大きい会社でも役所でも、東京大学法学部卒とかおるじゃないですか。
でも、この人たちの中の幾人かには、ほんとに勉強したことが身についてるの?
とか言いたくなることが日常の感覚の中にある。
憲法判断でも
政府など公権力が、積極的に「何かを良くしようとして」政策を推し進めるときに、私人の権利を制限するときはかなり、その制限や規制に、裁量を認めてよろしい。
一方、消極的に「何かまずいことが起きるんでないか?」と疑って、制限や規制をするときは、その制限や規制によって防ぐ害が重大なもので、因果関係も明白でなければならないよ。簡単に、政府の裁量なんか認めちゃダメですよ。
というのがあります。
前者を政策的な規制とか、後者を警察的な規制とかいうこともあります。
たとえば、来年そこで、公園をつくるので、撤去が難しい設備を建てないで下さいとかいう都市計画法の規制なんかは、街をその公園で良くしようという目的ははっきりしてますし、行政の言い分に理があることは確実でしょう。
来年、公園つくるとこに、撤去困難なものをつくるなんて、事業妨害か、ごねて撤去補償をたくさん取ろうとでもしようというのか、そうやって、公園の計画がはっきりしてるとこに多額の補償をしたら、多くは税金から補填され広く住民の損になるわけです。
そりゃ、止めなきゃいかん理屈があります。
でも、「何か都合が悪いことが起こるかもしれない。」って、考えで、行政が何でも規制できるなら、世の中の経済活動がまともに動きませんし、恐怖政治も敷けてしまいますし、特定の政党よりのものばかりに便宜を図って、それ以外を規制しまくるとか、むちゃくちゃにできます。
規制目的で回避する内容が重大で、因果関係も行政の側がそれなりに説得力のある説明をしなきゃならんでしょう。
さて、大きな会社で、何か企画の提案をします。
企画する側は、必ず、何かを良くしようとして提案します。
批判する人は、もっと良くするための助言をするとか、その企画者の目的を助けるために、経験不足を埋めて失敗が少なくなるようケアしようとして、「もっと、あれを調べろ。」とか言うのはいいんです。
「良くないことが起こるかもしれないから。」
「誰々が反対するかもしれないから。」
みたいな反対の仕方をする人は、企画者ばかりに、それが起こらないことの立証を負わそうとするけど、積極的な目的があることに、消極目的で反対するなら、よほど重要なことでか、自分がある程度害の因果関係を説得力をもって説明できるようにしときなよと思う。
そうじゃないと、若いもんも会社も伸びんよ。
まあ、憲法のように、政府などの公権力と私人という関係と違って、会社では、企画の失敗の損は、同じ会社の人が責任をシェアするので、政府よりも消極目的の規制をかける正当性が認められるでしょう。
ただ、根本は通じるとこでしょう。
法学を勉強したというなら、物事の考え方には、憲法判断の根底にあるような、リーガルマインドがこめられていてしかるべきだと思う。
法学って、規定を覚えることだと思う人はあまりいないと思うけど、じゃあ、何を学ぶのか。
判断にこめる法学的思考であり、それは、「そうやったら、公正で世の中を良くできるんですよ」という根拠でしょう。
意味のない反対のための反対をする人は、初歩的な、憲法判断の基本を勉強しなかったんだろうか?
と思ったら、ときどき、東京大学法学部卒とかいうから、精神を学んで実践に活かす応用が効かんのやなあと苦笑させられる。
ほんとに、勉強したんかなあ、まだ悩む。。。
自分の栄達や保身のために関係のある勉強だけはした、とか、活かすとかいうのなら、また悩む。
本のことは本の中のこと、勉強のことは勉強の中のこと、その成果は自分のために
になってる。
本や講座の知識と、実践に結びつく考え方、世の中のニュースや歴史、それらが自分や周囲の生活や団体の方向性などにどう関わってくるのか、それらは、いつでもつながっていて、意識できていて、正の貢献に結びついていくものでありたいと思う。
でも、この人たちの中の幾人かには、ほんとに勉強したことが身についてるの?
とか言いたくなることが日常の感覚の中にある。
憲法判断でも
政府など公権力が、積極的に「何かを良くしようとして」政策を推し進めるときに、私人の権利を制限するときはかなり、その制限や規制に、裁量を認めてよろしい。
一方、消極的に「何かまずいことが起きるんでないか?」と疑って、制限や規制をするときは、その制限や規制によって防ぐ害が重大なもので、因果関係も明白でなければならないよ。簡単に、政府の裁量なんか認めちゃダメですよ。
というのがあります。
前者を政策的な規制とか、後者を警察的な規制とかいうこともあります。
たとえば、来年そこで、公園をつくるので、撤去が難しい設備を建てないで下さいとかいう都市計画法の規制なんかは、街をその公園で良くしようという目的ははっきりしてますし、行政の言い分に理があることは確実でしょう。
来年、公園つくるとこに、撤去困難なものをつくるなんて、事業妨害か、ごねて撤去補償をたくさん取ろうとでもしようというのか、そうやって、公園の計画がはっきりしてるとこに多額の補償をしたら、多くは税金から補填され広く住民の損になるわけです。
そりゃ、止めなきゃいかん理屈があります。
でも、「何か都合が悪いことが起こるかもしれない。」って、考えで、行政が何でも規制できるなら、世の中の経済活動がまともに動きませんし、恐怖政治も敷けてしまいますし、特定の政党よりのものばかりに便宜を図って、それ以外を規制しまくるとか、むちゃくちゃにできます。
規制目的で回避する内容が重大で、因果関係も行政の側がそれなりに説得力のある説明をしなきゃならんでしょう。
さて、大きな会社で、何か企画の提案をします。
企画する側は、必ず、何かを良くしようとして提案します。
批判する人は、もっと良くするための助言をするとか、その企画者の目的を助けるために、経験不足を埋めて失敗が少なくなるようケアしようとして、「もっと、あれを調べろ。」とか言うのはいいんです。
「良くないことが起こるかもしれないから。」
「誰々が反対するかもしれないから。」
みたいな反対の仕方をする人は、企画者ばかりに、それが起こらないことの立証を負わそうとするけど、積極的な目的があることに、消極目的で反対するなら、よほど重要なことでか、自分がある程度害の因果関係を説得力をもって説明できるようにしときなよと思う。
そうじゃないと、若いもんも会社も伸びんよ。
まあ、憲法のように、政府などの公権力と私人という関係と違って、会社では、企画の失敗の損は、同じ会社の人が責任をシェアするので、政府よりも消極目的の規制をかける正当性が認められるでしょう。
ただ、根本は通じるとこでしょう。
法学を勉強したというなら、物事の考え方には、憲法判断の根底にあるような、リーガルマインドがこめられていてしかるべきだと思う。
法学って、規定を覚えることだと思う人はあまりいないと思うけど、じゃあ、何を学ぶのか。
判断にこめる法学的思考であり、それは、「そうやったら、公正で世の中を良くできるんですよ」という根拠でしょう。
意味のない反対のための反対をする人は、初歩的な、憲法判断の基本を勉強しなかったんだろうか?
と思ったら、ときどき、東京大学法学部卒とかいうから、精神を学んで実践に活かす応用が効かんのやなあと苦笑させられる。
ほんとに、勉強したんかなあ、まだ悩む。。。
自分の栄達や保身のために関係のある勉強だけはした、とか、活かすとかいうのなら、また悩む。
本のことは本の中のこと、勉強のことは勉強の中のこと、その成果は自分のために
になってる。
本や講座の知識と、実践に結びつく考え方、世の中のニュースや歴史、それらが自分や周囲の生活や団体の方向性などにどう関わってくるのか、それらは、いつでもつながっていて、意識できていて、正の貢献に結びついていくものでありたいと思う。