飄(つむじ風)

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『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑮

2008-05-12 21:35:29 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑮

シムトラの よい知らせ!! Ⅵ

<ルツ記を読みなさい>

 具体的なことは分からないが、祭司ことシムトラと主との預言を通じての対話が、自然と生き生きとして伝わってくる。いける神とは、まさしくそういうことなのであろう。神は語らず、応え給わずということは、神がいないのと言うことではなく、神を求める側に問題がある。と、言うことなのであろう。2061493_1190114413_85391169txpjct3d

 その意味で、預言のこの箇所は重要な意味がある。

 ともすれば、我々はご都合的に神を求め、ご都合的な応えを求めていることに気がつくことが肝腎である。それ以前に、応えを与えられていることが多い。しかし、それに気づくことがない。そういうことなのであろう。それは分かる。

 信仰とは、どこまでも素であり、直くあらねばならない。ということを教えられる。翻って、今の時代、千客万来、居士多才あれども、その素直さを美徳とする者は少ない。そこが問題である。いや、それが人間の進化というモノであるなどと言う声が聞こえる気がするが、その人間が何によって創られ、何によって進化をしたかの根底を誤ると大変である。

 人間が、神になる。そのようなことは人間の奢りであり、諸悪の根源である。そのように考える輩が、敢えて言えばサタンであり、サタンによって誘導される者達ををサタニストと呼び、サタニズムを蔓延せしめている。これが現代の加速度的に進行する世界混乱の基である。

 結局、自然を含む世界を神に代わって、支配しようとするドグマに犯されてしまっているのが現況の世情である。その意味で、この預言は真の信仰を呼び戻すきっかけとなるにちがいない。


【転載開始】
<ルツ記を読みなさい>

平成14年12月、やっと私は何か月ぶりかで「願い望み」を神に献げました。

その時、私が願ったのは夫のことでした。

夫が、魂で神を呼び求めてくれるように、そのように時が満ちるようにと願いました。私が神に願い望みを献げたのは、大祭司から指導をいただいたからです。

 私たちの願い望みに対して、神がどのような御業を示されるのか教えていただかなければ、私たちはその御業をただの偶然だと思い、気がつかないかもしれません。

預言者を通して御言葉をいただき、大祭司を通してその御言葉を私たちに伝えてもらわなければ、私たちは神の御言葉を知ることはできないのです。

主なる神は、私たちの目には見えなくても確かに存在しておられるのに、人は信じるために、すぐ目に見えるものを欲しがります。神殿や祭壇は、神のためでなく、私たちのためにあるのです。

 神から初めて御言葉をいただいてから2年以上が過ぎ、やっと私はそのことを理解したのです。

平成14年12月29日、私に対して御言葉がありました。

「あなたが神を呼べば、敵(あなたの敵であれ、夫の敵であれ、あなたの子の敵であれ、神の敵であれ)は必ず退き、神はあなたの味方だとあなたは悟るだろう。神の言葉を(御言葉=預言)を讃美せよ。主の言葉(御言葉=預言)を讃美せよ。今、あなたは『ルツ記』を読みなさい。あなたたちは何が正しいかを見分け、何が善いかを識別しようとする。しかし、人間がそれを見分け、それを識別できるだろうか。あなたの願い望みに先立って(あなたが今回のような願い望みをもつようになる前に)、あなたが神を呼べば、敵は必ず退き、神はあなたの味方だとあなたは悟るだろう。神の言葉(御言葉=預言)を讃美せよ。主の言葉(御言葉=預言)を讃美せよ。今、あなたは『ルツ記』を読みなさい。」

私は、ただその通り「ルツ記」を読みました。

「神を呼ぶ」とは、私たちが書き記した願い望みを祭壇に献げ、その願い望みに対して預言者を通して御言葉をいただき、大祭司がその御言葉を解釈して、私たちに答えてくださるということだったのです。

 主なる神が預言者を通して与えてくださる御言葉を、正しく解釈することができるのは、今は大祭司だけなのです。

平成15年1月16日、私はルツのように生きるにはどうしたらよいのか、どのように旅を進めたらよいのか教えてくださるように、主なる神に願い望みを献げました。また、私は、今までまだ一人の人の願い望みも集めることができないでいます。私は、そのままを神に献げました。そして、何があってもゆるがない確信をもってしっかりと歩みたいと、主なる神に願い望みを献げました。その祈りを献げ、しばらくしてから、私はようやく「献げもの」とは「告白」であったことに気付くのです。

平成15年2月2日、主なる神から御言葉がありました。

「わたしの祭司よ、わたしが教える。これはどういう意味か、答えるがよい。『マナセは十二歳でユダヤの王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビの生活の糧を、町々の耕地から徴収して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。祭司とレビ人は神への務めと清めの務めを守り、詠唱者と門衛はダビデとその子ソロモンの定めによく従った。ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への讃美と感謝の歌をつかさどった。ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日、詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。かつて彼らは、パンと水をもってイスラエル人を迎えず、バラムを雇(やと)ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。わたしたちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった。人々はこの教えを聞くと、混血の者を皆、イスラエルから切り離した。(しかしルツはどうだったか。よく考えてみなさい。)これに先立って、トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていた。』」

平成15年2月4日、私は、この御言葉についてこう答えました。

祭司の務めをきちんと果たすなら、食べることに困ることはない。また、たとえ神の会衆に加われないと記されてあっても、心から神を求め従うならば神はその人を受け入れてくださる。そして、女性としての私のあり方が、これからの息子に大きく影響する、と。

ルツは、彼女のすべてをかけて神に従い、自分のなすべきことをどんな状況下においても果たしていました。私は、いつも状況に振り回され、その状況がよくなることを神に願うばかり・・・。神は、私が清くなるように、雪のように白くなるように洗うとまで言ってくださっているのに・・・。

私は「私のすべきことは、神を伝えること」と思い、へいせい15年2月20日、「これを伝えたい」と自分勝手に思い込み、神に献げたのでした。

平成15年2月25日、私の願い望みに対して、神は教えてくださいました。

「いかに幸いなことか、矢筒をこの矢(わたしの言葉)で満たす人は。町の門で敵と論争する時も恥をこうむることはない。」と。また、「あなたはわたしの祭司ではないか。あなたはわたしが『せよ』と言うことを、せよ。わたしが『伝えよ』と言うことを、伝えよ。それがわたしの祭司ではないか。」と言ってくださいました。預言者や神の使者たちがしていることについても、「彼らが伝えているのは『わたしの言葉』であり、彼らはわたしが伝えよと言った、わたしの言葉を伝えているのだ。」また「香油は病む人を癒すために伝えるのではなかったのか。」と教えてくださいました。

さらに、こう言ってくださったのです。

「わたしの使者が、主の聖所を訪れたあなたのもとに来て、『神は我々をあなたのもとに遣わし、あなたをイエスの花嫁、すなわち祭司として迎えたいと言っています。』と告げた。あなたは立ち上がり、地に伏して礼をし、『私はご主人様の僕たちの足を洗う足を洗うはしためになります』と答え、すぐに立ち、急いでわたしの使者の後に従った。あなたは主の花嫁、すなわち祭司となった。」

「あなたの願い望みは間違っている。正しく、わたしに求めよ。そうすれば、わたしはあなたに『これをせよ』『これを伝えよ』と言おう。献げ物は、その時、受ける。」

本当に本当に私以上に神は私のことをご存知です。

平成15年3月2日、御言葉がありました。

「わたしがあなたを偶像崇拝の地から導き出した時、その最中にあなたの地(
神奈川区)の長が、わたしの僕らに反旗を翻してその支配から脱し、自分たちの王を立てた。それゆえ、わたしの言葉は火と燃えて天の軍を率いて彼らがわたしの聖所にのぼって来た時に、夜襲のように彼らに襲い掛かり、彼らとその長たちを打ち破った。しかし、その民は自分の家に逃げ帰った。こうしてあなたの地の長はわたしの僕らに反旗を翻してその支配から脱し、今日に至っている。その頃、同時に関東にいた別の長が反旗を翻した。

 あなたはその者たちと、その者が住む地に、わたしの言葉を伝えるがよい。

平成15年3月9日、私の願い望みに対しての御言葉がありました。

「あなたの嘆きがわたしの前に届いた。わたしの腕の力にふさわしく、あなたと共に住む『死に定められている人々』を生き長らえさせよう。主なるわたしは、近隣の民のふところに、わたしを辱めた彼らの辱めを、七倍にして返そう。あなたたちはわたしの民、わたしに養われる羊の群れ。とこしえに、歓喜してわたしの道を歩み、代々に、あなたの主なる神の栄誉を語り伝えよ。床につくときにもわたしに語りかけ、わたしへの祈りを口ずさんで夜を過ごしなさい。わたしは必ずあなたを助けよう。わたしのふところの中であなたは喜び歌う。あなたの魂がわたしに付き従うならば、わたしは右の手であなたを支える。あなたの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられる。剣にかかり、山犬の餌食となる。わたしによって、あなたたちは喜び祝い、誓いを立てた者は誇るようになる。偽って語る口は必ず閉ざされる。あなたはこう伝えなさい。『わたしは、神が全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。罪の数々がわたしを圧倒しましたが、神に背いたわたしたちを、神は贖ってくださいます。いかに幸いなことでしょう、神に選ばれ、近づけられ、神の庭に宿る人は。恵みの溢れる神の家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りています。わたしたちの救いの神、神の恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えです。遠い国、地の果てに至るまで、すべてのものが神に依り頼みます。御力をもって山々を固く据え、雄々しさを身に帯びておられる方。 大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎを静める方。お与えになる多くのしるしを見て、地の果てに住む民は畏れ敬い、朝とゆうべの出で立つ所には、喜びの歌が響きます。神は、眠りから覚めた人のように、酔いから覚めた勇士のように奮い立ち、御自ら油を注がれた人の敵を撃って退かせ、とこしえに嘲られるものとされました。』」

 神は私に、人々に伝えるべきことを教えてくださいました。

平成15年3月10日にも御言葉がありました。

「わたしの祭司よ、あなたに、わたしへの願い望み方を教えよう。あなたがいま、わたしに願い望むべきことは、こうである。『主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください。心よ、主はおまえに言われる“わたしの顔を尋ね求めよ”と。主よ、私は御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく、わたしを退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください、見捨てないで下さい。父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。主よ、あなたの道を示し、平らな道に、導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。』」

『神に御言葉を願い望みなさい』

そういうことだったのです。そして「告白」からすべては始まることもやっとわかりました。

 私は、偶像崇拝していた自分を、神が御心に留めてくださったのだと思っていましたが、そうではありませんでした。

平成15年4月16日の御言葉。

「私は偶像崇拝していたあなたを心に留めたのではない。サタンは理由もなくあなたを偶像によって破滅させようとしたが、あなたはどこまでも無垢であったので、あなたの唇の叫び(祈り)はわたしの耳に届いた。

あなたの叫びを聞き、あなたをサタンの唆しから救い出すだめに、あなたに心を留め、あなたを救い出した。あなたと、あなたの子は、わたしの霊によって新しく生まれた。」

私は、「そうだったのか、そうだったんだ」と思いました。

私が神を選んだのではなく、神の一方的な憐れみによって私を導き出してくださったことをはっきりと知りました。また私は、息子も神によって新しく生まれるのだということも知りました。人は、神に「命」の息吹を吹き込んで頂いて初めて、真に「生きる者」となることができるのです。ただ、この時の理解はまだ漠然としたものでした。

<平成15年の過越祭と七週祭>

 私は、平成15年4月20日、過越祭の祭礼を祝うために、夫に頼んで主の神殿に行かせてもらいました。その過越の前から、私の信仰の軌跡、そして与えてくださった神の慈しみを記し始めました。神が私に、それを記すようにと言ってくださったのでした。

一つ一つをよく思い出し記すことが、私自身のためでもあり、世に伝えるためでもあったのです。

 平成15年6月、主の神殿で七週祭がありました。私は、主の聖所で三大祭礼(過越祭、七週祭、仮庵祭)が執り行われるようになってから、まだ一度も七週祭に参詣したことがありませんでした。なぜなら、過越祭から七週祭までの期間が短く、夫に、「また大阪まで行かせて欲しい」と頼みづらかったからです。自分勝手な都合からでした。

 私は、夫にあらためて「1年に3回、主の神殿に行かせて欲しい」と頼みました。夫は、何も言わず承知してくれました。

神が、ちゃんと計らってくださっていました。また、「主の神殿」に行くことをいつも承知してくれる夫に、感謝を忘れてはならないと思いました。私はこの時から優先順位が逆転したのです。


平成15年8月17日、私は神がこれからも色々なことを私に教えてくださるように、また御言葉に聞き従っていくことができるようにと、主なる神に願い望みを献げました。

 平成15年8月18日、まだ主の神殿に私の願い望みが届いていないのに、神は私に、「『エレミヤ書17章19節』を読むように伝えなさい」と御言葉をくださいました。この願い望みを主なる神に献げる少し前、あいかわらず安息日がよくわからない私に大祭司は、「聖書をよく読んで、答えをみつけるように」と言ってくださいました。それでも私はまだ、なぜ「安息日に荷物の出し入れをしてはいけない」と神が言われるのか、わからずにいました。そのことを具体的に教えてくださるように願い望みを献げてはいませんでした。自分でもっと捜さなければいけないと思っていました。

でも、神は私が今何を一番教えていただきたいと思っているか、よく御存知だったのです。

私は、すぐに『エレミヤ書』を読みました。

 平成15年8月18日13時50分、祭司である私に伝えよと言われた御言葉。

「祭司であるあなたは天の御使いたちが見守る中で、その書(エレミヤ書)を開いた。彼女が書を開くと天の御使いたちは皆、立ち上がった。」

 私は、そういう状況の中で読んだなんて夢にも思いませんでした。でも以前、神は私に「御使いをつかわす」と言ってくださっていました。魂が潤うって、こういうことなんだなぁ・・・そう思いました。そもそも、神は、神の憐れみのゆえに、私が安息日を守れるようにしてくださっているのです。世の中の状況では、安息日に色々なことがあります。でも、それを思い煩うのではなく、どうやったら守ることができるか知恵を求めればいい、神の言われることを守るのに、人の顔色を気にしてビクビクすることはない、やっとそう思えるようになりました。以前から神は、「たとえ敵に包囲されても、必ずそこから救い出す」と、私に言ってくださっているのですから。神が与えてくださった安息日は、私たちの喜びなのです。本当に、今まで何一つとして神の言われたことが実現しないことなどないのです。「御使いをつかわす」と言ってくださったことも「わたしがあなたに教える」と言ってくださったことも。

平成16年2月4日、主なる神は、預言者を通して私にこう言われました。「わたしがいったん定めたなら、だれも翻すことはできない。わたしは望むままに行う。あなたのために定めたことを実行し、ほかに多くのことも定めている。あなたのことも、あなたの夫のことも、あなたの子や子孫のことも、あなたの父のことも」

これから先、神が私に一体どんなことを定めてくださっているのか、私にはわかりません。でも、それは必ず神が私の喜びとして定めてくださっていることと確信しています。
なぜなら、神は私に子供を授けてくださり、神は私を偶像崇拝の中から救い出してくださり(そのまま偶像崇拝を続けていたら大変なことになっていた)、私はこうして神を知ることができたのですから、

 この年の仮庵祭のあとから、私は個人としてではなく、祭司として新月祭のお祈りを神にお尋ねしながら献げさせていただくようになりました。

神は、本当に忍耐強く一つ一つ丁寧に教えてくださいます。
私は、いつも「これからも私に教えてくださるように。そして、いつも素直に神に従う私であるように。」と神に祈っていました。

 平成18年(2006年)2月10日昼、私に御言葉がありました。

「『主なる神は生きておられる。』ことを、もしあなたが告知し始めなかったら、追う者たちが『夜明けのとき』までその兄弟を追い続けたことだろう。」

 平成18年9月、私は新年祭と仮庵祭を祝うため、息子と神殿に参詣しました。
その少し前から、私のなかにモヤモヤとした疑問がありましたが、それをまだ口にしたことはありませんでした。
でも、神は本当に何もかも全て御存知で、預言者に「シムラトが来たらイザヤ書の56章6節~7節を教えるように」と言ってくださっていました。そこにはこうありました。

 主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく私の契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なる私の山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。

神は「わたしが教える」と私に言ってくださった。
その御言葉通り、神は私に惜しみなく教え、育て導き続けてくださっています。
神のくださる御言葉は、何一つとして虚しいものはなく、何一として成就しないものはありません。【転載続く】


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