飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

つむじ風ねっとショップは、何を目指しているか? プロローグ

2012-04-17 00:04:29 | インポート

つむじ風ブログと意図は同じである。
”純粋な理知をブログに捧ぐ”とはブログの主旨である!
その実現が、つむじ風ねっとショップである!!
まあ、ささやかなプラグマティズム(実用主義)だ。

 こう書けば、聞こえはよいかもしれないが、きれい事を言うつもりはない。


 あなたは何をして生きているのか? 様々であろう。 生きているから何かするのか? 生きるために、何かするのか? それは紙一重ではないだろうか?


 実際、生きるために何かをする、と言うが、それは世俗の考え方で、実際は生きているから人は何かをするのではある。


 それは、


 生きるためと言う以前に、人は既に生きているからである。物心つく以前に人は生きていた。それから何かを始めるのである。これが順序だ。

 であるから、ブログが先で、ショップが後であるのは、それと同じ順序で必然的に始まったのである。

 ブログは、情報の発信である。その本質は、『物言わぬは、腹ふくるる技なり・・』の思いで始まったことだが、物言うだけでは、実用ではない。何が出来るだろう? ネットについて考えた。そして、気づいたのである。

 つむじ風ねっとショップも、その本質は情報の発信なのだ。情報なくして、何事も始まらない。その情報に実用を乗せたにすぎない。だから、実用が無価値ならそれはショップがショップでなくなるだけの話である。

 はたして、人がどう思うかなどと考えていては物事は先に進めない。又、そんなことはお構いなしで、やりたいこと、やるべきことを始めたにすぎない。


 例えば、今、飢えている者に食物の在処と、その採取の方法を伝えることは情報だけで可能だ。

 しかし、直接、食物を届けることは情報だけでは出来ない。


 『食物を届ける事』が出来るのは、つむじ風ねっとショップの役割だ。ショップという流通の機能を必要としたのだ。それが加わった。まあ、これは例えである。


 単純にそう考えている。


 そういうことをやり始めると、必ず、出没する輩が居る。それは、『人のフトコロを気にする』輩である。こう言うのは、常に存在するのだ。アフィリエイトでもそうだし、ましてや、分かりやすい流通商売ともなると、すぐにとやかく言いたがる輩である。

 だから、言っておきたい。是非、君も挑戦したまえ。ネットなら誰でも出来るのだ。これからはそういう時代になる。これはネットについて勉強したから分かったまでの話で、特別な事ではない。

 また、そのことに関して、いろいろ書いてきたし、これからも書いていくつもりである。その前に表題のように、つむじ風ねっとショップの目指すものについて、赤裸々に書いて、紹介と出来れば、なんなりの参考に供したいともう。

 まず、こう考えている。

 空に舞う鳥も、野を駆ける動物も、すべからくそうであるが、『まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。-マタイによる福音書 / 6章 26節』とは、聖書の一節であるが、好きな箇所である。

 人生、斯くのごとくありたいと、常日頃から考えていた。


 その後に、さらに続く。


 『あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 -同上』

 なるほど、

 人間はいろいろと考える。理由も考えるし、時には悩むこともする。しかし、それもこれもその前に生きていることの証だろう。

 人間は、何かを考え、何かをする生きものである。つまり、挑戦は人間の本性と言うべきものだ。それが、人間の本質であるのだろう。

 そういう意味で、ブログも挑戦、ショップも挑戦である。挑戦と言ったって、外部に向かっての挑戦ではない。自分への挑戦である。

 もっと砕けて言えば、人生の冒険だ。こんなことも、あんな事もやってみよう。きっとやれるはずだ・・・との思いが正直なところだ。

 例えば、この度の大震災、そして、放射能禍についても、様々な知見も数多く発表されている。結構なことである。その知見を生かせる人間は、大いにそうするべきだし、そう思わない人はスルーすれば良いのである。


 しかし、


 まさにそうしたいと感じた人でも、出来ない場合がある。例えば、歩くことは出来ても、杖を必要とする人は居る。あるいは、車椅子が必要かも知れない。そうした時、その人は何らかのサービスを必要とする。

 それと同じで、知見も大事だが、モノは結果を実現するためには、あくまで自分で最初から終わりまで実行するか、サービスを受けるかしないと実現しない。

 案外、人は何もかもは出来ないのである。


 つまり、その際はサービスサーが、不可欠だ。それが商売というもの成り立ちだ。商売というのは、何の事はない。経済の原則に則って、なすサービスである。

 そう書くと、ボランティアもあるではないかとつぶやく声が聞こえてくる。ボランティアもボランティア経済を度外視して成り立たない。非常時にはボランティア経済が勃興する。平時においてはそれは通用しない。だから、NPOだのNGOだの必要となる。

 それらは、ボランティア経済だと考える。

 

 そうではなしに、平時の経済原則に則って、サービスサーを目指す。これがつむじ風ねっとショップの考え方である。事業意欲を満たそうと意図はないと言うことである。

 単に事業意欲を満足させるのが目的ではない。

 さりとて、最善を尽くすのは重要だ。


 最善を尽くすと言うことは、必要な人に必要な情報を届けることだ。それ以外は考えない。その後のことは、受信者が判断をするだけである。


 又、


 もう一つ、必要と判断された方に最善のサービスを提供することである。それ以外に何があろうか? そのように考えている。


 おまけに、


 情報によって、必要と感じたが、実際において、価値を見出せなかった人の場合である。いつでも無期限にキャンセルを受け付ける。


 そんな馬鹿な? と思われるかも知れないが、必然と考える。


 サービスは価値が本命である。価値がないサービスは、お仕着せであり、居心地は良くない。もっと言えば、迷惑千万であろう。もはや、それはサービスとは言えないから、そう言うものは譬え一人たりとも生み出さないことが肝腎である。


 キャンセルすれば、それはたちどころに解消する。顧客の100%の満足とは言えないかも知れないが、少なくとも不興は限りなくゼロに近づくという訳である。サービスサーにとっては、これ以外に安心立命はないであろう。


 最大の互いのリスクヘッジである。


 それで続くか否かは、見物ものだ。


 私には夢がある。それは些細な夢だ。取るに足らない夢かも知れない。

 それは 何のストレスもなしに仕事をしたいものである。本当にやりたいことを仕事としたいものである。 言わば、つむじ風ねっとショップは、その実験場として発足したのである。








 私は人並みに誰しもが従事する経済活動を行ってきた。現在もそれは続いている。何をかとは言わないが、そのほとんどは独立自営の活動である。勿論、サラリーマンも経験した。


 その中で、少なからずのストレスを経験した。ストレスとは、本当は必ずしも本意に反して行うことがあるからである。媚びへつらいもその内であるが、最大ものは、競争だ。そして、何度かは勝っても来た(ほとんどは敗けなかった)が、競争でも勝利は虚しい。ストレスは並大抵ではない。


 そして、ふと気づいたことがある。何故か? やりたいから、やっている訳ではないと想いである。生活のため、養育のため、義務のため、会社のため、報酬のため・・・・全ては『~のため』の行動だ。それが仕事と考えていた。多くの方々もそうであろう。


 それがストレスの元凶である。


ボランティアでそれは可能か。それは現況では必ずしも可能とは言えないだろう。経済原則からそれは成り立ち得ない。


 寧ろ、ボランティアは非常時はさておき、平時に於いてはその限界を誰しも見極めるであろう。


 経済システムは、それを可能ならしめるであろうか? 無理と判断する。寄付や支援金に姿を変えた経済が取って代わるだけだ。だから、非常時の理念がそれを支えるのだ。


 言わば、つむじ風ねっとショップは、その実験場として発足したのである。


 くれぐれも書いておきたいが、つむじ風ねっとショップは、大震災に便乗して発足したのではない。


 ブログを立ち上げ、次いでつむじ風ねっとショップを開設した。それは上記の理由であった。


 はたして、それが可能だろうか?


 それについて、若干の体験を積んできたので、赤裸々に書いていきたいと思っている。それは畢竟(ひっきょう)、もし、同じ経験をし、これからの生き方に一縷の参考になればとの思いからである。


 私には夢がある。些細な夢だが、自由に思うところを生きたい。やりたいことをしたいし、考えるところを素直に実現したい。考えるばかりではなく、実現したのである。


 そして、遊ぶように働き、ゲームのように挑戦したいのである。


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