私が夫とつきあいだし生活を共にする中で、夫のある行動について非常に感心したところがあった。後になって考えると、それがまたモラ所以の部分なのだと思うわけだが。
夫は家でも外でも職場でも、何かおかしいとか、気に入らないという出来事があると、即行で自己主張した。それはたいてい怒りを含んだものなのだが、とにかく相手に訴え、不快感を表明するその行動力には感心させられた。
例えば、夫と私が一緒に歩いているところに、車が私達に注意もせず、目の前を左折しようとした。そんな時私は心の中で、あるいは独り言として「危ないなあ、私達が怪我でもしたらどうするの」と舌打ちするのが関の山だ。しかし夫は違った。車が左折のため徐行したとたん、車に向かって駆け寄り「危ないじゃないかっ!気を付けろっ!!」と叫んだ。私は感心した。明らかに車の不注意なのだから、危ないと感じたらきちんと伝えることが相手のためにもなるのだろう。そう思った。
ある時は、夫と喫茶店に入ったときのことだ。私達は紅茶を頼んだが、ティーカップに入れられた紅茶は見た目にも薄く、一口飲んだら色つきのお湯のようだった。こんな時、私は「紅茶専門店でもない普通の喫茶店だから仕方がない。それにしても薄いなあ…次はもう入るのやめよう」と思う。すると夫はいきなりウェイトレスを呼び「この紅茶、薄すぎるから取り替えて」と言った。私は驚いた。そうだよね。お金を取るんだから、おいしい紅茶を入れろ、ときちんと意見をいうことがお店のためなのかもしれない、なんて思った。
そして夫とのタクシー利用のとき。以前住んでいた地域のタクシーは、無愛想な運転手が多かった。ある日夫と出かけて帰りが遅くなり、駅からのバスもなくなったのでタクシーを使うことにした。乗り込みながら夫が「こんばんは」といっても運転手は無言。更に夫が「○○まで行ってくれる?」と言っても、運転手は何の返事もしなかった。私は心の中で「まったく無愛想な運転手だなあ。返事くらいしたらいいのに」と思って黙っているわけだが、その時夫の怒りは徐々に煮えたぎっていたのだ。家に近づいてきたとき、運転手が「この信号はどっち?」と聞くと、夫は突然「あっちだっ!!」「次は左だっ!!」「おまえはそれでも客商売してるつもりか~っ!!」と大声で怒鳴った。柄の悪い運転手も負けずに「何だ、われぇっ!!」と怒りだし、大げんかになった。荒れた運転と飛び交う怒声に私は逃げ場もなく縮み上がった。結局家までたどり着く前に夫が「もういい!降ろせ!!」と叫び、運転手に札を投げつけた。道々夫は怒りのオーラを発しつつ先を歩いていき、私は殺人事件にならなくてよかった~…と青ざめながらその後ろを歩いていったことがあった。しかしこれはさすがに「言い過ぎじゃないか」と思ったものだ。
そして夫が私への怒りを訴えるとき。自分がどんなに嫌な思いをしたか、気に入らなかったかを延々訴える。私はこんなことにすらある意味感心したのだ。
私は夫のように言いたくても、昔から言えなかった。レストランで出された料理に髪の毛が入っていて、本当はそのことをお店の人に訴えたいのに、それを言わずそっとどけて食べてしまう人間だった。紅茶が薄くても、黙って飲んだ。ある時は美容室に行ってカットしてもらったが、どうしても気に入らず、でもそれを言えずに家に帰り、自分で鏡を見ながら切りなおした事もあった。そんなとき夫は「美容室に行ったのに、また自分で切ってるのか?」と呆れて見ていたものだった。
ましてや、近しい人間関係において、おかしいと感じることとか怒りを表明することは私にとってタブーだった。そんなことしたら人間関係が壊れてしまうのではないかと恐れていた。親にも長い間、反論することができなかった。そして我慢し怒りを溜め込んだ。それかあきらめた。
だから他人にも私にも言いたいことを言う夫の姿は、別の意味において尊敬の対象でもあったのだ。夫は言いたいことを言い、やりたいことをやっていた。我慢するということがなかった。私は夫に「好きなように言って、好きなことを好きなようにして、あなたは本当に幸せだね」と言ったこともある。夫は「友達にもそういわれたよ~」と笑っていた。
後から考えると、夫が言いたいことを言うのは、お店のためとか相手のためを思っているのではなく、単に自分が不愉快な思いをさせられたから、自分が気に入らなかったからなのだ。自分の欲求を満足に満たしてくれない、自分を不安にさせ脅かしたことで、相手に怒りを表明するのだ。相手がどう思うかなんていうのは二の次、もしくはどうでもいいか、あえてダメージを与えることを狙っていただけだったと思う。
人間にとって不快感や不安、怒りの表明は自分を守るために必要なことだ。不合理な出来事に対して、自分が必要以上に我慢したり、見ないふりをすることは、返って自分を貶め、自分を危険に晒すことにつながる。
ただ、感じた物の伝え方や表現の仕方を工夫することは必要だろう。ただ怒りの気持ちをストレートに伝えればいいというものではないし、強烈な自己主張は、相手を攻撃し破壊してしまう。これがモラル・ハラスメントなのだろう。そして、どうしても伝わらないと思ったら、相手に理解してもらおうとすることに固執せず、距離を取ったり、危険な関係からは離れることが大切なのだろうと感じる。それが自分も、相手をも守る術なのだろう。
(あのまま夫と一緒に暮らしていたら、肉体的にも精神的にも殺すか殺されるかの世界になっていたと思いますから…コワ)
夫に『NO』と伝えることがなかなかできなかった私だが、最後の最後で言えることができてよかったと思っている。ま、夫みたいに喚いたり叫んだりせず、かなり穏やかに伝えましたがね…。
夫は家でも外でも職場でも、何かおかしいとか、気に入らないという出来事があると、即行で自己主張した。それはたいてい怒りを含んだものなのだが、とにかく相手に訴え、不快感を表明するその行動力には感心させられた。
例えば、夫と私が一緒に歩いているところに、車が私達に注意もせず、目の前を左折しようとした。そんな時私は心の中で、あるいは独り言として「危ないなあ、私達が怪我でもしたらどうするの」と舌打ちするのが関の山だ。しかし夫は違った。車が左折のため徐行したとたん、車に向かって駆け寄り「危ないじゃないかっ!気を付けろっ!!」と叫んだ。私は感心した。明らかに車の不注意なのだから、危ないと感じたらきちんと伝えることが相手のためにもなるのだろう。そう思った。
ある時は、夫と喫茶店に入ったときのことだ。私達は紅茶を頼んだが、ティーカップに入れられた紅茶は見た目にも薄く、一口飲んだら色つきのお湯のようだった。こんな時、私は「紅茶専門店でもない普通の喫茶店だから仕方がない。それにしても薄いなあ…次はもう入るのやめよう」と思う。すると夫はいきなりウェイトレスを呼び「この紅茶、薄すぎるから取り替えて」と言った。私は驚いた。そうだよね。お金を取るんだから、おいしい紅茶を入れろ、ときちんと意見をいうことがお店のためなのかもしれない、なんて思った。
そして夫とのタクシー利用のとき。以前住んでいた地域のタクシーは、無愛想な運転手が多かった。ある日夫と出かけて帰りが遅くなり、駅からのバスもなくなったのでタクシーを使うことにした。乗り込みながら夫が「こんばんは」といっても運転手は無言。更に夫が「○○まで行ってくれる?」と言っても、運転手は何の返事もしなかった。私は心の中で「まったく無愛想な運転手だなあ。返事くらいしたらいいのに」と思って黙っているわけだが、その時夫の怒りは徐々に煮えたぎっていたのだ。家に近づいてきたとき、運転手が「この信号はどっち?」と聞くと、夫は突然「あっちだっ!!」「次は左だっ!!」「おまえはそれでも客商売してるつもりか~っ!!」と大声で怒鳴った。柄の悪い運転手も負けずに「何だ、われぇっ!!」と怒りだし、大げんかになった。荒れた運転と飛び交う怒声に私は逃げ場もなく縮み上がった。結局家までたどり着く前に夫が「もういい!降ろせ!!」と叫び、運転手に札を投げつけた。道々夫は怒りのオーラを発しつつ先を歩いていき、私は殺人事件にならなくてよかった~…と青ざめながらその後ろを歩いていったことがあった。しかしこれはさすがに「言い過ぎじゃないか」と思ったものだ。
そして夫が私への怒りを訴えるとき。自分がどんなに嫌な思いをしたか、気に入らなかったかを延々訴える。私はこんなことにすらある意味感心したのだ。
私は夫のように言いたくても、昔から言えなかった。レストランで出された料理に髪の毛が入っていて、本当はそのことをお店の人に訴えたいのに、それを言わずそっとどけて食べてしまう人間だった。紅茶が薄くても、黙って飲んだ。ある時は美容室に行ってカットしてもらったが、どうしても気に入らず、でもそれを言えずに家に帰り、自分で鏡を見ながら切りなおした事もあった。そんなとき夫は「美容室に行ったのに、また自分で切ってるのか?」と呆れて見ていたものだった。
ましてや、近しい人間関係において、おかしいと感じることとか怒りを表明することは私にとってタブーだった。そんなことしたら人間関係が壊れてしまうのではないかと恐れていた。親にも長い間、反論することができなかった。そして我慢し怒りを溜め込んだ。それかあきらめた。
だから他人にも私にも言いたいことを言う夫の姿は、別の意味において尊敬の対象でもあったのだ。夫は言いたいことを言い、やりたいことをやっていた。我慢するということがなかった。私は夫に「好きなように言って、好きなことを好きなようにして、あなたは本当に幸せだね」と言ったこともある。夫は「友達にもそういわれたよ~」と笑っていた。
後から考えると、夫が言いたいことを言うのは、お店のためとか相手のためを思っているのではなく、単に自分が不愉快な思いをさせられたから、自分が気に入らなかったからなのだ。自分の欲求を満足に満たしてくれない、自分を不安にさせ脅かしたことで、相手に怒りを表明するのだ。相手がどう思うかなんていうのは二の次、もしくはどうでもいいか、あえてダメージを与えることを狙っていただけだったと思う。
人間にとって不快感や不安、怒りの表明は自分を守るために必要なことだ。不合理な出来事に対して、自分が必要以上に我慢したり、見ないふりをすることは、返って自分を貶め、自分を危険に晒すことにつながる。
ただ、感じた物の伝え方や表現の仕方を工夫することは必要だろう。ただ怒りの気持ちをストレートに伝えればいいというものではないし、強烈な自己主張は、相手を攻撃し破壊してしまう。これがモラル・ハラスメントなのだろう。そして、どうしても伝わらないと思ったら、相手に理解してもらおうとすることに固執せず、距離を取ったり、危険な関係からは離れることが大切なのだろうと感じる。それが自分も、相手をも守る術なのだろう。
(あのまま夫と一緒に暮らしていたら、肉体的にも精神的にも殺すか殺されるかの世界になっていたと思いますから…コワ)
夫に『NO』と伝えることがなかなかできなかった私だが、最後の最後で言えることができてよかったと思っている。ま、夫みたいに喚いたり叫んだりせず、かなり穏やかに伝えましたがね…。
「今年はお願いだから冷静になって、相手と同じようにならないで。」とお願いしたら私の言うことを聞いてくれました。
3年前に母は亡くなっていて、自暴自棄になっていたみたいです。
頻繁に電話したり1ヶ月に1回は会いに行くようにしたら落ち着いてきました。
実兄は40代後半なのですが、子供の頃から私に対してモラとDVが酷かったです。性的に酷い事をされた事もありました。20代の頃モラが酷くて私は家から追い出されました。
5年前、母が寝たきりで父が病気になって入院していた時、兄が皿の洗い方が気に入らないと急に怒り出した時がもの凄く恐かったです。クイックルワイバーで思いきり叩かれそうになりました。本当に叩かれていたら手が折れていたと思います。扇風機も投げつけてきました。
後で見たらクイックルワイパーが半分に折れて、扇風機も壊れていました。
頭の中が真っ白になって物凄く「ギャ~~~~」と叫んでしまいました。母も心配でしたが、兄と一緒にいたくないので家を飛び出しました。恐くてしばらく兄とは会えませんでした。病院にいる父の洗濯物は届けたり会いには言ってました。
兄は後で「お前すごく叫んでたな。」とにやけていました。
誰かと暮らしていたら
多少の妥協や我慢は当然あるかとも思いますが
自分を犠牲にしてしまうというのは
やはり対等の関係にはならないのでしょうね。
自分が安心して心地よく生活できたら、
相手にだって心配りができるのではないかと思います。
そうやって自分の幸せが相手の幸せにつながるというのが
一番いいのでしょうね~。
そんな関係、憧れます。
ウメより
ありがとうございました。
モラハラの体験は人によって多少違いますし
その程度や感じ方等もそれぞれでいいと思っています。
他の人よりひどいとか、ひどくないとか比較するよりも、
ご自身の辛かったとか苦しかった想いがあったということが
大事なのではないかと思います。
どうぞ、にゃりんたさんの想いも綴っていってくださいませ。
やはり離婚せざるを得なかった背景には
にゃりんたさんの大変な苦しみがあったことと思いますから…。
ウメより
幸せになるぞ~!
でも、私はウメさんのようにひどくはなかったような気がします。
今他の方のモラハラ体験を少しずつ読ませていただいたりしていますが、私の体験ごときでブログに書くのはもしかしたら他の方に申し訳ないのではないだろうかと思ってしまっています。
ウメさんの体験も想像以上に凄いものでした。
私は比較的、自分の意見ははっきり言う性格なのですが、それ以上に私の元・旦那もいやなことをはっきり言う人でした。それは一歩間違えればクレーマーかと思うような感じでした。
でも実は義母はもっと凄かった・・・。この親にしてこの子あり?って思ったことも何度もありました。
私もそうなんです。
相手に要求するより、自分が何とかすればいいって
考えてしまうところが多いんですよね。
だから夫が酷い言葉を投げつけても、
どうしてそんなことを言うのか、必死で理解しようとしていました。
結局理解できたことは、それがモラの特徴ということでした。
モラ夫は、結婚する前には私が「NO」というと
すぐ謝ってきました。
しかし結婚後「NO」と少しでも言うと、
10倍返しの罵声を浴びただけでしたし
そのことを随分後までネチネチと言われたものでした。
理解し合おうとしても、モラ夫とはそれができないことを
心の底から思い知らされましたね。
私も恐れずもっと夫に意見が言えれば
今の状況と変わっていたのかな、と思うこともあります。
でもマーチさんのおっしゃるとおり、「もし~だったら」
なんて思っても仕方がないのですよね。
やっぱりモラ相手には諦めが肝心かなあ、と。
手放す、距離をもつことが私自身を守るためにも
必要なことだと痛感した次第です。
マーチさんのお答え、正解ですよ。きっと!
ウメより
なんかね、夫にはほんとに感心しましたよ。
言いたいこと言って、やりたいことやって…
ほんとにわがままな人間でした。
というか、そうしなければ自分が保てなかったのでしょうね。
我慢したり相手に合わせるって事は、
夫にとって相手に「負ける」「劣る」ことだったのではないか
そんなふうにも感じます。
夫にとって対等な関係ってなかったのかもしれません。
ただ、私自身は言いにくいことでも、もう少し伝えられるように
意識していきたいと思っています。
>夫さんにとってウメさんが初めて自分を否定してくれた存在なのかもしれませんね
いや~、そんなことないんですよ。
なんせ3回目ですからね…(苦笑)
モラは死んでも治らないことを、
まさに身をもって証明している夫なのでした。。。
ウメより
ちゃんと「NO」とか「違うよ」とか伝えた方がいいんだろうな~
って思うときがありますよね。
そういう時でも私はなかなか言えないたちでした。
だから、夫がはっきり伝えている姿は
ある意味新鮮だったのですよね。
文旦さんが言われたように、男らしいとか
自分をしっかり持っている、なんて勘違いしてしまいました。
しかしストレートすぎる表現は無神経になり
更に相手にダメージを与えるための言葉は
刃物のようとしか、感じられなくなりました。
かつての職場にもいましたよ。こういう人。
ここでも危うく破壊されそうになりました。
そんな人とは、距離をもってなるべくかかわらないように
するのが一番だというのが、結論です(笑)
そして今は、言葉を選びながらも伝えられるように
修行しているところです。
なかなか難しいですけどね!
ウメより
だから振り返ってみれば、25年間の結婚生活のあいだ、夫に対してあまり「No」と言ってきませんでした。それがいけなかったのかな、それがモラル・ハラスメントを助長させてしまったのかなと、いまでは思っています。
それでも最初のうちは、いやだという意思表示をしたこともあれば、はっきり「No」と言ったこともありました。たとえば、他人に対する思いやりがあまりにも欠けていると思われたとき。あるいは他人に自分をかっこよく見せようとして、自分にできないことまで約束し、その後始末をわたしにさせようとしたときなどです。
でも、のれんに腕押しでした。夫はそのときだけ理解したような顔をしても、じきにまた性懲りもなく似たようなことをくり返したのです。「この人の記憶はなんて短いんだろう」「応用問題ができない人なんだ」と、あきれたものです。
そのため、むなしくなって、夫に「No」と言うより自分で我慢することのほうが多くなっていったような気がします。もっと「No」を言いつづければ、もしかしたら夫は現在とは違うようになっていたかもしれません。
でも一方で、他人の気持ちを思いやる心がなく、いつもちやほやされていないと気がすまない夫の性質を考えれば、わたしが何を言おうと夫は現在のようになっていたのかもしれません。
ま、人生で「たら」や「れば」を言っても無意味なので、「では現状をどうするか」を考えるしかないのですが。考えれば考えるほど、「別れるしかない」という答えが出てきます(笑)。
ある意味凄いですよね
普通は子供の頃にそういう部分って友達関係で学んでいくものじゃないですか
言って言い事と悪いこと、我慢しなきゃいけないこととかそういう出会いも夫さんにはなかったのかもしれませんね
>レストランで出された料理に髪の毛が入っていて、本当はそのことをお店の人に訴えたいのに、それを言わずそっとどけて食べてしまう人間だった
これ、同じです
なんか言えないんですよね
私も夫さんのように感情的にぎゃーぎゃーとは
言いたくないですけれど、ある程度自分の気持ちを言えたらなと思うことが良くあります
夫さんにとってウメさんが初めて自分を否定してくれた存在なのかもしれませんね
それって本当は貴重な体験なのにね。
苦情をお店に言いたくても言えないもどかしさ。
それをはっきり「NO!」といえる人。
やはり尊敬してしまいそう。(アブナイ?)
見方によっては男らしいとも写るから。
でも、多分、ううん、ウメさんと同じように
すこしずつ疑問に思う。絶対に!
最近私の周りにもストレ-トに相手に怒りを伝えるタイプが多くなり、そのことがどんなに相手を傷つけ破壊してしまうか考えもしない。
言ってしまう方はすっきりするけれど言われてるほうも見てるほうも辛くなります。
ウメさん
最後に静かに「NO!」といえてよかったね。