飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

体罰は日本の伝統ではない!!

2013-02-18 13:51:58 | 日本

体罰=暴力=欲望
この図式は変わらない・・・
欲望が裡(うち=心の中)に蠢くと、
焦りが生まれる・・・
それが体罰=暴力だ!!

 

 その前に、『ドラマは、終わった!! 幕は、下ろされる!!』に関して、付記しておきたい。

 

 それは、

 

 拙ブログが終わりではないと言うことだ。『稲 恭宏(いな やすひろ)』(博士)を徹底糾弾!!記事が、2月18日23:59を持って削除されると言うことである。しかも、削除されるのは、NTTコミュニケーションズ株式会社のブログサイトから、削除されると言うことである。と言うことは・・・、書かなくても分かるだろう。お察し頂きたい。どこかで永遠に生き続けていると言う意味だ。その内、ご案内しよう

 どうぞ、ご安心頂きたい。

 仮に、当ポータルサイトに契約解除(今回は、回避する)されても、世の中にはいくらでもポータルはある。サーバーも多数存在する。言論は封殺される筈がない。

 とっくの昔に、避難所は設けてあるから、ご安心頂きたい。一部を掲載しておこう。

http://blog2.tumuzikaze.net/index.php?QBlog サーバーブログである。

 入り口は

  1. http://tumuzikaze.net/
  2. http://blog.tumuzikaze.net/
  3. http://shop.tumuzikaze.net/index.php?FrontPage
  4. http://bhajan.tumuzikaze.net/index.php?FrontPage


の、どこからでも到達する。避難所である。常に平行更新されている。

 又、

 その他のブログポータルはいくつも準備されている。勿論、アメブロも含めてだ。

 しかし、

 ポータルはポータルである。ポータル側の都合で、何時閉鎖されるか分からないし、契約条項もほとんど似ているが、その裁量範囲はそれぞれだ。いつ解約されるか、ポータル側に依存している。

 先頃は、アメブロではビジネスブログは多く解約、表示停止された。

 つまり、いずれも少しも安定的ではないのである。だから、上手く付き合っていくしか方法はない。ポータルも優良なブログを期待している。それはアクセスの獲得にその目的があるからだ。アクセスが増えると宣伝収入に直結する。

 要は、ビジネス展開であるから、当然と言えば当然だ。

 最後に、拙ブログがNTTコミュニケーションズ株式会社のブログサイト(ブログ人)に拘泥しているわけではない。が、比較的に上品であるからだ。

 かつて、7つ以上のブログを平行公開していたが、3つは、とある横やりで通告もなしに突然閉鎖された。詳細は割愛するが、その場合、抗いようがない。そして、HTML、リッチテキストの両方使い困難だったり、それぞれ癖もある。

 その点、NTTコミュニケーションズ株式会社のブログサイト(ブログ人)は私にとって、使い勝手良いというわけである。それだけの理由だ。細かく言えばきりがないが、動画投稿など重要なポイントであろう。

 以上で付記する事項を終わる。コメントに対する返事は、控えていて、自由にご投稿をお願いしている次第である。その方が自由闊達になるとの配慮からである。その分、この場で返事とさせて頂いた。

 さて、本論に戻ろう。

Taibatukyousimsnwest

 

 

585156a0


 運動部関係の体罰問題は痛ましい。それを容認する意見も多いが、それは自分の身に降りかからないからである。自分の身に降りかかっても、すぐに忘れるか、事後肯定にすぎない。

 体罰は、単なる暴力に過ぎない。暴力は確実に精神を痛める。このことに例外はないだろうが、人間はその時々で、合理化してしまうものだ。その典型は、親の体罰だ。虐待すらも合理化してしまうから、世に知れることは少ないのだ。

 そこで、

 愛情のあるところに、体罰は存在しないと言うことを銘記すべきだ。体罰は、暴力の体の良い言い回しに過ぎない。暴力は心の中の焦りの表現だ。パニック症状である。

 肯定できるものではない。

 何故、焦るか? 欲望のはけ口に過ぎない。あるいは恐怖のはけ口だ。それ以外に考えられない。恐怖は、裏返すと欲望になる。一番の欲望は、生存欲だろう。その他、諸々ある。

 中々、出来るものではないが、欲望を捨てると焦りは生じない。従って、暴力など発揮しようがない。暴力は、何であれ、傷つける。体も心もである。戦争は、全てを破壊する。

 さて、

 不幸にして、それにより傷つけられたとして、身体は治療によって治るが、心の傷は容易ではないだろう。しかし、心を折ってはならない。心は自ら輝く光の玉だ。心の傷は、その玉の表面の汚れに過ぎない。

 心自体は折れるものではないのだから、落ち着いて、その汚れを取り去る努力をしよう。困難かも知れないが、時と努力でそれは可能だ。そしたら、又、光を取り戻すことが出来よう。だから、けっして自殺など考えてはならない。自殺は永遠の後悔以外の何物でもない

 


【転載開始】 日本人と縄文体質 体罰は日本の伝統ではない
mosimobox
 (  20代  鹿児島  会社員  ) 13/02/11 PM07

「しつけ」について、欧米人は体罰を与えて子供をしつけているのに対して日本人は庶民も武士も体罰を与えずしつけを行っていたようです。

いい話・コピペ保管庫リンクより引用します。

***以下引用***
体罰は日本の伝統なんかではありません。むしろ日本のしつけや教育は、体罰を使わないことで、欧米人に驚かれることが多かったのです。つまり日本の伝統は、むしろ体罰を用いないところにあるといえるでしょう。

渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)では、日本の温和な子育てについて、昔の多くの欧米人の記述が引用されています。
たとえば、戦国時代(16世紀)に日本を訪れたポルトガル出身の宣教師フロイスは次のように記しています。
「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」。
江戸時代以降でも同じだったようです。
「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船(長崎から江 戸への船旅)でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」(18世紀後半に日本を訪れたスェーデン人ツュンベリ)。
「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」(19世紀前半の日本を訪れたオランダ人フィッセル)。
「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はな い。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」(19世紀後半(明治初期)の日本をみたアメリカ人モース)。

実際、江戸時代の子育ては、非常に温和で、子供を大事にしたようですね。( ^^)/(^^) ナデナテ
「溺愛」といっていいほど子供をかわいがり、その一方で子育てに対する人々の知的関心も庶民にいたるまで高く、数多くの育児書が出版されていました(中江和恵『江戸の子育て』(文春新書、2003年))
日本における体罰の歴史を研究した江森一郎氏によると、江戸時代の始め(17世紀前半)ごろから、日本人は、家庭や学校(寺子屋など)で体罰をほぼ用いなくなったそうです(『体罰の社会史』新曜社、1989年)。
上記で触れた日本を訪れた欧米人の言葉からもわかるように、同時代の欧米や中国ではムチで打つなどの体罰がさかんだったため、体罰の少なさは、日本のしつけや教育の際立った特徴でした。

江森氏は、庶民教育を担った寺子屋では、罰として、居残りさせたり、立たせたりすることは行われていたようですが、体罰は非常に少なかったと推測しています。
藩校など武士の教育機関でも、同様だったようです。武士は誇りを重んじ、体罰は体面を傷つけると考えられたことから、武士の教育でも体罰はあまり用いられなかったというわけです。
江森氏は、「武士のモラルがわかり興味深い話」として次のエピソードを紹介しています。
明治六年に、できたばかりの日本の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)は、英国海軍少佐ドークラスを招聘し「新兵学寮規則」を制定しました。ただ、その際、佐 賀藩士出身の校長・中牟田倉之助は、英海軍式の鉄拳制裁を、「武士の伝統と作法を説き、頑として受け付けなかった」そうです(江森氏が参照している元ネタ は、鎌田芳朗『海軍兵学校物語』(原書房、1979年))。

つまり江戸時代には、庶民も武士も、子供への体罰を強く嫌っていたといえるでしょう。
明治12年(1879年)に教育令が定められるのですが、そこには「凡そ学校に於ては、生徒に体罰を加うべからず」(第46条)と体罰禁止規定が明文化されました。
日本が体罰禁止規定を法文化したのは、欧米の大多数の国々よりむしろ早かったのです。江森氏によれば、「学校体罰法禁の西欧最先進国であるフランスでさえ、(日本の)教育令の規定より8年遅れている」のですから。

日本の学校で体罰が結構みられるようになったのは、1930年代から第二次大戦中にかけてのようです。
近代化が進み、江戸の記憶が薄れてきたころから、まず日本の軍隊が徐々に変質し、鉄拳制裁が行われるようになった。そして、その影響が、学校での軍事教練などを通じて、次第に、1930年あたりから学校教育の現場に伝わった。そのように描けるのかもしれません。
この点について、著名な文化人類学者・梅棹忠夫氏(1920年生まれ)は、あるシンポジウムで、自身の体験にもとづき、「一つの証言」として体罰について次のように述べていました。

「私は、1920年代に幼稚園、小学校教育を受けた、まさに戦前の非民主主義教育を受けた人間ですけれども、私の記憶の中には、たたかれたという記憶は一 切ありません。…体罰というのは考えたこともない。全然ありません。…日本はもともと幼児に対する観念が(欧米などと)非常に違うんだ。たたいたりはしな い」(梅棹忠夫・栗田靖之編『知と教養の文明学』中央公論社、1991年)。

同じシンポジウムで、日本政治思想史の研究者・渡辺浩氏も次のように述べています。
「ある人の説なのですけれども、体罰というとまず思い出すのが軍隊における私的制裁ですが、それがいつごろ帝国軍隊ではじまったかというと、第一次大戦後ぐらいからだという。明治時代にはやらなかったというのです。
それまでは士族が多かったので、その感覚が残っていた。侍の上位者がその下の侍の顔をなぐるというのはちょっと考えられないというわけです。侍は名誉心が 非常に強いですから、人格的な屈辱を与えちゃまずいのですね。そうすると死に物狂いで反抗してくる可能性がある。たとえ主君であっても家来の侍を人格的に 侮辱すると、死に物狂いに反抗しうる。
軍隊の私刑は…、…むしろ武士的なものがなくなってから軍隊ではじまったんだという説があるのです。それが1930年代になったら、学校教育へ還流してきたと言えるのかもしれません」(同上書)。

戦後は、どうなんでしょう。
読者の皆様のなかにも、個人的体験から、「結構、先生にたたかれた」という人、あるいは逆に「ほとんどたたかれたりしなかった」という人が、それぞれいらっしゃるんではないかと思います。
一般的には、日本の家庭や学校でのしつけや教育(特に初等教育)は、意外だと思われるかもしれませんが、欧米と比較して、温和で、情緒や人間関係を大切にし、非権威主義的だと言えるようです。

たとえば、アメリカの教育学者キャサリン・C・ルイス氏は、現代日本の学校教育、特に初等教育をとても高く評価しています。
ルイス氏は、日本の親や教師は、アメリカに比べて、頭ごなしに命令したりルールを押し付けたりするなど権威主義的にふるまうことが少なく、子供の自発性を大切にしている、学業面だけではなく情緒や共感性や意欲など全人格的発達を重視している、と論じています。

***以上引用終わり***【転載終了】


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 瓢平様。 (とら猫イーチ)
2013-02-18 21:27:09
 瓢平様。

 私の場合には、戦後の教育を受けたのですが、度々、教師より体罰を受けました。 それも、指導力の無い児童・生徒が嫌うタイプの教師が体罰をしていました。 児童・生徒に慕われていた教師は、体罰はしなかったですね。
 武道ー合気道の道場では、若い師範代が指導をしていましたが、体罰等は考えられなかったです。 一声かけられれば、誰もが率直に受け入れていました。 矢張り、実力がある人には、自然と従うものです。 大勢の児童が師範代の教えに率直に従っていました。 学校では、違ったですが。 荒んだ学校でしたね。
 でも高校から私学へ行きましたら、名前を「君」「さん」付けで呼んでくれるようになり、一人前の人間として扱われるようで嬉しくなりました。 
 学校は、私学の方が良いように思います。 教師の転勤が無く、退職までは、何時学校へ行っても同じ教師が居て、大人になってからも近況を聞かれたりして嬉しかったものです。 公立は、教師の質に問題があるような気がしますね。
返信する
何でもそうだが、正しいことでも度が過ぎると物事... (通りすがり)
2013-02-19 20:18:49
何でもそうだが、正しいことでも度が過ぎると物事の本質から離れる。
何事も中道を旨として見ていくことが大事ではないだろうか。

体罰は法的に禁じられている。
そんなことは、誰よりも現場の教員が誰よりもよく知っているはずである。
それにもかかわらず、体罰が無くならないのには、教員の怠慢もさることならがら、何か現行教育制度に根本的な欠陥があるからではないだろうか。

部活については、偏に行き過ぎた成果主義の歪であるという巷の論に私も賛成である。
部活の本来の意義を忘れ、プロ化している。
そうした中で、結果を焦る指導者が手を上げることになるのだろう。
よって、部活での体罰は、部活動のあり方を見直すことが手立てになるだろう。

他方、体罰で問題になるケースは、生徒指導上のことであり、むしろこっちが数的にも主流だろう。
ここでも体罰は無論違法である。
しかし、一方で、教員は学校内では「警察」も兼ねている。
生徒は必ずしも善ではない。
むしろ、影でいじめを行い、自殺にまで追い込む奴らまでいる。

余談だが、ブログ中にあるモーリスの話には、子供たちについて、「どんな貧しい家庭の子供たちでも、10歳頃には、礼儀作法について完璧に身に着けている。」とある。
つまり、江戸時代とは、子供の質も家庭教育の質も非常に異なる。
体罰は無くて当たり前。そういう場面が発生しないからだ。

それにくらべて、現代の学校では、生徒の中には、明らかな犯罪予備軍も含まれる。
それを相手に、「体罰は違法です」でお上品に指導ができると思っているのだろうか。
出来るというなら、警察も自衛隊もいらない理屈だ。
だが、現実には、反社会的行為に対して、手を上げても「体罰」として罰せられる。
そこには、いわゆる一般的な社会の常識がそもそも通用しない。

そこで、一つの案だが、校内での反社会的行為を、退職警官か何かをで常駐させて、治安を彼等に委ねてみてはどうだろうかと思う。
警察も天下り先が出来て喜ぶだろうし、教師も生徒指導という大きな重荷から開放されるのではないかと思う。
また、元警官なら場慣れしているのではないかと思う。
体罰云々も、教員でないから適用外。
常識の範囲で対応すればいい。

聖書には、イエス・キリストが神殿内で商売するパリサイ人相手に大暴れして、彼等を外に叩き出す場面がある。
時には、それが「愛」であることもある。
順法精神は大事だが、それのみで他人を批判するのは視野が狭すぎる。
尾木は、私の目には現代のパリサイ人のように写る。
繰り返すが、体罰反対は正論だが、それにも中道の物差しをあてて考えなければ本質から外れるとおもう。
返信する
つむじ風さま、はじめまして、空我と申します。 (空我)
2013-02-20 01:14:40
つむじ風さま、はじめまして、空我と申します。

いつも拝見させていただいておりますが、初の書込みになります。
『癌はガンにあらず』の再販を購入、春ウコンも常備、お世話になっております。

さて、私は40代半ばとなりますが、大学卒業後の4年間を教壇で過ごしました。
短くはありましたが、中身の濃い教員生活を送ることができました。

今回の記事について、あるいは昨今の体罰問題について、私の知る限り誰も言わないことですが、とても単純明快なことがあります。
それは、「体罰」あるいは「愛のムチ」、こんなものは「指導力のない教師」の自己弁護・詭弁・タワゴトでしかない、ということです。

私自身も短気ゆえに、今思うと恥ずかしいことですが、児童・生徒に手を挙げたことがあります。力でねじ伏せるわけですね。
子どもは、恐怖からその場言う事を聞くのですが、それは抑圧であり脅迫、暴力でしかありません。教育などと呼べるものではありませんよね。

ところが、ある年、初めて恩師と思える校長に出会うわけです。
彼の指導のもと、前年クラス崩壊した6年生を担任することになるわけです。

結論からいうと、一切手を挙げることなく卒業まで至るわけです。
しかも、前年の問題の本質までを授業で取り上げ、理解させた上で。

校長の教えてくれた本質とは、「子どもの内面に寄り添え」ということのみ、でした。
こんな出会いや実践があったからこそ、現在の学校教育・部活指導における教師の暴力問題が透けて見えてしまいます。

しかし、教員養成系の学部で、教師の体罰に関する問題、本質が取り上げられることなど、金輪際ないでしょう。
つまり、教師の資質向上など絵空事であり、体罰が暴力であり犯罪であることを悟った教師にしか、子どもを安心して託すことなどできません。

記事にもありますように、歴史的には「皇軍」からでしょうね。近代軍隊のあり方がそのまま教育現場に移されています。
私たちの世代でも、運動会の入場行進、「頭(かしら)右!」とやらされたものです。

長くなりました、駄文をお許し下さい。
今後とも、有益な情報・記事を期待しておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

空我

返信する
コメ違いで申し訳ありません。 (なむなむ)
2013-02-22 03:38:38
コメ違いで申し訳ありません。
太陽活動について、情報なあったら、記事をお願いします。
最近の太陽活動に不思議な事の一つなのですか、NASAのえいぞうですが、太陽から黒い光?黒い放射が出ている影響ですが、
偶然かもしれませんが、同じ時刻に私の身体が反応して、冷えきってしまい、身体が熱生産してないんじゃないか。死んじゃうのかな?と思うくらい冷えて冷えて、カイロや暖房では、どうにも身体が温かくなってくれないのです。
太陽があの現象を起こしたのは昨年末と、今年に入ってからともお、3回か4回?くらいおきていて、その都度、身体が尋常じゃない、冷え方をします。足先だけじゃなく、身体の芯がどうしようもなく、冷えきってしまいます。
毎回同じ症状がおきています。
本当に深刻な寒冷化してしまうのでしょうか?
他界するのはいといませんが、冷えて、生きてる心地がしないのも、嫌なかんじです。
他にも何方か同じような体感の方はいらっしゃるでしょうか。
つい、2、3日まえにも太陽は同様の事が映像で確認できたようです。正体はわからないらしいですが。ゆくゆく判明するのでしょうかね。
返信する

コメントを投稿