレガノにそれを言ったサフランを見て、オレガノは生まれてくる子は彼女に似るのだろうと確信していた。

<4>

短いようで決して短くはなかった、あの日々。
産むなら生まれた村で、と言ってきかないサフランを連れての旅は常に彼女と腹の中の子を気遣うことで精一杯、何の余裕もなく、時には「どっちが身籠ってるのか分かったもんじゃないわ」と過保護にすぎるオレガノを鬱陶しがるサフランを宥めて宥めて、ようやく彼女の家に落ち着くことができたのはもう臨月も間近の頃。
そこから子が生まれるまではあっという間、慣れない村での生活も、父親として初めての経験も、何もかもが掴もうとした先から指の間をすり抜けていくような目まぐるしさだった。
あれから30年近く経つ今、思い出そうとしても思い出せない。それでも出産に立ち会ったオレガノが強烈に覚えているのは、命懸けで子を産むサフランの罵詈雑言。何度も村の女性たちの出産に立ち会ってきたという産婆でさえも「あんたそれはちょっと」と引いたくらいだ。それでも構わなかった。産んでくれ、と言ったのは自分だ。代わることができない以上、やれることはなんでもやる。そう覚悟したのだ。いくらでも罵っていい、好きなだけ毒を吐いて呪えばいい、だから頑張れ。痛みに叫ぶ彼女の腕を掴んで叫び返していた時間。
子が生まれた後、一番やつれていたのは産婆だったかもしれない。「あんたらほんと村で一番凶悪な夫婦だよ」と恨言を残して帰っていく彼女に頭を下げまくっているオレガノに、豪快に笑ったのはサフランの母親。
「最凶、上等。とんでもない娘にとんでもない婿どのだ。気に入ったよ」
彼女もまた冒険者として近隣で名を馳せた女傑。彼女に認められて、オレガノはようやく父親になるのだ、と心底から感動したことを覚えている。そうして母親となるサフランもまた。
あれだけ子供はいらない、と言っていたのに生まれた子を抱いて、乳を与えて、それまでオレガノに呪詛を吐きまくっていたことも記憶にないらしく、ほんのわずか前の地獄の悪鬼の形相もどこへやら、生まれた子にもまして愛らしい表情を見せた。
「すごいわ、こんなに小さいのにちゃんと動くわ」「人形みたいなのにどこから声が出るのかしら」といちいち感動している様子をオレガノに報告するのには、少女のようだった。
不思議だ。普通は、母親の顔になるんじゃないのか。と思いながら、無邪気な幼い女の子の様になってしまった妻を支えて、初めての夫婦の共同作業で一人娘を育てた。
まるで普通の夫婦のように、戦いの日常とはかけ離れて、穏やかに娘の成長を見守ること3年。
3年とはよく持ったね、と義母が感心していた。サフランの血は、戦いへの情熱を消した訳ではなかった。
穏やかな日々で、双子が生まれた。おそらくサフランは村を出たがっていただろうと知りながら、それでも初めての娘を可愛がる様子にはこのまま母親として落ち着くのではと思っていた矢先。
生まれた双子がせめて男子だったらなら、また違った子育ての新鮮さが彼女を引き止めたかもしれない、と考えることはある。いやそれも、ただの想像か。産後の肥立も上々だね、と産婆にお墨付きをもらった時期から、彼女は村を出ることが頻繁になり、数日が数週間に、ひと月が半月に、やがて年単位で、いつしか村を開けている期間の方が長くなって言った。
村に残していく娘たちには「あんたちが強くなったら連れて行ってあげてもいいわ」との口癖。それは本気だったのか、或いはその場しのぎだったのか、と考えてしまうけれど、彼女を止められる言葉をオレガノは持たない。
「この村の女は皆そうさ」と言っていた義母も気まぐれに村を出てそのまま永遠に旅立った。
強くなるしかない。母を恋しがる娘たちは、強くなることでしか母親を振り向かせることができない。だからオレガノにできることは、強くなりたいという娘たちを信じ、戦いに身を投じ、疲れて帰ってくるときに安心することができる家を守ること。
ずっとそうしてこの村で生きてきた。
母親にも父親にもなれるよう、ずっと彼女たちに寄り添ってきたつもりだ。
およそ30年という時間。
始まりはあの日。ただ惹かれたのは、人の強さ。自分にはない、圧倒的な力。この村で過ごした月日は、親としてのオレガノの人生を問う。果たして四人の娘たちにとって良い父親だったのかどうか。
末の娘が、自分の力で仲間を得た事を思う。彼女もまた、自分だけがもつ力を頼りに、世界へ向き合うように、外へと出ていく。
この村の女は皆そうさ。
義母の言葉を裏付けるように、娘たちが外に出てしまった後。
オレガノが愛した、最強の力をもつ彼女が帰郷する。

<5>

すっかり歳を重ね、白髪も目立つようになって、時々若さを思い出しては、当時はそれがどれだけ恵まれていたかなんて考えもしなかったな、と針仕事で痛む肩と背中をほぐすように軽く体を動かす。思ったより凝り固まっていた肩を回して、ガツ、と変な音がしたと同時に耐え難い痛み、その場にうずくまるオレガノに。
「やだ、じじいみたいな声出さないでよ」
と、まるで日常の続きのように、サフランが歩み寄ってきていた。
最後に帰ってきた日の、そこからまた出ていくまでの時間の続きのように、自然に。
彼女ならいつもそう。不在の空気を埋めるなんて、考えたこともないだろう。残されるのはいつもオレガノの方だから。不在を溜め込むのは、それが身に沁みるのは、いつも残されるほうだ。
だから、いつも「おかえり」は言わない。ああ。つまらない、意地だ。
「仕方ないですよ、もうじじいなんですから」
「冗談じゃないわよ。それでババアって言われるあたしの身にもなりなさいよ」
昔から変わらない態度で、うずくまっているオレガノの腕を掴んで引き上げようとして。
「痛い痛い痛い痛い!!痛い、痛いんですって!!!」
サフランの手を跳ね除け、飛び退るオレガノに、目を丸くする。
「何?怪我でもしてんの?」
「違います、怪我じゃなくて、五十肩なんですっ」
「五十…」
それを聞いてサフランは爆笑する。
「やだ!じじい!本当にじじいだったわ!!」
「だからそう言ってるじゃないですか…」
情けなく痛みの衝撃がおさまるように腕を摩るオレガノに、その腕の反対側からサフランが寄りかかる。
「帰ってきてあげたわよ」
何かいうことは?と、揶揄うように笑みを浮かべて。
ああもう、この人は変わらないな、とオレガノはため息を一つ。
「今からじゃ夕飯はありあわせのものしかできませんよ」
「他には?」
「ああ、娘たちは今、皆出ていますから。呼び戻すのに、少し時間が」
「それで?」
「ええと」
「あるでしょ、言いなさいよ」
「何を」
「聞いてあげるわよ」
今なら。
今だから。
今だけだから。
そんな圧に負けて、オレガノは自分の肩に乗せられた腕に手を伸ばし、下ろさせる。そうして手のひらを合わせる。剣を持つ手と、針を持つ手が繋がる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
まるで彼女とは初めて交わされる家庭の言葉。
やっと言ったわね、とサフランがオレガノの肩に額を押し当てる。
「え?」
彼女もそれに気づいていたのか。
気づいていて一度も指摘しなかったのか。
オレガノの問いかけにサフランが笑う。
「それを聞けたからもういいわ。旅は終わりよ」
もう出ていくことはないわ、と言われて。
まさか、と彼女を覗き込む。
相変わらず、人を揶揄う瞳が微笑んでいる。
「僕がそれを言わなかったから、今まで帰ってこなかったとでも?」
「さあ、どうかしら」
でもこんなのも、いいでしょ?
長い長い旅の終わりは。
こんなふうに終わるのが良いでしょう?
そうやって押し通される。いつも。
本当に自分勝手な人ですね貴女は。
いつも、言葉にならない感情は彼女を抱きしめてしまうのだ。

<6>

その日の夕飯は、何年ぶりかに夫婦二人で。
ありあわせのありったけ料理を、懐かしい味だわ、とサフランが言うことに目頭が熱くなるのは歳のせいか。
そんな自分を誤魔化すように、オレガノは向かい合うサフランのグラスにワインを注いで言った。
「それにしても、どうしてたんです。そろそろ帰る、と手紙をもらってから4年は経ちますよ」
「ああそうねえ」
それから音沙汰もなくて何かあったかと心配してたんですよ、といえば、嘘ばっかり、と鼻で笑う。
「今更このあたしに何かあると心配される不安要素でも?」
「昔ならいざ知らず、ババアですからね」
「言うわね、くそじじい」
「何かあったんですか」
「そうね、ちょっとね、手土産を用意していたのよ」
「手土産?」
尋ねるオレガノに構わず、サフランはワインをあおって、ふう、と満足そうな息を一つ。
「ちょっと高級なワインね、これ」
「ミオの手土産ですよ。とっておきに開けようと思っていたのに」
勝手に倉庫から持ち出してきたのはサフランだ。
「いや、そうじゃなくて」
「ハリート衣料品店」
その名。
とうの昔に捨ててきたはずの実家の名を出されて、オレガノの心臓は跳ね上がり、思考は停止する。
今ではもうすっかりコハナ村のオレガノ、としての名が知れ渡っている。それでもやはり、その名はしっかりとこの身に刻み込まれているのか。
コハナに居を構えてから今まで、妻が、娘たちがいつ戻っても良いように、1日たりとも村を出ることはしなかった。その為に買い付けは馴染みの行商人から、その縁で売り付けもそれに頼りっぱなしだったが、そのうち彼らはいくつかの注文も取ってきてくれるようになり、数年で安定した稼ぎになっていった。娘たちも大きくなり、贅沢さえしなければ何不自由のない暮らしだったこの頃。
やたら遠方から訪ねてくる人があったのは事実だが。
「それ、あたしよ」
とサフランが言う。
「コハナのオレガノという職人が作る服は、唯一無二だ」
「はあ?」
「って言ってやったの。ハリート衣料品店で」
「なっ、なんでそんなことを!」
「なるほど、ここがあのオレガノが修行を積んだ店なの。さぞや素晴らしい逸品を勧めてくれるんでしょうね、って言うとそりゃまあ、どこぞの貴婦人が着るような豪勢な服を出してくれるわけよ」
よかったわね、まだあんたの名前、忘れられてないみたいよ、なんて、しゃあしゃあとしているサフランの意味がわからない。
「ま、このあたしに買えない服なんてないし?買ってあげるわよね、言い値で」
それを着て旅をするとね、と続くことには。
「まあモンスターと乱闘になってすーぐボロボロになるのよね、これが」
値段のくせに駄作だわー、との扱き下ろしには思わずテーブルに突いた手に力が入り、身を乗り出すようになっていた。
「なりますよ普通!!貴婦人はモンスターと乱闘なんかしないし、そういう想定で作られていない服なんだから!ボロボロになります!」
「あんたが作ってくれた服は、そうはならないわ」
「それは」
身を守る服なんていらない、というサフランのために作った服だ。
もう母親になったのだから少しは身だしなみも考えてください、と言って作った服。無理矢理着てもらうためにも、彼女の動き、性格、扱い方、全てを考慮して布地から選んで仕立てた服なのだ。
それは娘たちに対しても同じ。
戦うことも身を守ることも同時に成り立つ、というオレガノの主張だ。
それを町の衣料品店の一着と同等に語るのは違う、と諭すオレガノの言い分を片手を振って面倒そうに遮るサフランの話。
「7、8年前かしら。もう一人で危険を冒すのも大して興奮しなくなって、そろそろ潮時か、なんて考えて頃だったわね」
暇潰しに傭兵としての仕事をいくつか受けているうちに、今の自分は一人冒険するより、傭兵として誰かを確実に守り抜く方が血が沸ると感じた。そうして血の沸き立つまま高給な仕事を立て続けに引き受けるようになり。
「あたしに護衛を依頼してくるのは、令嬢や貴婦人たちよ。普段は彼女たちと同じような服を纏って侍女のように振る舞いながら、いざというときに戦うの。それを目の前で見ていた彼女たちが何よりの承認だわ。オレガノ=ハリートの作る服は身を守るための服だ、ってね」
彼女たちは欲する。サフランの服を。
あれからハリート衣料品店は、主に手広く商売の方で成功し、次々と同業者を囲い込んで、今や名のしれた大型ギルドにも匹敵するほどになっていた。
その地域では押しも押されもせぬ名だたる衣料品店、ハリートの服を求めた令嬢や婦人は、実際にそれを手にして失望する。
欲しかったのはこんな品ではない。これはあなたの服とは随分違うわサフラン。
「そう言われたから、私の服を作っているのは店ではなく、オレガノ=ハリートという職人よ、って教えてあげただけよ」
これまでの流れを語って聞かせるサフランは大した事ではないと言うけれど。
オレガノの側ではそうも言っていられない流れだ。
確かに大型の注文が増えた。おそらくはお抱えの服職人を持たない階級の、上品な仕立てを要求され「材料ならこちらが揃える、品さえ良ければ期日などいくらでも待つ」なんていう寛大な注文も数知れず。主には女性の旅装。何代でも継いでいけるような高級な生地を大量に送りつけてきて好き勝手な要望を並べて帰っていく。
「あれらは全部、君が?」
「全部かどうかは知らないわね。あたしはただ、護衛した奥様やお嬢様たちが喜んでくれたのを知ってる、ってだけよ」
そうそう、衣料ギルドでハリートの名は年々だだ下がりみたいよ。内部は火の車だって噂もあるわ。
なんて素知らぬ風に言われて、オレガノは自分の中で手に負えないほどの感情が揺さぶられていくのを感じながら、知らず立ち上がっていた。
「どうしてそれを君が知ってるんですか」
「あら、この数年あたしが活動してたのはあの辺りだった、ってだけだわ。いやでも聞こえて来るんだもの、そんなこと言われたって」
はぐらかそうとするサフランに、真っ向から挑む。
「ハリート衣料品店を陥れるために、ですか?」
知らず硬くなった声音、口にするのにも覚悟がいるその核心にもサフランは揺るがず。
「結果的に、そうなっただけよ」
あたし何もしてないわよ、というサフランには、嘘だ、と心の中でつぶやく。
彼女の話から推測されるのは、そういう事だ。
あえてその地域で活動して、付かず離れず、今聞かせてくれたような一連の流れを何度も繰り返したのは想像に難くない。それも、彼女一人の仕業ではないだろう。サフランの腕を慕う女性戦士は各地で活動している。サフランから仲間のために服を送ってくれ、と依頼されたことも今なら合点がいく。
自分はそんなことも知らず、外で活躍する女性たちのために、と服を作っていたのだ。
実は彼女の策に加担するために。
「なんてことを」
思わずこぼれた感情は、声を震わせた。
「もうとっくに関係のない身になったんですよ。今なら、理想だけでやっていけると思っていた自分を、若いだけで何も知らなかったと言うことだってできる。一つの屋号を維持していくことがどれだけ大変かわかる、職人たちを抱えて常に利益を上げなければ立ち行かないこともわかる、全部がわかるようになったんです。もうあの場所に遺恨はない。それをどうして今更。店の評判を下げてどうしようと言うんです。職人たちは、弱い者から解雇されて露頭に迷うんですよ?僕は、ハリート衣料品店に潰れて欲しいなんて思っていない」
サフランのやっていることは弱いものいじめと同じことだ。
そんなオレガノの動揺に対して、サフランは平然と言い放つ。
「あたしだって、潰れてしまえ、なんて思っちゃいないわ」
このあたしが、つまらない義憤や私怨なんかで動くとでも思ってるなら、何十年連れ添ってきたんだか。呆れるわね。と芝居がかった風に斜に構えて。
「あたしが気に食わないと思ったから、そうしただけよ」
「何が、あの店が君に何をしたって言うんです」
「店は関係ないって言ってるでしょう?あたしはあたしのやりたい事をやりたいようにやるの。その結果、周囲がどうなろうと全部あたしのせいよ。あたしのせいで露頭に迷った人間があたしを刺しに来るなら来れば良いんだわ。真正面から受け止めてあげるわよ。それで返り討ちにあうなら、そいつが弱いせい。ありえないけど、あたしが討たれるんならあたしが弱い、ってだけだわ」
それだけよ、と言い切る強さ。
彼女の世界は、強さが全て。この村では、それが全て。何十年とこの村で生きて、どうしてそれを理解しないのか、とサフランはオレガノを責める。
「あんたはいつまでもそう。いつまで経っても、そうやって弱者の立場に寄り添うんだわ」
言葉で責めていながら、その声は柔らかい。仕方がないわね、それがあんたなのよ、と言われて唇を噛む。
「追い出された場所にもそうやって憐れみをくれてやるっていう、その心境は何なわけ?全く理解できないけど」
それがあんたなのよ、と重ねてオレガノの心を抉る。
頭の隅では「評判が下がった」と聞いて「ああそうだろう」とどこか溜飲を下げた自分がいたのではないか、と歯噛みする。実家から出され、工房の職人を任され、僻んでいた昔の自分。自分を不幸と位置づけ、新しい店の方針を跳ね除け、飛び出したのは若さ故の無知だと苦く思いながら、自分を追い出した場所がその過ちに崩れ落ちたのだとしたら、その苦さを和らげられたように感じてしまった。遺恨はない、としながらも、本音は醜い。それから目を逸らしてしまう自分には彼女を責める資格はない。
項垂れるオレガノに、サフランが再び口を開く。あたしが気に食わなかったのはね、と続く彼女の本音。
「この先、あんたの元に戻ったとして、そんな様を一生見せられるのかと思ったらうんざりした、ってだけのことよ」
全部があたしの為、とサフランが言う。
旅をやめるのも、村に戻るのも、自分で決めたこと。夫や、娘の為に、なんて考えない。あたしはあたしのやりたいようにやるのよ。結果はそれについて来るだけのこと。だから誰のせいにもしない。
「あんたももう、誰かの為だとか、責任だとか、過去だとか、そんなつまらないものにこだわらないで、自分で自分のやりたいようにやれば良いのよ」
最後の娘が村の外に出たんでしょう?と言われて、オレガノは顔をあげる。
ミオが旅立った事は手紙で知らせた。そのことに返事はなく、服を仕立ててくれ、という内容の手紙が返ってきた時には、子育てに関わっていないサフランには娘たちの成長は特に興味もないことなのだと諦めていたが。
「もうあたしの足手纏いになる娘はいないわ。この村では、外に出ていくというのはそういう事よ。あんたは、責任を果たした。このあたしに子を産ませた責任は、もうどこにもない。父親としてお役御免なのよ」
さあどうするの?と問われて、愕然とする。
「どう、する、とは?」
「父親として、家長として、妻の帰りを待つ夫として?もうそんな隠れ蓑は通用しないわね。自分の生き様を何かのせいにするのはガキのすることよ」
サフランが、オレガノの手に手を重ねる。
「このあたしが戻ったからにはそんな無様を見せないで欲しいわ。こんなクソジジイにこの先も何かあるたびに、ガキだなんだと言わなきゃならないあたしの身にもなりなさいよ」
それがサフランの動機。この一連の、壮大な根回し。
全てはオレガノのため。
「それが、手土産よ。あたしの。根回しに7、8年かかったんだから、無下にしたら許さないわよ」
夫婦となったあの日から今日まで、離れていた時間の方が長い。
家を開けてばかりで、娘たちの成長もよく知らない。自分のやりたいようにやるだけよ、という。
「貴女は本当に自分勝手な人ですね」
根回しに7、8年、だって?そんな前から、もう自分のための旅じゃなかったと言うなら、そんなことより帰ってきて欲しかった。ハリートの名のために、なんて、そんなことはかけらも望んでいない。望んだのは、娘たちの事。特に長女のシオなんかは、常にサフランに認められることを切望して、もう自分自身を愛おしむことさえそっちのけで強さばかりに邁進していたのだ。それをそばで見守るだけしかできない父親の無力、この村に置いて母親の強さがもっと娘に寄り添うものであって欲しかった。双子は特に母を求めず、末娘はその存在を認識さえしていないだろう。そんな娘たちのためにもっと早く帰ってきてくれていたなら。心の中でそう詰りながら、失望することができない。
娘より、オレガノを優先したサフランに今抱くこの感情は失望ではない。
ああ父親としては最低だ。妻にそんな策略を許した夫としても実家に顔向けできない。それでも。それでも、だ。
「そうよ。自分勝手。そんな女を選んだのはあんたよ」
オレガノの手に重なるサフランの手が、強く力をこめる。
「あんたなのよ」
「ええ、そうです。ずっと、憧れていた。そんな生き方が眩しかった。自分にない力を持つ貴女を誇りに思っていた」
「可愛くないわね。過去形にする気?」
不満そうなそれには、おもわず笑ってしまう。自分勝手で、いつでも強気で。自分が一番正しくて、力こそが正義で。そう言い切ることのできる強さが本当に羨ましくてたまらなかった。
「今はこうして手に入れることができたので」
と、サフランの手を握り返せば、してやられた、というように一瞬呆気に取られた表情を見せたサフランが鼻白む。
「あんたって本当、そういうところが可愛くないって言うのよ。このあたしにそんな事を言うのはあんたくらいよ。昔からちっとも変わってない」
「僕が?何か言いましたか」
言ったわよ、と手の甲を抓る。そんな仕草は、駄々をこねる少女の様。
「僕なら君を守る服を作れる、だから作らせてくれ。って。冗談じゃないわ。あたしを守るなんて言った男はあんただけよ。それが侮辱だともわかってない面で」
「そんな。侮辱したつもりなんてありませんよ」
「それが腹立たしいったら」
何一つ認めたくなかったから服従させるためにそばにおいた。絶対にあんたの言い分を負かしてやろうって、それだけよ。自惚れるんじゃないわ。あたしは守られなくても強いのよ。そう言いながら、ここまで連れ添ってきたのは。
「強さこそが全てよ」
「君はそうなんでしょうね」
「あたしだけじゃない。あたしだからなんかじゃない。弱い人間だって当たり前にそうあるべきなのよ」
強くなければ生きていても意味がない。ただただ糧を差し出して命乞いをするだけの一生のどこに生きる意味があるというのか。
そんな惨めな生き方をあたしは認めない、と誰からも虐げられることのない頂点に君臨している彼女はそこからオレガノを見下ろす。
「それでも、そうして力を持たない弱い人間を生かしているのがあんたたちみたいな人間なんだって、認められるだけの服は作ってもらったわ」
息をのむ。
そんな台詞を彼女から聞かされるとは、いつ想像し得ただろうか。
いつからだ。いつからか、見下ろしてばかりだった彼女の視線は今や、オレガノの隣にあった。
それが信じられず、ただ驚いて言葉を押し出すことのできないオレガノへ身を乗り出すサフランは。
同じ目の高さで、目線を合わせて、心を通わせるように語りかける。
「だから。ハリートの名はあんたが継ぐものだと思っただけのことよ」
と聞かされて、オレガノはあの日の宣言を胸の内に蘇らせる。
ハリートの後継はヌーノとする。そう言った父。それを飲まされた工房の職人たち、それらの哀れみの視線。何人もが自分を見ていたことを昨日のことのように思い出したのは一瞬。
目の前のサフランの強い視線に、全てがかき消された。
今まで出会った誰よりも強い力でサフランはオレガノをねじ伏せる。
コハナのオレガノではなく。
「名乗りなさい、ちゃんと。オレガノ=ハリートの名を」
誰もが認める服を作る。
与えられた依頼をそのままこなすのではなく、譲れない点は決して引かず、出すべき意思は貫いて、胸を張って仕立てる。その自信こそが依頼主を感嘆させる。それは裁縫の腕だけでは成り立つものではない。一本の信念がこの胸に宿ってこそ、名前と服とが命を持つ。
命を持った服が世界を旅して、広くこの信念を知らしめていく。
オレガノが守りたかった女性たちの意思の元に、服はその名を称えている。
あとはあんたの覚悟一つよ。
自分の為に。
自分のやりたいように。誰に何を言われても構わない。それが自分の為なら、自分で何とでもしてみせる。どんな結果も誰の何のせいにもしない。自分は自分だ。自分勝手に生きていく。それに魅入られた人だけが付いてくる。そんな生き様。
それをオレガノに見せつけたサフランは、儚い母親の姿とは似ても似つかない。
しかし母から受け継いだ芯は、そこにある。
一本の糸が一枚の布になり、人の形に仕上がり、一着の服となる。
服が人を模る。そこに宿る信念が、着る人を守る。守られた人は強くある。だから求められる服を作る。多くの人に選ばれる服を作ること。誰の為でもなく、自分の信念の為に、自分の作りたい服を作る。それに魅入られた人が、その名を広く世界に知らしめるだろう。
そんな生き様を課しなさい。それが母との約束。
「わかりました」
幼い日に、祖母に、母に宣言した台詞。
一字一句違わず、目の前の彼女に宣言する。
「オレガノ=ハリートとして、ハリートの名に恥じない服を作ります」
もう逃げない。
迷いはない。
それは。
「君が信条を与えてくれたからですよ、サフラン」
ありがとう、と強く握り返す手には満足そうな笑み。
母にも妻にもなれない、この村の女は皆そうさ、と言った義母は何を思って言ったのか。
この結末をも想定していたかどうかも知れない。
自分は娘たちにすまないと思いながらも、村を出ていくサフランを引き止めることができなかった。純粋に、その強さに惹かれ、魅入られた果てにこの村に落ち着いた身の上で、それ以上何ができただろうか。
娘にも、実家にも、白状しながら許しは乞わない。
彼女と運命を共にすると決めた日から、全てを受け入れてきた自分が作る服だけが是非を問う。その覚悟を持って、ハリートを名乗る。
ハリートの名を繋いでいくために。

<7>

オレガノは、順に家を巣立っていった娘たちを思う。
彼女たちもこんな思いを抱いて世界へ身を投げたのだろうか、と、村の女性たちへと思いを馳せる。
自分の力を信じて、時には心折れることも、敗北も知りながら、それでも信じるものは自分の力一つ。何者にもなれない。ただ自分の生き様を世界に問う。それは誇り。
時に立ち直れないほど打ちのめされても、誇りをかけて、自分に向き合う。
「強いな」
そうして生きていく彼女たちを幾人も見送ってきた自分もまた、彼女たちに教えられることばかり。
この村の女は皆そうさ、と言うのは義母だけではない。みんな、自分勝手に生きていく。誰のことも顧みない。だから残された者たちは、その背中しか知らない。決して振り向かない背中は、そのために凛々しくあれ。
「そうよ。このあたしが付いてるんだから。あんたは何も恐れることはないはずよ」
だから自分の人生をめちゃくちゃに振り回せばいい。
そう言って笑うサフランの帰郷は、娘たちに知らせた。
程なくして、四人の娘たちは戻ってくるだろう。
彼女たちが母親に何を思うのかは知れない。
それでも、留まるのは一時。きっとすぐにまた出ていくのだろう。彼女たちの世界は、もうオレガノが守るものではない。
それを突きつけられて自分もまた、世界へと出ていく覚悟を一つ。この手に自分勝手な護り手を得て、オレガノ=ハリートの世界は強くある。






<了>

貴族遊戯

2021年07月29日 | ツアーズ SS
ジョルジュ=クロード、クロード伯爵家の三男として生まれて17年。
今人生最大の危機的状況に陥っている。
普段なら声をかけることさえも憚られるほどの格上の人物から、これまた目を合わせることも大罪とされるような人物へのナイフ投げの指南役を任され、全身から滝のように流れ出た汗が、おそらく足元で水溜りを作っているに違いない。
(いっそそのナイフがこの僕の眉間を貫いてくれたら!)
そうだ。
自分が指南役に指されたのは、ナイフ投げの技術が優れているからでも教える技術に優れているからでもない。しがない伯爵家の三男。かたや、侯爵家の正統後継者。この権力関係において、何かの手違いがあっても(侯爵家の後継者の手元が狂って大惨事になっても)容易に処分することができる人物である、というただその一点のみだ。
それを分からないほど子供ではない。だが、指名に浮かれることも、竦むことも、ままならない責を背負うジョルジュに、後継者ミカヅキは淡々と接する。
「お前、かなり教えるのが上手いな」
と言われ、その言葉の真意が分からず、ひたすら恐縮するしかないジョルジュをどう思っているのか。ミカヅキは、「ダーツが得意なのか?」と尋ねてくる。
「い、いえ、得意、という、か」
得意ではないと言えば、そんな人物に指南役を任せたリオルドの立場がないだろう。
得意だと言えば、これまでこの倶楽部内で下の存在であることで居場所を確保してきた己の立場が危うくなるかもしれない。
(教えるより難しい)
と頭を抱える羽目になるとは。
実際、ダーツをするのはこれが初めてだ、というミカヅキに欠点を指摘する事は、それほど恐ろしいことではなかったと知る。
ミカヅキという人物は、そのやり方に難があることを指摘しても機嫌を損ねることは一切なく、素直にジョルジュの言葉に倣い、やってみせる。さらに今のはどうだったか?と自ら教えを乞うてくるのだ。そのやりとりを2、3繰り返して、ミカヅキは自分が劣っていることに拘らないようだと分かれば、教えること事態は容易かったものだ。
そのやりとりに対する言葉が、先のあれ。
「得意かどうかは、良くわかりません。ただ、初めてのあなた様より少しだけ経験がある分、お教えすることができる、というだけ、だと思います」
格上の人物に決して礼を失しない様、言葉を選んで選んで接する。これを間違えば、自分だけでなく、家にまで咎めは及ぶ。それだけの格の違いがある。まさに、雲の上の人、なのだ。同じ学校に通っていたとして、自分では声をかけるどころか、側に寄ることも考えられなかっただろう。
そんな人物が、ジョルジュの事を称えてくるのにはどうするのが正解なのか。
縋りたい存在はどこにもいない。皆、遠巻きに様子を伺っているようだ。
(誰か)
二年前、兄に連れられて「弟をよろしく」と紹介されたのは、ただここに出入りさせてやって欲しいというそれだけ。この場所の扉を開けて、次の一歩目から先はジョルジュ自身が己の裁量でのし上がっていかなければならなかった。
(僕には向かない)
序列に従い、大人しく下に控え、ただ家のためにリオルドという人物との繋がりを維持するだけが精一杯。そんな気弱な年少者を排除するでもなく、「ここでは何かをしないといけない、なんて決まりはないよ。ただここに居ることで周囲を理解していけば良いんだよ」と気にかけてくれていたサリスは今、リオルドの機嫌を取るのに必死な様。
(ただ居るだけで良いなら、と、思っていたのに)
この一連の事態を引き起こしているミカヅキはそれをどう考えているのか。
ジョルジュの精一杯取り繕った返答に、じゃあ何が楽しいんだ?と問うてくる。
楽しい遊戯だ。1日の仕事を終えて、学業を終えて、夜に集まって皆で騒ぐ。それぞれに趣味のあう仲間と、そこここで語らいながら。
「それは、やっぱり、点数を競い合ったりして」
勝った負けた、と陽気な声をあげて、もう一戦!と逸る。
それが楽しい遊戯だ、とジョルジュには思えない。ここに居たからこそわかる。それこそ、サリスが言ったように、周囲を理解したのだ。
競い合って。
上下関係を築いて。
力のあること、力のないことを体に叩き込む。遊戯ではない。社会だ。
「じゃあ、俺とやるか?」
というミカヅキは、この店の中に置いて頂点に立つ。その場所からジョルジュを相手に選ぶ。
「とんでもない!僕なんかじゃ、とてもお相手は務まりませんよ!」
「務まるかどうかなんて気にするな。俺なんかやっと前に飛ぶ様になった程度だぞ」
お前が下手だというなら丁度良いくらいだろ、というのにも必死で無理です、と返す。
誰も助けてはくれない。
的に当てる感覚を掴ませるためにミカヅキと二人、ダーツの的まで近づいた場所にいることでさらに孤立を深めていることに気づく。
もっと揉めていることがわかるくらい拒絶すれば、誰かが、…サリスが気づいてくれるだろうか。それとも、ミカヅキに恥をかかせた、と言って咎められるのだろうか。
(あの日)
まだここに出入りするようになって日も浅い頃、ダーツ勝負を促され、周囲の言葉に乗せられて相手より遥かに良い点数を叩き出してしまった恐怖が蘇る。ジョルジュよりも格上の、年長者だ。明らかに空気が変わる、一瞬で周囲が敵になる、それを肌で感じた恐怖。それを救い上げたのは、サリスの「おいおい君たちビギナーズラックを知らんか?」という明るい言葉と、その手から差し出されたグラス。誰しも経験があるだろう?と周囲を見回しながら、ジョルジュにおめでとう、と言ったサリスは。
「見事、ビギナーズラックを引き出したジョルジュと、その場を与えたグランドンに喝采を!」と周囲を囃し立て、「おめでとうジョルジュ、これで君も俺たちの真の仲間入りだな」と、祝福のグラスを空けろ、と促し、その場の空気を一変させた。
新参者にしてやられた倶楽部の常連たち、から、新参者を歓迎する年長者たちの余裕を引き出した。サリスに目配せされ震える手でグラスの中身を飲み干せば、皆が口々に何かを称えていた。あの苦さと、白々しさは一生忘れられない。
「なるほど、ビギナーズラックか」と言った相手は、揶揄するようにジュルジュに絡み、次もまたやろう、と言った。次もまた同じ様に点数を競い合うことができたら本物だよな、と暴力的なほど威圧を込めて。
それが全て。
あの日から自分は、生きる術を誤ることはしなかった。
それを、この人は分からないだろう。頂点から、その景色から、ジョルジュの様な小さな存在を視認することもないような場所にいる人には。
「分からないでもないが」
不意にそう聞こえて、過去の記憶に沈んでいたジョルジュは顔をあげる。
「俺とお前の立場から、同列に何かを成す、というのは壁があるのだろう、とは分からないでもない」
ミカヅキはそう言って、ジョルジュが捧げているナイフを手に取る。
「昔からそうだったからな。あ、気にするなよ、お前の何かを責めてるわけじゃない」
その言葉は何の感情も含まないように、静かだ。静かに、ジョルジュに何かを聞かせたいのだとわかるほど。
遊戯を嗜み人と関わることを目的とする場所には不似合いなほど静かにミカヅキは語る。
「お前は、手本でさえも投げなかった。ああ、先のアルフリートもそうだな。やり方を教えるなら、まずやって見せるのが手っ取り早い。それでも、それを選択しないくらい、お前たちと俺の間に壁があるのは、良くわかった」
昔からわかっていたと思っていたが、やはりわかっているのと実感するのとは違うな、とダーツの的を見る。
「俺はそれをぶっ壊したい」
「え?」
ジョルジュではなく的を向いての言葉だったので、聞き違えただろうか。粗野な言葉、それはどこに向かっているのか。
ジョルジュが不用意に上げた声に、ミカヅキが振り返る。
「俺は昔から一人だった。壁があることをわかっていて、壁ごと付き合うなんて器用なことはできなかった。やりたいとも思わなかったけどな。だから、やり方が分からない。この通り、お前と、ナイフ一つ投げ合うこともできない」
「あ」
相手を。
遊びの相手を希望されて。
それに答えられないのは自分だというのに。それを責めることなく続けられた言葉。
「けれど、サリスがそれで良いというから来たんだ」
サリスの名前を発した一瞬だけ、ミカヅキの視線はジョルジュの背後に振れた。
チラリと振れた視界に、おそらくサリスの姿を認めたのだろう。だがジョルジュはそれを共有できない。視線をミカヅキから離せなかったのは。
「初めてのことにやり方が分からないのは当たり前だから。ただ、居るだけで良い。それだけで違う。自分をそこに存在させるだけで、ずいぶん、違う。そう言うから来た」
サリスが、ジョルジュに言ってくれたことを、同じように言っていたと知って感じたのは親近感か。まさか、そんなはずは、と思っても目の前の人物から目を離せない。互いの関係は何も変わらない。変わったのは、意識か。
「俺としてはそんな面倒な人間が居るだけで周囲には迷惑なだけだろうと思うんだがな。…お前は、どう思う?ジョルジュ」
初めて自分と同世代の人なのだ、と意識し始めた人からそう問いかけられて答えられるはずもない。それもわかっているように、ミカヅキは笑ってみせた。
初めて、笑ってくれた。
何かを責めているのではなく、ただ自分の発言に失笑したように。
「いや、すまない。弄んだわけじゃない。お前の意見を聞いてみたいと思ったのは本当だ」
ただ今は早い、ともわかっている、と言って。
「だから、考えたことがないなら考えてみてくれ。また次の機会に、聞かせてくれたら嬉しい」
(嬉しい)
それは、次がまたあるということだ。
また、自分を指名して、交流を持ちたいという言外の約束。
(どうして)
遥か格上の存在が、名を呼ぶ事にも許しを乞うほどの存在である君が自分の意見を意識するのは。
「どうして」
「投げられるようになったから、せっかくなら教えてくれたお前と投げ合ってみたい」
礼だ、と言う。
礼なんて。
受け取れるほどの身の上じゃない。
「僕は、僕はただ言われるままに」
「それでも相手をしてくれたじゃないか」
リオルドが多くの者の中からお前を指名したのは意味がある、とミカヅキに言われ、言葉が出ない。
それは、何か事故が起きた時の保険で。
そんなことを口にできるはずもないジョルジュを、まじまじと見てミカヅキは断言する。
「厄介なこの俺の相手を務めるに相応しい、という評価だ」
(馬鹿な!)
頭を殴られたかのような衝撃に声も出ない。
「自信を持て」
(そんなこと)
わずかも逸らされないミカヅキの眼光に震えているのか。その威光に慄いているのか。ジョルジュは膝が震えるのを自覚した。
「周囲の評判が最悪の俺を、誰にでも預けるほどリオルドは愚かではない」
(この僕が、あのリオルド様に認識されているはずがない)
ミカヅキからすれば遥か格下のリオルドではあるが、彼もまた侯爵家の後継に名を連ねる人物なのだ。ただ家の名があってジョルジュは扉を開かれただけの繋がりでしかない。
それを知るはずもないミカヅキは断言する。
「これだけの人数を集めて、一つの倶楽部を長年維持する人物だぞ。俺は一目置いてる。それだけの人物に指名された、お前もだ」
こんなにも傲慢な物言いで、人を傅かせることのできる位格が、ジョルジュを認めている。あまりにも酷い現実感だ。震える声が、何かを吐き出している。
「僕は、あなたの相手もできなかった」
「ああ、気にするな。それだけ、俺の格は桁違いだ。滅多にお目にかかれないほどの高みだぞ。この店の誰とも次元がちがう、規格外だってことなら嫌と言うほどわかっている」
自分の位格を奢っているのか、揶揄しているのか。初めて言葉をかわしたジョルジュでは、到底理解も及ばない。
それでも。
「僕があなたに大差で勝利していたら、どうしましたか」
ミカヅキの戯言に付き合わされたように、滑りでた言葉はナイフよりタチが悪い。
ああいっそそのナイフが僕の眉間を貫いていてくれたら。
何度思ったかしれない。それに迷いなく重なる言葉。
「引き抜いていたな」
「え?」
「俺の元に引き抜いていた」
真っ直ぐな言葉。真っ直ぐな態度。それは一人を選んできた生き様が故の、真っ直ぐな軌跡。
ブレることなく、相手に向かう美しさは恐ろしさと紙一重。ナイフの様に、鋭い切先が光を放つ。
「次はなんとかお前に勝負してもらえる策を練ってくる。…ああ、もう少し当てられる様にもなってるはずだが」
と言ったミカヅキは不敵に笑ってみせた。
「このままリオルドの元に仕えたいというなら手を抜けば良い」
失望してやる、と言い。俺に引き抜かれても良いなら勝って見せろ、と言う。
そこにやっと掛けられた、外部からの干渉。
「ミカヅキ様、ダーツはお気に召しませんでしたか?」
と、ジョルジュの背後から現れたのはサリスだ。
「サリスさん」
「ああ、そうだな、一人で練習するなら家でもできるしな」
「そうですね、せっかくですし、もう少し人数を交えてできる遊びをしましょうか」
「そうするか」
とサリスの提案に乗ったミカヅキは手にしていたナイフを、差し出されたトレイに戻す。もう、ジョルジュへの関心は薄れたのか、こちらを見向きもしない。
そんなミカヅキの無情な態度にジョルジュを案じたように、サリスは慌ててジョルジュの肩を撫でた。
「よくやった、ジョルジュ。立派だったぞ」
その手のひらの重さ。
言葉の温かみ。
張り詰めていた何かが切れ、涙がこぼれ落ちた。
やり遂げたことへの安堵か、この先に待ち受けることに対する不安か。
ただここに居るだけで良い、とサリスに言われた同士。
方や、居るだけで何も起こさない生き方を選択した。
方や、居るだけで何かが起こってしまう生き方しかできなかった。
その存在を強烈に見せつけ、周囲を混乱させる。そんな面倒な人間が居るだけで、迷惑なだけだろうと思うんだが。
どう思う?ジョルジュ。
(分からない)
今のこの感情をどう持っていけば良いのか、自分には分からない。
(だけど、答えたい)
不甲斐ない自分の指南に、礼だと言ったあの人の問いかけに答えたい。
意見を聞かせてもらえたら嬉しい。そう言わせただけの熱量が自分にあると信じて、全力で応えたいという願い。
生きる術を見誤らないことよりずっと、大事なことだと思った。
次がいつくるとも知れないほど、住む世界がちがう。それでも言葉は通じ合う。
自信を持てと言われて希望を知る。
今はまだ、自分の栄誉のためにこのナイフを的に投げることはできないけれど。
(あの人に失望されない為になら、投げられるはずだ)
その意思が貫いた先に何が待ち受けているのか、今は分からない。遥か高みから延べられた手に縋りたいのかどうか。縋ったことで、あるいは跳ね除けたことで、今以上に恐ろしい事態に身を置くのかどうかも、知れはしない。
ただわかっていることは、一つ。
自分の力で投げたナイフの先に、未来はある。


陽風来たり

2020年05月16日 | ツアーズ SS
先生と熱く意気投合してしまい、ミカを放って置くこと三日。
な、ぜ、か、今日は自習になったということで、久しぶりに気兼ねなくおバカ発言を連発し、それにいちいち「くだらねー」と突っ込ませてやっているうちに、ここ数日のミカの鬱憤は晴れた様だ。
大体ミカは機嫌が悪いと一人になりたがる。機嫌が悪いのを悟られたくないのと周囲に当たってしまうのを避けているのではないかな、とヒロは推測している。なので気の済むまで一人にしてやると、自分から「構え」と出てくる。普段ならそれで問題ないのだが、今はちょっと違う。
ヒロと先生から「手出し無用!」と言われているので、自分から近づいてくる手段を封じられているのだ。今夜あたりちょっと様子を見ておくかな、とヒロが思っていた矢先の「自主学習」という先生のお気遣いなので、ここは有難く気分転換といこう。
自主学習という名目で、古典文学の短編集をミカが読み聞かせに徹し、それに対してヒロが所々疑問をあげたりするうちに、逆にミカが自分の疑問にヒロの解釈を求めたてきたりして、「古典文学から貴族社会の成り立ちを学ぶ様に」という先生の狙いは抑えていると思う。
だからは話はそのまま古典から、現代へ、自分たちの現在へと変わる。
ヒロのこだわり、「貴族になりたいわけじゃないのに貴族の授業を受けている状況」について先生が細やかに話を聞いてくれて、ヒロが引っかかっている些細なところを一つ一つ解消してくれた結果の意気投合、である事をミカに伝えておく必要がある。
決してミカが邪魔なのではなくて、という意味合いで。
「そんで先生が、俺が貴族になるにはいくつか手段があるっつって」
ヒロと先生の二人の話、にはミカも興味がある様で、すぐに反応が返って来た。
「ああ、あるけどな」
と本を閉じ、寄りかかっていたソファーから身を起こしたミカが、手段について説明してくれるのをヒロはただ素直に受け止める。
先生から聞かされるのと、ミカから聞かされるのとでは大分印象が違う。
先生は歳も離れていて、威厳もあって、まあ話は堅いし長いし所々言葉遣いは難解だし、であまり現実味は無かったが、ミカから貴族社会の仕組みを聞かされるのは純粋に面白い。
貴族になりたいわけではないが、そうやって自分の知らない世界が知れるというのは先生の言うところの『己を知る』に繋がるのではないかと思える。
「お前が領地と称号を貰えば家族もそこに住まわせられるけど、貴族の称号はお前の代からだな」
社交界に出るのも権力を持つのも政治的に関わるのも、全て自分から始まるわけか、と考えて、それが永久に続いていく事に考えが至る。ミカの手にある、古典文学の本。
あの中の世界が何百年と続いて今がある。今の、ミカの家が。
「俺の子供は必然的に御貴族様、ってこと?」
と問えば、ミカは「それは褒賞による」と教えてくれたが、それには事務的な説明であまり興味がなさそうだった。
ヒロとしては、自分が貴族の称号をもらったとしてそれが受け継がれていくなら、未来には、自分の子孫とミカの子孫が身分差のない対等な付き合いに、それこそ誰の目も気にしない友達になれるのかが気にかかったのだが。
その話にはミカも、うーん、と唸る。
お互いまだ結婚だの後継だの言われても実感がないのだから、子孫がどうこうというところまでは現実味がない、とのミカの困惑にはヒロも同意する。
「それはまあ確かに」
「身分差以上に位格の問題もあるしな」
そうだった。
「それもややこしいよなあ」
先生の授業は礼儀作法だけに留まらない。
「形だけ真似をしても無様な醜態を晒すだけです。そこにある所作にどの様な心があるのか、どの様な習慣からそうあるべきなのか、仕草の一つ一つが貴族社会のあり方から生み出されたものであることを理解しなければどの様な所作も所詮真似事でしかないのです」
と言った先生はヒロの授業を多彩な方面から組み込んでいる。
そのため授業の間は貴族の生活を身で感じる様に、と執事のライダスからも「ヒロ様」と実に恭しく扱われて(尻がむず痒いぜー)とも言えず妙な居心地を味わっているのが今のヒロなのだが。
そんなヒロの困惑に、ミカが「そうだな」と、思いついた様に口を開く。
「今お前が貴族になったとして」
「おお」
「男爵か子爵あたりの称号を頂ければ、俺との仲は問題ない。連れ立ってどこに行くにも、互いの家を行き来するにも、上からの苦言はない」
少なくとも今の状況よりはないはずだ、と言うミカの口ぶりには、そこそこ苦言はあるんだろうなと感じ、ただ頷く。
「社交界にも出る事になるし、そこで他の子息たちとの交流も必然になる」
「無視はされねーって事な」
以前にミカの家が開いた月見の宴で、自分たちはほぼ空気で、上からの許しがあるまで発言もできなかったことを思い出す。
「そうなるとどうなるか、だ」
「交流すると?お友達、ってわけには行かねーんだろ?」
俺とミカみたいな、と言うヒロにミカも頷く。
「例えば同年代だけで集まって遊興施設に出向いたりする」
「ユーキョーシセツ」
「観劇とか、音楽観賞とか、なんでも良いんだが、…じゃあ音楽鑑賞で歌劇場に行く。鑑賞すれば当然、それぞれに感想や講評とかの意見を交わしたりするだろ。そこに教養を求められる」
出た。教養。
ミカが生まれながらに躾けられ、今までのヒロには無縁のもの、という認識の。
「だから今の先生の授業は無駄じゃねえってこと?」
「違う。授業の話は今どうでもいい。位格の話だ。音楽鑑賞の後に意見を求められて、お前がそれに何かを言う、あるいは何かを言えないでいる、どっちにしても周囲はお前を見下げる」
「え?…言えない、のはまあ教養がないとしてわかるけど、正しく言っても見下げられるって?」
「うん。しっかり教養を身につけて、他の子息たちと遜色ない意見を言えたとしても、そこは関係ない。お前の格が、下だからだ」
すごい世界だ。とヒロが言いかけるのを押し止める様に、ミカの言葉が続く。
「これが俺だと、興味がない、つまらない、くだらない、と適当にあしらったとしても何の問題もない。逆に、彼らは追従するか、作品をこき下ろして俺の機嫌をとるか、ぐらいはするだろう」
「…あー」
それが格か。
そう言えばミカが閉じこもって部屋から出てこない、と執事が心配した時も、先生は当たり前の様に「機嫌をとってきなさい」と言って『自習』という名目をくれたのだ。
それが当たり前の世界。
「実際、学生時代にはそういうのが繰り返されて飽き飽きしてたからな」
それにまともに付き合うより一人を選んだミカの心情はわかった。
(面倒くさがったな…)
ヒロにわがままを言って喧嘩になったり、ウイは遠慮なく反対意見を言ったり、困った時には一緒に悩んでくれるミオがいたり、そんな関係はミカにとって新鮮だったのだろうとも思う。
だからミカがそれを貴族社会でも求めるのもわかる。ミカが背負うものは貴方の背負うべきものではないのですよ、と言った先生の言葉も、…わかる気がする。
「そういった遊興方面だけじゃなく、政治や社交界でも同じことが起こるのは想像できる。外から貴族社会に入るのはそういうことだ。周囲にまともに認められるには百年単位でかかると思う」
「百年か…。でも俺が百年経っても、ミカたちも百年経つわけじゃん?」
「差は埋まらないな」
「うーん」
だからか。ヒロたちにそんな思いをさせたくなくて、貴族社会との関わりを極力避ける様であるのは。
大丈夫。分かってる。ミカはいくつかの手段があるとしてもそれを行使しない。貴族になれとは言わないだろう事も、言えないのだと分かっている。だから自分たちは、ミカの友達でいられる様に、できる限りのことをする。多くを学び、経験し、社会的地位を確立する。それが冒険者クランを立ち上げた時の総意だ。
先生にはこれを説明すれば良かったのかな?と思う。
どうして貴族になりたくないと考えたか、その経緯はどこにあるのか、誰の影響か、思想か信条か諦念か厭世か、と先生は詰問の手を休める事なく、ヒロの中にあるものを言葉という形にさせようとする。そして「これは授業の最終まで続けます」と言った。
責められている様に感じる、というヒロに、考えることを癖づけるためだ、と言い、常に身を取り巻くありとあらゆる事に対して疑問を持ち考えろと指示されている。
おかげで最近では先生に対する苦手意識もどうでもよくなり、自分の中から出てくる曖昧な言葉を逆に先生が解説してくれるのが何かしらの面白い遊びの様だと感じてしまうまでになった。
それでも、やはり一人で考えるのは苦手だ。今の様にミカと他愛無い話をしながら、詰問に縛られる事なく自然体でいる方が考えはまとまる様な気がする。
貴族になりたく無いのは、ミカに負担をかけたく無いからだ。
貴方の感情はどこにありますか、と聞かれ悩んで考えた答えと、今の湧き上がる思いは違う。
多分、自分の感情で言えば、今の思いが答えだ、とはっきり言える。
そんなことを考えていたから、ミカとの会話に集中し切れていなくて、不意にミカから投げられた質問で我に返った。
「先生は、どうしてそんなことを言ったんだと思う?」
「え?どうして、って?俺が阿呆だから?」
咄嗟に反応したには余りにも間抜けな返しだったか、ミカが「違う」と渋面で古典の短編集を示してきた。
心証を学ぶ様に、と言われ先生から渡されたその本。
ミカがそれを読みながら、「なんでこいつは唐突に裏切ったんだ」とか「こいつとこいつのつながりはどっからきたんだ」とか主役から端役に至るまで登場人物の行動に事細かく突っ込んでくる事に、それは多分こう、これは伏線がここ、とヒロなりに文章で描かれていない心理描写や人間関係の背景を解説してやっていたのはつい先ほどまでの事。
それと同じで、先生の真意をヒロはどう読み解いているのか、ということが聞きたいのだろう。
それはやっぱりー、と言いかけ、ミカは先生との関係に戸惑いを感じているのでは無いか、と思い直した。
幼少時からずっと自分の先生で、今回その先生に不敬を働いてしまったことで動揺しているのは分かった。その後、あんなに先生と話したのは初めてだ、と言い、将棋までさして仲が深まった気がする、と複雑そうにヒロに報告してきた時は(村のちびみたいだな)と思った。自分のことの様に嬉しかったのは間違いじゃ無いだろう。
だから、自分が言えるのはこれしかない。
「俺とミカが友達だから、先生としては『末長くお友達でいられます様に』って事じゃないかな」
それで良いと思う。
先生を信じろ。ミカが信頼しているそのままで、きっと先生は良くしてくれる。だってミカの先生だから。
今のミカがあるのは先生のおかげだと思っているヒロには、それが真実だ。
「だから先生は俺とミカが永久に友達でいられる様に考えろ、って言いたいんだと思ったんだけど」
とにかく考える。
ヒロの考えに、先生も先生の考えで応えてくれる。それを受けてまた考える。
それを体験した今だから、ミカと先生もそうやって関係を築いてきたのが実感できるからこそ、『仲が深まった』とミカが感じるなら、それは先生が今のミカに応えてくれた証だと思う。
ミカが変われば周囲も変わる。貴族社会という厳格さで変わらないことの方が多いのだろうけど、それを身をもって知っているからミカも期待はしていないのだろうけれど、それでもミカのために変わってくれる人もいるはずなのだ。
ヒロと先生との授業に入れなくて、『放って置かれた』三日間にどうしてたのかと尋ねてやれば、今回の騒動の説明報告で家に帰っていた事、ついでウイたちの様子を見に行ったが会えなかった事を知らされて確信する。
ミカは誰に機嫌を取られなくても大丈夫だ。
「じいちゃんがミカのこと怒らないのって、ミカが自分から怒られに行くからなんだな」
と言えば、なんだそれ、と怪訝な顔をされる。
今回の事件はもう退っ引きならないほどの大事だったのは、もうヒロにも分かっている。
だからミカがことの次第を説明しに家に行く、というのはひどく叱責されるのだろうな、と思って心配していたのだが。
「うちはもう母ちゃんがすげー怒るからな?ここが俺ん家で、先生に無礼な事したってなったら母ちゃんが飛んできて怒る。母ちゃんに怒られて、これやべえ、ってわかるっていうか」
多分先生が怒るより母ちゃんが怒る方が早いぞ、と言えば、ミカが複雑そうに頷く。
「それは、わかる、気がする」
何日かをヒロの家で過ごしたミカたち。三日以上いる人はお客様じゃなくて家族です!というヒロの母はミカの事も他の子供たちと変わらず雑に扱い、遠慮なくこき使い、いつでも戻って良いのよ、ここも貴方の家なんだから、と言った。それを受けて、お世話になりましたなどと言うミカには他人行儀はよしなさい!と怒っていたくらいだ。
「だからもう、とにかくごめんなさいとお許しくださいが言える子になる」
「ああ、うん」
「許してもらうまで、ひたすら喋り倒して、母ちゃんを笑わせたらこっちのもん、っつーか」
それが先生に、延いては侯爵様に通用する、と思っていた自分は甘かったよね、と言えばミカが笑う。しょうがないな、それがお前だし、と。
郷に入れば郷に従え、ってお前がいつも言うだろ。今回は俺のやり方を通させてもらうぞ、と言ったミカ。
郷に入れば郷に従え、それをなぜ自分が試されていると考えないのですか、と言った先生は。
若様の背負う荷まで、背追い込もうとするのをやめなさいとも言った。
身の振り方を考える。
失敗から学ぶことは多い。
失敗を許容してくれる人がいるからこそ、人として望まれる方向に成長する事ができると心得なさい、というのがミカのお爺さんからの伝言だと言う。
「今一度戻ってくれた先生への感謝を忘れぬ様に」という思いやりには、ただただ感謝しかない。
(寛大なミカの爺ちゃんと、同じくらい、それ以上に先生にも感謝をして)
学ぶ。
「学び、考えなさい。そうしてこの授業が終わり貴方の成長した姿を見てから、今一度、今回の事に判断を下します」
そう言い渡されて、今ヒロは先生の教えを受けている。
『ミカの友人でいられる様に』学ぶ授業だ。
正直ヒロには、これまでの授業と何処が違うのかはわからない。それでも確実に、先生の言葉はヒロの希望する方へと導く。導かれていると信じられる。だから。
「授業、楽しいか?」
とミカが聞いてくる事に、笑顔で応えることができる。
心配はいらない。
ミカが貴族社会から庶民になじんだ様に、そこにある苦労や困難は覚悟の上だ。そう皆んなで確認し合った日には分からなかったことも、楽観も、甘えも、全部受け止める。
形だけ真似をしても、無様なだけです。そう言われた事も、今ならわかる。自分の中で、ちゃんと納得できているという自信。自信がなければそれはただの真似事だ。
もっと早くこれに気づけていれば良かったのかもしれない。ミカにもそれを言って安心させてやれただろうと思う。だが、中身のない言葉ではミカを納得させられなかったのだ。
大変なことをしでかしてしまったけれど。今だから言える。
「そうですか。それは大変よろしい」
と、先生の声がして、ミカと同時に扉の方を振り返る。
授業の時の様に生真面目な先生の隣には、執事のライダスさんがにこやかに立っている。
「お茶の準備を致しましたよ。一息つかれては如何ですか」
自習も大変お疲れでしょうし、と先生が言うのには「ああ、えっと」と返答に困っているミカを制する様に、立ち上がる。
「先生のお誘いとあらば喜んで!いついかなる時と場所でも馳せ参じます!」
先生にはありったけの感謝を示せ。
言って減るものじゃなし。むしろ言わないと増えないし。
ミカが先生との仲の深め方が分からないなら、過剰なくらい自分が率先してやって見せる。それで怒られるなら、ミカも適度を知るだろう。
そんなヒロの意図がどうあれ。
やはり過剰であったように、苦笑するライダスと、鼻白む先生。
「…それは興味深いですね。参考までに。いついかなる時と場所とは?」
「そりゃあもう!ドラゴンとの戦闘中でも完璧な正装に早変わりしてキラーパンサーを駆ってひとっ飛びで」

「…ルーラの方が早いと思うぞ」

今更引くに引けないヒロの太鼓持ちにミカが乗ってくる。中途半端に乗っかってくるなよー、困るだろーもう!と内心で思ってはいても、笑ってしまった。
「ルーラでひとっとびです」
そんな悪ガキ二名のしょうもないお追従を見せられて。
「今声をかけたのがその時でなくて良かったですよ」
そう言って先生が姿を消す。
怒られない事に、先生の譲歩を感じる。あれは先生最大の、ジョークに対するジョーク返しだ。
だから、ええーなんでー、と先生の背を追いかけて、ミカ振り返って手招く。
大丈夫。先生は怒ってない。
…呆れているかもしれないけれど。
ヒロの自信を後押しする様に、ライダスもミカを呼ぶ。
「お庭へ参りましょう」
明るい日差しに中庭の緑は鮮やかに、色とりどりの花が柔らかく包み込む東屋。
ついてくる教え子を待つ様に歩調を緩める先生の影。
外は気持ちのいい風が吹いていた。


陽風来たれ

2020年05月14日 | ツアーズ SS
先生とヒロが無駄に意気投合してから、放って置かれること三日。
な、ぜ、か、今日は自習になったということで、久しぶりにヒロが隣でおバカ発言を連発し、それにいちいち「くだらねー」と突っ込んでいるうちに、ここ数日の鬱憤は晴れた。
古典文学の短編集を自分が読み、それに対してヒロが疑問を投げかけてきたり、逆に自分の疑問にヒロが妙解釈で応えてきたり…と、やってることは他愛無い。
自主学習、と呼べるほどのものではないから、そのうち会話が脱線し出すのも自然の成り行きで。
「そんで先生が、俺が貴族になるにはいくつか手段があるっつって」
「ああ、あるけどな」
確かに現実的ではないものを排除したとしても、ミカにもいくつか案を出すことはできる。
その中でもヒロが自身のこととして受け取れそうなものは。
「武勇をあげるとか」
「武勇」
「黒騎士騒動、…あれはそこまでの大事じゃなかったが、城内城下で死者が数千規模の被害が出ている事件を解決したとか、城を乗っ取られたとか、そういう国難を救ったことを評価されて領地と称号を頂くことはある」
「ああ、なるほどな。俺だけが、ってことな?」
それならわかる、というヒロに今度はミカが疑問を抱く。
「どういうことだ?」
「いや、俺、家族こみで考えちゃってたからさ。貴族、って家ごとじゃん?それってミカのとこみたいにうちの家族みんなで、みたいなの想像しちゃって」
住んでた荒屋がいきなりお城みたいになるとか、俺の父ちゃん母ちゃんがドレス着て舞踏会行ったりするとか意味わかんなくて、というヒロが思い描いていた貴族像はわからないでもない。
これは実際ミカがヒロの家族と共に過ごした経験であり、それこそ、その感覚はヒロとの付き合いの長さだ。これを先生に説明するのは難しいだろう。
「まあお前が領地と称号を貰えば家族もそこに住まわせられるけど、貴族の称号はお前の代からだな」
「ふーん?俺の子供は必然的に御貴族様、ってこと?」
「それは褒賞による。領地はなく称号だけだと、一代限りってこともある。そこはまたいろいろ複雑だ」
それにも、ふーん、と返事をするだけに終わる。ヒロは大体、こっち方面の野心がないな、と思う。友人のよしみでなんとでもできる、と思っているのは自分だけで、ヒロは特にそれを希望していないのだ。
だから、気が引ける。
今回の上流社会の礼儀作法を学ばせる、という指示も、それを是とする自分と否とする自分のせめぎあいがなかったとは言えない。ヒロが上流社会に馴染めば、…ヒロだけでなくミオやウイも共に、同じ世界に生きてくれれば、自分は躊躇いなく外の世界を捨てて、上流社会一筋に生きられる。自分の生きる世界に彼らがいてくれるとするなら。
それは何よりも甘い誘惑。
だがそれは結局、自分の独り善がりなのだともわかっているからこそ、繋いでいてくれる彼らの手を強引に引き寄せることができない。
(ここの均衡が難しい)
ミカの最近の悩みはこれだ。
誘惑と現実の間で、どこに自分の心を決着させて良いかわからない。
(オシエル先生が、それをヒロに示唆した意図もわからない)
ヒロの野心を試したのか?あるいは、その誘惑に揺れる自分を試したのか。
それをヒロに相談したくとも、「貴族になって欲しい」と思っているそれに感づかれれば、ヒロは否応なく「よし任せろ!」と言う様な気がする。
今回の様に。
(いや)
ヒロは躊躇いなくこちらに来るだろう。そう思っている自分が甘いのか。
自分のためなら躊躇いなくそうしてくれるだろうと思っていることが罪で、現実にヒロに拒絶されることが罰なのだとしたら、そう易々と答えも出せないでいる歯痒さ。
だから煩わしい。だから友人など持つべきではなかった。と、言える自分はもういない。
なら、尋ねるべきなのだ。
目の前にいる、ヒロに。
「先生は、どうしてそんなことを言ったんだと思う?」
「え?どうして、って?俺が阿呆だから?」
「…違う…」
そうじゃなくて、と両手の中で開いたままだった古典の短編集を指す。
心証を学ぶ様に、と言われたそれ。
文学を読むことはできても、そこに書かれた人物の複雑な心理描写や人間関係の背景などを読み解くのが苦手な自分と違って、いわゆる『行間を読む』のが得意なヒロが、ヒロなりに面白おかしく解説してくれていた、それ。
それだけで、ヒロは「ああ、それ」と理解する。
「それはやっぱりー、んんー。…俺とミカが友達だから、先生としては『末長くお友達でいられます様に』って事じゃないかな」
一瞬難問でも投げかけられたかのようなそぶりを見せておいての、その返事。
普段と変わらない呑気な調子でのそれには、面食らう。
「え?友達?!」
貴族になる手段の提示、そこにかける橋として、あまりにも牧歌的。
ミカの知るオシエル先生との大きなずれに思わず驚いたが、その感想にヒロも間髪入れず驚きの声をあげる。
「えっ?何?俺ミカの友達じゃねーの?!」
いや、だからそういう話ではなく。
「いや、友達…、…友達で良いけど…、貴族になる話どこ行った…」
ミカは先生の厳格さが、情に流されない毅然としたものだとわかっている。それこそが先生の美意識で、それがあるから自分は安心して先生に学んでいるのだと思っていたが。
ヒロは、全く違う様に先生を捉えているのだ。
「あー、そこはあんまし重要じゃねーんじゃね?」
という言葉でそれを知る。
「だって重要だったら、先生が言うだろ?貴族になる手段。こうしたら貴族になれますよ、じゃあやってみましょうか、っていうんじゃね?先生なんだし」
「あ、ああ。そうか」
先生なんだし、か。
「だから先生は俺とミカが永久に友達でいられる様に考えろ、って言いたいんだと思ったんだけど」
授業が始まる前に、「俺学校行ったことないから先生とかよくわかんないけど良いかな?」と、ヒロが言っていたことを思い出す。それについての補佐はする、と返事をしたが、ヒロはヒロなりに「先生」を理解しているじゃないか、と思う。
ミカとは違う受け取り方で教えに学び、ヒロはヒロの答えを出す。
「もー今はとにかく、『考えろ』なのな。授業の時だけじゃなくて、休憩中も、ちょっとお茶飲むじゃん?そのカップについて考えろ、それを扱うことを考えろ、茶葉について考えろ、意味を考えろ、感じるな考えろ、って、もう三日間ずーっとそんなん。俺はめっちゃ考えましたよ?そしたらどうしてそう考えたのか考えろ、って、考えろ無限地獄ですよ。考えても考えても終わりがねえんだよー」
と、ソファーの背もたれにへばりつきつつ嘆いて見せてから、ヒョイと顔をあげる。
「っていう授業してた」
そして「ミカは?」と尋ねるのは、三日程の空白を埋めるため。
だから、まず家に戻って祖父と話をしてきた事、ウイたちの様子を見に行ってきた事を話せば、「あ!ウイとミオちゃんの事見に行ってくれたんだ。ありがとな」と感激されて、「爺ちゃん怒ってた?」と心配をされる。
どっちもミカの心情からはかけ離れた(ウイ達の不安を気遣ったわけじゃないし、祖父に会うのは報告だし)細やかな感情優先で反応してくるのがヒロなのだ。
感じるな考えろ、というそれはオシエル先生がヒロに何を求めているのか、自分は考えなければならないのだろう。
ミカの話を聞いた祖父は「何がいけなかったのだと思うかね?」とミカに答えを求めた。
「先生という存在を蔑ろにしてしまったのだと思います」
そう答えたミカに、祖父は頷いた。それがお前の答えか、という様に。
「儂は信頼を蔑ろにしてしまった、と思ったよ」
これは先生に孫を預ける祖父としての言葉だが聞いてくれるかね?と言い、普段と変わらぬ穏やかな調子で語る。
今回のヒロに対する教育は貴族の子らに対するのとはまるで勝手が違うだろうがどうぞよろしく、と先生を頼りにした。それに対して先生は実に十分な検討をしてくれた様に思うがどうか?と聞かれれば、確かにヒロに対する様々な授業内容や教材には一切の妥協は無かった様に思う。
あるとすれば、自分の迷いだ。
ヒロを先生に預けることに対する、わずかな不安。自分たちの将来に関わるこの時期に、この選択で間違いがないかどうかの、躊躇い。
おそらくそれをヒロに見抜かれた。ヒロを動かしたのは、自分だ。
「その不安をまずは先生に打ち明け、理解を求めるべきだったかもしれません」
ミカの懺悔に祖父は、再び深く頷いた。
「そうじゃな。それが、信頼ということやも知れぬ」
祖父はミカとヒロを先生に預けることに全面的な信頼をおいた。それを受けて自分は総てを先生に委ねる事ができず、先生との信頼を築けなかった。そういう事なのだろう。
「それを学ぶのだよ」
と祖父は幼い子に言い聞かせる様に語る。
「儂もまさに今学んでいるところだ。この先、お前を数多の人間に委ねていくことになるだろう。それをどこまで許容できるか、預ける先の人間とどれだけの信頼を築けるか、築いた先にある物事にどう対応していくか、学ばなければ己を正すこともできぬ」
祖父として、ミカの失敗は自分の事の様に捉えていると言い、今は同じ失敗に学び共に成長する事を儂とお前との信頼としよう、と、祖父はミカを送り出してくれたのだ。
失敗から学ぶことは多い。
失敗を許容してくれる人がいるからこそ、人として望まれる方向に成長する事ができる。祖父はそれをミカとヒロに分らせるため、「今一度戻ってくれた先生への感謝を忘れぬ様に」と念を押しただけだ。内心では怒っていたのかも知れないし、失望されたのかも知れなかったが、それを自身の事として捉えることで、決して無駄では無かったと言った。
そんな話をしてやれば、ヒロが感極まった様に「爺ちゃんありがとー」とどことも知れぬ方角に手を合わせて拝む。続いて、逆の方に向いて「先生もありがとー」と拝むのには、自分も一緒に拝んでおいた方が良いかと悩む。祖父はともかく、今同じ館にいるオシエル先生なら、どこかで様子を伺っているかも知れない。
実際それを見られていれば「不敬」と怒られそうだが、大真面目に敬う姿勢で感謝を示して、ヒロは笑う。
「よかったな」
と言われて、それはお前だろ、と言いかけ。
ヒロにこの笑顔が戻って良かったな、と思う心に負け、「うん」と頷く。
先生が、『この友情を末長く続けられる様に』ヒロを導いてくれるのなら、自分はそれにどう応えられるだろう。
ヒロが先生に出された『宿題』、先生がヒロから受け取った『宿題』。
残りの日数で二人が取り組む授業に自分は口を出せない代わりに、彼らが出した答えに真剣に向き合う覚悟を決めろ、ということか。
自分の心がどこにあるのか。
一つの課程を終えたヒロの考えが、どうあるのか。
(オシエル先生は、ヒロを教育することで俺に対する指針を考えている)
今はヒロの授業を受け持ってはいても、先生はミカの専属教師なのだ。
ヒロと、ウイとミオと、永久に友達でいられる様に考えろというそれは追い風か向い風か。
どちらであっても、その風は強く厳しく吹く。
けれど、厳しくとも暖かい。
そう感じるのは、先生が先生であるからであり。
ヒロがそれに気づかせてくれたからでもある。
「授業、楽しいか?」
とつい聞けば、唐突な質問にヒロは一瞬驚いた顔をしたがすぐに笑って見せた。
「大変だけど、楽しい」
そう言って、ここ重要な?と続ける。
「大変だから、楽しい。考えるの大変だし先生厳しいし時々筋肉痛だしめっちゃ食わされるけど、まあ全体的に大変で楽しい」
「そうか」
今度はウイとミオちゃんも一緒だとなお楽しいのでよろしく、と言う。
そうか。そうだな。
もっと早くこれを聞いていれば、良かったのかも知れない。だがもっと早かったら、自分はそれを信じられなかったのかも知れない。
大変なことをしでかしてしまったけれど。今は。
「そうですか。それは大変よろしい」
と、先生の声がして、ヒロと同時に扉の方を振り返る。
先生の隣には、執事のライダスが。
「お茶の準備を致しましたよ。一息つかれては如何ですか」
自習も大変お疲れでしょうし、と先生が言うのには「ああ、えっと」と誤魔化すミカを他所に、ヒロが立ち上がる。
「先生のお誘いとあらば喜んで!いついかなる時と場所でも馳せ参じます!」
おおお、そこまで言うのかこいつ。
感謝と好意、その示し方の作法に悩むミカとしてはヒロのそれが羨ましいやら、慄くやら。
苦笑するライダスと、鼻白む先生。
「…それは興味深いですね。参考までに。いついかなる時と場所とは?」
「そりゃあもう!ドラゴンとの戦闘中でも完璧な正装に早変わりしてキラーパサーを駆ってひとっ飛びで」

「…ルーラの方が早いと思うぞ」

「ルーラでひとっとびです」
「今声をかけたのがその時でなくて良かったですよ」
そう言って先生が姿を消す。
ええーなんでー、と先生の背を追ったヒロが振り返って手招く。
「お庭へ参りましょう」
と言うライダスと共に、ミカも部屋を出る。
外は気持ちのいい風が吹いていた。

北風と太陽3

2020年04月22日 | ツアーズ SS
「ミカが、あ、いやミカ様が、…じゃないミカヅキ様が」
「二度も訂正して正解にたどり着けない事に驚愕しますよ。そもそも、あなたは若様のお名前を直接に口にしていい格ではありません。この場合は、若様、とお呼びする様に」
そう言えば、ヒイロは大袈裟な身振りも加えて驚いて見せる。
「えっ?!…って事は、俺は先生と同じ格って事に?!」
言うに事欠いてどの顔でそれを言うのか身の程知らずをあれ程改めろと教育してきた何たるかをこうも無にしてくれる小童がその口をひん剥いてやろうか…!!
と脳内で憤怒の爆炎が上がりかけるのをようやっとの思いで自省する。
(い、いかんいかん)
己の内面は誰しもが目にすることができない閉ざされし場なり。すなわちその場こそが本性。誰の目にも触れさせぬ場こそ勤めて美徳であるべし。さすれば自ずと本性が外面に表れることこれ明明白白とす。
レネーゼの家憲を練り上げたと言われる先先代の言葉を三度脳内で繰り返したオシエルは。
能天気な内面が外面に表れているヒイロに向き合う。
「当然私はミカヅキ様とお呼びするお許しを頂いておりますが。良いですか?私が教師として接する以上、その様に個の呼び名を用いる事は他の生徒に対し若様への優位性を明らかにしてしまう事から、ややもすれば余計な軋轢を生んでしまうのではないかと懸念しあえて若様とお呼びする事で公正な距離感を周囲に明確にするためのものです」
「…ややもすれば?…やや、もす?…やや、も…やや以外に何がも?です?」
この高潔な精神論を聞かされて気になるところはそこか!!
おおお憤怒の爆炎よ鎮まりたまえ。カモノハシ。カモノハシにいきなり高潔を説いてどうなります。カモノハシとは平たい嘴より他に歯を持たない。つまり歯牙にも掛けない。そうですとも、この程度の事、歯牙にも掛けない、歯牙にも掛けない。
「御名でお呼びする事で、教師として特別扱いがあるのでは?と他の生徒に勘ぐられぬ様に、あえて、です」
「…あ、はい」
ふう、と自覚のないままにため息を漏らし、人差し指と中指で眉間を揉むオシエルである。
(眉間が痛い…)
思えば教育に携わって数十年。それは確かに、手を焼く生徒もいればその事に頭が痛いと嘆きを漏らす時もあったわけだが。
いくら頭が痛いとこぼそうとも、それは比喩だ。
生徒の扱い、あるいは己の采配に躓き、頭が痛い、と嘆いたとしても、その足で医局に駆け込み、頭痛薬をください、などと言うわけがない。
(だがしかし)
ヒイロの教育に携わった結果、眉間にシワを寄せることが常になって早半月。眉間の筋肉が筋肉疲労でも起こしているのかという鈍痛に眉間を押さえて唸る。
(く…っ!物理!!)
とかくヒイロは扱い難い。
オシエルが、今回二人が引き起こした問題において職責を放棄する、と言う判断を下したのもそれだ。
大体において、上のものは下のものに流されやすい。
つい先程の己の失態は言うまでもなく、あれほど完璧な存在としてあったはずのミカヅキでさえヒイロに関わるだけで善悪なく流されている。ここで一時的にヒイロに上流教育を仕込んだとして、悪い影響を受けこそすれ、良い影響が優るとは思えない。
その意を主軸にしたオシエルの訴えを、老侯爵は「そうであったとしても」と、柔らかく退けた。
「言い換えればそれは、彼らにも同じことが言えましょうな」
と、孫とその友人達の背景を指摘する。
「上流社会の影響を受け、それが果たして彼らにとって良いかどうかは我らの窺い知れぬところ。それでも私が交流を許したのは、実際に彼らと面会しての判断です。無論、彼ら自身は拙い。未熟でもあり、軟くもある。しかし彼らがミカヅキから良くない影響を受け、彼らの中で何かが歪まされるとして、それを正す周囲に恵まれている様に見えました」
それは家族であったり、知人や仲間、関わり合う人間の全て。それら周囲の人間の目がある。周囲から手を出す意思がある。それを聞き入れる耳がある。それは共に成長する環境が整っているという事。
そう感じたからこそ、許したのだ、と微笑む老侯爵は。
「ならば我らもここから学ぶ機会を得た事を喜ばしいと受け入れてみてはいかがか」
社会は成長する生き物だ。
多くの知識と経験という歴史に学び、想像と発展とがもたらす未来に学ぶ。
成熟しきったと思われる今の上流社会において、まだまだ未知数の余白があると老侯爵は考えている。
その考えに共鳴したからこそ、自分は、一度は放棄したものを飲み込み新たな責を負ってこの場に戻ったのだ。
手に負えぬとさじを投げた恥も捨て、ただ一人の人間として向き合うために。
(この二週間でどこまでやれるかは判らない)
前半の二週間を思えば、できることは知れている様にも思う。
思うからこそ、焦って先を進めてはならない。ヒイロという人間性を、何よりヒイロ自身が理解できる様に導く。
そのために。
「ひとまず、私が授業を始めるまでは、もう言葉遣いなどどうでもよろしい」
驚くヒイロには、それがあなたに与える無礼講です、と前置く。
「私が話す事をよく聞き、よく考えて発言なさい。それを聞いて私も考えましょう。何があなたにとって最善となるかを判断し、残り二週間の授業内容を決めます」
いいですね?と了承を取り付け始めた会談だ。
ミカヅキのためでもなく、教師としての実績でもなく。
ヒイロのための、最善だ。
(それで駄目なら所詮今の私はそれまでであったという事)
最高峰、などと謳われる位格の真面目。
その現実に向き合うために捧げられる時間は刻一刻と削られていく。


■ ■ ■


そうして聞き出したヒイロの答えは、「俺は貴族になりたいわけじゃなくてミカの友達でいたいだけなんですけど」という、これまたあやふやなものだった。
それを具体的に聞き出そうとして、まず、どうしてそう考えたのか、という問いに対しての返答、第一声があの冒頭の「ミカが、ミカ様が、ミカヅキ様が」である。
果てしなく出口は遠い。
「言葉遣いはどうでもよろしいと言ったでしょう」
「あー、そうなんですけど」
「何度も蒸し返さない!」
「はい!」
貴方がそうしてしまうのは反省が足りない証であり、…と言いかけて思いとどまる。
萎縮するヒイロにとって、あの一件はよほどに堪えた様に見える。
オシエルにしてみれば、なぜその慎重さをもっと早く理解し得なかったのか、と問いたい気分ではあったものの。
(痛い思いをしてやっとわかったというなら、それも良しとしましょう)
砂糖を知らぬ子にその甘さを説くのは難しい。火を知らぬ子にその熱さを説くのもまた同じ。
言葉のみで教え込む事に限界はある、と気づいたオシエルもまた、それによって気づかされたのだから。
そうでなくともヒイロは異質だ。
これが貴方に教える事です、と差し出したものを、そうとは受け取らない。
あろうことか、差し出されたものを吟味し、選り好みする。自分にとって必要なもの、不要なものを勝手に取捨選択するのだ。全面的に教えを乞う生徒としての立場でそれはあり得ない。今までのオシエルの教育者人生の中で、最もお目にかかれない人種だったということ。そして。
「先生ほどの方でも持て余すのですね」と言ったのはミカヅキだ。
ミカヅキにとっては他意のない、だがオシエルにとっては屈辱的な言葉であった。
だからこそ痛みで己を知る。自分は、教えを軽んじていたのだ。教育者として何よりも軽く見てはならない生徒の事をこれまでの経験と一括りにして片付けようとしていた。
恥と言うならそれをこそ恥ねばならない。
「若様とよくよく話をされた上での事なら、その意をお聞きしたいですね」
そう水をむけてやれば、ヒイロも顔をあげる。
素朴で、悪気のない、ただそれだけの子供だ。進んで悪事をするわけでもない。だが、それだけでしかない子供なのだ。
「ミカが、俺と先生との間に溝がある、って言うから、それを考えてみたんですけど」
教わる事に抵抗があるわけではない。向上心もある。課題を達成するまでの努力も問題ない。
それでも溝がある。
「それってやっぱり、先生は貴族の人たちに貴族としての立派な行動を教える先生じゃないですか。でも俺、貴族じゃないし、これから貴族を目指すわけじゃないし、って思ってて」
両者の意識の違いがあるとすればそこだ、と考えたらしい。
「教わる事は一緒なんだけど、なんか違うかな、って」
「違和感があると?」
「違和感っていうか、別に貴族になりたいわけじゃないし」
「だからこの授業は無意味である、という意識が邪魔しているとでも?」
「無意味とか…上流社会の作法身につけないとミカと大っぴらに遊んだりできないみたいだから無意味とか思ってるわけじゃないんだけど…、うーん難しいですね?」
しばしその言葉を吟味する。
ヒイロが頑なにこだわる、貴族じゃない、というそれ。確かに無意識下でそれが働くのなら、オシエルの言葉はミカヅキに届くのと同じ様には届かないのかもしれない。
いや、待て。今聞き捨てならないことを聞いた気がする。
「…貴方は若様と遊ぶ事が最優先なのですか」
「はえ?」
言われてみれば、今回の騒動もヒイロの発案の「お遊び要素」だ。
この子の頭の中はどうなっているのか。
「若様をどの様な方だと心得ているのです」
「どの様な」
友達です。と何の悪気もなく返答され、もう抱えすぎて抱えきれないほど抱えてきた頭をまたもや抱える。抱えるのゲシュタルト崩壊だ。
「若様は将来、一つの領地を背負って立たれる方なのですよ?領民全てに対して責任を負う立場の方が、貴方の遊び相手でいられるわけが無いと解っていますか?」
「あ、それは解ってます!だから今頑張ってます!」
何を!!
「ちゃんとミカの力になれる様に」
俺だけじゃなくて、と言い募る熱に、オシエルは抱えた頭を上げた。
「今回はたまたま俺だけなんだけど、あと二人も、同じです。ミカがやりたい事があって、その時に俺たちを頼る事があったとして、頼った事でミカが怒られなくて良い様な人になりたいんです」
それが「友達でいたいだけ」という言葉につながり、礼儀作法の教えを受ける動機になる、と。
では、貴族になりたいわけじゃ無い、という点にこだわる理由もそこか。
「なぜ貴族になりたくないのです?」
「え?だってなりたくてなるもんじゃ無いし」
「手段としてなら、この私でも幾つか提示できますとも。若様なら当然、その可能性にも気づいておられるでしょう。その様な話は今までに一度も出たことがないと言われますか」
「あ、ああ!そう言えば!俺の友達、お貴族様の養子になったんでした!」
「は?!」
それは意外な。
いや。意外な、というか、盲点。そうか。なくは無い。ヒイロの、ミカヅキとの接点が今一つ理解できなかったが、そちらの方向からの接触を考えれば、なるほどと頷ける。
「なるほど。では、身近にその事例があった事で、貴族のあり方を垣間見、敬遠したという事ですか」
「けいえん」
「なぜ貴族になりたくないとの考えを持ちましたか」
「え?なぜか、って?えーと、あんまし面白くなさそうで…」
これまためまいのする返答。
オシエルの両方が震えるので、ヒイロが困った様に身を引くが。
「…貴方の考えは全て面白いか面白くないか、なのですか」
全く、呆れる。
「あ、ダメでしたか」
「…成人し社会へ関わる事をどう考えているのです?」
「社会に関わる…、お金めっちゃ稼げる様になるなあ、って」
二の句が継げない。
(いや、これが市井の子の平均水準と思わねば)
己の生きる意味が「社会貢献」を第一とする権力者の後継の子らと同じであるわけが無いのだ。
領民一人一人は、自分の生で手が一杯だろう。自身の力で生きることが最優先。家族を養うことが最大の貢献。だからこそ、それ以上の社会的貢献を富裕層が担う。その構図を頭に入れなければヒイロの指標にはなれない、…と己を戒めていると。
ヒイロは項垂れるオシエルを前に身を乗り出して力説する。
「いやほら、お金稼げる様になったら弟とかを学校にやれるし!」
「……」
「学校に行ったら良い職につけるし、高給取りになったら家族に物送るの楽になるし、うちが豊かになったら近所にも物資分けられるし、近所が楽になったら村にも広がるし、みんな喜ぶ良い事づくめなんですよ?」
その言い分に顔を上げれば、身を乗り出していたヒイロが「駄目ですかね」とバツが悪そうに笑いでごまかす。
だが。
「それが社会貢献です」
「いや、そんな御大層な事じゃ」
そうか。言葉として解っていないだけか。
少なくとも、ヒイロは自分の力が村を養う一助になることまでを考えられる様だ。
ならばミカヅキの背負う責務も理解できるだろうと話を再開させる。
「人が子供を育て成人させるのは社会を確立させる為です。一人一人が社会を生かしているという意識の元にあらねばその社会は成り立ちません。そしてそれは位格が上がるにつれ責任は重くなります。若様が社会貢献の使命を負っておられるのもその為です」
「ああ、えっと、はい」
そっちの話ならわかります、とヒイロが言った事に、オシエルは再び虚を突かれる思いだ。
自分のことはわからないと拒否しながら、ミカヅキの使命はわかるというそれ。
「ミカがよく話してくれるんで」
貴族社会が財力と権力を持つのは、領民がいる為だという話。財力と権力は領民のためにあるという事。領民の望む財力と権力の有方。力を正しく使う事が求められる貴族としての使命。
そのヒイロの話ぶりで、二人の関係は良くも悪くも、一切壁がないのだと解った。
良くも悪くも、と言えるのは、その後に続くヒイロの訴えに集約される。
「それをミカが背負ってる、って聞いた時はすげーびっくりして。そりゃ昔は大金持ちの子はなんでもできて良いなあとか思ってたんだけど、ミカの話聞いてから、お金があってやりたいことできるけど自由がないっていうのと、自由があってやりたいことができるけどお金がないっていうのは実はそんな違いはないんじゃないかな、って思って」
上流社会と下流社会を隔てる壁を感じさせないほどの親密さを育んだ時間が、お互いを理解に導く。
「ミカのことはすげーなって思うけど、すげー大変なことも不自由なこともすげーあるって解ってて、だから」
無邪気なすげーを無駄に連発した子供は、それを飲み込む様に、俯く。
「もうちょっと、楽にして良いとこは楽にやったら良いのにな、って」
思って。
思ってのこと。
「……」
やっと真実に辿り着いた。
オシエルが知りたかった、核心。これこそが。
課題の内容を遊戯に擬え、その達成度に報酬を格付けし、二人で授業を冒涜した。その芯。
友人に上流社会の流儀を叩き込む事に責任と義務を生じさせるミカヅキと。
友人のために上流社会の流儀を受け入れる事に何の代償も求めないヒイロと。
二人の抱えていたものは、オシエルには知り得ない動機となっていた。
「若様のために、あの報酬制度を作成したと?」
「うん、そう、です。ミカに直に言ったらまた妙なとこ気にするから、どうせなら面白いって思った方が気楽なんじゃないかなって思って」
「…私にそれが発覚しなければ、成功していたと思いますか」
「あー、最初は面倒臭いって言ってたけど、作り始めたらノリノリで。めっちゃ本とか広げて徹夜で作ってて、なんか楽しそうにやってたからまあ良いかな、って」
功を奏したかどうかはどうでも良い、というそれには「ふう」とあからさまにため息をかぶせる事で牽制する。
それで再び、ヒイロは「すみませんでした」と縮こまった。
「それはもう良い、と済ませた事です。今私が咎めたいのは、貴方が若様の背負うものまで背負いい込もうとするその姿勢です」
へ?と顔を上げるヒイロに言い聞かせる。
「若様の責任は若様のものです。たとえ周囲にどうあろうと、それを肩代わりできるものではありません。貴方に上流社会の作法を押し付けることを若様が負担に思ったとしても、それを貴方の代わりに受けられない様に、貴方も若様が負担に思っているそれを、代ることはできないのですよ?」
壁がない、とは良いばかりではない。
親密であればあるほど、個の領域が曖昧になる。
今の話は、それを明らかにした様に思える。そう言った危うさを感じたオシエルの言葉を、ヒイロは重要視しない。
「いやー代わってやりたいわけじゃなくて、重いならちょっとおろせば良いのにって思って」
「同じことです。それは貴方が口出すべき事ではありません。若様自身の問題なのですから」
ミカヅキが考え、乗り越えていかなくてはならない。
今まで友を持たなかった代償だ。幼い頃から友を得ていれば自然と身に付くものを、今から一つ一つ、ミカヅキは学んでいかなくてはならないのだから。それが、同じ上流社会の友からで始めるのではなく、格差も離れた友人から始まる事で、少々勝手が違うだけの話だ。
このヒイロの告白を引き出せた事で、オシエルはこの先のミカヅキの課題をも身に刻むことができたとして。
ええー、とヒイロは不満そうだ。
その不満を一蹴するのは簡単だが。
軽く見ては、ならない。
「何です。お聞きしましょう」
「ええー、っと。うち赤ん坊いる時とか、母ちゃんが腰痛え、って言ったら俺が代わりに背負うんですけど」
「…ぬぅ…」
それはまた話が違う、と口を開きかけ。
「それと同じで、母ちゃんが『もう母ちゃんでいるの疲れた!』って言ったら、じゃあ今日は俺が母ちゃんになる、ってやったり、それで母ちゃんが俺の子供やったり、父ちゃんの代わりを妹がやったり、って感じで、みんながみんなの責任?ぐるぐる回したりしてるんですけど…」
その話には意を突かれた。
「そういうの当たり前にやってたら近所とかにも広まって、『今日母ちゃんお休みの日だから私が母ちゃんなの』って俺より小さい子とかが寄り合いに出てきて配給の取り分の話し合いしたりとか普通にやってるんで」
「それで村が成り立つ、と?」
「はあ。大人もそういう時は子供扱いしないし、めっちゃ本気で潰しにかかから、子供は見方探して徒党くんで対抗したりで、えー、だから何ていうか、誰かしらが絶対村の管理に関わってるから誰も弾かれないっていうか、全員が村の重要人物だっていうか、誰かが欠けてもすぐ別の誰かが助けに入れるっていうか」
「…つまり、全員で責任を共有しているとでも言いたいのですか」
「あ、そう!それそれ、そうです!」
「それは逆に無責任と同義なのでは」
「え!?そうですか!?」
「…いや、ちょっと待ってください…その様な状況を考えたことはなく…」
いやしかしでもまあ大人が子供に譲歩している、という事か。
地域で子供を育てる環境作り…、一足早い社会経験として大目に見ていると考えればまあ。
「春と秋の村祭の福引、一等賞は一日村長権なんですよね。で実際、いろんな人が1日村長やって、いろいろ命令したりして、横暴なのとか堅実なのとか色々あるけど、みんな従うし…それはその1日村長の責任で。あ、そういや、うちの近所の子が『村の財産を全部俺に差し出せ!』って言ったこともあったっけな」
「……」
「村長の命令なんで、みんな従わなくちゃいけなくて、俺ももちろん家中財産かき集めて。1Gでも後日残ってるの見つかったら村追放だからな、とか言われちゃ仕方なく。んで、村の財産全部その子の家に集まったんですけど」
「……」
「そりゃーもー村全部の怨念も集まっちゃって」
「……」
「村の人間の怒号飛び交うわ泣くわ叫ぶわの阿鼻叫喚でまじ地獄絵図!みたいな、…あ、そうか!俺それ見てたから、金持つって怖えんだな、って思ったんだっけな!あ、そうだったそうだった」
「それで」
「あ、それで自分の家族からも避難轟々で夜中にその子が一軒一軒泣きながら財産返して回った、っていう」
違うそうじゃない。
「それで貴方の言いたい事とは」
「あ、みんなが責任持つって悪い事じゃないと思ってたんですけど」
今の話を聞いて、なるほど悪くないですね!と同意がもらえると思っているところが理解し難い。
これもまた壁を感じていないことの弊害か。
「なるほど、貴方のその話で大体、貴方の育った背景の一部は垣間見れたと考えますが」
「あ、俺、村にいたの7つくらいまでで、あとは流しの商いとかやってて」
そこでもやっぱり責任は1日交代で、という話を聞かされて確信する。
壁は要る!
「貴方の育った環境に対して私の意見を述べるには少々時間が欲しいところです。じっくりと吟味が必要だと考えます。これは宿題にさせていただきたいですね」
という言葉に「えっ先生も宿題するんですか」というヒイロの驚きはあえて見過ごしておくとして。
「私があと二週間の授業を行うことにおいての、貴方の問題点はおおよそ掴めたと思います」
そう、こちらが本題。
それをヒイロも理解したのか、「俺の問題?今の話で?!」と前のめりになる。
そうだ、ここからは真剣になってもらわねばならない。
「若様は貴方に、貴方と私の間に溝がある、とおっしゃられた様ですが」
ミカヅキに指摘され、ヒイロ自身が考えた問題点。
なら取り掛かるのはそこからが良い。
ヒイロの自主性が何よりも大事だ。
「貴方と若様の間に溝がない、と考えるのはなぜです?本当に溝がないのか、あるいは溝があるのを見て見ぬふりをしているのか。溝がないのならば、なぜそういう仲になれたのか。見て見ぬふりをしているのならばそうしなければ仲を保てないのか。そういった事を考えたことはありますか?」
「はあ?」
「間抜けな返事をしない。少しは考えなさい。即答しろとは言っておりません」
本来なら溝があって当然の関係なのだ。
そのこと自体を考えたことはなくとも、これまでに一度も衝突がなかったとは思えない。
体験を探る。実際に経験したことを、一つ一つ、遡って考えさせる。
「それは、ミカが俺たちのやり方に馴染んで行ったから」
「馴染ませたのは自分たちである、と言えますか」
そう問えば、言えます、と返ってくる。古来よりある「郷に入れば郷に従え」を実践してきたと言う。
そして。そのことに対して、最近迷いがあった、と告白されたのには手応えを感じた。僅かづつヒイロは己の内面に目を向けることを掴み始めている。
「俺は良いことだと思って押し付けてたけどミカには良くなかったのかな、って」
自分たちの仲間ではなく、本来のミカヅキの在り方を目の当たりにして直面した溝。
それを正解に導くために、「頑張って」いるのだろう。
初めて不安そうな面持ちを見せるヒイロにオシエルもまた気を引き締める。
「私はそれを問題としているのではありません。幼い頃より若様をお育てしてきた私から言わせて頂ければ、どの様な場であっても正しく学ぼうとする姿勢は若様にとって当然であり、その事で若様に悪影響があるとすれば正すのは私の役目である、と内観するところです」
そうではなく。
貴方自身の問題として、と言いかけ、改める。
「貴方の成長を妨げている問題として、私から言える事は」
その言葉にヒイロも姿勢を正す。
そうだ。先の二週間で教えたことは確実にヒイロの身についている。教えに手を抜いたことはない。後はただヒイロ自身の在り方が見合うかどうかにかかってくる。
堂々と胸をはり、美しくミカヅキの隣に並び立つために教え込んできた礼儀作法。
「郷に入れば郷に従え、を逆に、貴方が試されているとなぜ考えないのですか」
「あ」
「貴方が若様に自分の考えを押し付けるのも、今回の騒動を起こしたのも、貴方が「良い」と思って成した事です。そのことは済んだ事、としてよろしい。ですが、これからはもう少し踏み込んだ思考を求めます」
それが成長の糧。
ミカの友達でいたいだけ、という純粋な心根には新たな糧がいる。
「貴方は貴族になりたいわけではない、と言いますが。ではそれを別の角度から考えてみましょうか。貴方の言う、若様の友人でありたい、とはどういう考えなのです?そうありたい為に私の教えを受け入れているのは、若様と同格でいなくては、と言う脅迫観念ですか?純粋な願望ですか?」
「えええ?」
脅迫?願望?と頭を抱える様子もただ黙って見守る。
そうだ。考えるのだ。どこまでも深く。己の内面にある核を見出せるまで、どの様な言葉も疎かにせず、どの様な感情にも目を背けず、ただ一心不乱に思考するのは「己の答え」だ。
初日、二人は堂々とこの自分に向き合ってきたのだ。
恥いる様子も、恐れ入る素振りも一切なかった事を思えば。
(子供特有の無知とも言える、が)
「若様の友人でいる事に引目なくありたいと言うことですか」
「うん、そう、かな?」
「それは自分が劣っている事を認める事になりますね。若様の周囲の人間と比べ、自分は劣っている、と感じるならそれは何によるものですか」
「何に?何による…、何に、って…、ああー先生の話難しい!!」
「私の話が難しいのではありません。貴方がこれまで何も考えず生きてきたことの結果です」
「うっ…、それは確かに…」
こんなに頭使ったのここにきて初めて、などと嘆いてみせるのを華麗に無視。
「若様は貴方を劣っている、とは思ってはおられないでしょう。あるとすればただ身分の差です。その身分の差を埋めることはできません。それは貴方も若様も重々承知の上で、私に教育を要請したのではないのですか」
「そうです」
「上辺だけ真似ればどうにかなるとの考えですか」
「そ、そう、なのかな?」
「私に聞いてどうします」
「…そうかもしれませんです」
上流の振る舞いを身につけ、作法を学び、礼儀を覚えても、どうにかなる問題ではない。
その中身がなんであるかを知らなければ、この一月もの教育には意味がないのだ。
それをヒイロが自分で探し出せる様に。
その思考の森に、導を打つ。
「貴方は、若様が怒られなくて良い様に、と言いましたね。それは貴方から見て、自分が劣っている事を自覚しながら直視できず逃げている発言なのでしょうかね?認めるのが怖いのですか?悔しいですか?周囲から劣っていると嘲りを受けることは怒りですか?恥ですか。若様に、ではなく、貴方自身の感情はどこにあります?」
「俺の、感情」
感情、と何度も呟いて再び黙り込む。真剣に考えているのは伝わってくるが。
どうか。
ミカヅキは、彼らの特性は「困難を諧謔で制す」ことだと言った。困難や苦境を乗り越えるのは努力でも叱咤でも真摯でもなく、ユーモアだと言うのだ。
今のヒイロにとってこの問答は逃げ場のない苦境だろう。一度それをして問題を起こし、痛い目を見た今再び諧謔を用いることはあるまい。では手を封じられて出す答えは。
「劣ってる、って笑われて怒るとか悔しいとか、恥ずかしいとか、あんまないんですよね俺」
「ほう?」
「そういうの持ってるとすごいしんどいし…劣ってるって思ってるの向こうだけで、そりゃまあなんでも上の方にいる人たちから見たら俺は下にいる、っていうのはまあそうだろうな、って思うんだけど、でも別に俺、上に行ったことないからどう劣ってるのかとかわかんねーし…、逆になんでも自分でやることが自分に返ってくるっていうか、結局自分っていうか…、自分が頑張れば幸せって手に入るし頑張らなかったら不幸せだし…っていう…えーっと」
「馬鹿にされる事には何の感情もないと」
「なんか勝手にやってるなあ、って思うことにしてます」
なるほど。そうきたか。
「先ほど貴方は、他人から侮られることに負の感情はない、と言い、それを持つのはしんどい、と言いました。そうですね?」
「ああ、はい」
「しんどい、と言えるのはその苦しみを知っているからではありませんか?そうであるとすれば、貴方は負の感情を経験し、対処し、克服したと思えます。では、その人生観に至るまでの道筋はどうあるのでしょうね」
「人生観?!」
「貴方のそれは、立派に人生観と言えるでしょう。偽る事なく本音であるならば、ですが」
「偽っ…てるかどうか、よくわかんないですけど」
「そうですね。一朝一夕でそこに辿り着けるなら苦労もないのですが。…貴方がその考えを持つ様になったのは、自身の経験ですか?それとも誰かの影響ですか。例えばそう育てられたから、素直にそう考える様になったのか。これまでの辛酸から自ずとそう考える様になったのか。影響を受けた良い事、悪しき事、人との関わりや書物、それらが自分をどう作り上げてきたのか、じっくりと考えればよろしい。考えて考えて思考を豊かにすることは、視野を広げます。自分を内面から見るというのはそういう事です。生きる上で自分が何に傷つくのか、何に励まされるのか知ることです。心折れることも、回避することも、恥じなくて宜しい。多くの手段を生み出してここまで生きてこられたのは、何があってのことか、その一つ一つに答えを出す事が大事なのです」
己を見つめるとは、そういう作業です、と。
半月あまり何度も言ってきた事を、今初めて、具体的に指示を下す。
実際、自分を見つめ直せ、と言い聞かせてきたがここにきてもヒイロは出来ていない。だからと言って手本を示せる類のことでもない。ならばオシエル自身の経験を語るしかない。どの様に自分を知ったか、自分という人間はどうある存在なのか。
オシエルが生きてきた年数は自分の生き様を問い質しその答えを探し抜くための時間だった。
「一つ一つ…」
と感心を胸に刻む様に呟くのはオシエルの半分も生きていない命。
「今答えを出しなさいと言っているわけではありません。考えたことがないのならたった今から考えなさい。そして残り二週間のうちに何かしらの答えが出たならばお聞きしましょう。それを聞くことで、おそらく私も貴方に対して次の指標を示すことができるでしょうから」
「え?答えが出なかったら?」
「それは仕方がありませんね。こればかりは強制的に答えを示せと言えるものでもないのです。答えは貴方自身のことで、正解が一つと決まっているものではありませんから」
宿題です、と言い、常にそれを頭から離さない様に、と言い置く。
はい!と返事は良いが、目に見えるものではないだけにどこまで理解できているかはわからない。
だから次の導を用意する。
「私がそうしなさい、と言う理由ですが」
「はい!」
「貴方の本質において、負の感情、…貴方が「持っているのはしんどい」といった感情です、それらの感情に振り回されない様な生き方ができているのに対して、正の感情、…好きだとか良いことだとか楽しい、面白い、そういった感情ですね、負の感情に対して正の感情の制御がまるでできていないことが問題だと思えたからです」
「はっ」
今回の騒動も。
普段からのミカヅキとの付き合い方も。
これで良いかどうかと迷いがあることも。
「負の感情を抑え込んでいる反動なのでしょうかね?抑えこんでいるそれを埋め合わせるように明るい感情ばかりが暴れて、貴方自身がそれらに振り回されているのではないですか」
良い感情だから大っぴらにさらけ出して良いものでもないのだ。
特にヒイロは悪い感情を持たないと自身に課している生き方だから尚更、そこばかりが際立つように感じる。
押さえ込むことと制御できていない事が極端に過ぎて、ヒイロと言う人物は実に不安定だと言えるだろう。
「私が貴方の態度を不真面目だと感じるのも、真剣さが足りないと不快に思うのも、幼稚さゆえに若様と並び立つことに疑問を抱くのもその辺りにあるように思います」
「うあ!」
「貴方が若様に自分のやり方を押し通すのも、これで良いのかと迷うことも、未熟であることの顕れです。負の感情を制御するように、正の感情を制御すれば、問題を起こす前に踏みとどまることが可能でしょう」
「あああ、そっかあ!」
「わかりましたか?」
「なんか、うん、えっと、わかるような」
「今はそれでよろしい。貴方の本質を否定するものではありません。負の感情を制御できる貴方なら、正の感情もまた己の意のままに制御することが可能だと思うからです。それこそが大人としての成長であり」
「はい!」
ヒイロの目の奥にある意志が輝きを取り戻す。
「貴方の言う、ミカヅキ様の友人でいたいだけ、と言う希望にも適うと思いますが」
如何か、と問うことに意味はない。
ヒイロの答えはもう決まっている。
「すっごくわかりやすいです!」
貴族にはなれないけれど、それならできそう、と言う単純明快な答えだ。
教わることにこだわりを捨てさることができた。
やっと。
やっとだ。
(人一人を教えることは)
「では明日からおよそ二週間の授業は、貴方の希望通り、ミカヅキ様の友人であるための指導内容へと切り替えます。貴方はこの二週間を通して、自分の感情に向き合いそれを制御することを学ぶように」
(慈愛だ)
「はい!よろしくお願いします!先生!めっちゃついていきます!!」
早速正の感情を全開に飛びついて来そうな勢いの返事に、やや苦笑する。
(慈愛、か)
「貴方という人は本当に」
「はい?」
「一つお聞きしますが」
「えーっと、それは無礼講ですか」
「…無礼講です。よく知りもしない私に対してそこまで好意的なのはどういうことでしょうね」
「へ?」
間抜けな声を出した後に、えーと、とわずかに考える風を見せたヒイロは。
「だってミカの先生だから」
と言った。
なんと単純。そして無防備。
このままでは彼らのためにも良くないと考えた、とミカヅキが言うのもわかる気がする。
「いや、えっとほら、だってミカが先生のこと大好きなんだなってのは見てて分かるし、ミカが先生の教えがあってのミカなんだなって先生の授業受けてから良く分かったし、それってつまりミカが俺と友達になれたのって先生のおかげってことで」
「……」
一気に捲し立てて呆気にとられているオシエルを前に、臆面もなくヒイロは笑った。
「先生は俺の一生の大恩人です!」
それには言葉もない。
ただただ、ヒイロの扱いにくさを再確認するばかり。
「まったく、見事な無礼講ですよ」
「あ、いやあ。それほどでも」
…褒めたわけではない。



人一人を教えることは慈愛だ。
慈愛を軸に、厳格にも寛容にも、対峙する人間の人格を導く。
目指す先を示し、到達を寿ぐ。
これまでの教え子にも、これからの教え子にも、ヒイロほど手を焼かされることはないだろう。
だからこそ、教師としての生涯をかけ、この行末を見守ることになるのだろう。
オシエルが最も愛した「レネーゼの至宝」となる教え子と、それに並び立つ子供たちの行く末を。
その覚悟を持って。
「では授業を始めます」

北風と太陽2

2020年03月21日 | ツアーズ SS
「なぜあの二人が、これを作成せねばならなかったか、を聞いてくださらんか」

それが御館様の言い分であるならば。
面会を終え一人私室に戻ったオシエルは、手元にある用紙を開き、その内容を吟味する。
礼儀作法課題達成報酬一覧、と題されたそれは、今回の騒動の最たるもの。
ヒイロが提案し、ミカヅキが作成した、と聞いた。
確かに、寸分の狂いもなく全く同じ字形を書くミカヅキの筆跡だ。
彼の精密な美しさへの追求は、こんな所にも現れている。今なら、それが苦い。オシエルが何も持たない子供に完璧な作法を身につけさせたのではない。完璧さを備えた子供がオシエルの望んだ通りに成長しただけの事だ。

(そう考えてしまえば、いっそやり直す機会を与えられた事に感謝の意もあろうかというもの)

苦さを噛みしめながら、オシエルの目は表面的な美しさからその内容へと引き込まれていく。

確かに、よく練られている、と思った。
課題の一つ一つを作成したのはオシエルであったが、その課題の内容を理解し、それを達成する事で得る報酬(この場合は玩具である将棋の駒だが)を考えたのはミカヅキだ。
そして気づく。
単純に、オシエルの意図した課題の内容を理解しているだけではない。そこに、ヒイロの特性も踏まえ、ヒイロという人間が苦手とする分野、得意とする分野も熟知している様に見受けられる。そればかりか、どの課題を達成すれば自ずと他の課題の達成度に貢献できるのかということまでも考慮したのに違いない。
(これほどまでに完成度が高いとは)
一見すればただの遊びだ。
だが、その内容を確かめミカヅキがこれを作成した規範に思考を巡らせれば、「指導する立場から礼儀作法を考えたい」といったあの訴えも、あながち体裁を整えるためだけのものではありはしないのではないか。
そんな思いに囚われながら確認した報酬の内容も、課題達成度に引けを取る事なく、塾考されている。
単純に、駒の格付け通りに配付されるのではないその不規則性に目を引かれた。
将棋盤の役割は元来実際の戦場での軍議に使用されていたものだ。歩兵から将軍まで、駒の役割は多い。それを段階的に与えるという事がどういう意図であるか、ミカヅキの立場を考えれば自ずと知れるというもの。
(彼君は主人然として、臣下に報酬を下される武勲を模倣している?)
ただ、そう言い切るには所々格付けがおかしい。何度も達成の進捗具合を確認しながら駒の増減を頭に入れ、それが攻めの陣、守りの陣を形成できる格付けにもなっていることがわかる。
これは、オシエルが将棋を嗜むからこそ言えることではあったが。
(成程。配付基準を、実際の武勲か、将棋の陣形かに絞りきることができなかったのは彼君の拙さか)
二人の子供が作成した図に向き合い、去来するのは従兄弟たちとの学生生活。
マナーコレットの本家筋である従兄弟たちは快活で奔放だった。文武両道、を掲げていたマナーコレットの家訓に沿わず、学芸を厭い、武芸に明け暮れる。逆に武芸を苦手としているオシエルは度々彼らに振り回され、無茶に付き合わされては要領悪く一人謹慎処分を食らったりしていたものだ。
「そんなに優秀な跡目が欲しければ、オシエルにくれてやるがよろしかろう」
従兄弟らのその言葉に当て付ける様に大叔父や叔父が、レネーゼ最高顧問という跡目をオシエルに決めたのではないか。若き日の自分は、それを受けるか否か、悩みに悩んで従兄弟たちに想いを打ち明けた。しかし根っから明朗快活な彼らはオシエルの杞憂を吹き飛ばした。
「俺たちは生まれた家を間違えたな」
俺の親は文芸に励めと俺たちを叱責する。お前の親は、武芸に励めとお前を叱責する。いっそ逆なら円満解決、それを分からせてやっただけの事で、親たちはそれをやっと解っただけの話だ。
だからお前は進め。認められ求められる道が敷かれた。それはお前の功績だ。幸運はそれに花を添えた程度だろうよ。
それが従兄弟たちからの餞。
日々に忙殺され、何十年と思い出すこともなかった言葉だ。
彼らは今現在、マナーコレット家としてレネーゼ侯爵家に支え武官としての地位で実に伸び伸びと実力を発揮している。彼らもまた、己の功績でそれを勝ち取ったのだから何に恥じることもない、と周囲の雑音を一掃して今がある。
そんな彼らに手ほどきを受けての、オシエルの将棋の腕。
(こんなところでもまた彼らに助けられている)

好事も、悪事も、たった一人では踏み込めない。そこに友があってこそ。

それを言った老侯爵の胸の内は計り知れない。
今日会談して初めて解った。孫可愛しの一存だけでなく、オシエルにも向けられた慈愛。家に携わる全ての者たちが愛おしいという慈しみ。領地という甚大な命を抱えて、誰一人取りこぼすこなく率いていく事は、理屈ではないのだろう。
それが、好事にも悪事にもなる。
(あの二人にとっての、好事と悪事)
生まれた家を間違えたな、と笑って見せた従兄弟のくれたもの。
目の前に並べられる駒の意味。
道は敷かれた。
そして幸運はそれに花を添えるだけ。



■ ■ ■



翌日、オシエルはそれを手掛かりにミカヅキとの対話を試みた。
思えば、ヒイロという人間に「教師との信頼関係を築く様に」と注意しておきながら、なんの事はない、ミカヅキとの信頼関係も築けていなかったのではないか。
そんな思いがあったからだが。
将棋の駒を課題達成の報酬に選んだのはヒイロであるが、それを振り分けたのはミカヅキだ。
所々二人で駆け引きを行い、報酬の内容は図面と離れたところもあったというが、それでも今日までの達成度合いで向き合った。
将棋の駒、その格付け、武勲と陣形から見えるミカヅキの思考。
五歳の時より今まで見てきた彼と同じく、納得の行かないところはとことん話を詰めてくる。自分の主張も譲らないながら、こちらの言い分を吟味し対抗してくる姿勢は、普段の授業と同じ様ではあったが。
「それほどまでに仰るなら、ここまでの手持ちの駒で対戦と行きましょうか」
そう挑発すれば、ここまでの議論で熱くなっていたミカヅキもすぐさま乗った。
「望むところです」
ミカヅキと同じくオシエルも熱くなっていた事は否めない。
ミカヅキとヒイロに向き合う、と構えていた再開の初日はそんな風に使い切ってしまったのだから。
ミカヅキの作成した駒の配分を実際の盤上で再現し、初めて、将棋で対戦した結果。
なんとかギリギリでミカヅキの言い分を退けることができた。
非常に接戦ではあったため、数手のやり取りでどちらに転ぶかは分からない応酬が続いた事もあって、ミカヅキは屈辱そうではあったが。
「まいりました」
そう礼儀正しく頭を下げた。
「先生の格付け理論は正しいのだと認めます」
「いいえ、若様の武勲の解釈もなかなかにございましたよ」
と、これは負けた子供をあやすためでなく「やりあって見て初めてわかるものですね」と言えば、ミカヅキも顔をあげた。
「ああ、確かに…、そう、ですね」
そこにはもう負かされた無念さはない。新たな気づきに意表を突かれた様でもあった。
無論、オシエルも同じ。
しばし二人は無言で、その盤上に並べられた対戦の跡を見ていたが。
静かに、ミカヅキが口を開いた。
「先生に戻ってきていただいて、本当に良かったと思っています」
何より、ヒイロのために。
そう言われて、ああ、と応じかけたオシエルは再会した直後のヒイロの様子を思い返して口籠る。
彼に礼儀作法の極意を指導してきたと疑わぬ二週間余り。
それらが一切振り出しに戻ったと思わせる体たらくには言葉もない。
「…なんと申し上げましょうか、若様にはお耳の痛い事とは存じますが…」
残り二週間。
わずかな時間で彼に礼儀作法を仕込む。一月でも短いと思っていた期間がさらに半分にまで減った。それを余すことなく使い切るために、今一度、ヒイロとの話し合いを設けるつもりではあるが。
「非常に厳しい、…と言わざるを、得ないかと」
ヒイロのために、というミカヅキの言葉を裏切る様で心苦しいのは事実。
しかしミカヅキは、いいえ、とオシエルの話を遮った。
「私は先生を信頼申し上げています。その事については何の不安もありません」
そうではなく、と続けられるミカヅキの真意。
ヒイロという人間は、心底オシエルを慕っている様だったので、このままで終わるのはあまりにも申し訳ないと思った、と言う。
申し訳ないのは、ヒイロに対して。
ヒイロをこの状況に引き込んだのは自分の責任であり、それを可能な限り補佐することが義務なのだと思っていた。しかし結果として成せなかった事実は重く受け止めている。
それを打ち明けられて、自分はミカヅキという存在を自分と等しく考えていた事を自省した。
ミカヅキと自分は立場が違う。彼はあくまでも上に立つ人間としての教育でのみ生きる。
気に入ったおもちゃに難癖つけられて不貞腐れる子供ではない。
(友人を持つ事に対して、責任と義務を考えなくてはならないとは)
礼儀作法を通して接するだけだった目の前の子供は、なぜ今まで友を持たなかったのか、と言った点に気づかされ。
「軽々しく彼らを巻き込むべきではなかった、と、呵責を覚えておられるので?」
オシエルはその様に彼の胸のうちを慮って見たが、ミカヅキは、キッパリとそれを否定した。
「いえ、それはありません」
彼らにとってもこれは必要だと考えている、と言い、反省はあるが自分の至らなさや未熟さは克服する事で次に繋げる、と言い切る。
これもまた、レネーゼの教育の現れ。
「私が先生に彼の教育を一任してしまったことが問題だと思います」
オシエルを信頼しているからヒイロを預けた。ヒイロのこともまた、信頼しているから彼の自由意志に任せていた。両者が行き詰まった時に介入することが、自分の「補佐」だと考えていた甘さがあった。そんな想いを打ち明けるミカヅキの口は重い。
先ほどに、将棋の駒の格付け、武勲や褒賞の考えを主張していた時とはまるで違う。
何度か口が止まり、考えを言葉にしようとして思考し、時間をかけて想いを整理しながらの話には口を挟むことができなかった。そこにある慎重さに、手を出す事は躊躇われたのだ。教師としての自分が、教え子に対し、手を述べることができない。
おそらくこれが初めての、対話だ。
ミカヅキは明確な形あるものについて考えを述べる時には淀みなく、時には教師である自分をも言いまかすほどに達者な達弁を披露するが、あやふやに形のないものを言葉にする事は苦手とする様だった。
これもまた初めて気づかされる事。
だからこそ見守り、ただ彼の言葉に耳を傾ける。
言葉が拙いからと言って、考えが、思いが拙いとは限らない。それを見誤る事はしない。もう二度とは。
「ヒイロは感情が何よりも正しい。それを表に出す事に躊躇いも、制止される規則もない。先生が戻られた時、なりふり構わず抱きついて感謝を口にする。非常に見苦しい体を先生にはお見せしてしまいました。本当なら、この様な経緯があった後の再会では、私はそれを止めなければならなかった」
でも、とそれまで自分の胸の内にある感情を言葉に置き換えながら口にすると言う重荷を背負っていたミカヅキが顔をあげた。
真っ直ぐにオシエルをみる目には迷いがない。
「そうできるヒイロを羨ましいと思ってしまった」
その迷いのなさに驚かされる。
誇り高いレネーゼの教育よりも、ヒイロの行動に価値があると認める言葉。
それを口にする事に対する覚悟。
今一度、教え子と向き合う、と決めたのは何もオシエルだけではない。ミカヅキもまた、自分たちのしでかした一件に向き合い、己と向き合い、教師と向き合うと決した。
おそらくはミカヅキと共に、ヒイロもまた同じ覚悟を持って挑んでくるのだろう。
この高揚は言葉にし難い。
教え子の成長は、教師として何よりもの発奮だ。
オシエルの衝撃は沈黙。それをどう捉えたのか、ミカヅキは「戯言を申し上げました」と、謝意を述べつつも、「ですが本心です」と言い切った。
「おそらくは、私とヒイロの感情は同等にあると思います。それを礼儀作法という縛りが隔たりを生む。先生に抱きつくなどもってのほかです。けれど、今一度の猶予を有難くお受けさせていただきます、と告げて先生から差し伸べられた手を取る行為、それ以上の感情の行き場をどうすればいいのか、私は知りません。形式にならない、形式から外れたこれを、どう表せばいいのかが判らないので」
レネーゼの家憲。
美しく正しく、人として斯くあるべきと掲げる精神。長い歴史の中で磨き上げられた思考と動向。

それが先生を縛っているのではありませんかな

レネーゼ侯爵の言葉が、それを継ぐミカヅキの言葉に重なる。
形式に準えることのできないほどの思い。それを抱いた雛は、飛び立つ様を模索する。まだ見ぬ空を行く翼を、光をまとい風を道連れに、最も優雅に羽ばたかせる術を。美しさが弧を描く様を。

「先生と共に考えたいのです」

先生への信頼は何があろうともわずかも揺らいでおりませぬよ

「オシエル先生でなければならないのです」

だから戻ってきてくださって良かった。
戻ってくることができて良かった。
戻る事を許されて、良かった。

過ちは時に尊い。
歪さは、見るものには美しい。

それを教え子に教えられる師もまた、はるか高みを知る。

好事も、悪事も
たった一人では踏み込めぬ未知。

北風と太陽1

2020年03月18日 | ツアーズ SS
「教え子は、かつての自分だと思いなさい」
それが、師の最終の教えだった。
師は、ガンコール・マナーコレット。マナーコレット家の家長であり、自分にとっては大叔父にあたる。
彼は長年、侯爵家の礼儀作法を取り仕切る最高顧問の務めを引退し、その跡目を「姪孫のオシエルに引き継がせる」と宣言したのだ。
威厳ある家長の一言は絶対。
オシエルは三十半ばにして、直系の叔父や従兄弟らを押し除けてその位格を継いだ。
その時から十年余り、レネーゼ侯爵家の礼儀作法に関わる全ての教育を担い、信頼と実績を築き上げてきたと自負している。
その誇りを支えるものはやはり、正統後継者の専任教師、という肩書きに他ならない。
オシエルは、レネーゼの後継者、ミカヅキが僅か五歳の時より彼の礼儀作法の教師としての成果を上げてきた。
幼く拙い時分から成長する過程においてわずかも乱れる事なく、レネーゼの家憲にあるが如く美しい礼儀と研ぎ澄まされた作法を身につけたミカヅキを誰もが称賛する。その称賛は等しくオシエルの元へも向けられる。
ミカヅキが認められれば認められるほど、オシエルの教師としての地位は盤石となって行ったのだ。

(だがそれは、自分の誤想だった)

オシエルは残酷な現実を突きつけられ、己の深淵に目を向ける。


■ ■ ■


レネーゼの正当後継者、ミカヅキはオシエルにとって、初めての専属となる生徒だった。
それまでレネーゼにあって多くの立場の人間に礼儀作法を説き、指導を行ってきていたが、専任顧問を継いだと同時に、正当後継者の礼儀作法の教育係をも任された。
これほどの大役を同時に頂く事も、また未成年の、それも学校へも上がっていない生徒を指導する事も初めての事であった為に、狼狽と困惑は計り知れないものであったが。
オシエルの不安を他所に、ミカヅキは優秀な生徒だった。

(そうだ。思えば、彼の君は初めから優秀であった)

ミカヅキはわずか5歳にして、オシエルの指導をよく理解した。理解した上で納得がいかぬ所は物怖じせず指摘してくる。それにつきあい問答し、礼儀作法の真髄とは何であるのかと考え抜く時間は、あの頃のオシエルにとって全く何ものにも変えがたい研鑽の積み重ねであった。
その研鑽は時と共に極限を求め、結果、ミカヅキは、レネーゼの家憲を熟知し、礼儀とは、作法とはこうあるべき、というオシエルの理想を寸分違える事なく体現した存在となった。

(それは、己の手腕などではなかった)

ミカヅキは、オシエルの理想ではない。
過ちも犯せば、興味本位で道をはずれもする。己の意思で行動し、その結果としてオシエルの意に添わぬ事態をも引き起こす。
そんな当たり前のことを考えた事もなかった自分に気づかされる。
確かに自分は、指導に置ける場と公式の場での振る舞いでしか、ミカヅキという存在を知り得ない。
時に耳にする彼の孤立した噂など、ミカヅキの身につけた究極の美意識の前では然もありなん、とまで悦に入っていた事は否めない。
それほどまでに、完璧だった。完璧であればあるほど良いと思っていた。
究極の美意識の完全体、それを目指し、追求した末の齟齬などは些細な事だ。なぜならば、オシエル・マナーコレットは礼儀作法の教師であるが故に。
礼儀作法より他の分野においてのミカヅキの教育には任を持たないが故に。

「あの子を一人の少年として見てやってくれませんか」

その様に老侯爵に言われ、オシエルは自分の中に潜む愚かさを見たのだ。
レネーゼ最高峰と謳われた教育は、その美しさの影に、人一人の人間の歪さを隠してしまったのか。



■ ■ ■



ミカヅキの友人に上流社会の礼儀作法を身につけさせる事。
期間はおよそ一月。
それを命じられた事は、さほど重荷だとは感じなかった。
オシエルはレネーゼの専任教師ではあるから、レネーゼに関わるいかなる人材の教育にも携わる。地位、部署、年齢のいかほどにも合わせて指導要領を作成し、他の教師に授業を任せる事もあれば、自ら受け持つ事もある。
要請があれば城の外にも出向く。貴族らの家に招かれ、子息たちが通う学園関係にも招かれる。
最高顧問としての多忙な十数年の実績が、この風変わりな要請であっても、オシエルを動じさせないものとなっていた。
侯爵家ではなく城下にある別宅での授業を希望、というのもミカヅキ本人の意向であり、それを許されるほどには、侯爵家の当主である御館様に目をかけられているのだろう。

「御館様は、御子息を亡くされてから怯懦になられた様だ」

暗に、孫には甘い、という非難めいた嘆きが時折囁かれているのも承知。
だから、ミカヅキが友人の教育場に同席する為に別宅を選んだ事も、甘やかされているが故の増長だと割り切る事ができた。
気に入りのおもちゃに大人から難癖つけられるのが我慢ならないのは、子供なら誰しも経験のある事だ。
ミカヅキにもそういった一面があったという事は多少の驚きではあったものの、注意すべきほどの事ではないと受け流し、館に赴いたのだ。
果たしてそこで、オシエルの想定通り、ミカヅキからは授業に同席したいとの申し出があり。
想定通りであったから、というのもあるが、同席する理由として「指導する立場から礼儀作法を考えたい」という主張には、やや興味を惹かれ、全面的にミカヅキの要求を受け入れた。
それは子供の、己の意を通す為に体裁を整えたばかりの主張、である事も解ってはいたのだ。解っていてなお、「さすがは美意識を極めさせただけはある」「体裁の整え方も申し分なく見事」と満悦してしまった。

(そこに傲りはなかったか)

あの日から今までを詳細に思い起こしての、自問自答。
まさか、オシエルに下された命は半月ほどで崩壊を迎えた。
人一人に礼儀作法を仕込むことなど、この自分にとっては容易い。究極の美を完成させた今、迷いも、惑いもあり得ない。
あり得ないはずのことが起こった、その始まりはなんであったのかと問われれば、傲りとしか言いようがない。
ミカヅキと、その友人であるヒイロは、あろうことか授業をゲームに準え、教師であるオシエルに秘匿して報酬のやり取りを行なっていた。
そんな愚行を、正統後継者の立場ともあろう人物に許してしまったのは、おそらくは教師であるオシエルの怠慢。

(怠慢である、と、今なら言える)

教え子二人の動向を、しっかりと見ていなかった。
一人は、友という立場を利用している現状を、利己心ではないかとの、迷い。
一人は、友という関係に利己は生まれるはずがないとの、惑い。

「なぜあの二人がこれを、作成せねばならなかったか、を聞いてやってくださらんか」

オシエルが教え子二人の暴挙を報告しに行ったその日に、御館様との面会が通った。
これは異例の速さだ。
オシエルとしては、まず我が師へ事の次第を報告し、この先の助言をいただくつもりでいたのだが。
顧問の座を引退し、今は政に関わらない立場でご意見番として御館様の側支えをしているオシエルの師、ガンコールは「助言ならば御館様にお伺いした方が早い」と言い、難なく面会を取り付けた。
その速さから言えば、これは遅かれ早かれ起こりうるものだと、想定されていたのではないかと思える。
少なくとも、師と御館様との間では、この一月にはいつでも対応できるよう心構えがなされていたのだと考えてもおかしくない。

(私が役目を受けた時からずっと、この時を準備していたのだ)

なんのためにか?もちろん、ミカヅキのために。
還暦をすぎた老侯爵にとって孫は可愛いものだろう。
そして彼からすれば、オシエルもまた、子供の様な年齢だ。
御館様は始終穏やかにオシエルの訴えを聞き、言葉全てに深く同意し、時折考え込む様に俯いた。
そうして告げられた「助言」は、ミカヅキのためのものではなく、オシエル自身に向けられたものだった。
レネーゼの礼儀作法において、それを任せられるのはオシエル・マナーコレットであることには間違いない。それだけの実績は誰もが認めるところである、と言ったレネーゼの老侯爵は、「それに意を唱える事は私が許さないだろう」と微笑む。
絶対の自信。絶対の信頼。それをオシエルに判らせるように、続けられる言葉。
「今先生があの二人に対し適正な教育が施せない、とおっしゃるのはレネーゼの家憲に縛られておるからではないですかな」
レネーゼの民は斯くあるべき、と遥か昔よりこの地を収める主が、人々のあり様を望んだ美意識。それがオシエルの教育に限界を突きつけているのではないかと、美意識を受け継ぐ現主が問いかける。
「あの子たちを叱るのは私の役目と心得た上で、先生にお願い申し上げる」
決してそこを許す事はしない、と前おいてオシエルに向けられた助言。
「家憲に縛られる事なく、今あの二人に向き合った先生が考える礼儀とは何か、新たに生み出される作法とはどうあるべきか、それを私は期待しておるのです」
だから自由に。
自由に、あの子たちを導いてみてはくれないか。
今一度の猶予を、と頼みにされて引く事はできない。
何より、自分にかけられた期待の重みに胸が震えた。
生涯を投げ打って、レネーゼの名の下に礼儀作法を極める者にとっては最高の栄誉。
「それを誰も分からずとも、御館様は解っておられる」
と、師に言われ覚悟を決めた。
今一度、彼らに向き合う。

人と向き合う事は、人を通して自分に向き合うことに他ならない。

師の言葉だ。
教え子は、かつての自分だと思いなさい。
教育者として自立するお前に最後に教える事だ、と師ガンコールは言った。
それを忘れた事はない。どの立場の教え子らにも、成熟した今の自分から、未熟だったかつての自分を指導するのだ、と心がけてきた。
その経験がまるで活かせないことがあろうとは、思いもしなかった。
慢心。
己の目を曇らせるもの。
今から相対するのは、かつての自分ではない。
かつての自分から見た、今の自分自身だ。

未熟な自分は問いかける。
大人になった私は、私の希望通りの私になれているであろうか。
大人になった私の言動は、私が目指した理想を歪めていないだろうか。
大人になった私の世界は、私が私であるために存在しているだろうか。

教え子は、かつての自分。
かつての自分に恥じる事なく、教えを施せるか否かが問われる。
師匠の言葉が今やっと、この身に染む。

目の曇りは晴らされた。

そして何よりも厳しい目が判断を下す。

絆され

2019年08月15日 | ツアーズ SS
夜の海岸に、火花がちらつく。
昼間にヒロが買い込んだ手持ち花火を広げて、仲間たちがそれぞれに花火遊びに興じているのを、ミカはすぐそばの岩場に腰を下ろして眺めている。
新しい仕掛けの花火に火が着くたび、ウイが「見てー!」と楽しそうにそれを振り回して報告してくるのには、「見えてる」「危ないからやめろ」と返していたが、一通りの種類を体験してしまったのだろう、今は初めの頃の歓声も落ち着き、明るく仲間の顔を照らす花火を鑑賞しながらの普段通りのおしゃべり会になっていた。
正直、あれの何が楽しいのかわからない。
火薬に火をつけ、それが燃えるのも、火花が散るのも、一度見てしまえばただの現象だ。
火薬が燃える臭いもあまり良いとは思えなくて、ミカは、自分の分をウイにあげてしまった。
「わかった、ミカちゃんの代わりに楽しんであげるよ」とウイは言う。そして、実際自分とミカのと、二人分の歓喜を存分に楽しんで見せた。
花火は楽しいものじゃない。ただそれを楽しんでいる仲間たちと過ごす時間は、自分にとってとても楽しいものだと思う。
それをわかってくれる仲間たちだからこそ、ミカに、「良いからお前もやれ」などと強制はしない。
おかげで、ただ大人しく座っていることができるミカの隣に、ヒロが座った。
「俺さー、祭りの時とかに上げるでっかい花火しか知らなかったからさ」
それはミカも同じだ。
うん、と同意して見せれば、ヒロが「あんなちっこい花火珍しくてつい買い込んじゃったけど」と、無邪気に笑って言った。
「なんか、あれくらいなら俺でも作れそうじゃね?」
「お前はまた」
と呆れた声を出すミカに、それを聞いていたウイが笑う。
「出来る出来る、ヒロなら出来るよ」
「そう言う問題じゃねーよ、火薬の取り扱いには職人免許がいる」
「あ、そうなんだ」
「兵器になる」
「はー。なるほどなるほど」
いや中身どうなってんのかと思って分解したら火薬だけ出てきたから、なんて言うのには、こいつにはまず本格的に法律関係を教え込まないといつか何かやらかしかねないな、と危機感を抱く。
「子供か。何でもかんでも興味のままに行動するな」
「肝に銘じまっす」
口調は軽いが、こういう時のヒロの言質は信用できる。場の空気を悪くしないために、と敢えて軽い態度を取るのも解ってきた。それに苛つくかどうかはまた別の話だが。
「あ、子供といえばさ」
とヒロが座り直した。
「ミカの伯父さんに会って思ったんだけど」
こいつはまた、何を言い出すつもりか。
自分が叔父を毛嫌いしていることは言ってある。それを踏まえて、そんな悪い人じゃないからもっと打ち解けてみろ、なんて言われようものなら、たとえヒロと言えども手が出てしまうかも知れないな、と今の自分の精神状態を危惧しただけに、次の言葉には呆気にとられた。
「子供だよな、あの人」
「はあ?」
「いやー、さあ、なんか大人気ない、ってのともちょっと違うかな、ってずっと考えてたんだけど」
やってる事はうちのチビたちと一緒なんかな実は、って思って。
まあ聞いてくれ、とヒロが言うのに、花火を手にウイとミオも神妙に聞く体制に入っている。
もちろん、ミカも同様に。
「伯父さんはなんとかミカと交流しようとしてるんだろうけど、お貴族様のミカってさ、なんかこうおすましさんじゃん?」
「おすましさんだね」
ミカではなく、うんうん、と頷くウイを受けて続けられる言葉。
「ミカのすまし顔を何とかしたくて、ミカを怒らせるようなことをわざわざ言ってくるわけじゃん?」
それには、ミカも、うんうん、と頷く。
そうだよな、別に俺が悪いわけじゃないよな。あっちがわざわざ苛立たせる言動をとってるんだからな、と思っている。
「それって考えるとチビたちとあんま変わらなくてさ」
チビたちはなんとかして大人の気をひきたくて、色々仕掛けてくるわけ。
大人は一応、形だけでもそれに反応するわけ。
でもチビたちには、一応とか、形だけ、とかわかんないわけ。
と三段階に区切っておいて、ヒロが自分の話を聞いているほか三人を見回す。
「大きくなるとある程度わかるじゃん、気の無い返事だと、今忙しいんだな、とか機嫌悪いな、とか、そういう、空気読むっていうやつ?でもチビたちはわかんないからさ、明確な反応を欲しがるのな。で、チビたちにとって、イッチバンわかりやすい反応が、喜怒哀楽の、怒、なんだよ」
人間の感情で、相手から返ってきて一番、衝撃を受けるのが「怒」の感情だと、ヒロは言う。
「だからチビたちは、とにかくめっちゃ怒らせることやるんだと思ってるんだけど」
「ああ、だから伯父さんはミカちゃんを怒らせるってこと」
「そう、この考え方で行くと、おすましさんのミカと子供みたいな伯父さんはめっちゃ相性悪いの、もう仕方ない事だと思うんだよな」
先ほど、全面的に同意した内容とさほど変わりはないと言うのに、今度はそれに素直に頷けないミカが思いっきり渋面を見せれば、まあ待て、とヒロがあやしてくる。
「ここでミカが手に入れるべきスキルは、おーよーだと思う」
「応用?」
またそれか。
頭が硬いだと、自由さがないだの、基本しかできないだの、ウイとヒロには散々言われている事だが、それを手に入れたからと言って、相手をかわせるとは思わない。
それにヒロが手を振る。
「違う、違う、そっちの応用じゃない。鷹揚。おすましさんの、もう一つ上だと思うんだけど」
「鷹揚、ね」
「もう一つ上?」
うん、と頷いたヒロが。
「おすましさんをもうあとちょっと極めるだけで、鷹揚になると思うんだけどな」
どうだろう?とウイに同意を求めれば、なるほど!とウイが手にしていた未着火の花火を振る。
「確かに、ヒロは鷹揚、って言うか、おっとりさんで構えてるから、モエちゃんが突っかかってこないように見えるよ」
「ああ、モエか」
「モエちゃんもミカちゃんには突っかかっていくでしょ。つんつん。でもヒロはおっとりしてるから何しても怒らないって思ってて、あんまりつんつんしない感じ」
つんつんしても無駄なんだよ、と言うウイにヒロも同調する。
「そう、そこ!相手に、この方法は無駄!って思わせたら、とりあえず自分は何をしなくても、相手が勝手に対策練ってくる感じ」
ポイントはここです、とヒロが出来の悪い生徒に言い聞かせる教師風に胸を張る。
「ミカはとりあえず何もしない、相手が変わるように仕向ける、って言う戦法が有効になる」
もういい加減子供じゃないんだから叔父に対して愛想ぐらい使えるようになれ、と言う嫌味な伝言をヒロに預けたモエギと、その養父であるクルート伯爵の顔が思い浮かぶ。
あまり愉快な気持ちにはなれないが、それでも、愛想を使え、と言われるよりは数倍マシだと思えるのが不思議だ。
なるほど相手に仕向ける、と言うのは考えたことがなかった。
だが一度そう冷静になると、今度はそれを提案しているヒロの人間関係が気になる。
「鷹揚がスキルとして、お前は鷹揚を持ってるわけだ」
「うーん?まあ、俺が鷹揚、かどうか自分ではわかんねーけど」
「その鷹揚を持ってしても、村の同年代の男たちといい関係を築けているとは思えないが」
それでも鷹揚が伯父に有効だと思うか?と言うミカの問いに、ヒロが悩む風を見せる。
「ううーん、そこな、うん、そこ言われるとな」
「逆にお前が鷹揚だからそれにイラッとされて攻撃されてるように見えるけどな」
「そおねえ、まあそうなんだろうな、って解るんだけども」
ミカは慣れたからヒロのこんな煮え切らない態度には、イラッとさせられても、攻撃的にまではならない。ここがヒロの良いところで、こんなヒロだからこそ自分に付き合ってくれるのだろうとも思っている。だがそれが村の男連中に通用していない。
「ヒロはもともと鷹揚を持ってるんだもん。そりゃ、鷹揚じゃ通用しないよ」
と、ウイが話に身を乗り出す。
どう言うことか、と二人そちらを見れば、ミオもウイを見た。
「ヒロが手に入れないといけないのは横暴だね、横暴」
わざわざ、鷹揚、に引っ掛けて横暴を持ってくるとは何事か。
「ヒロがもっと、うおー!ってなって、グワー!ってして、ガツーン!ってやったら村の人たちもびっくりするかも」
「ああ…、ミカが持ってるのな、横暴…」
「えっ、俺、横暴かよ!?」
「持ってないとでも?」
そう言われると、鷹揚のヒロからすれば自分の言動は横暴に当たるのか?と困惑する。
そこに、今までおとなしく話を聞いているだけだったミオが、えっと、と口を開いた。
「それは、ヒロくんとミカさんが入れ替わるきっかけになった話と一緒ですね」
ヒロとミカが互いの環境に対して、自分ならもっと上手くやれるけどな、と張り合っていた些細な口論。
「なるほど」
「つまり実践してみろ、と」
互いに、相手に向けて言い放った「自分ならやれる」の根拠を「鷹揚」と「横暴」でやってみればいい訳か。
と二人同時に考えて、ミカが何を言うより先に、ヒロが手を振って見せた。
「いや、無理無理無理!まず、俺が横暴を手に入れるのが無理!だって俺、横暴とか無理だからいざこざ起きないように村出たんだし」
いや別にそればっかりが理由じゃないけど!と、他の理由を上げようとして、全員の視線に負けたように、どうせ俺はヘタレですよ、と自虐に走る。
「ええ?!ヒロくんのこと、ヘタレとか思ってませんよ?!」
「ウイは思ってるけどヘタレが悪いとか思ってないよ?」
だって生き延びる知恵だもん、とウイが言う。
女子二人の言葉にヒロが「やさしいぃい」と大げさに感動しているが。
一連の流れにミカも思うところがあった。
「確かに、逃げたわけだ」
と、ミカが口を開く。
ヒロは村から逃げた。村で男たちとの競争に死力を尽くすより、逃げて自由になった。
「俺は逃げられそうもない」
自分も逃げられる道があるなら、貴族社会から逃げて自由になりたいと思っただろうか。
「ヒロは逃げた。逃げた先で、自分が戦える相手を選ぶことができる、ってことだろう?」
逃げるとはそう言うことだと思う、と言ってから、俺は、と続けるミカを全員が見守る構え。
逃げたとして、ヒロの様に行く先々で器用にやっていけるとは思えない。加えて、現実的に逃げる事が許される立場にない。この二つを踏まえて、と三人を見る。
「俺は逃げられない代わりに、戦う手段を選ぶことができる」
つまり先ほどの、鷹揚と横暴の使い分けはそれ。
「ヒロは横暴を手に入れるより、鷹揚一本で戦っていくわけだろ。俺は鷹揚を手に入れさえすれば、逃げる必要がなくなる」
手段が違うだけで、やる事は同じだ。
逃げる逃げないはその場その場で見方が変わるだけの話。
結局、人はやっている事の見た目が違うだけで、やるべきことの本質は皆同じだ。
だからヒロがヘタレであるということを自虐する必要はない。そうだよな?とウイを見れば、ウイは晴れやかに笑った。ただし。
「そうだね!ミカちゃんにしてはなかなかの応用力だね!」
と、あからさまにからかう言い方がひどい。
文句を言ってやろうかと口を開けば、ヒロに先を越された。
「あーもーだから俺ミカのこと好き!めっちゃ好き!すんげー好き!」
そこに残る二人が続く。
「わっ、私も大好きです!」
「ウイも好きー!」
三者三様のにこにこ顔を並べられては、これまでの付き合いから、その意味は嫌という程判る。
笑顔の圧力。無言の強制。
「…俺もお前らのことは好きだけどな」
「だよねー!」
「そりゃそーだよねー!」
「はっ、はい!」
あろうことか、この自分が随分この三人に絆されたものだ、と思う。
けれど、この束縛は苦痛じゃない。
絆でありながら、そこには自由しかない。
彼らの自由に後押しされて、自分は遥か高みを目指す。
目指すことができると、確信する。いつも。
「じゃあ、まずミカちゃんが鷹揚を手に入れられるように、明日から特訓だね!」
「よっしゃー!お貴族様ごっこは任せろな?俺ミカのふりできるから!」
「わ、わ、わ、私も練習台になれるように頑張りますよ!」
…不安もあるが。
あるからこそ、そこにある日々は楽しい。
自分にとって、楽しいことは意味をなさない。ただここにいることが楽しいと思える仲間がある。
それを許されている。
持つものと、持たないもの。
「ミカちゃんの自由はウイたちが持っているでしょ」と、ウイが言っていた事は正しい。
ないことが望ましいと、胸を張れる勇気。
ないものねだりでなく。
自分が持たなくても、手に入れる運命はいくらでもある。
それを指し示すように、ヒロが両手を打ち合わせた。
「よし!じゃあ決起花火しよう、決起花火!」
「…なんだそれは」
決起集会とか決起飲み会とかあるじゃん?などと言いながら、ヒロは荷物の中から一つの束を取り出す。
「最後の締めにやろうと思って取っといたやつ。ミカでも俄然燃える、俺の超おすすめ!」
ミカでも、って何だ。ミカ、でも、って。
まあ今更ヒロたちに自分のことがお見通しされていたところで不平も不満もありはしないミカではあるが。
「火がついたら終わりまで1ミリも動いたらダメな花火」
「へえ?…爆発するから?」
「え?!」
「違う違う、ちょっとでも揺らしたら火種が落ちちゃって楽しめないんだって、おっちゃんが言ってたから。忍耐と集中力と精神力がものをいう花火、…誰が一番最後まで持つか、ってのをやらねえ?」
一人に3本が行き渡って、つまりは3回勝負。
なるほど。
「わあ、やるやる!」
「やります!」
「よし!」
四人で輪になって、灯芯の入った油皿を囲む。
「せーの、で火を付けて、着いたら離れる、な」
ヒロの言葉に全員でルール確認、勝負の趣味レーションを数回繰り返しながら。
「ミカちゃんの鷹揚の決起花火だからね!鷹揚だよね、鷹揚」
「それな!鷹揚に構えて最後まで残った人が、鷹揚王者だからな?ミカはその人に習うこと」
「はあ?俺が残ったらどうすんだよ」
そんな会話にヒロとウイが笑う。
「無理無理、今のミカちゃんは鷹揚とか持ってない持ってない」
「まあ見てろって、鷹揚の王者となるべくしてなる俺の鷹揚っぷりを」
「…のやろー…、絶対残ってやる」
「わ、わー、私も負けませんよ」
四人の手が重なるように灯芯に集まり。
手にした花火の先が揺れる小さな炎に触れ。
先端は光を灯し、それぞれに離れた。
鮮やかな、光の放物線を描きながら。
ひかひかと、火花を振りまきながら。

絆し

2019年08月13日 | ツアーズ SS
(よし!!2分45秒!)
45秒になりたてでなく、46秒になる直前でもなく、真の45秒。
そんなものがあるとすれば…だが、今日の45秒は確かに45秒の真っ只中と言える…という冴えた確信があった。
モエギは極限まで意識を集中して、2分45秒でポットを取り上げ、紅茶をカップへと注ぐ。
主人の為に淹れるこの紅茶は2分47秒蒸らす、と教わっていたからポットを取り上げてからカップへと注ぐまでの2秒も考慮して45秒で蒸らし時間を切り上げてみたのだ。
(これなら文句はないだろう)
まさに完璧!という高揚感で給湯室を出たモエギは主人の待つ書斎へと向かった。
いつもどこかしらの家に招かれて接待を受けている主人には珍しく、午後はゆったりとした時間を書斎で過ごしている。
いつもなら主人に午後の紅茶を提供するのは執事のフローネストだが今日は不在だ。城下町にある医者の元へ定期検診の日なのだ。
こういった場合だけでなく、老い先短い自分がいつ不自由になっても主人には今まで通りの紅茶を、というフローネストの鉄の意志の元、モエギがそれを習うようになって1年ほど。
指導に従って主人好みの紅茶を淹れられるよう研鑽を積んできたつもりだが、いまだにフローネストから合格点をもらったことはない。
(何が違うんだか?)
何かが違うのだろうことは、わかる。
実際、主人はフローネストの淹れた紅茶と、モエギの淹れた紅茶を間違えたことはなかった。
(飲めりゃそれで良いんだけどな)
とモエギは思っているのだが、やはりこの家の養子に入っておいて紅茶の一つも満足に提供できないのはまずいだろう。
自分は、この家にあって実の息子ではない。
公に養子という対場ではあるが、それは主人との関係性においては、主従であると分かっている。
「伯爵様、入りますよ」
開け放された書斎に立ち入る直前に断り、トレイを持って中に入れば、窓際の長机にいたルガナ伯爵が手にしていた本を閉じ、「ではそちらへ行こう」と立ち上がる。
部屋の中央にある応接のローテーブルを示されて、モエギもそちらへと紅茶の用意をする。
午後の日差しが傾き始める頃、城から戻ったモエギが顔を出した時に、「紅茶を淹れて欲しいのだが」と言われてからさほど時間はかけなかったつもりだ。
それは主人であるクルートにも分かったようで。
「ずいぶん、手際よく動けるようになったな」
と言葉少なに褒めてくれるのは、素直に嬉しい。
「それはもう。フローネストさんの教育の賜物ですからね」
主人の身の回りの世話をすることに関しては厳しいフローネスト老に師事してきたのだ。
モエギが主人に褒められるという事は、すなわち、フローネストの手腕に他ならない。
それを弁えているのも、フローネストの教えだ。
決して驕ってはならない。貴族社会において主人の寵愛を一身に受ける事は身を滅ぼす。これはお前のためだ、と二人きりの時にいつも言い聞かせてくる厳格な老爺の言葉を、モエギはとても信頼していた。
「今日の紅茶は、ぜひともフローネストさんにも感想をもらいたいところなんですけど」
そう言いながら、テーブルに差し出した紅茶を勧めると、クルートは、「ほう」と興味深そうに微笑んでみせた。
「なるほど、今までになく香りがいい」
そう言ってクルートが茶葉の香りを楽しむ様子をただ待つ。
フローネストなら長年主人に仕えてきた経験から、茶の時間を所望する主人の気分に適切な茶葉を選ぶこともできるだろうが、モエギにはまだそこまでの技量はない。無難な茶葉を選んだのはやや逃げに走ったかな、とも自省するだけに、クルートが香りを気に入ったというなら、まずは合格点だろうか。
そう考えていると、「お前も確かめてみなさい」とクルートが向かいの席を勧めてきて、モエギは素直にそれに従った。
主人用と、自分用と。
自分のカップを取り上げて香りを確かめる。正直なところ、茶葉を蒸らす時間で変わるほどの香りの繊細さが分かるわけではない。
だからモエギはなるべく正確に、「これが主人の好みだ」と淹れられた紅茶の全てを数値化して、ギリギリまでその数字を追求しているだけのこと。あとは日によっての誤差。それもほんのわずかな。
…そう、今日の45秒のように。
だから、どうだね?とクルートに尋ねられても、何かしら自分の感想があるわけではない。
「…可もなく不可もなく、って感じですね」
とびきり良いとも、とびきり悪いとも思わない。
そう答えれば、クルートが笑う。
お前は正直だね、と言われて、モエギはカップをソーサーに戻した。
「伯爵様は?どうです?何か、違うってわかります?」
ここにフローネストがいれば即座に叱られているような事を聞いている自覚はあったが、今彼はいない。
そしてクルートは大概、自分で従者を叱りつけたりはしない。
少なくともモエギが彼の養子になって今まで、そんなところを見た事はなかった。
「そうだな。初めの頃と比べると、随分と良くなった」
「ええー、そんな…、茶葉も見分けられない昔と比べられてもな…」
そこは当たり前というか。いや、今でも大雑把にしか見分けがつかないが。少なくとも昔よりは銘柄も産地も頭に入っている。
「フローネストに感想をもらいたいほどの自信があるんだろう?」
「それはそうですけど。ただの自己満足かどうかを知りたいっていうか」
「明日も同じに淹れられるかい?」
「え、それは、…ちょっと無理、かな」
「ではそれが答えだ」
うーん。掴み所がないな、とモエギはクルートの言葉に不満を感じたが。
「あ、そうだ。点数。点数をください。フローネストさんの淹れたお茶が100点として」
モエギの淹れた紅茶を手に、ゆったりと背もたれに身を任せているクルートが可笑しそうに笑う。モエギの言葉を、そうやって軽くいなして、不遜を楽しんでいる。
彼が機嫌の悪い所を見せるのはモエギにではない。
「そうだな。では、80点、というところか」
「80、点」
掴み所のない主人の満足度を、わかりやすく数値化して、ますますわからなくなった。
80がいい点数か、悪い点数か。それはモエギの側とクルートの側と、見る方によっていくらでも評価を変えるだろう。
そう困惑する自分を持て余しているようなモエギの反応に、クルートが身を起こして、カップをソーサーに戻した。
「お前の現時点での最高点が80点。後の20点は、フローネストが今までこの屋敷に仕えてきた時間が積み上げた20点だ」
どうあってもモエギには太刀打ちできないものだ、とでも言うように。
おそらくフローネストも同じように言うだろう、と続けられて、モエギはがっかりする。
「はあ、そうですか」
「おや。最高点だと言ってあげたのに、不満かい?」
何が不満かと尋ねられて、モエギは自分の中にある正体不明の感情を探る。
努力している。フローネストにも、クルートにも、満足な自分を提供できるように、それはもう毎日努力しているつもりではあるが。
紅茶一つで、その努力を可視化しようとした自分の真意はどこにあったか。
点数で己の努力を計り、それが一つの区切りになると期待したのに、芳しくない結果に失望する。
結局。
「結局、褒められたいだけだったかな、って」
子供のような単純な欲望が見えただけで、期待したものは得られなかった。
そんな胸の内を晒せば、クルートは静かに微笑む。
「欲深いのは良い事だ」
私は嫌いではないよ、と言われてモエギが目をあげると同時に、お前のそう言うところがね、とクルートが続けた。
「そうでなくては、養子になどしなかっただろう」
それはいつもクルートがモエギにかける価値。
その価値があるからモエギはここに居られるという現実。
「その現実を守り抜くために、常に努力を怠らず、すべてに対して貪欲であれ。いつもお前に言ってきた事だ」
「はい」
「努力に終わりが欲しいかい?」
率直にそう尋ねられて、心はすぐさま反発を見せる。
「いえ、そういうのじゃなくて」
今の生活に疲れたとか、努力は無駄らしいとか、そういった感情はない。
なぜなら、クルートに迎え入れられて今日まで、モエギの努力に対する褒賞は常に十分すぎるほどに与えられてきた。
これ以上何を望むのかと問われても、すぐに答えを導き出すことは難しいだろうほどに。
「良いね。さらに努力を重ねられる何かが満ち足りないとでも?」
「さらに?」
「努力に終わりなどこない」
そう言い切ったクルートは正面からモエギを見据える。
「私はね、モエギ。お前と、レネーゼの後継者が手を組み、この家を乗っ取ろうとしているのだとしても一向に構わない」
「……」
静かな。しかし、確かな。
突然の衝撃。
クルートが何を言い出したのか、咄嗟にはわからなかったほどの。
「ええっ?!」
「そう驚くことかい?」
「驚きますよ!そんなこと、考えたこともない」
これは。
先日に、城でミカヅキと会っていたモエギの身辺を疑われているのか。
あの一件ならば、確かに、クルートに対してやましいことはあるのだ。
何らかの事故で幼馴染が、レネーゼの後継者の姿に成り代わった。その事を、モエギはクルートに秘めている。
これが他の人間なら即座に利用し、その利用価値をクルートに報告しているところだが、自分はどうにもあの幼馴染に弱い。
あの呑気な幼馴染が陰謀だの秘計だのに巻き込まれているのを見るのはあまり良い気がしないものだ。
たったそれだけのつまらない感情から、主人に対して秘め事を一つ抱える羽目になるとは。幼馴染の存在も、その秘め事を軽く扱えるだろうと考えた自分も、こうなっては呪わしい。
身の潔白を示せ、と主人に刃を突き立てられて身動きが取れなくなるほど、自分は甘かった。
それをどう覆せば良いか、と思考するモエギを押しとどめたもの。
それもまた、クルートの言葉。
「お前はまだ私を解っていないね」
そう言ったクルートの声音は、いつになく、優しかった。
それに困惑する。
いつもだいたい本心など悟らせないような完璧な微笑みを面に貼り付け、はるか高みから人々の動向を見下ろしては全くの無関心でいるのが、クルート・ルガナという貴族の有様ではなかったか。
「…伯爵様のことはあんまり解ったと思ったことはないですけど」
そんな困惑がこぼれたモエギの素直な言葉に、クルートが失笑する。
「おや、そうだったか。それは失礼」
楽しそうにひとしきり笑って見せてから、クルートは背もたれに身を預けた。
そこにはもう、モエギの知らない彼は姿を隠し、いつも通りの表情を見せる。
「私は、お前以上に貪欲なのだよ」
それは、知っている。
知っていると、思っていた。
「生きていく上で、努力の終わりは来ない。常に、全力で生きることに努める、それが人の宿命だ。野生を捨て、文明を選んだ人間の、生きるか死ぬかの戦いなのだと思っている」
野に放たれた命が常に死に脅かされるように、人もまた他者に、社会に、制度に、その命の行く末を脅かされている。
「それに安穏と身を任せているなど愚の骨頂。生きるための努力を怠るなど、醜悪の極み。」
お前もそれを知っているだろう、とクルートの言葉はモエギを脅迫する。
貧しい村で育ち、その日の暮らしも危うくして親を亡くし、親戚を頼り一人見知らぬ世界へ飛び出した。頼れるのは己だけ、その日の運命を左右するのは自分自身、そんな覚悟で生き繋いできた日々を知っている。この人は知っているのだ。だからこそモエギを拾い上げた。
「だからこそ、どんな事態も歓迎する。お前がミカヅキと手を組もうと、他の貴族に私を売ろうと、どんな手を使ってでも牙を剥くならそれを受けて立つ。それを裏切りだのと罵る気は一切ないね。お前もまた、生きるための戦いに身を投じたのだと、喝采をあげたいほどだ」
そのためにお前を育てている、とまで言われているようでモエギはその言葉にクルートの芯を見せつけられたことに気づいた。
「それではまるで」
まるで。
その先の答えを期待するようなクルートの視線。
言葉に出して良いのだ、と促す無言。
モエギは一呼吸ごとにクルートの思惑に吸収されるように身を乗り出していた。
「俺に殺されたがっているみたいに」
満足の笑みをたたえて。
「聞こえますけど」
モエギの言葉を受け止めたクルートが、狂喜に満ちたように見えた瞬間。
「まだまだ、お前程度にやられるとは思っていないがね」
と、穏やかに言葉を吐き出した。
その穏やかさは、確かにそれまでの場の空気にそぐわないものではあった。
知らず、呼吸さえも支配されていたかのような一時。
「だがそれに見合うほどに成長して欲しいと願っていることは確かだよ」
モエギは大きく息を吐き出す。
クルートの、何事もなかったかのような穏やかな様子に、一瞬の狂気は跡形もなく。
「それほどの覚悟無くして、この貴族社会で爵位を守っていられるものかね」
それほどに動じない。モエギ程度の小さな秘め事一つ、家を守る当主にとっては取るに足りないものなのだろう。
「だから、お前が誰と何を謀ろうと構わない。ミカヅキのあの変わり身も、お前の関わりがあろうとなかろうと、ただ私はそれを迎える用意がある、と言うだけだ」
「そんなに期待してもらっても、別に何もないですよ」
「ある方が良い、と言っているのに。つまらないことをいうものじゃないよ」
「…何らかの関わりは、持ちたいと思いますけど」
「まあお前は、謙虚なふりをして相当な野心家だと信じているよ」
と、紅茶のカップを手にし、「フローネストの教育の賜物とやらをね」などとからかわれては、まだまだ甘いと言われているようなものだ。
何をしても構わない、というクルートの本心は、モエギを育てるためのものでありながら、80点には到底満たないことを表している。
この家に仕える時間の積み重ねが20点。80点は最低条件。
「つまり、可もなく、不可もなく、ってことですね」
先ほどの同じセリフを、紅茶の入れ方ではなく、モエギ自身に対してのセリフとして言ってみる。
それも謙虚なふりだと思いたいね、と返され。
モエギもカップを取り上げた。
澄んだ美しい紅の色に、自身の顔が映り込み。
「だが、覚えておくんだね」
と、クルートの言葉が静かに紅に放たれる。
「主導の軸は常にお前自身が握っている事だ」
それが、何をしても構わない条件である、と言い含める。
モエギという一人の人間を手元で育て、主人にさえも牙を剥けと望むほどの執着は。
いっそ生への絶望のようにも感じられて、モエギは、紅に染まらざるを得なかった主人の境涯へと引きずり込まれていくのを感じていた。
「他人と手を組み敵対しようとも、お前が主導であるならば、それを招いたのは私自身の責任だと受け止めることもできるが」
他人にそそのかされ、己を見失い、命の主導を自ら手放すなどという最低な行為には侮蔑さえも生温い。
「お前が主導の軸を手放したと見做すその暁には、いっそ殺してくれと懇願するほどの報復措置をとる」
裏切りより、敵対より、はるかに許し難いという真意。冷酷にモエギを見据える彼に、親子の情はない。そんなものは必要ない。あるのはただ主従の絆し。
引きずり込まれた意識のそこで触れた主人の真意は、それでも、わずかもモエギを怯ませるものではなかった。
ずっと、以前より自分はそれを知っている。
生きるということは、自分以外の他者との戦いだ。
「殺してくれと懇願するくらいなら、自分でなんとかする方が楽ですね」
何を気負うでもなく、自然にそんな言葉が口をついて出ていた。
気づけば、クルートはいつも通りの微笑みを見せている。
それだからお前のことが嫌いではないよ、とつい先ほどにも聞いた言葉をあえてモエギに聞かせ。
「では、お茶をもう一杯、所望しようか」
「あ」
唐突に、この部屋の空気を現実にひきもどすクルートの言葉に、否応なく従いかけたモエギだったが。
「今度は100点の方を」と、主人の言葉は書斎の入り口の方へ向けて放たれた事に、モエギもそちらを見る。
この家を取り仕切る老執事が、ただ黙って一礼し、速やかにその場から姿を消した。


君の糸、結

2019年02月21日 | ツアーズ SS

主人が、外遊を終わらせて国に戻る。

それに従って、従者も任務を切り上げ国に戻る。自然な流れだ。

だがミカヅキはまだサリスを従者だと認めてはおらず、サリスもまだミカヅキを「我が君」と呼ぶ許しを得てはいない。

その許しを得る為に、今回サリスはミカヅキの外遊に強引に同行したのだ。

だから外遊がどういうものであるかは、サリスにとってあまり意味はなかった。ただミカヅキに従者を連れる意味を理解してもらうための第一陣であったので、

(これはこれでまあ、良しとするか)

と、内心では軽く考えていたと言っても良い。

実際、従者を伴って行動することに対して、ミカヅキの拒絶反応はサリスが考えていたより酷くはなかった。

酷かったのは、城にいる時のような完全無欠の貴公子が下品な不良少年に成り代わってしまうミカヅキの在りようだ。

教師がこぞって絶賛するミカヅキの完璧な所作は優雅な服とともに脱ぎ捨ててしまったのか、はたまた、目の前の彼は見た目が同じだけの別人で実は城には本物の彼がいるのではないかと疑ったほどだ。

だがその不良少年が今までの旅装を脱ぎ捨て、後継者としての服装へ身なりを整えただけで、周囲が感嘆するほどの品位を見せつけ馬車に乗り込んでくるのを目にして今、頭痛に目眩さえも覚えるサリスである。

(この人の言動の切り替えはどうなってるんだ)

「なんだ、具合でも悪いのか」

「…いえ、別に」

なんでもありません、とサリスが返事をすれば、向かいに座ったミカヅキはそれを確かめるようにサリスを見て、一人納得して窓の外に合図を送る。

冒険者である旅の仲間を残して、レネーゼ領へと馬車が走り出す。

「まずレネーゼ家、なんですか?」

サリスとしては、旅の行程を終了させてミカヅキと別れ、オットリーの家へ報告をしてから、日を改めて対外交の部署とレネーゼ侯爵家にご機嫌うかがいに参上するつもりだったのだが。

ミカヅキは、家に戻るからお前も来い、と言った。

「対外交に出向く必要はないだろう。上からの指示だった訳でなく、単に書記官の一人がその場の提案をしただけだ」

「それはまあ、そうなんですが」

対外交でアルコーネ公爵が顔を見せた以上、そういうわけにも行かないのでは、と思ったがミカヅキはそれを意に介していないようだ。

「あの方は大体いつもあんな感じだ。用もないのに出てくる」

公爵に対してこの言い様!!と、咄嗟に反応を返せないでいると、ミカヅキの話は先に進んでしまう。

「俺がオットリー家に顔を出した方がいいなら、この後に同行するが」

と言われて、内容が内容だけにこっちには即座に反応できた。

 「とんでもない!!ミカヅキ様に足を運んでいだだこうとか、そこまで思い上がっていませんよ!!」

そうか?とミカヅキは不思議そうだが、サリスにとっては一大事である。

なんの成果もなく経過報告だけを手にして家に戻るというのに、その主人候補を連れてきたとなれば、いくら末孫に甘いと言われるオットリー侯爵でも良い顔はするまい。

「オットリーのご子息を連れ回した事に、一言断りがあった方が良いかと思ったんだが」

「いや、それは」

と言いかけ、ミカヅキの不思議そうな態度を理解した。

「俺は家を出る身、ですからね。オットリーの名を持って出るか、他家に入って名を貰うかは今の時点で決まってませんから。それほどの扱いではないんですよ」

そうだ。直系の子息とはいえ、ミカヅキと違い正当後継者ほどの格はない。次の後継が父、その後が兄。兄には今年、息子が生まれている。サリスとしては、後継者の予備としての役割はすでに無いと言ってもいい。

そう言った事情を、ミカヅキは実感できていないのだろうと思う。

そういうものか、と相槌を打つ様子も特にその辺りに興味があるようでもなかったので、話題を戻すことにする。

「それより、レネーゼ家へはどのように」

どのように話が進んでいるのか、と問いかければ、ミカヅキもあっさりその話題に移った。

「侯爵にはお時間を頂く様、先に言付けてある。お前を侯爵家のお抱えにするつもりがある事は話しておかないと駄目だろう」

だからお前も同席しろ、と何でもない事の様に言われては一瞬、理解が追いつかなかった。

レネーゼ侯爵家のお抱え、それはレネーゼ直系ではない者を専属で家に迎え入れることを言う。

「えっ?お抱え、俺を?!俺が?レネーゼの専属に??」

「レネーゼの、って言うか、俺の従者として、な」

「いやっ、それはそうでしょうけど!?」

サリスとしてもレネーゼのどことも知れぬところで一家臣として雇われるつもりはない。ミカヅキの側仕えがいいと言うのは大前提だが。

「どこでそう言う話になったんです?!」

「どこで、って…、最初から、そのつもりで旅に着いて来たんじゃないのか、お前」

それはそうだが。

それをミカヅキが認めてくれているとは思わなかった。従者志願を拒否するミカヅキを、どう説得するかというのが徹頭徹尾、サリスの課題だったはずなのだ。

いつ、どの時点で、ミカヅキの拒否網が撤廃されたのか、全くわからなかった。

「そんな素振り、微塵もなかったじゃないですか」

「俺はそのつもりだったが」

「はあ?!俺のせいですか?!」

サリスの、身を乗りださんばかりの驚愕の勢いには、ミカヅキもやや気圧された様に座席に身を寄せる。

「わかった、順を追って話す」

その一言で冷静になれた。

よく考えれば、このまま喚いていて「じゃあ取り消す」などと言われようものなら、もう二度と機会に恵まれない事は確実だ。

「お、お願いします」

揺れる馬車の座席に深く腰を落ち着ける。それを待って、ミカヅキはサリスに向き合った。

 

▪️ ▪️ ▪️ 

 

「まず今回の旅に同行を許したのは、お前に従者の真似事をさせる為じゃない」

と、ミカヅキは話し出す。

「俺が一個人として旅に出る時には従者が必要ない、と言うことを解らせる為だ」

「…それは」

それは、酷い裏切りだと思った。

少なくともサリスは、ミカヅキに従者の必要性を解くために同行する事を伝えてあるのだ。

それを了承したのはミカヅキで、この時点でサリスとミカヅキとの旅の目的は同じでなければならない。今回の事だけでなく、そうでなければ信頼関係など築けはしないはずだ。

それを非難するべきか否か、迷ったサリスをどう捉えたのか、ミカヅキは言葉を続ける。

言葉で説明するより見せた方が早いと思っての事だ、と言われてサリスは押し黙る。

確かに、出発前までミカヅキとサリスの主張は平行線だった。そして、実際、旅の間中ミカヅキはサリスの手を借りることなく、自分の身の回りの事は自分で完結させ、それに不便を見せる事はなかった。

それはミカヅキの普段通りであり、普段から行動を共にすると言う冒険者らから「あまり手を出しすぎると鬱陶しがられるよ」と忠告されたので、サリスも様子見として手を出さずに見守るに留めたわけだが。

「それは良く解りましたよ」

と、かろうじて感情を抑え込みそう答える。

答えたサリスに、ミカヅキは。

「それを理解できる人間なら、お前は俺の味方になると思った」

そんな言葉を使った。

「味方?」

従者ではなく、味方、と言う真意。

「俺が従者もつけずに行動することに周囲の目がどうあるかは解っている。レネーゼの家でもそれは同じだ。昔から変わってはいない。許されているんじゃない、ただ敬遠されているだけだ」

その告白には、少なからず驚きがあった。

貴族界の通例はともかく、レネーゼ侯爵は幼い後継者に甘い、それを許している家臣たちもまた言うにあらず、というのが周囲の見方だと思っていた。少なくとも、サリスたち若い世代やミカヅキの同年代は、それが大方だ。

「それがまかり通らない時期に来ているのも、解っている。おそらく、家か、俺か、今までの均衡をどちらから崩しにかかるのか、と」

互いの手を警戒している所だろうと読んでいる、と言ったミカヅキがサリスを示す。

「そこにお前が来たわけだ」

思わぬ所から現れた伏兵、それをどちらの陣営に引き込むか。

「おっ、俺が均衡を崩す存在になる、って事ですか?!」

思わず腰を浮かせたサリスに、ミカヅキは怪訝そうに眉をひそめる。

「まさか。お前がそんな大それた存在だとは思っていない」

「…そ、うですか」

それでも味方が欲しかったのだ。

侯爵家という組織の中で、ミカヅキが欲しいと思ったもの。

「この先、身軽に外に出る旅に大仰に従者を引き連れて何かを成せるかと言われれば、滑稽な話だ。それをいちいち俺が拒否するのと、実際旅に同行したお前が口添えするのとでは、上からの見方もまるで違うだろう」

猶予は二年余り。正式に正当後継者の儀式に望めば、自由はない。ミカヅキがそう覚悟している事にも驚いたが。

周囲を敵だと認識している。思ったより厳しい環境に置かれているのか、今まで一人の自由を貫いてきたミカヅキが欲しいと思ったもの。

(それを従者というんですよ、…ミカヅキ様)

他人を拒んできたが故に置かれた状況で、自らそれに気づいたというのなら。

必要だと思った時点で、サリスをレネーゼ家に置くことを決めていたのか。

その時なんですか、と問えばミカヅキは、いや、と考える風を見せる。

「従者を育てるようにと言われて考えた事だが」

旅のきっかけとなった対外交で、思わせぶりに登場して見せたアルコーネ公爵の言葉をサリスも思い返す。

格下のサリスの目の前で「子供の遊びだ」なんだと手厳しい事を言われている様子には、居たたまれなさを感じて特にミカヅキを庇ってやる事もできなかったが。

あの一件で。

「俺に従者は必要ない。それは解りきっている。後継の儀を迎えれば、レネーゼ系列の家からこれでもかというほど優秀な従者を過剰に押し付けてくるわけだしな」

それを捌くだけで手がいっぱいだ、というのはミカヅキなりの冗談なのか。本心か。特にサリスの反応を見るでもなく、必要なのは、と視線は窓の外に流れた。

「俺が侯爵家に入った後、あいつらの動向を偏向なく俺に知らせてくれる従者が必要だと思った」

今はいい。

だが後継者として公務に縛られ、今のように自由に城と城の外との行き来ができない将来が来た時。

「あいつらを理解して、時には手を貸したり、必要な要請に応じたり、そういった俺の意思が歪められずに橋渡しができる人間は必要だ」

それに気づいた。

レネーゼ家にその人間を用意することはできない。冒険者としての彼らを、ミカヅキが扱うのと同じように親身に扱う人間はいないだろう。ミカヅキが自ら育てる意味があるとすれば、ここだ。

「それにはお前が適任かと考えた」

窓の外から視線を戻したミカヅキが、サリスに向ける期待。

「前回の夜会で見た限り、お前は交遊の幅が広いようだ。加えて、臨機応変に対応することもできる。その場を統率する意思も、積極性も申し分ない。だから、あいつらに引き合わせた」

「なっ」

ミカヅキはサリスを受け入れている。もうとっくに受け入れているのだ、と言ったのは、ミカヅキの旅の仲間だ。

サリスをよろしく頼む、と仲間に託した。

他の人には考えられないよ、と言ったのは彼女の方。この先、きっとミカちゃんは自分の家の人を連れてくる事に慎重になるよ、と。

よほど見込まれているのだ、とサリスを煽て、ミカヅキの気に入りだと有頂天にさせておいてからの、彼らの企ては何だ。自分は、そちらの方に気を回しすぎて、余りにも彼らの言葉を軽んじてしまったのか。

(いいや、彼らの存在は障害そのものであるはずだ。一国の、爵位を頂く正当後継者にとって)

この数日だけでも、ミカヅキに対する彼らの態度には嫌悪感を拭えなかった。高位にある存在を、誰よりも解っているのは自分たちだ、と主張するようなそれも、ただミカヅキを貶めるだけの悪手にしかなり得なかった。もちろん裏返せば、すべてサリス自身に降りかかってくる自尊心への、障害だ。

障害でなければ、なんだというのか。

「なぜそれを初めに話してくれなかったんですか!」

ああ、サリスをそこまで見込んでくれていたのなら。

旅を初める前に。

お前にこの役目を任せたいのだ、とただそれだけを話してくれてさえいれば。

「話していれば、何か変わったか?」

「もっと、ちゃんと、ご期待に添うことができましたよ!」

激しい後悔に苛まれて思わず口にした言葉に、違う、と冷静な自分の声がする。それを主人に求めるのは違う。解っていながら、感情では割り切れない苦さ。

「違うな」

と、頭の中の声が現実に音になり、サリスはその音が労りを含んでいる事に気づく。

失態を犯した事に俯いていた顔を上げれば、その場の空気は柔らかい。

「俺がはじめに意図を伝えていた事で、結果が変わったというなら、それは俺の期待した結果にはならない」

お前にこの役目は向いていない、と告げられるそれさえも断罪ではなかった。ミカヅキが打ち明けた事実は自分にとって厳しいものであったが、当のミカヅキはそれをまるで問題視していないのだと解った。それどころか。

「向いていない、と言われて何故落胆するのかが解らないんだが」

と言われて困惑する。

「え?ええ、と、それはやはり、主人の期待に応えれられないのいうのは従者としてあるまじき事で」

将来主人を頂く諸侯の子息たちが繰り返し繰り返し教育される事。

それは、主人となるミカヅキには施されるはずのない教育。だからか。

「主人の期待に応えるためだけに向いてない仕事を強要される方が悲惨だと思うが」

どうか?と問われて、そんな考えはなかったな、と呆気にとられた。

そんな甘い考えで主従関係が成り立つか?向いている仕事だけを任されているのは自分的には楽だろうが、それでいいか?と、初めての思考にただ唖然とするばかりのサリスに。

「それに、俺はお前に対する期待が失せたとは言ってないからな」

向いてない、と言ったんだ、と主張するミカヅキが、誤算があったとすれば俺の方だ、と続けた。

「お前の存在を余りにも軽く見過ぎていたのだと思う」と言い、自分の感覚が鈍ってしまっているのだと解るなと告白するそれ。

「お前の処遇がどうあろうとも、やはりオットリー家の子息で、その身分というものに生かされている以上は、例えあいつらであっても粗雑に接していい人間ではない。それは上には勿論、下の人間に対しても侮蔑になる」

何よりあいつらがお前を軽く扱う事に不快感がある、と言い切ったミカヅキは、生まれながらの爵位の後継者だった。

城から出て自由を求め、上下のない庶民の子等と馴れ合い、それを快くは思っていない上の方々からは「とっとと呼び戻せ!」と、道を見誤っているかのような扱いを受けているミカヅキは。その本分を見失ってはいない。

(俺たちが引き戻す必要もない)

まさかミカヅキがそこまで踏み込んで自分の事を考えてくれるとは思わなかった。

ただただ自分は旅に同行し、ミカヅキの気に入られるために下に媚びて無難にやり過ごせばいい事だろうと高を括っていたと言うのに。

「お前も不快な思いをしただろうが」

と切り出されて、慌てて居住まいを正す。主人格に頭を下げさせるわけにはいかない。

「いえ!あの、俺の方こそ、そこまで考えが至らず」

「そうだな、考えなしに強引に着いてくるって言ったのお前の方だからな。俺からあいつらの態度に関しては謝らねえけどな」

そこは手厳しい。いや全くミカヅキの言う通りそこはサリスの自業自得なのだが。

厳しさと優しさの根底が同じだ。それは純粋に、ミカヅキという人柄を信じられると思ったと同時に。

「お前が軽く扱われているのが不快だ、と思うのと、お前が俺に言う事も同じなのだと気づくことができた」

「あ」

「ならばやはりこれは、自分たち以外に見せるべき部分ではないのだろう」

冒険者として、後継者が外へ出て行く事。それに対する貴族界の総意も、実感として掴んだという。

(そこを解ってもらえたか!)

そこを簡単に乗り越えられるものなら、この先、ミカヅキの抱える難題はきっと話して聞かせれば解ってもらえるだろう。

結果的に、そして総合的に、この旅は有意義なものであったと伝えて、サリスを否定しない。その姿勢を見せるミカヅキは主人として十分な素質を備えていると希望が見えた。

「だから、ここの部分は保留だ」

将来的に、ミカヅキと冒険者の彼らの橋渡しをする役目を負う者。

そこにいるべき人間の選出は今はまだ置いておく、というミカヅキにサリスは同調してみせる。上からの指示は「引き離せ」という方向ではあるものの、ミカヅキのこの様子であれば強攻策に出るよりは、ミカヅキが自ら距離を置く流れを期待した方が良い。ミカヅキは本分を見失ってはいない。

そう確信して、サリスは希望を見る。

 

▪️ ▪️ ▪️

 

「そういうわけで、宙に浮いたお前の処遇を考えてみた」

「あ、はい!」

お前は期待した役目には向いていない、と良い、向いていない役目を任せる気は無いというミカヅキの主義。

従者ではなく、味方が欲しいと言ったミカヅキの趣意。

「職ならどこへでも行ける。オットリーの名があればどこでも高待遇で迎えてくれるだろう。最悪オットリー家の世話にもなれる立場で、あえて今まで交遊のなかった俺の下に就きたいと志願するのはどういうことか」

「あー…」

「懇意にしているスワロウ家でなく、あえてレネーゼ家だ。だとすれば、レネーゼの名が欲しいのだと思う。名が欲しい場合は大概政が関わってくるものだが、そんな野心家には見えないしな。むしろ、気の良い仲間と争うことなく平穏に過ごしていたい人物だと見た」

サリスの処遇、を考える前に、サリスの志願の動機を考えたらしい。

当たらずとも遠からずで苦笑いしかできない。

「そ、そうですね、ええ、その通りで」

「なら、根回しだな。俺なら正当後継者の中でも年少で、手懐けやすい。今まで供の一人もいない、従者という空きもある。上からの後押しも楽にいただけるだろうしな」

そこに潜り込んでおいてスワロウ家あたりから繋がりを作っておけと命令されたか、とサリスの動機を不安材料としていいものかどうかを確かめている。

その不穏さには、全力否定だ。

「まさか!違いますよ!命令なんかじゃなく!俺個人で動いてるんですよ!」

ていうか俺個人しか動いてないんですよ、と考えて情けなくなる。

交友関係の幅は広くとも、貴族界の将来に確たる展望を抱いて上昇志向を持つ者がいない。陰謀だろうと策略だとろうと、何かしらあった方がまだましだったかもしれない、と憂えるほど呑気だ。実際、そんな陰が生まれればそれはそれでサリスを煩わせただろうが。

「いないんですよねー…」

と苦笑さえも生まれない返答に、ミカヅキの呆れたような声。

「道楽者の、起爆剤にでもなるつもりか。もの好きだな」

「ええ?なんでそれを分かっちゃうんです!?」

 他人に興味がなさそうなのに、意外とサリスの事を見られているようで焦る。

それにミカヅキは、薄く笑った。

「なんだ読み通りか。人のことを単純だという割にお前も、単純だったな」

それは、従者志願にレネーゼを訪れたサリスがとった挑発。

ミカヅキに相手をされそうもないので、まずは自分に興味を持たせるためにと考えたシナリオの一手。その挑発を根に持ってのことか。

(意外と執念深かったり?)

と、この時のサリスはまだミカヅキという人物を把握しきれていなかったが。

彼の専属従者となった後のサリスなら、執念深いのではなく、子供っぽいのだと判断しただろう。時折見せる不完全なそれは、実際の年齢よりも幼く、拙い。

それはミカヅキが今まで同年代の子供たちとほとんど交流をしてこなかったことの現れか。子供らしい振る舞いをどこかに押し込め、大人たちばかりに混じって後継者として生きてきただけの彼が、時折渇望するもの。

それがあの冒険者らからのみ与えられる現状だとすれば、「彼らとの交流を継続させるべき」と判断した老侯爵の意思を汲み取って、彼らの存在を許すことも出来るのだが。

それはまだ後の話。今のサリスでは、ミカヅキを理解しようと努めるのに精一杯。

「いやでもその、レネーゼの名前の皮を被ろうとか、そういう不遜な動機ではなくて」

「別に不遜でも不敬でも不届きでも、俺は一向に構わないんだけどな」

「ええ?」

「むしろ、レネーゼの名前を利用してやる、くらいの意気込みでいてくれた方がいい」

俺は味方が欲しい、と再度繰り返される。

「従者は要らない、味方が欲しい。そのためにお前を利用する気満々だ。聖人君子並みに清い動機でそばに居られると却って扱いにくいだろ」

それに。

「山ほど従者を押し付けられるんだぞ。それも各家から。思惑も目的も派閥闘争も渦巻いてる所に、お前一人が安穏と過ごせると思うなよ?他の家を出し抜いて、俺の第一側近にのし上がる、と周囲に宣言するくらいでないと従者として迎え入れる気は無いからな」

(ひええええっ)

「いや、それは、待ってください!第一側近とか、いきなり最高峰すぎますよ!せめて、側仕えの一人として」

「その程度の覚悟で腹を搔っ捌く気だったのか、お前」

返す言葉に詰まる。 

「俺の従者を志願するというなら、第一側近だ。他の地位は認めない」

数多の家から送り込まれるであろう従者候補を軒並み抜いて、後継者に並び立つ地位まで来いと言う。

それがレネーゼに名を連ねないサリスを迎え入れる条件。

「そこまでしないと、レネーゼはオットリーの名を持つお前を認めないだろうしな」

 腹を捌いてみせる方が楽か?と揶揄されても、おいそれと答えることができない。

膝に置いた自分の両の手が力任せに握られているのは、そうでもしないと膝が震えてしまいそうだったからだ。

(大変なことを言ってしまった)

ミカヅキに対面した時に、作戦とはいえ挑発した言葉が今更サリスの命を狙う。

後継者としての立場を軽んじるな、とミカヅキに向けた言葉は、今まさにサリスに返ってその身を突き刺すも同然の刃。

引くか、受け入れるか、二つに一つだ。

従者としてその覚悟を疑われる事あらば、腹を掻っ捌き、絶対服従の証を立てよ。

幼少からサリスを可愛がってくれた爺やが、事あるごとに聞かせてはサリスを面白がらせていた言葉だ。それは知らず知らずのうちに、自分の血となり肉となっている。

嫌でも身に染み付いたそれを思えば、まさか腹を搔っ捌く方が楽だと思う日が来るとは思わなかった。

これが後継者か。

家を継ぐということの重みは、サリスには一生縁のないものだ。だからこそ、家を継がなくてはならない親友の愚痴にも付き合えた。互いに立場が違う者同士、相手に同情していながら、その内実を真剣に考えたことなどなかったのかもしれない。

(自分の甘さは十分、解っていたつもりだった、けど)

レネーゼ領へ向かう馬車は走り続けている。侯爵位へサリスの処遇を決めたことを伝えに行くための馬車だ。

だからこそ、サリスの答え一つで、ミカヅキは馬車を止めるだろう。

それなのに、目の前にいる彼は答えを急かしてはこない。急かさない理由があるとすれば。

ミカはもうとっくにサリス様を受け入れているんだよ。

そう言った彼らの顔がちらつく。格下の彼らに面と向かえば素直に受け入れられなかった言葉。

つい先ほどに、彼らの言を聞き入れなかったことで味わった後悔は苦かったはずだ。それをまたここで繰り返して良いのか。

誇りよりも大事なものがあると思ったのは、わずかな希望だった。

「わかりました」

サリスは顔を上げる。

主人となる人に、真っ向から自分をさらけ出す。

「ミカヅキ様の第一側近を志願させていただきます」

「うん」

それだけ。

たったそれだけの反応。それこそが、自分は受け入れられていることの証であるというのに。

「それだけですか?!」

サリスは思わず身を乗り出す。

「なんかもっとこうないんですか?すっごい手に汗握りましたよ俺!!」

思っていた以上に重圧を感じていたのか、あまりにもあっけなく終わったばかりに身も心も浮つく。

自分は、ミカヅキの従者となる。

「なんか、ってなんだよ?」

「いやそれは俺も解らないですけど!俺なんかが第一側近に名乗り上げるって、相当おこがましいですからね?!」

「そのための二年だろ」

ミカヅキの真意は窺い知れない。ただ淡々と、サリスの宣言を聞く前と変わらず、言葉をつなぐ。

「二年で、お前を第一側近に押し上げるために俺も準備は整えるつもりだ」

「準備、って」

主人が従者の地位向上に手を貸すという。これは、はたから見ればどうだ?遊びか?

身を乗り出していた体勢が、がく、と背もたれに崩れた。

「例えば、レネーゼの外との交遊」

「外」

「お前言っただろ、夜会で。多くの家と交流しろ、って。あれを盛大に仕掛ける。今までレネーゼのどの家も口出しできなかった部分だ。お前が多くを働きかけて成果が上がったとなれば、多少は褒賞の嵩上げになるだろ」

名門地位上下いかんに関わらずありとあらゆる家と交流してやろうじゃないか、とミカヅキは笑う。

「そこは協力してやるから地ならしをしておけ。末端まで取りこぼすことなく、円滑に交遊できるように根回しに勤しめよ」

そこに期待しているからな、と念を押されて思い至る。

「レネーゼの名を」

「存分に使え。お前が志願した動機とやらに利用されてやる」

将来。

必ず訪れる、ミカヅキ世代が政の中心となる将来に、仲間たちが誰も落ちこぼれることなく関われるようにという願い。

親友である彼が、同等の爵位を頂くミカヅキに、見劣りすることなく引けをとる事なく対等に渡り合えるようにという願い。

サリスの子供じみた願いには耳を貸さず、それでも「利用されてやる」などという愛敬を見せることのできるミカヅキには敬服するしかない。

「そういう意味ではお前は城勤め向きだな。俺が育てるにしては完成度が高すぎる。むしろ、俺の方がお前から教わる部分の方が多いんだろうと思う」

「いや、まさかそんな」

「俺に謙遜は無意味だぞ。自分の価値を高めるためには、俺さえも利用しろ。そうでもしないとレネーゼに居場所は確保できないと思え」

「居場所」

「俺が外に出ている間にも仕事を任せろと言ったよな」

お望み通り任せてやる、という事だ。上にも下にも、ミカヅキが後継者として円滑に交流できるだけの地盤を築く。

旅の間の不在を埋めるだけの働きを期待されている。

それはいつかの夜会でも話題に上がったミカヅキの展望だ。

「あの時、はっきり俺に指令をくれませんでしたよね」

皆に事前に言い聞かせるようには言われたが、その後に人脈を作るための指示はなかった。サリスを使う気は無かった、という事から考えても、ミカヅキの気が変わった事は何か意味があるのか。

「あの時は、お前を孤立させるだけだと思ったからな」

「あ、ああ」

そうだ。ミカヅキはこう見えて、思ったより情が深いのだった。

他人と付き合わない、他人に心を開かない。それが、サリスを含め周囲が思い描いていた人物像。

空気を読まず、他者の立場を慮る事なく自由に発言しては、その場を急冷凍の惨状に落としれる悪の申し子。と言ったのは誰だったか。

ミカヅキと行動を共にしてサリスもその異名に納得せざるを得なかったこの数日。

「お前が孤立したら、俺は誰を頼れば良いんだよ?」

「……」

もっと頼れと言ったの、お前だぞ。と大真面目に言われて、情が深いという決めつけは早計か、とサリスが返答に困って見せれば。

微妙は雰囲気を感じたか、少し何かを考えるように視線を傾げたミカヅキが、お爺様が、と小さく呟いた。

レネーゼ侯爵が、ではなく。

お爺様が、というのを初めて聞いた気がする。そしてそれは、思った以上にミカヅキの感情を露わにしていた。

「人を束ねるという事は頼りない糸を束ねる事と同じだ、と」

サリスもその繊細さに触れて、ただそっと息を潜めた。

ミカヅキが現レネーゼ侯爵に、常々言い聞かせられているという言葉。

それが、レネーゼ領へ向けて走る馬車の中で語られる。

(糸を、束ねる)

細く繊細な糸を、一本一本、自分の意に美しく添わせ整えるように束ねていく。

細さも強度も色も全く異なるそれらを、集め、束ねる。意のままに。

意のままに束ねようと、どれほどの努力と研鑽があっての事でも、初めには頼りなく、中ほどでは緩みと張りが妄りに繰り返され、後ほどにはもう解けないほどの束になる。

それがレネーゼの在りようだ、とミカヅキは言う。

子供の頃に。何度もなんども、想像の中で糸を束ねては解き、束ねては解き、それを自分の責務だと思い描いてきたのだろう。

(この人は真面目すぎる)

あまりにも真面目すぎるのだと解った。

夜会の席でミカヅキに伴われて上の方々への挨拶回りでも、特にミカヅキの親戚筋からは「真面目すぎるので多少は羽目をはずす方がいい」「もっと遊びを教えてやってくれ」などとからかわれている姿は見ていたが。

(あれは冗談でなく、あの方達の本音だったのかもしれないな)

真面目過ぎて、老侯爵からの「子供に解りやすいように」と加減をした例え話にさえも、一糸乱れぬ統率を思い描き一人疲弊していたのだとすれば、従者を持つ事を忌避するようになるのも理解できる。

それに何を言ってやれば良いのか。サリスの逡巡は轍に押し込められるかの様だ。

何万という家臣を束ね、 束ねたものが太くなればなるほど中の様子は伺い知れず、繊細さも美しさも、ありのままの形を保つことさえもなく、ただただ一つの束となって、主の手に握られる。

握られたその重みを、誰に言われることもなく知る。 

レネーゼの名の下に、家臣は束となり、領土を、領民をつなぎとめる命綱となるのだ。

「俺の、その最初の一本がお前だ」

その言葉が、胸を貫く。

覚悟を受け取った、と言ったミカヅキの、サリスへの答えがそれだった。

ミカヅキの意に添い、多くの糸をその手に委ねるための始まりの一糸。

「必ず」

震えたのは、声か。心か。

「必ず、ご期待に応えてみせます、我が君」

「うん」

反してなんの感情も見せず、ただ頷いたミカヅキの抱える重圧は計り知れない。

それでも自分は、その将来を共に担うことに恐れを抱いてはいない。

多くの命綱を握る主としては繊細すぎる彼が、慎重に慎重を重ねギリギリまで時をかけて吟味した一糸。

糸の先は、固く結ばれている。

 

そのはずだ。


君の糸

2018年11月21日 | ツアーズ SS

スワルツ・サリス・オットリー。

オットリー侯爵の祖父を持ち、次期後継者である父とその長子である兄に、「お前は侯爵家の一員としての覇気が足りない」と、常日頃から責めたてられながらも、一切口答えせず、道も踏み外さず、心優しく育った21歳の好青年である。

…と、自分では思っているがしかし「好青年」は果たして相手に好印象をもたらす特徴になり得るであろうか、というのが最近の不安材料だ。

特に今日は。

今日だけは好印象を爆上げで臨みたい会見である。

レネーゼ侯爵家の来客室で一人、会見の相手の到着を待ちながら深呼吸を一つ。

それに驚いたわけもないだろうが、窓の外で鳥が飛び立つ気配がした。

そちらに目をやり、所在なげなソファーから立ち上がったサリスは窓辺へ歩み寄って、そこからの景色に想いを寄せる。

明るく手入れの行き届いた庭は偶然にも、あの日、レネーゼの後継者によって夜会の開かれた場所だった。

前回の月見の夜会。

レネーゼ侯爵家の正統後継者ミカヅキが、サリスらの若い世代に向けて自身を公開した庭。

それまで頑なに人との交流を拒み、孤高の存在として貴族界にあった彼の内面を、その場にいたどれほどの人間が理解し得ただろうか。

(恐らくは誰も)

誰もが戸惑い、遠巻きに様子を伺う中で、サリスの目に映った人物像はそれまでの印象よりもなお一層、寂寥感に包まれていた。

(知り得ない)

その寂しさは時間が経つにすれ、度々、サリスの胸を締め付けるようになり。

(だから)

こうして、今、レネーゼ侯爵家のこの場所へとサリスを引き寄せた。

サリスがこの場で待つのは、レネーゼの正統後継者ミカヅキその人であり、彼の了承の一言である。

(その一言を頂くまで、この場を離れない)

不動の意志で相対するのは、大いなる権力の奔流。どれほど乱されようとも決して引いてはならない。

その為になら、「好青年」などと言う曖昧な印象はかなぐりすてろ。

スワルツ・サリス・オットリー、生まれて初めての奮戦に挑む。

 

 

 

◾️ ◾️ ◾️

 

 

 

侯爵家月見の夜会。

諸侯らが集い、権力の渦巻く宴が華々しく開かれているその一角で、次期当主が若い世代を集めての会を催すことは誰もが黙認していた。

事前にその情報を細部まで収集しておきながら、我々の知り得ぬところ、と嘯く。

そんな状況下にあって、その会を準備万端に整えておくように、と次期当主本人から事前に指示されたのはサリス一人。

そこに至るまでの過程は、単純な偶然の仕合わせでしかないと理解している。

特にサリスの何かが彼に選ばれたわけではなく、他に誰かが居合わせれば恐らくはその誰かがこの役目を負わされていた事くらいは、簡単に想像できる。

貧乏くじを引いたな、という思いを抱えながらも指示された通りに下準備を済ませたサリスは、約束の時間まで間があるのでその辺りをふらついていた。

いつものように遊び仲間と一緒にいるのが気詰まりだった、というのもある。

侯爵家の次期当主、ミカヅキは若い世代の誰とも交流しない事で知られた人物だ。あからさまに爪弾きにされているわけではないが、彼が輪に入るだけで場が不興になるのは、サリスたちより下の世代では誰もが知る所である。

そんなミカヅキと交流を持つべく奔走している(と言うか正確には奔走させられている、のだが)サリスの評価は、仲間内だけでなく周囲にもダダ下がりである。

余計なことをしてくれる、と言う暗黙の冷ややかさに耐えられなくて場を離れたのだが。

宴の庭で、当のミカヅキに出くわしてしまった。

(俺、この夜会ではこの人になんか妙な縁があるな)

と運命を呪ってはいても顔には出さない。

「やー、やあ!もう皆集めて、準備万端だよ」

昨夜からミカヅキ本人が望んだように、なるべく対等に、ざっくばらんに、気安く、親しげに、なるように声をかけてみたが。

ちらりとサリスを見てミカヅキは言った。

「ずいぶん早いだろ」

その態度からは、待ちきれずに早々に会にやってきた、というわけではなさそうだ。

もっと言えば、今朝のミカヅキに感じた、…根回しを頼むと持ちかけてきた時のような、少しはサリスに打ち解けてくれたと思える様子さえもない。

それはもう、余計なことをしてくれる、という仲間内の冷ややかさよりもさらに温度が低く、「そうしろって言ったの貴方ですよね?!」と言いたくなる素っ気なさだ。

「ああ、そうだな、ずいぶん、かな」

とサリスが言葉を探っていると、周囲に目をやったミカヅキが今度はちゃんと向き合うように立つ。

「先に上の方々に挨拶を済ませてくる」

「挨拶?」

「明日まで滞在の方に終宴までの心尽くしとこの度の御礼の挨拶な」

そんな事までやってるのか、この人!と、サリスは驚く。

いや、確かにミカヅキの立場でいえば正統後継者であるのだから、自分たちの父世代と同様の役目をこなしているだけの事なのだが。

サリスより5つは下のミカヅキがそれをやっているというのが衝撃的すぎた。

「ああ、じゃあ俺も行きますよ!」

「はあ?お前が?なぜ?」

「え?なぜって、ほら、…この宴、ミカヅキ殿が若い者たちを集めてるのは上の方々もすでに知ってますからね。唐突になんだ、何があった?って変な勘ぐりを持たれる前に、あ、いや別に勘ぐられてるわけじゃないですよ?!そうじゃないんですけど、なんかそういうの、まず、俺が一緒に行動している方が、なんだ和気藹々騒ぐ仲間ができたんだな、って見方もしてもらえると思うんですよね」

サリスの長々とした説得に口を挟む事なく、大人しく最後まで聞いていたミカヅキが、そうか?と小さく呟くように聞いてくるのに、そうですよ!と畳み掛ける。

それに、そうか、と答えるのは、サリスの提案を受け入れた様子。

この時はサリスにさえも、なぜここまで強引にミカヅキについて行こうとしていたのか、考えることもできなかったが。

ミカヅキの上の方々への挨拶回りに同行して、サリスは自分の行動を理解できた。

それは、貴族社会で叩き込まれた生存本能そのもの。

ミカヅキを一人にしてはならないという、無意識の行動だった。

まだ少年の域を出ていない、未成年であるミカヅキは上の世代に非常に受けがいいのは良くわかった。

年寄りの長話にも丁寧に対応し、大仰な説教や小言にも鬱陶しがる素ぶりをわずかも見せず、謙虚に慎ましい礼を返す。ミカヅキの内心を伺うことはできないがそれでも、自分や仲間たちの態度を思い返せば、ここまで徹底した礼節で上の方々と接することはできないな、と、サリスは感心を通り越して恐れさえも感じていたのだが。

何件めかの挨拶の時に、和やかに談笑を続けながらもミカヅキが二杯目のグラスを勧められているのを見て、思わず身を乗り出していた。

「ハノンヴェール様、その杯は私が頂戴します」

ミカヅキの手に渡されるはずのグラスを横から押し戴く。その場の全員が、突然割り込んできたサリスの存在に驚いたように、わずかな間があった。…ミカヅキも、同様に。

だがサリスはそれらが場を固める前に、ハノンヴェールの統治を称え繁栄を祝う言葉を述べて、その杯を飲み干して見せた。

正直、口当たりよりもはるかに強い酒だ。

成人していないミカヅキには、早すぎる。

驚いたようなミカヅキの瞳は、すぐにサリスを案じるような影を落としていた。それに笑みを返す。

何も心配する事はない、と笑みだけで返しておいてすぐにハノンヴェールの席に向き直った。

「ああ、これはハノンヴェール様が御気に入られるだけはある、特別な逸品ですね」

この宴のためにレネーゼ公爵家が用意したものではなく、彼が自ら持ち込んだものだろう、という意味合い。そういえば、ハノンヴェールがわずかに身を乗り出した。解るか、と言った彼の興味は、ミカヅキではなく初めてサリスに注がれる。

「それはもう。この宴で口にしたどの銘柄よりも明快な口当たりで、なるほど美酒とはこういうことかと」

適当に調子を合わせればハノンヴェールも、取り巻きも、面白そうにサリスの話を引き出そうとする。

サリスはほどほどに相槌を打ちながら、興が削がれないギリギリのところでグラスを返し、ミカヅキを庇う。

「けれどミカヅキ様がこの美酒の違いをわかるには、いま少し、早いですね」

今後の牽制も込めて。

引き際を見極めて。

「ミカヅキ様はようやく宴を楽しむことを覚えたところです。ハノンヴェール様のお相手になるまでは、今少し。まずは若輩者の私たちの座にお招きしたいと思っている次第で」

この後、若者たちが集う意味合いをも抜かりなく披露しておく。

それは貴族社会全体が願ってもないことだ。自ら孤立するミカヅキを、どうあってでも手中に取り込め、というのはどの諸侯の子息たちにも下された厳命だったのだから。

「おいおい大事な正統後継者に悪い遊びを教えてくれるなよ」

と、ハノンヴェールが口にした酒の席での揶揄も鷹揚さを気取っていながら、その芯にあるものは決して公にはできないミカヅキの処遇。

それを明言する。 

 「もちろん、ご心配なく」

決して悪いようには致しません、とその場を離れる時にはもう、サリスにも分かっていた。

貴族社会で数多の子息が、主人を守れと教育を受ける。それは逃れられない宿命のようなもの。望むと望まざるとにかかわらず、サリスの中にもその血が流れている。

供も付けず宴の輪の中に挑みゆくミカヅキを、このまま一人行かせてはならない、と無意識にこみ上げた衝動も、今なら解る。

「お前、大丈夫なのか」

あれからさらに二件の挨拶をこなし、ハノンヴェールの席と同じようにミカヅキに代わってグラスを重ねた。

宴の中心から離れ、人の輪から遠ざかって、その事を持ち出したミカヅキに、サリスは平然と頷いた。

「ええ、俺、酒は割と強いんですよ」

煌びやかな灯りを背に、ミカヅキと連れ立って人気のない庭園の端まで歩を進めて、ここらでいいか、とサリスはミカヅキを誘うように立ち止まった。

「座りますか?」

と、バラ園のベンチを指せば、いいや、とミカヅキが返す。

館からの宴の灯りだけを頼りに、ここまでミカヅキを連れ出したのは、何よりもミカヅキの身を案じたからである。

「ミカヅキ様こそ、だいぶ酔いが回ってるでしょう」

少し冷ました方がいい、と言えば、ようやくミカヅキはベンチに腰を下ろした。

随分と気を這っているのだと思う。まるでそうとは気取らせない、完璧な振る舞いの美しさではあるが、それも宴の光から離れればわずかに気を緩めることができるのではないかと思ってのことだった。

他人の目があれば決してわずかの弱音も吐くことのない幼い後継者、その姿を今回初めて直近に見て、こみ上げたのは庇護欲。

「ミカヅキ様…、貴方いつもああやって杯を受けてるんですか?」

「そうだが」

「断らずに?」

「断れないだろ」

うわ、マジか。と思う。

そう、ミカヅキは今まで側近を持たなかった。今の形だけとはいえ自分が初めての供だ。夜会で見るミカヅキはいつも格上で遠い存在だと思っていたから気づかなかったが、会の度に、お目通りがあるたびに進められるままに杯を重ねていたのか。

「早死にしますよ」

思わず本音が漏れたサリスに、ミカヅキが顔を上げる。

「俺だってお前にグラスを取られたときは生きた心地がしなかったぞ」

ああ、そうか。と思う。あの時、ミカヅキが驚いていたのを思い出す。上の方の不興を買う、それに対応できるかどうかとっさに身構えていたのか。

「…あれくらい、夜会では当たり前にありますよ」

「えっ、そうか?」

「そうですって。ミカヅキ様は側近も連れずに席に出るから知らないんですよ。そんな一諸侯に会うたびにガンガン酒飲まされてるなんて、向こうだって思ってませんよ!思ってないからいい加減に勧めてくるんです、適当に断って適当に受けてりゃいーんですよ、ああいうのは!」

そうして。

自然に、ミカヅキの側に膝を折っていた。

「断るときは俺が受けますから」

そのためにいるんですよ、と言えば、ミカヅキは黙って視線をそらせた。

そうだ。従者はその為にいる。貴方を守る為に、要るのだ。

ミカヅキが他人を受け入れることが出来ない弱さを抱えていようとも、拒めるものではない。

この先に進むのなら、なおのこと。

庭に灯る儚い灯篭の光に、その頼りない姿を見る。初めてミカヅキを、頼りのないただ一人の少年なのだと知った。

「…もっと俺を頼ってくれて良いですから」

思わずそう口にしていたことに、サリス自身が驚いた。

誰かの従者になるだろうこと。それ以外の道はないと、なぜか盲目的に思い込まされていたことも、小さく、ウン、という声が聞こえてたまらなくなる。

(俺は、生涯、この人を主と頂く)

その確信。

「さあ、この後の挨拶は俺にすべて任せてください。供を連れた夜会でのふるまいは俺の方が詳しいですよ」

 

 

 

◾️ ◾️ ◾️

 

 

 

その後、ミカヅキの望むままに挨拶回りを済ませた。

気分が高揚していささか調子に乗りすぎたか、挨拶に予想していた時間を大幅に超えてしまったが、ミカヅキは許してくれた。

「今日は普通に眠れそうだ」

そう言ったミカヅキの横顔は、特にサリスに打ち解けているわけでも、心を委ねてくれているわけでもなかったが、それでも良かった。

自分は役に立てた。

そして、従者を連れることは役に立つ、とミカヅキが認識してくれたことが重要だ。

後は、その従者に誰が選ばれるか、と言う事だけ。

(そのためにも、この夜会は正念場だぞ)

そう、サリスは一人覚悟して、若者たちだけを集めた夜会に挑んだ。

この際自分が選ばれなくても良い。従者としてでなくても良い、この夜会で誰かがミカヅキの気に入られれば、これまで一切の交流がなかったミカヅキの周囲が変わる。

周囲が変われば、ミカヅキもより従者を求めやすくなるだろう。

決して悪い様にはいたしません、と上の方々に大見得を切った様に、それは上手く行くものだと軽く考えていたサリスだが。

その夜、期待していた結果は得られなかった。

「みんなが思ってるほど付き合いにくい人じゃないんだって」

と数人をけしかけても、すぐに会話は途切れ輪が崩れてしまう。

ミカヅキは誰のどんな言葉も真正面から受け止める(それこそ年寄りの愚痴にさえも汚れない笑顔で対応できるほどだから問題ない)が、ミカヅキに対する人間の方に耐性がない。

話しかけては会話に詰まり無理だと分かればあっさり遠巻きにする、それが人を変え、なんども繰り返されるのを見ていて、サリスは問題はミカヅキの方にだけあるのではない、と気づいてしまった。

(俺たちは、気に入った人間としか付き合って来なかった)

仲のいい集団として、学生時代から今まで連んできた仲間たちは気のおけない奴らだが、その実、今が楽しければ良いと言うお気楽さが蔓延している。

煩わしいことを嫌い、上からの強制に不満を抱き、支配から逃げる様に楽な事ばかりを選んできた様に思う。

だからミカヅキとうまくいかない。

気が合わない人間と、いかにうまくやっていくか。

(それに向き合う覚悟が足りていない)

今日の挨拶回りでのミカヅキを見たからこそ言える。

自分たちにあれは無理だ。

まだ現実から目を背けていられる立場だから。

嫌でも向き合うしかないミカヅキとの絶対的差がそこにある。

(だからって)

その差を埋めようとすればするほど、サリスは空回りを演じてしまうのだ。

(どうすれば)

貴族社会における自分の展望を周知徹底しておいてくれ、と事前にミカヅキに言われた通り、この場に集まる人間には話した。

それだけで今までの溝が埋まるはずもなく、交流を持とうとする意思を見せる者とミカヅキとの間に立って互いの意思疎通がうまく行く様に頑張って場を盛り上げようとすればするほど、仲間との温度差が開いていく。

それを気にかけてくれたのはミカヅキただ一人。

「お前、別に俺といなくても良いんだぞ。変に仲間から浮いてるだろ、あっちいけ鬱陶しい」

口は悪いが、その意図は解る。

下準備をしろとは言ったが、会まで付き合わなくても良い、というそれ。

サリスの仲間内での立場まで、分かってくれている。今サリスがミカヅキと懇意にする事で、サリスが周囲から反発を受けることまで案じてくれているのだ。

それは、今までに従者を持たなかったミカヅキの弱みでしかない事ではあっても。

この人は分かってくれているじゃないか、という思い。それは仲間に対する恨みではない。

自分を含めての失意だ。

(俺たちは甘かった)

貴族社会で生き抜くために、ミカヅキはありとあらゆるものを総てかっさらっていく。

後に残された自分たちはどうなるか、それを誰も分かっていなかった。

いや、分かっていた者たちは先に手を打っていたのだろう。ミカヅキにかっさらわれる前に、自分たちの立ち位置を確保する。家の跡を継ぐために、あるいは主を頂くために、国に仕えるために、もっと言えば貴族社会から決別し自力で生き残るために。

(このまま取り残されて良いのか)

それを思い知らされた夜会だった。

夜の庭で、示されたただ一つの道。

それをいくら説いても、仲間には解ってもらえない日々の焦燥にサリスは覚悟を決めたのだ。

どこまでも一人、後継者という道を一人行くしかない彼の、最初の供になる。

選ばれなくても良い、などという甘えた考えは捨てた。

選ばせるのだ、自分を。

父親世代と肩を並べるために先へ先へと突き進むしかないミカヅキを引き止める。引き止めることができるのは、今は自分しかいない。

そして今が楽しければ良いという仲間たちもいずれ気づくだろう。

進むことも戻ることも、今まで自分たちが逃げていたことに向き合わなければ果たせない時がくる。

そうなった時に、ミカヅキとの橋渡しができる様に、今はミカヅキの側に身を置く。

(そう言われたのが俺だっただけだ)

あの日。

この庭で。

レネーゼ侯爵家の次期当主に、下準備をしておいてくれ、と言い渡されたこと。

あれはきっとこの為だった。

夜会で動き出した運命は、今大きく未来を見据えるための道につながっている。

ミカヅキがレネーゼ侯爵と呼ばれる日のために、今、下準備を始める。

彼を孤独のままにはさせない。

それがサリスの役目。

貴族の子息に生まれたその時から言い渡されてきた事。

主に仕え、主を守り、主のために生きよ。

そこから背けていた目を、現実に戻す。

あの夜の庭は、まぶたの裏。

木漏れ日が音を立てる風にきらめいて、その眩しさにサリスは窓の外から室内へと向きを変える。

重厚な扉がノックされ、待ち人が到着したことを告げる侍女の声。

衣服を整え、深呼吸をひとつ。

扉を開けて会見の間へと案内されるサリスの視線の先に。

主となる人がいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プー太郎が就職する覚悟を決める話だわ

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悲壮にたゆたう

2018年08月11日 | ツアーズ SS

その日、レアは偶然にも、王城でレネーゼ侯の子息ミカヅキの姿を見つけた。

偶然にも、というのは、レア自身、滅多にないことだが侯爵家の使いで単身王城を訪れていたという事と。

これまた滅多にない事に、世界の国々へと出かけて家を留守にしているはずのミカヅキが王城に立ち寄っていたという事の重なりによる。

(お声をおかけして良いものかしら)

王城という公式の場で、自分の立場とミカヅキの置かれている立場とを考える。

平民という身でありながら侯爵家の侍女という地位へと上り詰めてきたが、未だに公式の場での振る舞いには助言を必要とする事もしばしば。

特にこの場合、何か無作法があったとして上の方からお叱りを受けるのはミカヅキの方なのだ。

立派な成人であるレアのしくじりで未成年のミカヅキが叱責を負う。長くこの社会に身をおいていても、なんとも受け入れがたい慣例だ。

(侯爵家の方から正式に呼び出しは行っている事でしょうし、今私が関わらなくともミカヅキ様は家に戻られる…)

しかしとっくに呼び出しの連絡が行っていながら未だミカヅキがそれに応じていないことを考えると、単に連絡の手違いか、ミカヅキ自身の意思で応じない態度なのかは確認しておく必要があるかもしれない。

そう考えていた為にミカヅキから目を離せないでいると、ミカヅキに近づいていく人影に気付いた。

(あら、あれは)

ご友人だわ、とその微笑ましい光景に頬が緩んだ。

同じ年頃の少年と気兼ねなく雑談しているような姿は、自分が育った町で見慣れた少年たちと何も変わりはしない。

それを。

「ミカヅキ様が普通の少年であってはならぬ事です!」と、教育係であった当時の侍女頭に厳しく窘められた昔の事を同時に胸に思い描いてしまう。

それは許されない。決して許される世界に生きているのではない、と、教育係であった彼女にあれほど厳しく怒りを露わにされたのは、レアが侍女としての位について初めての事だった。

その剣幕には、そばにいた者たちに「レアが失踪してしまうのではないかと気が気では無かった」と後に打ち明けられた程だ。

(確かに震え上がった事は事実だけど)

今思い出しても、肝が冷えるのも事実だけど。

レアが侯爵家の侍女になったのは、侯爵家の為でも家の為でもない。自分の為だ。大切な人を守りたいと思い、その為の力を欲したが故なのだ。

(それを投げ出して失踪したりはしないわ)

と、幾度も言い聞かせてきた言葉を今また胸に落とし込んだ時。

レアの視界の中で、ミカヅキが振り返った。

隣にいる友人に何やら指図され、それを確認するかのような動作でこちらを向く。

とっさの事で、つい動揺し、それと分からないほどの軽い会釈を返したがミカヅキはすぐに視線を隣にいる友人に戻した。

(あら)

少し距離があるために気づかれなかったか、或いは、やはり公の場では良しとされない為になかった事にされたか、と考えていると、ミカヅキが友人と別れ、こちらへと向かって来るのが分かった。

侯爵家にいる時には考えられないほど簡素な服を着てはいるものの、その堂々たる姿は町にいる少年たちと比べられるものではない。

周囲の視線を集めながらその中心であることに僅かの疑問も持たせない存在でなければならない。

どんなに簡素な見かけでも優雅さをわずかでも損なってはいない一挙一動は、侯爵家の正当後継者として育てられた高き使命。それ以外の世界など存在しうるはずもない。そんな空気に威圧されるように、レアも知らず緊張を強いられ背筋を伸ばしていたが。

「お久しぶりです、夫人」

と、側まで来たミカヅキは単純明快な挨拶をした。

あまりにも率直なそれに拍子抜けして、レアも最低限のお辞儀をすることすら失念してしまったほど。

「ええ、月見の宴以来ですわね」

お元気そうで良かったわ、なんて口走りながら内心で焦る。

(ああビックリした、長々と登城の儀なんたらの口上でも述べられるのかと思ったわ)

前触れもなくそんな事になっていたら。

ただでさえ公式の場に馴染めない自分では、危うく失態に失態を重ねて王城中に広まってしまうだろう。

いや、王城の一広間で知人が顔をあわせるだけで、そんな格式張った口上を述べ合うことなど今の時代にはあり得ないとわかっている。

(だけど、そう思わせるほどの)

格式高い儀式での振る舞いであるかのようなミカヅキの雰囲気に飲まれたのだと思う。

いや、違う。これはミカヅキのせいではなく、普通の少年であってはならない、と言われたあの日のトラウマ。

この子供を、普通の少年と同じに見てはならない、と言う強迫観念が故の。

その動揺を、何気なくミカヅキの近況を尋ねたりしてやり過ごしているレアに気づくはずもなく。

それで、とミカヅキの口調がレアの言葉を押しとどめる。

「私を訪ねてこちらまでお越しいただいたのでしょうか」

「ええ、それが」

と事情を話し出そうとするレアを、ミカヅキが再び押しとどめる。今度は、言葉ではなく仕草で。

どうぞ、と無言で差し出された手はまだ少年のそれだが、多くの社交場で手慣れた感はあった。貴婦人を優雅に連れまわす、紳士としてのそれ。

ともすれば、自分の方がエスコートに慣れていないくらいだ、とレアは焦ってその手を取る。

「あ、ええと」

そんな大事ではないないのだが、と説明する前に、「この場を離れます」と短く告げてレアの足元を気にしてくれる。艶やかに磨かれた廊下や、洒落た作りのタイル張りの段差に気を配り、ドレスの裾捌きまで注意して、すぐそこの花園のベンチまで誘導された。

(まーすごいわーこんな事さらっとやっちゃうんだわー子供なのに紳士だわー上流階級のご子息ってみんなこうなのかしらー)

などと舞い上がっていたので、ミカヅキの意図を知れたのはベンチに腰を下ろした時。

「ここなら人の目もありますので」

と、レアの隣に座ったミカヅキの言葉に我に返り、そういえば、と今までいた場所を振り返る。

そろそろ帰ろうとしていたところでミカヅキを目にし、立ち止まった場所。

城内をめぐる入り組んだ通路が放射状にこの広間に集まってくる。豪勢な飾り付け柱や美術品がそこここに並べられ、それがあらゆる方向から視界の邪魔をする。多くを行き交う人々の視界には入りづらく、逆に忍んでいるようにも見えようものなら、有らぬ誤解を受けるだろう。ミカヅキはそれを危惧したのか。

円形の広間であるここは中央の花壇を囲うようにベンチが置かれ、視界は自然と広がり、何処からでも人の視線は自由に見渡されており、かつ人の導線の邪魔にもならない。

(そういう事なんだわ)

と辺りに目を配り、何気なく、ミカヅキといたあの町の少年を探していた。

その姿はもう何処にもなく、どうかされましたか、と隣から声がかかって、慌ててミカヅキに向き直る。

「あ、申し訳ございませんでした。まだ王城にはなれなくて」

ミカヅキの母親ほどの年齢でこれは恥ずかしい事だろう。

「だめね、配慮が足りなくて」

情けなく独り言のように口をついて出た言葉には、いえ、と短い返事ですますミカヅキ。

彼にとって、それ以上もそれ以下もないのがわかる。

(こんなところは、ミソカに似ているわ)

ミカヅキの母である女主人。彼女に長く使えていると、時折二人は重なって見える。

そう思えるのでミカヅキに苦手意識はない。むしろ今のように自分を異性として扱ってくれる分、ミカヅキの方が懇切丁寧なくらいだ。

そんな風に、今のミカヅキと同じ年だった頃の彼女の態度を思い返して比べてみては、微笑ましくなった。

「今日王城に来たのはミカヅキ様とは関係がないのですけれど」

と簡単に今日の用事を説明して、姿を見かけて声をかけようかと迷った原因を話しておく。

「お館様がミカヅキ様に言い渡すことがある、と仰っていたので」

おそらくその侯爵家からの知らせは行っているはずだが、とミカヅキを窺えば、まだ手元にはきていません、と言う。

「しばらく国を離れていました」

「あら、そうでしたの」

ならミカヅキがまだ知らなくても仕方がない。

「緊急ではない様でしたから、きっとミカヅキ様の事情を優先されたのでしょうね」

恐らくそのように指示が出ている。

ミカヅキが戻ったらことが進むよう手筈が整っているはずだ。

「それなのに私ったら」

「いいえ、夫人にお声がけいただけなかったら気づかぬまま国外へ出ているところでした」

「あら、間をおかずまた?それでは」

「いえ、知った以上は私の方で優先度合いを確認して対処します」

声をかけてもらって良かった、というミカヅキが微笑んでみせた気がした。

幼い頃から表情を変えることのない子供だった。感情をあらわにしない、それはそういう教育を受けているものだから、と分かってはいても親子間であってさえ淡々と接する上流階級のそれには未だ馴染めるものではない。

だが今のミカヅキからは、確実に親しみを込められた気がして。

「そう言っていただけて良かったわ、ミソカ様も気にかけておられたようですから」

と、つい余計な情報まで出してしまった。

「え?母上が?」

それほどの大事か、とミカヅキが身を乗り出したのに慌てる。

「あ、そうではありませんわ。いつもの親族会議の内容をお話ししておく、という事のようでしたから」

まだ成人していないミカヅキは参加できない会議だ。

だが正当後継者としてその内容を知っておくように、と老侯爵がミカヅキとの時間を設けて話し合うのはいつもの事。

「ではなぜ、母上が」

「お館様が先にミソカ様と話し合いを持たれましたの。ミカヅキ様がご不在だったから、という事ですけれど」

「代理を母上に任せてしまったのでしょうか?何かしらの決定を母上が?」

「ああ、いえいえ、決定はお館様が。その事後報告ですけど、ほら、ミソカ様は小さな事も先送りにするのがお嫌いな方ですし、単に気にされているだけなのですけれど」

「じゃあそれはすぐに戻ってあげた方が良いよねっ」

「!?」

と、突然割り込んで来た声に驚いて、レアとミカヅキは同時に背後を振り返る。

悪びれもなくベンチの後ろから二人の会話に割り込んで、ニコニコしている少女が一人。

「お」

いくら人の目があるとはいえ。

「お前なあ、堂々と人の話立ち聞するなって言ってるだろ!いつも!」

「やだなあ、知らない人の話は立ち聞きしないようになったよ?」

「なったよ、じゃねえよ!それが普通なんだよ、最低限の人としての礼儀だからな?!あ、あと師匠にも言っとけよ?」

お前らそれだから困るんだよ、と、あり得ないほどの口汚さで罵られているにもかかわらず、はあい、と機嫌よく返事した少女がレアをみる。

「ごきげんよう、レア様!」

「ごきげんよう、…ウレイ様」

思わず、勢いに押されて返事をしてしまったレアであるが。

レアにとって問題はもう突然割り込んできたこの少女の神出鬼没さではない。

ミカヅキのあり得ないほどの変貌だ。

「ごきげんようじゃねえよ、まず謝れ!」

と、少女の頭を片手で引っ掴む。それに無理やり頭を下げさせられて少女が。

「ミカちゃんが深刻そうだったので立ち聞きあそばしてしまいました!どうもごめんあそばせデスわ」

ほほほー、と上品そうに笑ってみせるそれは何処まで本気なのかは分からないものの。

ミカヅキの様子を心配して、というのはよく分かった。

「やめろ、無理にあそばすな」

「えーだってミカちゃんのお屋敷の女の人、みんなこんな話し方だしー」

真剣さが通じないかと思って、と訴えているその姿に、思わず吹き出していた。

この一連の大事件。

公人として美しく誇り高くあるはずの侯爵家の跡取りが、下町の雑多な少年らと交わった結果がこれだ。

嘆かわしい、という悲愴感が微塵もない。少なくともレアにとっては、二人のやりとりは痛快にすぎた。

(ああ、そうなんだわ)

ミカヅキが友人を紹介すると言って、以前、侯爵家に連れて来たうちの一人。そうだ、名前は確かウレイ。ここにはいないがもう一人の少女がミオ、先ほど目にした少年がヒロ。

それはレアにとっても、息子のように見守って来たミカヅキが初めて友人という存在を認めた事がただ嬉しく、忘れようはずもない名前だ。

レアの笑いが収まるまで二人が不可解そうにこちらを見ているのも、可笑しくてたまらない。

ただ一度、儀式の中で対面しただけでこんな風に言葉を交わすことなどもうないだろうと思っていたのに。

(そう、ミカヅキ様は普通の少年であってはならないから)

あってはならないと定められた運命の中で、それでもミカヅキ自らが欲し掴み取ってきたものを排除し葬り去ろうとするのは。

命運を定め、それを自在に操る残酷な神などではない。

人間だ。

「大丈夫」

だからこそ、言える。

「大丈夫ですわ。ミカヅキ様を心配して下さっている真剣さは十分、伝わりましてよ」

そう言えば、ウレイとミカヅキが顔を見合わせ。

ほらね、と笑ったウレイにミカヅキが調子にのるな、と渋面を返す。

そのとても自然な関係が、これから先もずっと続いていくだろう。ミカヅキがそれを願い、仲間がそれを望む限り、叶える力は彼らの手の中にある。

かつての自分たちがそうであったように。

(ミカヅキ様は普通の少年だわ)

何も変わらない。上流で生まれ上流で育ち、その責任を果たす為に普通の少年であってはならない、という事。

レアの教育係であったばあやの真意が今なら解る。

上流の人間である自分たちがミカヅキを惑わせ、その責任を放棄させることなどあってはならない。それはミカヅキの為にはならず、結果ミカヅキを苦しめる事にしかならない。

いずれ全ての領民の命運をその手一つで動かす地位にいる人間が、そこから降りる道など見つけてしまってはならないのだ。

(ばあや様はミカヅキ様を慈しんでおられるからだわ)

厳しい教育の中で、一切のわき目を振る事なくその頂点を目指して成長してきた彼の姿は、それを支える全ての人間たちの慈愛によってその場に立つ。

彼の立つその場が、僅かでも揺らいではならない。揺らがせてはならないという使命を追って、自分たちは頂点を支えている。

かつて、一人の公女を守りたいと思い、その力を手にするために遥か高みまで上り詰めた自分は今。

同じ様に、ミカヅキを守りたいと思い、それを実現させようとする幼い雛たちを見ている。

ミカヅキを自分たちと変わらない普通の少年だと認める存在だからこそ、自分たちと変わらない少年が到達するその高みが、恐れを抱く場所ではないと思えるだろう。

それは若さに他ならない。

これからどれほどの困難と苦境に挑むのか、具体的に考えることもできないそれも強みに変えていく若さ。

彼らが絶望し、諦めてしまうことのない様にレアが出来ることは一つ。

侯爵家の人間が出来ることは、昔から変わらずに一つ。

ミカヅキを普通の少年にしてはならない。その足元を揺らがせてはならない。

遥か高みに立つことのみを教え込まれてきたミカヅキなら、揺るがぬ地盤があるだけで、自分を追い求めてくる存在を引き上げることができるはずだ。

それを願う。

レネーゼ侯爵家の女性陣の守りは、母なる祈り。

我が子の未来だけを望み、厳しくある。

 

 

 

 

 

 

侯爵家の紋章を掲げた馬車は、王城から正当後継者を連れて戻る。

急ぎでない、とはいったが、ミカヅキはとりあえず家に戻る事になった。

屋敷に戻るレアを馬車の乗車まで見送りにきてくれた二人だったが、すぐに後から戻ります、というミカヅキに対してウレイがその背を押し込んだ。

「もー今ここに馬車があるんだから、そんなこと言わないで一緒に乗せてもらったらいーじゃない」

お堅い格式より大事なことってあるでしょー?という言葉に説得されたらしいミカヅキが、同乗させていただいてよろしいでしょうか、と聞いて来た時にはわずかな驚きがあったものの。

レアにとっても断る資格などない。主人はミカヅキだ。

ただ侯爵家へ戻る道中、ミカヅキと二人きりの馬車内で一度だけ口を開いた。

「格式より大事なものとは、何を指しておいでだったのかしら」

普段、ミカヅキが心を許している仲間と何を共有し、何処を目指しているのか。

おそらく部外者の自分には理解することもできないだろうけれど、それでも聞いてみたかったのだ。

「ああ」

と、ミカヅキが先ほどの言葉を考える様子を見せ、レアを見た。

「恐らくは、母上のことかと」

まあ、と内心で驚く。

そう言えば、直前に「ミソカ様が気にしている」ということを伝えたのだったか。

それを優先してミカヅキに戻るよう勧めた、と受け取るのは自然な事。

(初めて会見した時も、あの子たちはミソカに一切相手にされない状況だったんだわ)

そしてそれはこれからも変わらないだろう。

正当後継者の母親である彼女は、家に背くことはない。背けないのではない。背かぬ事で、ミカヅキを守っているのだ。

それは、ミカヅキにとっては厳しいものだろうと思える。

親と子としての二人の間に、レアは立ち入ることができない。

それは許されない。

(ミソカを悲しませることになる)

ミカヅキは普通の少年であってはならない、とレアがお叱りを受けた日の夜。

ミソカが泣いた。

「レアはあの子が普通でなければ幸せでないと思っているの?わたくしはそんな非情な世界にあなたを縛り付けてしまったの?わたくしが、ただ、あなたにそばにいて欲しいと思ってしまっただけで」

違う。そんなつもりじゃない。そんなつもりで言ったのじゃない、とどんなに言葉を尽くしてもミソカの涙は止まらなかった。

レアを哀れんで、それよりももっと自分を責めて、ミソカが泣いたのは学生の時とこの夜だけ。

レアは知らなかったのだ。上流社会がどんなものか。そこで育つということがどんなことなのか。多くを学び、この世界の住人になるため必死に努力を重ねても、生まれたままのレアの根底は決してミソカと同じにはなれない。

休む事なく後継者教育を詰め込まれ、大人たちの要求がどれほどの高みを指そうともそれを成し遂げ、数多の難関を次々と超えていくミカヅキの毎日を目にしていて、ふとミカヅキがとった些細な行動が、レアには愛らしく映った。その年齢にふさわしく、子供らしい単純な行動が、珍しくて可愛らしくて、つい言ってしまったのだ。

「ミカヅキ様も普通の男の子ですもの」と。

その言葉が禁忌だという感覚さえもない。知識はどれほど高められても、心からの支配にはなり得ない。感情は、心は、知識だけで導かれるものではないのだ、とあの時、レアは思い知らされた。

どれほど時を過ごしても、きっとこれだけはミソカと分かり合えない。

生まれと育ち。人を作るのは育ちと考えます、と侯爵家の礼儀の講師にも言われた事。

成人まで民間人として育った自分には、同じ期間を公人として育ったミソカには決して追いつけない部分がある、と自分を戒めてここまできたつもりだが。

「ミソカ様は、お立場上、ミカヅキ様のご友人をお認めになることができないだけですわ」

つい、そう、ミカヅキに進言する。

レアにとって唯一無二はミソカだ。ミソカがいればこそ、ミソカの子だからこそ、ミカヅキの事も我が子の様に思えるのだから。

二人の橋渡しになれれば、という、今まで封印してきた思いがここにきて溢れてしまった。

それは王城で見たミカヅキの変化があったがゆえに。

その思いをミカヅキが汲み取れるとは思っていない。今日から始めるのだ、という細やかな初手のつもりで。

それは分かります、とミカヅキが返し、この話はここで終わるはずだった。

 だが、ミカヅキは続けた。

「侯爵家でも、ほかの家にも、彼らを認められるとは考えていませんし、私自身、認めてもらわなくてもいいと思っています」

その意志は、冷えた言葉とは裏腹に、確かな熱量があった。

今までのミカヅキとは明らかに違う、遥か高み以外の一切を必要ないと言い切る様なそれではない、と感じ取ってレアは息を飲む。

続けられた言葉は、さらに温もりをもたらす。

「ただ、母上にだけは認めてもらわなくては、と思っています」

そのために、こうして急ぎ館に戻るのだ、とでもいう様な意志。

「まあ、どうして」

驚くレアに向けられたミカヅキの視線は、親を慕う子のそれだった。

「彼らが、母親に心配かけさせるものじゃない、というので」

情、というものが人を動かす。

正しき道にも、過ちの道にも、柵はなく、ただ情という流れに沿って人は動かされて、その先にあるものを見る。

彼らは、ミカヅキは、自分たちの保身のために動いたのではなかった。

ただ母親を安心させるために、その存在を認めさせるという純粋な動機に触れて、レアはそれ以上何も言うことが出来ない。

ミソカとミカヅキの間にいて何をすることも許されず耐えるしかなかった日々は、とっくに終わっていたのだと知る。

友人に支えられて成長するミカヅキが、ミソカも、その間に立たされるレアの事も、その情に巻き込んで行く。

「そういうことでしたら」

ミカヅキは知らない事。

自分の母が、学生時代に民間人と交流を持とうとした事。そして交流の先に希望を見た事、夫を亡くし子のために上流社会でただ一人嵐に立ち向かうためにその手でレアにすがったこと。

レアが民間出である事さえも耳に入れられぬ環境で育った彼には、想像さえも出来ないだろう。

「陰ながら応援させていただきますわ」

レアとミソカの間にある決して埋められぬ溝。

それさえもミカヅキが埋めてくれるのではないかという希望をみる。

それほどに成長したミカヅキは、ありがとうございます、と微笑む。

二度目のそれは、今度こそ確実に受け止めることが出来た。

レアに向けられた親愛。

そして、同じく親愛をむけられるべき相手が待つ場所へ、馬車は走る。

(待っていてミソカ。私たちが身を置く世界は決して非情なんかじゃない)

それが分かった。レアにも、今日やっと。

分かり得る希望が、今、深い深い場所へ誘われた自分たちをしっかりと結びつけようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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心もよう2

2018年05月22日 | ツアーズ SS

食後、食器の後始末を前に、ミカは葛藤していた。

野営の食事後は各自が後始末をするので問題はない。

航海中は船に立派な厨房が備わっていることもあって、ヒロとミオがそれなりに食事を作る。

ならば役割分担として、後始末はウイとミカに振り分けられるのが自然の成り行きで。

当然、その役割分担に異議があるわけでもない。

だがしかし、これはなかなか。

と、厨房で一人、やる気が一ミリグラムも湧いてこない状況に不動を貫いていると

「はーい、お待たせ―!これで全部だよ」

残りの食器を集めて運んできたウイがそれを流し場に積み重ねる。

フルコース並みの食事だったわけでもないのに、4人分ともなると結構な汚れだ。

それらを視界に入れるのも拒否反応があり、流し場から距離を取ったまま動かないでいるのをウイが不思議そうに振り返る。

「どうしたの?」

「いや、うん」

ここまで旅をしてきて、一番に自分の潔癖さが度々障害になることはもう嫌というほど解っていたつもりだったが、そしてそれを何とかねじ伏せ、その場を乗り切ってきたと思っていたが、…まだ完遂には程遠い現実に絶望感さえもある。

そんな逃げ口上を長々述べたが。

ウイには、虚勢をあっさり見抜かれるのが常。

「食器洗うの、やなんだね?」

「…うん」

端から見抜かれると解っている以上、虚勢を張ることもなく、ただ素直にそれを肯定すれば。

ウイは笑った。

「いーよいーよ、じゃあウイが洗うから、ミカちゃんは綺麗になったのを拭いて片づけたらいーよ」

いつもウイが言うことだ。出来る事は出来る人がやれば良い。ミカ自身も、そのことに反対はない。むしろその方が効率がいい。

だが、旅をしてきて仲間意識は高まり、運命共同体ともいえるような間柄での生活部分に直結する役割分担で、それは通用しないのではないかという考えが芽生えてきたのも事実だ。

「いや、待て。覚悟を決めるから」

もう少し時間をくれ、と言うミカをあっさり無視して、ウイは食器の汚れを大きな葉で拭って落とす、という作業を始めてしまった。

「そんなの、待ってたら夜が明けちゃうよ」

とからかい気味に言われては何も言えない。

確かに自分で感じている以上に拒否感があるのか、ウイを手伝おうという気にもならない。

そんなミカを、ウイが振り返る。

「ウイはねえ、ミカちゃんのそういうところは好きなんだけど」

自分の事は自分で出来るようでなければ、というのは幼いころから課されたものだ。

そして自分の意志で下町に出てきたからには、その風俗や習慣に合わせなければ、というのも当然の事なのだが。

ウイは、それを指摘する。

「本当なら、ウイとしてはそういうのは応援しないといけないのかもしれないんだけど」

今はちょっと違う気がするんだよね、と作業を続けながらミカに語り掛ける。

「出来ないことがある、ってすごく大事だと思うんだよ」

「大事?出来ない事がか?」

思わず聞き返したミカに、ウイは頷いた。

なんでも出来て、誰の助けもいらなくて、全部が完璧な人間にならなくちゃ、って構えてるのがミカちゃんだけど。

「そんな完全完璧人間だと、他人に感謝したり、他人を尊敬したりする心が育つ隙が無いよ?」

その言葉は衝撃すぎる。

「心?!心って、育てるものなのか?!ていうか育つのか?!」

「そうだよ、体と一緒だよ。体が育つみたいに、心だって育つんだよ」

「はあ?!どこにあるんだよ、心!!」

そんな…体が育つように、身長が伸びるように、体重が増えるように、「育つ」などと言われても納得できない。

育つってなんだ、育つって。

「うーん、と、心が難しかったら、精神でもいいんだけど」 

「精神だって見えねえじゃねーか!」

「あーん、えーと、…じゃあ脳」

「…脳、…脳か、うん、脳はあるな」

医学図鑑で見た。うん、ある。あれが育つ。…育つか。まあそうだな、髪が伸びるんだからまあ脳もなんかそれなりに…何か変化があってそれを育つ、と言う、…かな?

と一人で深刻に悩んでいると、ウイが笑った。

「ミカちゃんは見えるものが大事だからねー」

それはからかう響きではなく、少し困っているようにも感じられたので、言い返すことはしなかった。

黙ってウイの話に耳を傾ければ、ウイは子供に言い聞かせるように話し出す。

「ウイが汚れた食器を洗って、ミカちゃんはそれが出来ないって思ったら、代わってくれてありがとう、で良いんだよ」

それだけの事。それが感謝する心を育てるという事。

「自分では叶えられない事を叶えた人がいたら、すごいね、って称えれば良いんだよ」

それだけの事。それが尊敬する心を育てるという事。

出来ない事を卑下する前に、叶わない事で卑屈になる前に、まずは他人がいる世界を受け止めて賛美する。

世界は自分一人の物ではなく、自分は世界の一部なのだから。

「そうやって心を育てていかないと、すっごくギスギスした生きにくい人になっちゃうよ」

心を育てることを疎かにすれば、人はいつか暴走してしまう。

人は、一人ではないのだ。

「ご飯たべたり、鍛えるために運動したり、賢くなるために勉強したり、そういうのと一緒。心だってちゃんと自分で育ててあげるんだよ」

人に関わって多くの感情に揺さぶられて弱くも強くもある心、その根底にあるものを育てるのは、身体で鍛錬することと何ら変わりはないのだとウイは言う。

それは教師が言う事と同じようにも思えた。

自分を律し、自分を制する事ができるようであれ、と教育されてきた事が。

「今、ミカちゃんに必要なのは、それなんだと思うよ」

足りなかったという事か?

「俺の心が育てられていないと?」

「ミカちゃんだけじゃないよ、ヒロもミオちゃんも同じだよ」

育てられているかどうかは重要じゃないの、とウイはミカに言い聞かせる。

「今ここで、四人が一緒にいることが重要なんだよ」

自分以外の誰かがいる。誰かが手助けをしてくれる。困ったときに助けられる。助けられた事実に、心は感謝を育てる。

繰り返し繰り返し他人に感謝できる心はやがて大きく育ち、何の衒いもなく素直に他人を助ける。

「それを四人でやるんだよ」

四人で、と言って、立てた指をぐるぐる回して見せた。

「例えば勝ち負けだってそう。勝つことばっかり頑張って、勝つためだけに全力出して、勝つことしか考えない、それって凄く簡単なんだよね」

本当に難しいのは、負けることに向き合う事だ。

勝つことに費やした時間と同じだけ負けることに向き合う時間を費やすべきなのに、勝者ばかりが正しい世界では、敗者になる事から逃げて勝つことに執着する。

勝てばいい。どんな事をしても勝てばいい。敗者となる自分と向き合うのが恐ろしいからどんな手を使ってでも勝たなくてはならない。そんな風に世界が歪む。

「たぶん、ヒロが勝負事を苦手としてるのは、そういう所なんだと思うよ」

だから得意なミカちゃんと苦手なヒロが上手にぐるぐる回したらいい、とウイが言う。

それこそがヒロとミカが一緒にいる意味であり、お互いから学ぶべきところがあるはずなのだ。

「二人でできないところはミオちゃんも一緒にしたらいいし、ウイも混ざるし」

そうあるからこそ、ここに4人が必要なのだ。

まずは言葉が届き、手を繋げる相手がいる世界から、すべてが始まる。

「そうしてたら、ミカちゃんにも見えてくるよ」

心。

「……」

そう言われても、素直に納得できない。

心が見えるはずもない、という概念はそう簡単には崩せそうもない。

だが、今のミカに必要だ、というウイの話は解った気がする。

4人でいる事の意味。

貴族社会の中では体験することのできない重要な世界に身をおいて、それを助けてくれる仲間がいる意味。

出来ない事をできるようにならなくては、と一人心を無にしてできるようになったところで、得るものなど皿洗いの克服だけ。

皿洗いが必要になる未来など、ミカの生涯には不要だ。そんなものよりも目の前にある大事なものを見ろ、とウイは言うのか。

人は、一人ではない。嫌でも他人がいる。それらすべてを排除して生きていく事が出来るはずもない。

だから。

心を育てろ、と、今、指し示されている。

「わかった」

「あ、わかった?ふう、良かったー」

わざとらしく、ふう、とか言うそれは、今度はからかいの意味合いが強くて、さて何と言い返してやろうか、と思ったが。

「ありがとう」

と言ってみた。

「どういたしまして!」

とウイは笑顔を見せる。

「じゃあ出っ来るウイがテキ・パキと洗ってしまいますのでえ、後はよろしくぅ♪」

調子はずれな歌を歌うように軽く請け負いミカに背中を向けて、本格的に皿洗いの体勢に入るウイを見て、ミカは傍の椅子に腰かけた。

 従者がいれば任せてしまえば良い事。

それらを従者ではない仲間に任せてはいけないと考えていたことが、覆される。

従者ではない仲間だからこそ、任せて頼らなくてはならない時もある。それに感謝と、尊敬を忘れないで。

自分にできない事を成す人間が集まって創り上げているのが世界であるという事を忘れないで、生きていく。

それが、今のミカに必要な事だ、と言ったウイの背中に光を見た時。

「ああー…、だからなんでウイ一人にさせるかなー…」

と、厨房を除きに来たヒロがぼやくのが聞こえた。

それにウイが答える。

「ダイジョーブ!今、ウイのターンだから!」

「ええー?そうなの?」

「ウイ無双!」

「ミカのターンはいつくんの?」

「このあとすぐ!お見逃しなく!」

ああそういう事、とヒロが笑う。

世界はぐるぐる回されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

船旅が始まったころのお話

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となりあうオマケ

2018年04月24日 | ツアーズ SS

先のSS「隣り合う景色(往復)」に上手く盛り込めなかった部分です

書きなぐりのメモ状態なのでさらっと流します

 

 

■本を借りる話(ミカ視点)

中庭でのちょっとしたティータイムを終えて、今一度、先ほどの部屋に戻る。

ミオに確認すれば、借りて帰りたい本がある、という事だったのでそれを取りに行くためだ。

何冊でも好きに持ち出せば良いと言えば、ミオは三冊選んで来きた。

刺繍の本と、パッチワークの本、機織り機の本である。

刺繍とパッチワークはともかく、機織り機の本に至っては言葉につまるミカである。

「おまえ、これ…機織り機の構造の図解書だぞ?」

けっして機織り機で可愛い布やら美しい図案やらを織るための指南書ではない。

一から構造を説明し、一台組み立てるまでの設計図のようなものである。

それを言えば、解ってます解ってます、と焦ったようにミオが頷く。

私じゃなくてヒロ君に、とミオは言った。

ヒロの村では機織り機を使えるのは有数の権力者に限られており、ヒロの家族は手織りで作業するのだという話を聞かされていたのをずっと気にかけていたらしい。

「この本があればヒロ君だったら、自分で作れるんじゃないかと思いまして」

「あいつに自作させる気かよ…」

どれだけヒロに対する期待値が高いんだか、と呆れて二の句が継げない。

「私の簡単な説明だとうまく伝わらなくて…」

という話で、少なくとも以前にそれなりの話はしたらしいことがわかる。

「でもこの本なら図解とか載ってるし…、これを見ながら説明した方が解りやすいかと」

まったく同じものは作れなくても、ヒロなら仕組みさえ理解すれば適当に簡易的な織り機を作れるのではないか、というミオの主張には唸るしかない。

「む、無理でしょうか」

「まあ、やってみれば良いんじゃねーか」

自分は、創作については苦手分野だ。

ミオがどんな構想を描き、それをヒロがどうやって形にするのか、ミカには想像もつかない。

自身の分とミオの三冊、持ち出す本の題名を書きつけ、それを司書へと手渡す。

かしこまりまして、とそれを受け取った司書は、一冊の本を差し出した。

先日、街でミオが買ってきた刺繍の本である。

「こちら、検めさせていただいた所、既存の書物と内容にさほど違いはございませんでしたので」

保管している幾つかの書物と比べ、足りない内容だけを書き写し終えたので、持ち帰って構わないという。

それを受け取ってミカはミオに渡した。

「という事だから、お前の物にすればいい」

「ええーっ」

「いらないなら廃棄に回す」

「いらなくないですっ欲しいですっ」

「ん」

世界の刺繍図案、と仰々しい題名ではあるが、ほんの50頁ほどの薄い本だ。

おそらく書庫にある専門書に比べれば大した情報量でもないだろうと思っていたから、これは予想通り。

はなからミオの物になるだろうと思っていた。

「あ、ありがとう、ございます」

なんだか複雑そうにしているミオに、司書が言葉を添える。

「こちらこそ、市井で流通する書物の提供を有難うございました。専門書以外の書籍までは中々手が回りませんので、大変、役立つものでありましたよ」

「あ、そう、だったんですか」

おそらく司書の仕事を理解していないミオには、その言葉で十分だったのだろう。

受け取って良いのかどうか迷っていたようなミオが、やっと笑顔になった。

 

 

 

 

■馬車の座席の話

馬車に乗り込んで、これから城下町の方へ戻る。

馬車が動き出す前に、ミカは離れて座ろうとするミオを隣に座らせた。

先ほどのティータイムで、執事に言われたことが頭をよぎったからだ。

こういった席に慣れない婦女子は対面ではなく、隣に。という彼の提案。

おそらく、今からそう遠くない先には数々の家との見合いを設けられる事が増えていくのだろう事は解りきっている。

その為に、作法の教師から教わった通りにふるまうばかりが正しいのではなく、女性に対する扱いを見直せ、と彼が良いたいのだろうと思う。

実際、ミオはいつになく良く喋った。

街では宿の食堂で、自分たちの船では船内で、二人きりになる事があっても大抵静かに、それぞれ自分の趣味に没頭して時間を過ごす事の方が自然だと思っていたから驚いた、というのもある。

ウイやヒロといる時の様に、よどみなく、自分の村の習慣やこだわり、父の様子、家族の時間、そういったミカの知りえない話を聞かせてくれ、それに軽く相槌を打つだけで、ミオの話はどんどん広がっていったほどだ。

だから、ミオは対面にいるより隣にいる方が気が楽なのかと思い、そうさせたのだが。

中庭にいる時と違い、がちがちに固まって馬車に揺られている。いや、揺られまいと踏ん張っているのか。

「座り心地悪いのか」

城下町から出てきたときは、なにやら夢中で窓の外ばかりを見ていたミオが、真正面を向いたまま硬直しているようで、思わず声をかければ。

いえ!そういうわけでは!と、力んだ言葉が返ってくる。

居心地悪いんだな、と理解した。

「向かいが良いなら、あっちに座ってろよ」

と、辻で行き交う他の馬車待ちのために停車した隙にそう言えば、大人しくミオは向かいの席に移動して。

来た時と同じように、斜め向かいへ座り、そしてそのまま横にずれて座った。すなわちミカの対面に。

何をしているのだろうか、ただ黙ってその行動を追っていると、ミカの対面からまた斜め向かいに移動して。

「やっぱりここが良いです」

と言う。

それでようやく全部の席の座り心地を確かめていたのか、と解ったが。

「隣だとすごく仲良し、って感じがします」

馬車がまた走り出し、その揺れに足を踏ん張って、そっちは、とミカの対面の席を指す。

「なんだか果し合いをするというか、向き合うっていうのが対戦する準備っていうか」

そんな感じで、と言って。

「ここだと、無関係、って感じです」

と、それぞれの席についての感想を言うミオに、思わず絶句する。

なんだそれは。

座る位置で、そんなに関係性を細やかに分析する意味はなんなんだ。

というか、そんなに感想を呼び起こされる事か?たかが、席の、位置ひとつで!

「……」

ミカとしては、ミオがどこに座ろうとどうでも良い。ミオがどこにいようと同じで、それに対していちいち何かを思う事など一切ない。

なのにミオのそれはどういうことだ。

なんという繊細な生き物か!!という感想に尽きる。

自分とはまるで違う世界にいる生き物に遭遇したような…、そんな驚きでしかなかったのだが、ミオは違うように受け取ったらしい。

「あ!違うんです!ミカさんと仲良しが嫌だとか、無関係が良いとか、そういう事ではなくてっ」

「え?あ、…うん」

「なんか、座席ってそういう意味があるのかなあ、って思って」

ねえよ!そんな意味なんか!!

と、言いたいところをぐっと我慢する。

「不思議ですよね」

「お前がな」

というのは我慢できなかった。

「ええ?」

「俺、別にどうでも良いし…」

「えっ、そうなんですか?どこでもいっしょですか」

「…うん」

そう返せば、ミオが困ったように目線を彷徨わせる。

うーむ、しまった。また微妙な空気に突入しようとしているのか、これは。と考え、なぜ微妙な空気になるのか気づいた。

ウイとヒロがいないからだ。あの二人の介入がないから、こうしてミオと二人の会話は度々、とん挫する。

それで思った事が、一つ。

ミカは口を開いた。

「これは、いつもの座席と同じ形だ」

「え」

いつもの。4人が揃って、テーブルに着くときの、決まった席の配置だ。

「ウイがそこで」

とミオの隣を指し、俺がここで、と最後に隣を指す。

「ヒロがそこだ」

その意味を少し考えていたようなミオが、あ!本当だ!と、声を上げる。

ミオの隣はいつもウイで、対面はヒロだ。そして、ミオと自分は斜め向かいにいるのが、当たり前の光景で。

「あ、そっか、だから私ここが」

落ち着く配置なのだろう。

生きの馬車でお互いに何も言わず当然のようにそう座ったのも、実はいつもの習慣なのではないか。

「解りました、中庭でお茶をいただいた時は二人席でした!二人席だとミカさんの隣が良いんですけど」

4人席だといつもの場所が良いみたいです、と言われて、ただ頷く。

ミカにとっては、二人席だろうと4人席だろうと、別にどこの席に対しても執着もなく何ら変わりはないので、まあミオはそうなんだろうな、と言う程度。

だがミオは、その答えにたどり着いて、すっきりしているようだったが。

「あっ、だからって、いつもミカさんと無関係がいいとか思ってるわけじゃなくてっ」

「うん、それは解ったから」

「あ、そうですか」

無関係が良いと思っているわけじゃない事くらいは解る。

ミカのために訪問着を用意し、ミカのために慣れない馬車に乗って、人見知り全開で挙動不審になりながらもミカの家で半日を過ごし、今こうして帰路についているのだ。

ただミオはそういう性分なだけだろうと思う。

人との距離に繊細すぎて、自分のことがおろそかになりがちな。

「だから、好きにすれば良い」

自分は何も構わない。ミオはミオらしく、自由でいてくれて構わないのだ。

「はい」

馬車は速度を落とし、他の馬車の流れに掴まったようだ。

帰路の軽い渋滞に合わせ、人の歩くよりは少し早い程度に、窓の景色が流れる。

何気なく二人、窓の外に目をやって、同時に気づいた。

「あ、ウイちゃんと」

ヒロと師匠の姿をミカも認めたが。

あろうことか、ミオが窓の外に向かって手を振り呼びかけようとする。

「ば、かっ!それは好きにするんじゃねえ!!」

「はいいぃっ?」

馬車の中から外の人間に声をかけるなどはしたない、という事を理解しないミオは、いきなりのミカの叱責に飛び上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もったいないので作った小話はあますことなくうpする所存


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天使御一行様

 

愁(ウレイ)
…愛称はウイ

天界から落っこちた、元ウォルロ村の守護天使。
旅の目的は、天界の救出でも女神の果実集めでもなく
ただひたすら!お師匠様探し!

魔法使い
得意技は
バックダンサー呼び

 

緋色(ヒイロ)
…愛称はヒロ

身一つで放浪する、善人の皮を2枚かぶった金の亡者。
究極に節約し、どんな小銭も見逃さない筋金入りの貧乏。
旅の目的は、腕試しでも名声上げでもなく、金稼ぎ。

武闘家
得意技は
ゴッドスマッシュ

 

三日月
(ミカヅキ)
…愛称はミカ

金持ちの道楽で、優雅に各地を放浪するおぼっちゃま。
各方面で人間関係を破綻させる俺様ぶりに半勘当状態。
旅の目的は、冒険でも宝の地図でもなく、人格修行。

戦士
得意技は
ギガスラッシュ

 

美桜(ミオウ)
…愛称はミオ

冒険者とは最も遠い生態でありながら、無謀に放浪。
臆病・内向・繊細、の3拍子揃った取扱注意物件。
旅の目的は、観光でも自分探しでもなく、まず世間慣れ。

僧侶
得意技は
オオカミアタック