tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

希望成就格差社会

2005年05月19日 22時45分31秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
東京学芸大学の山田教授は家族社会学の立場から、フリーターの行動について分析し、論座や中央公論などにレポートを寄せていることが多い。つい3、4年前だと思うが、フリーターに関する彼の批評はかなり厳しいものがあった。「フリーター200万人に明日は無いぜ」みたいな論文を投稿していた時期がある。

彼は曰く、仕事に対する熱意ややる気が無いのだという意見だ。確かに、フリーターの人々の中にはそうした人々がいたのかもしれない。しかし、まじめに就職活動を行っても希望の職に就けず、働いていても辞めざるをおえない社会の状況を知ったのか、あるいは彼の大学の卒業生の状況をつぶさに見る機会が生じたのか、『希望格差社会』における最近の彼の論調も穏やかになってきた。何よりも社会学者が分析を行っても社会が変わらず、そのことによってある意味混乱に陥れることの重要性に気付いたのかもしれない。しかしこの調査分析という手法が混乱すら招くことは『不平等社会日本』で佐藤東京大学助教授がすでに2000年ごろ指摘していた。山田教授が派手に批判を行っていた頃、私個人がその対抗言説としてとらえ、なおかつ共感を持っていたのが、東京大学の玄田助教授が書かれた『仕事の中の曖昧な不安』である。最近は「ニート」という言葉を提唱した人物として知られるが。

さて、AERA2005年5月23日号に、バブル期入社組の社会的な評価とメンタルな部分に付いて書かれていた。社会が浮かれていた時期に、人をよく見て採用しなかったとどこの会社も、この時期の採用者に対して、良い評価を出していない。しかし、もっとビックリしたのは、その後バブルがはじけ、団塊ジュニア世代と言われている人々の採用を抑制した結果、この世代の会社社会における就業人口が少なく、どこの会社も今現在、補充したい世代だと言われている。

いわれてにわかに信じられる話ではない。なぜなら、私を含めたこの世代の人口は突出して多いのは知っていたが、その大部分が正社員として会社に属していないと言われたからである。じゃあ、友人達はいったいどんな状態なんだとさえ思う。

友人の消息はそれほど多くを知っている訳ではないが、薬剤師で2人の娘を持つ者、やっと結婚した者、信用金庫でそこそこのポジションにいながら、未だに新卒採用のホームページで社員紹介のメンバーとして顔を出している者などがいる。後、中学校の先生をしている者もいるが。女性を含めて、結婚している人間は驚くほど少ない。これをミクロな視点として見ると、マクロな視点として、私達の世代が社会でどれだけ活躍しているのかのという視点で見る。確かに人の数は多いのだが、デザインとかで活躍している人間は、ほとんどいない。みんな、1975年以降生まれのような気がする。あるいは50年代、60年代前半とか。

バブル期入社組とわたしたち団塊ジュニア世代との間には、確実に線が引かれた。終身雇用や年功序列が信じれたか、そうでないか。しかし、団塊ジュニア世代が、それよりも後に生まれた人々と同じ風景を見たのかと言うと、そうでもない。私たちジュニア世代のすぐ後くらいに、また線が引かれたように思われる。この線は、IT関連の技術を深く学習できたかどうかという面でもある。いわば、我々は「従来の方法論を継承しなければならない」位置にいながら、確実に「従来の評価システムの外部である、新しい評価システムで生き残ること」を考えなければならない、という事態である。

いわゆる、青年起業家の多くは、1975年以降生まれが多いような気がする。彼らは肩の荷が降りたように従来の企業と距離を置いたように会社を設立し運営している。勿論苦労もあるのだろうが。彼らにはもともと、よりよい就業機会も従来の方法論を学ぶチャンスも少なかったのだから、当然の成り行きなのかも知れないし、彼らの世代共通のパラダイムなのかもしれない。しかし、見方を変えれば彼らこそ、年齢その他の面で、将来の「希望」を成就することの出来る「格差」では勝ち組と言えるのである。旧来の方法論しか持ち得ず、様々な手段で得た、新しい方法論を試そう(すなわち希望成就に導くこと)にも中途半端に歳を取った私たちは、世代というかなり明確な区切りにおいて、「格差」の負け組を感じるような気がするのである。

最新の画像もっと見る