飄(つむじ風)

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終わりの日の預言!!⑧

2008-04-04 09:17:57 | 預言

『終わりの日の預言』転載!!第8弾
正覚院 義敬(本名;矢野 敬二郎氏) 著

 『主の聖所』がどのようなモノかはとんと知らない。何時どのようにして出来、どこにあるのかも知らない。いつの間にか、この預言の中に登場するようになった。そのまま読んでいるだけだ。おおよその見当はつく。この預言があって、広められた時、その縁により人々の集まりが出来たのだろう。そして、ハナンエルは本山主管で、過去世は例の王妃ではなかろうか。どうも女性のようである。エリエナイは明らかに著者である。それぐらいの推測でしかない。ハナンエルである本山主管を中心に旧信者等によりこの預言を受け入れる集まりが出来たのではなかろうか。(推測) 従って、エリエナイは大祭司である。Gpw20050129nasaiss006e41627aurorabo

 しかし、そのようなことは無視して、預言そのものを吟味しているのであるから、解説には心許ないことをお許し願いたい。要は、真理であるか否かが問題なのである。ついでに私見を披瀝すると、真理とは(まことのことわり)であり、実相である。又、神理(しんり)と言う言葉もある。字のごとく、(神のことわり)、主の計らいであろうと解釈する。真理が縦とすれば、神理は横であり、併せて大いなる実相である考える。であるから、預言の神理は、窺い知るしかない。真理であるか否かは、理知の識別により、ともかく、峻別しつつ前に進むだけである。

 この預言の全体を判断するには、とうてい浅学であるし、非才でもある。分からないことも多い。しかし、どこかに気品と威厳が備わっており、言われるところ真理でないとするには余りに峻厳である。だから、素直に識別してかなり格調の高い預言であると判断している。

 何故、今、この預言が為されているのかというと、その神理はとうてい計りかねるとしても、今般の情勢において福音(よいしらせ)であることは納得をする。人間の驕り高ぶり、そして、その結果として被虐と混迷を打ち破るには、福音が必要だ。イエスの時代の予兆として、この預言があるとすれば、なんとも符合して納得する。イザヤ書により、イエスは預言された。そして、その成就にイエスは登場した。イエスの再臨はあるのか?


【転載開始】

主は言われた 1999

 平成12年(2000年)1月5日、これもまた主から出た言葉である。主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる。
 「ああ、主の祭壇よ、主の祭壇よ、わたしの僕が陣を張った所よ。年毎に祭の数を増し、巡り来たらせよ。そのよき、わたしは主の祭壇を苦しめる。主の祭壇 には嘆きと、ため息が臨み、祭壇の炉のようになる。わたしはお前を囲んで陣を張り、砦を築き、城壁を建てる。お前は倒されて地の下から語り、お前の言葉は 塵の下から鈍く響く。亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ、お前の言葉は塵の下からかすかに響く。
 主は民に代わって争い、彼らの命を奪う者の命を、奪われるであろう。怒りやすい者の友になるな。激しやすい者と交わるな。彼らの道に親しんで、あなたの 魂を罠に落としてはならない。手を打って誓うな、負債の保障をするな。償うための物があなたになければ、敷いている寝床まで取り上げられるであろう。昔か らの地境を移してはならない、先祖の定めたものなのだから。 技に熟練した人を観察せよ。彼は王侯に仕え、怪しげな者に仕えることはない。支配者と共に食 卓に着いたなら、何に直面しているのかをよく理解せよ。あなたが食欲旺盛な人間なら、自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。
 主に戦いを挑んだいのんどとクミンの種は、すべてこのようになる。ためらえ。立ちすくめ。目をふさげ。そして見えなくなれ。主はお前たちに深い眠りの霊 を注ぎ、お前たちの目である預言者の目を閉ざし、頭である先見者を覆われた。それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。 字の読める人に渡して、『どうぞ、読んで下さい』と頼んでも、その人は『封じられているから読めない』と答える。字の読めない人に渡して、『どうぞ、読ん で下さい』と頼んでも、『私は字が読めない』と答える。」

 主は言われた。
 「この民は口で私に近づき、唇で私を敬うが、心は私から遠く離れている。彼らがわたしを敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ。そえゆえ、 見よ、わたしは再び、驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼ら の業は闇の中にある。彼らは言う。『誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか』と。
 なおしばらくの時がたてば、そこは再び園となり、園は森林としても数えられる。その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取 り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々は、主の民の聖なる方のゆえに喜び踊る。暴虐 な者はうせ、不遜な者は滅ぶ。」 

 平成12年(2000年)1月7日、主はハナンエルに言われた。
 主の聖所に、主を避けてその謀(はかりごと)を隠す者らがいる。彼らの業(わざ)は闇の中にある。彼らは言う。
 「我らの盾は次々と連なって、風の吹き込む透き間もない。」
 しかし、あなたは喜びを得る。あなたが主に信頼する者となるように、今日、あなたに教えを与えよう。
 彼らは目に異様なものを見、心に暴言をはき始める。海の真ん中に横たわっているかのように、綱の端にぶら下がっているかのようになる。彼らは言う。「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。」
 わたしは彼らの領地を嗣業として、自分の民に与えた。そのことは記念されて代々に伝えられる。わたしは自分の民の裁きを行い、僕らを勇気づける。国々の 偶像は金や銀にすぎず、人間の手が造ったもの。彼らはわたしが開かせた胎から生まれたのに、心には7つの忌むべきことを持っている。憎しみはごまかし隠し ても、その悪は会衆の中で露見する。穴を掘る者は自分がそこに落ち、綱の端にぶら下がっているかのようになる。「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じ もしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
 悪者のことに心を燃やすな、彼らと共にいることを望むな。悪者が心に思いめぐらすのは暴力。唇が語るのは労苦を引き起こすこと。家は知恵によって築か れ、英知によって固く立つ。知識は部屋を満たし、貴く喜ばしい財産となる。知恵ある男は勇敢にふるまい、知識ある男は力を発揮する。悪との戦いには指揮す る力が必要であり、勝利を得るためには作戦を練るべきだ。無知な者に知恵は高尚すぎる。城門で口を開くべきではない。悪意ある考えを持つ者は陰謀家と呼ば れる。無知の謀は過ちとされる。不遜な態度は人に憎まれる。苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ、死に捕えられた人を救い出さず、殺されそうになっ ている人を助けず、「できなかったのだ」などと言っても、心を調べ見抜いている。魂を見守るわたしは知っている。わたしは人の行いに応じて報いを返す。
 園は森林としても数えられる、その日には。
 わたしは立ち上がり、ギブオンの谷のときのように憤る。それはわたしの業(わざ)を果たすため。しかし、その業は未知のもの。また、働きをするため。しかし、その働きは敵意あるもの。
 今、嘲ることをやめなければ、彼らの縄目は厳しくなる。あなたは定められた滅びについて聞いた。それは主なる神から出て国全体に及ぶ。

 聞け、私の声に耳を向けよ。
 聞け、わたしの言うことに耳を傾けよ。

 あなたは書物に書かれている言葉を聞き取り、暗黒と闇を解かれた。まことの言葉をあなたの使者に持ち帰らせよう。
 あなたがたをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃墟を建て直す。荒れ果てた地、そこを。
 わたしは門主に追随する者の子も撃ち、彼らに、しるしと奇跡を送った。門主とその追随者すべてに対して。
 わたしは多くの者を撃ち、強大な支配者らをことごとく倒した。そして彼らの領地を嗣業として与えた。

 平成12年(2000年)8月、高裁判事から私の釈放命令が下り、私は4年半の獄中生活から解放され、大阪南部の「主の聖所」に向かった。主の民は、私 を歓迎する準備を整えて待っていたが、主は私に、解放されたその日のうちに主の聖所に戻ってはならない、と言われた。主に定められた日、私は主の聖所に 入った。
 主の聖所では私の解放を祝う祝宴が開かれた。ところが、その祝宴の席で、ナジル人の誓いを立てていた大阪の教区長の夫婦が、その誓いを軽んじて破ってい たことが発覚した。妻は子を宿していて、夫婦は子が産まれるまで、ぶどうの実と、ぶどうの実からとったものを口にしないという誓いを、自ら主に立てていた のである。彼らはその祝宴で、ぶどうの実を何のためらいもなく、口にした。祝宴が終わった後、誓いのことを彼らに問うと、教区長はこの日たまたま喜びのあ まり口にしてしまったと言い逃れをしたが、妻は、この日だけでなく以前から二人とも誓いを破っていたことを告白した。妻の告白により、主に赦しを願うこと が許されたが、教区長は主と妻に対して怒りを発した。そして教区長は告白しようとはしなかった。教区長の妻は、教区長がこれまで主の嗣業をおろそかにして きたことも告白し、それを隠していた自身の贖罪を主に願い求めた。 
 まもなく、この教区長は治癒していた脳腫瘍を再発し、聖所を捨てて去り、東京に
行って病院に入院した。【続く】


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