tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:竹内洋 『丸山真男の時代』(後編)

2006年03月26日 23時53分33秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
ある有名人の評伝を書くという行為は、その人物に対する意見の表明である。従ってそこには筆者のその人物に対する評価が内在するが、それは肯定的か否定的かのどちらかになるのだと思われる。しかしながら、多くの社会学者が行うような、論文中に自分の存在や痕跡を残さないという行為そのものが、この本の中にも存在していて、なかなかその作者の本意がどのあたりに存在するのかが分からない。しかし、筆者の視点を通じて丸山真男という人物の著作を紹介させると、その論文の妥当性、問題性が当時の学生一般にどのように受容されていたのかを説明していない事に気づかされる。私が気になったのは「日本ファシズムの思想と運動」について言及した次の部分だ。

ファシズムの担い手を考えるときに中間階級を第一類型と第二類型に分けなければならない。第一類型は「小工場主、街高女医の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、事に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」である。第二類型は「都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、其他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」である。第二類型は「本来のインテリゲンチャ」であり、第一類型は「疑似インテリゲンチャ乃至は亜インテリゲンチャ」である。ファシズムを煽ったものは、第二類型のような本来のインテリゲンチャではなくて、第一類型のようなインテリゲンチャであり、第二類型のような本来のインテリゲンチャは、ファシズムに消極的抵抗さえおこなった、というのである。
しかし、この論文は少し読めば、ただちに不思議におもうことがあるはずである。ファシズム運動の担い手について断定しながら、国家主義団体の構成員の職業や学歴構成などを示す実証的データの裏付けが本文中にまったくないことである。
(中略)
だからこの論文は、ファシズムに加担せず、消極的であっても抵抗するのが「(本来の)インテリ」であることを宣言し、聴衆や読者をして、「本来のインテリゲンチャ」たらんとする決意を促すエッセイとみたほうがよいのである。同時にこの丸山のインテリ論にはもう一つの仕掛けがあった。大衆を悪玉にせず、疑似インテリを悪玉にしているのである。大衆は啓蒙の対象だから、半ば仕掛けられ騙された存在とされている。


私自身この文章を読んだときにすごく違和感があった。インテリの分類についても全く知らなかった訳ではない。この文章のもつロジックが問題なのである。まず、丸山は何の確信と権利があってか知らないが、決めつけにも近い方法論でもってインテリの分類を行った。この部分が問題なのである。そして同時に竹内のロジックでもって、非常に厄介な事に問題が複雑にされているのである。それは、丸山の引用箇所にインテリの事についての説明がなされているのだが、丸山論文においては竹内が使うところの大衆という言葉が見当たらない。その上竹内は、丸山が行ったような職業的分類で「大衆」を定義していない。従って、「本来のインテリゲンチャ」と「疑似(亜)インテリゲンチャ」の外に位置する職業の人々が「大衆」なのだが、それがはっきりしないという構造を持つ。このまま竹内が使うところの「大衆」という言葉を用いるにしても、本来のインテリゲンチャと疑似インテリゲンチャの他に「大衆」というカテゴリが区分され、疑似インテリゲンチャに操作されるという「自立性」の無い存在として、描きだされているが、これも今ひとつはっきりしない現実の説明である。このように見ると、丸山論文には存在しない言葉を独自の解釈で持って、自らの論文の説明を高める行為を行っている部分も見受けられるのである。

ただし、竹内に誤解を生じせしめた丸山論文にも問題がなかった訳ではない。丸山論文は圧倒的大多数の「疑似インテリゲンチャ」と圧倒的少数の「本来のインテリゲンチャ」の存在を説明しているが、その根拠を世間一般の職業的分類に基づいて行った事による、かかる弊害を全く根拠に入れていなかった研究者としての責任が、これから大学を出て、普通のサラリーマン(偶然にもサラリーマンになる事によって「本来のインテリゲンチャ」になり、「疑似インテリゲンチャ」を批判・攻撃する側になると言う不条理)になっていく学生の反感と憎悪を買うとしても無理のない話である。しかし、丸山の戦略を見直せば、このような懐柔政策を行う事で何を達成したかったのかと言う疑問が生まれる。

実は、その答えは既に戦後すぐに出ていた。

戦後、丸山達は戦前のファシズムの推進者、とりわけ文化人の追放というヘゲモニー争いを繰り広げ、それに勝利する事で自らのポジションを得た。しかし、これらの行為も時間の変化ともに、色あせていく。同時に自分たちの存在意義もまた希薄な物になっていく事の裏返しであった。大学紛争における丸山達知識人への攻撃は、その思想背景と方法論の脆弱さを露呈した物ではなかったのではないだろうかと私は考える。

ただし、本書の最も良い部分は(同時に本書の趣旨たる丸山真男論からはずれるという皮肉な部分もあるのだが)フランスの社会学者ブルデューやその他の社会学の理論を用いて、日本の知識人を説明している部分である。社会学に興味のある向きには、一応すすめておこう。

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