飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

人は皆、一人一人別の世界に生きている!!

2009-06-28 18:08:49 | ブログ

ふるいちまゆみさんの慧眼!!
彼女の直感は、いつもながら小さな悟りへと誘う......
 

 


 批評するには、おこがましい話かも知れないが、共感する思いを伝えたい。

 

 

 まことに示唆に富んだ慧眼!

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ふるいちまゆみさんの素敵な写真拝借>

 

 

 人間が独立した『個』に生きていることは間違いがない。いろいろ回りに振り回されるのが、人間の常であるが、実のところ、振り回されているいるのは錯覚であって、『個』は本当は微動だにしていないのである。例えば、映画館で映画を観る。感動したり、時にはのめり込んだりすることがある。映画が終わると、余韻を残しながらも、元の自分に戻る。元の自分は、何等、変化してはいない。

 

 

 映画は、別次元の世界だからである。丁度、人生も立体モーションピクチャーを観ているのと同じだと感じることがある。もう一人の自分が、そう思っている(感じている)ことが、自覚されることがある。まことに不思議な感覚である。この感覚は、常ではないが、度々、味わってきた。それを、自分なりに『遠くにいる自分』と表現した。幼い時から、時折、感ずる感覚である。

 

 

 それは、非常に冷めた感覚でもあった。かといって、ニヒルな感覚ではない。

 

 

 結局、自分の肉体を車で喩えてみれば、車内から車外を一線を画して眺めているようなモノである。車体には神経がないが、肉体には神経がある。にもかかわらず神経から伝わる感覚に客観視している情況。

 

 

 で、ああ、こういう事だったのか......と思わせるふるいちまゆみさんの慧眼。

 

 

 と言うことは、人はそれぞれ交流はするけれども、その人には確固とした主体性のある世界があり、そこは不可侵性があると言うことだ。誰もがそうなのだ。永遠にそうなのだ。これが、『天上天下唯我独尊』の本当の意味かも知れない。個性というのは、唯一でそれぞれ独立している。宇宙にただ一つなのだ。だから、尊いのだ。そんな思いがした。

 

 

 それは、誰しもそう言うことなので、立ち入ることは出来ないが、響き合うことは出来る。そして、共鳴しながらも、あくまでも個として人間は世界を拡げていく。こころの一点、普遍的なモノを併せ持ちながらも、人間は独自の世界を生きている。

 

 

 そんな感慨が去来した。 




【転載開始】『つながっているこころ』より

 

「在る」

 

大切なことの書き忘れ。色字のあたりを追記しました。

人は皆、一人一人別の世界に生きている。

これは私の口癖でもある。
過去に何度もそう書いてきた。
今日はもっと分かりやすく先も書いてみましょう。

人は皆、自分の世界から、世界を他者の世界をみている。
だから批判されようが褒められようが
結局は見る側の世界からみているのであって
イコール見られる側ではない。

こうやって考えれば、人から悪口を言われても気にならない。
(でも事実関係に関しては、しっかり反論、抗議すべきだと思う。)
どんなに悪口言われても、それは自分自身ではないのだから。
それはあくまでも悪口をいう人の世界だけで起きていることなのだから。
しかし、ほとんどの人はそれに傷つき、振り回され、
延々と果てしない人間ドラマが生まれ続ける。
これが大きくなると戦争になる。
果てしない人類の不幸をどこかで止めなくてはいけない。

じゃ、褒められる場合はどうなの?
まったく同じこと。
でもやっぱり褒められるのは人間誰しも嬉しいでしょう。
同じ人間ドラマが作られるなら、こっちのほうがいい。
でもある意味、悪口以上に気をつけなくてはいけない。
人によっては褒められことによって慢心につながり身を滅ぼすことがある。
権力や権威につながることもあるでしょう。

悪口はまったく気にしなくてもいいけれど、
褒め言葉は、自己を戒めるために、少し気にしたほうがいい。

別の世界に生きているとわかっていても、
個人的に一番嬉しいのは、

私をみてくれていた人がいたんだ!

と感じたとき。
こういうときはもう、涙ボロボロ。

あと好きなのは、体が震えるような嬉しい批判かな。
そういう批判をずっとずっと待っているのに、未だに一度もない。

ここで終わったら
ブログタイトル、「つながっているこころ」はどうなるの?
って思う人も多いでしょう。

「つながっているこころ」、
「こころがつながっている」、
この二つは微妙にそして大きく違います。
これには私なりの理由があります。
ひらがなの「こころ」にしたのにも理由があります。

今日はこれに関しては書きません。
各々で考えてみてください。(後略)【転載終了】続きを読む


植草一秀さんを有罪にした裁判長とは?

2009-06-28 17:00:46 | 植草一秀

何とも、重苦しい空気!!
腹立たしい思い、
無罪をこそ、確信していた『植草冤罪事件』......。
政治的不当判決、これ以外に言葉がない!!


 何年かかっても、冤罪は晴らさなければならない。そして、事実に基づかず、裁判官の『論理則、経験則』で判断したものと見なされるから、たまったものではない。


 それならば、植草先生を知る多くの人々は、『論理則、経験則』で冤罪の事実を疑いを差し挟む者は居ない。

Photo


 政治的不当判決である最大の理由は、事実無根による先生の誹謗中傷をメディアでもってまき散らし、挙げ句の果て、捏造事件をでっち上げた、謀略事件である。それを糾弾するならともかく、この裁判官は、引用記事によると、周到に植草先生の他の民事事件、そして、同類の事件の担当裁判官を通じて、この度の判決理由を構築した経緯がある。


 この裁判こそ、謀略チーム一員かと思うほどの異常さである。これでは、真実が明らかにされることはない。最初から最後まで、謀略の中で進行している。


 何年かかってもというのは、政局が変わり、政権が変わり、謀略の基となった売国利権集団が一掃されて、再審を不断に求め勝利を得るしか方法がない。これは、一人植草先生の問題ではないのである。『真実を追究する者達』が、いつ何時、同じ毒牙に掛かるやも知れぬ問題である。


 その状況証拠に、今回の判決結果を、あろう事か小沢代表とツーショット写真を掲載した産経新聞や、ことさらに、先生の異様な写像写真を掲載したことからも窺える。


 さらに、これは本の小さな事ではあるが、拙ブログに対しても勝ち誇ったように《最高裁は被告植草一秀の上告を棄却する決定をした。懲役4カ月の実刑とした一、二審判決が確定する。(左翼痴漢の末路)219.43.33.143という、スパムコメントがご来場した。勿論、公開はしなかったが、ここに掲載しておく。


 こんな事は、余計なことである。余計なことをする連中が居ると言うことは、組織的に植草先生を貶めようとした連中が存在することを示唆している。


 先生ガンバレ!! 真実は最後に勝利する。真実を求める者は、先生を見捨てることはない。




【転載開始】植草一秀さんを有罪にした裁判長とは

植草一秀さんに不当判決を押しつけた 近藤崇晴という最高裁の裁判官。
最近やけに活躍している。

まず、わずか4日前に「サンデー毎日」の名誉毀損を植草氏が訴えていた事件で、植草氏の敗訴を確定させた裁判長が、なんと同じ近藤崇晴である。
こんなことがあっていいのか?

また、今年4月に同様の痴漢えん罪事件で、防衛医大の名倉教授に逆転無罪判決を下した裁判長の中に、この近藤崇晴がいる。そして、わざわざ補足意見まで残している。この判決で、もしかして植草さんの逆転も と期待した人も多かった。

がしかし、今にして読み返してみると、今日の植草氏の不当判決を準備するための予防線だったかのようだ。

本 件は,満員電車の中でのいわゆる痴漢事件であり,被害者とされる女性Aが被告人から強制わいせつの被害を受けた旨を具体的に供述しているのに対し,被告人 は終始一貫して犯行を否認している。そして,被告人の犯人性については,他に目撃証人その他の有力な証拠が存在しない。

本件公訴事実が証明されているかどうかは,Aの供述が信用できるかどうかにすべてが係っていると言うことができる。

こ のような場合,一般的に,被害者とされる女性の供述内容が虚偽である,あるいは,勘違いや記憶違いによるものであるとしても,これが真実に反すると断定す ることは著しく困難なのであるから,「被害者」の供述内容が「詳細かつ具体的」,「迫真的」で「不自然・不合理な点がない」といった表面的な理由だけで, その信用性をたやすく肯定することには大きな危険が伴う。

また,「被害者」の供述するところはたやすくこれを信用し,被告人の供述するところは頭から疑ってかかるというようなことがないよう,厳に自戒する必要がある。

と、あたかも冤罪を防ごうという姿勢を見せているが、これは判決文や、この前に出てくる那須裁判官の補足意見を繰り返しているだけで、なんでわざわざこの補足意見を書いているのか、まったく分からない。なにか不自然なものを感じる。

さらに、読み進めると、近藤崇晴はこのように書いている。

被害者の供述には幾つかの疑問点があり,その反面,被告人にこの種の犯行を行う性向・性癖があることをうかがわせるような事情は記録上見当たらないのであって,(略)

ここで、この件と植草事件は違うんだということを言いたいらしい。なにせ、サンデー毎日の「セクハラ癖があることは業界では有名」なんていう暴言を、名誉毀損ではないというのだから、近藤の頭の中では植草さんはセクハラ癖が業界で有名な人間だと言うことになっている。

それにしても裁判なのだから、証拠も無しにそんな予断と偏見で決めてしまって良いのか。
これについては、

記録を検討して自らの事実認定を脳裡に描きながら,原判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかどうかを検討するという思考操作をせざるを得ない。

その結果,原判決の事実認定に合理的な疑いが残ると判断するのであれば,原判決には「事実の誤認」があることになり,(略)

なんとここで、「証拠がなければ自分の『経験則』で有罪にできる」と言っているのである。
まるで、4月の段階で植草さんの有罪確定を準備していたかのようだ。

こうして、同じ大学教授と言うこともあり、名倉教授の事件を比較対象にすることで、植草さんの有罪を強引に決めつけたのが、この近藤崇晴という最高裁判事である。

ちなみに、「証拠がないなら経験則で」は、この事件のみならず、死刑判決までも下している。

そう、あの林眞須美被告を死刑確定にした、裁判官の中にも近藤崇晴がいる。
(ちなみに、あの事件の判決確定にかんするニュースは、ネット上から消されている)
これも、判決文を読んでみると、詐欺事件をやったのだから殺人事件もやりかねないという予断に満ちている。

解散総選挙がいよいよというときに、植草さんを閉じ込めておこうという狙いは、ハッキリしているので、こんな細かいことをほじくらなくても良いのかもしれないが、ちょっと気になったので記しておく。

選挙対策という意味では、産経がいじみくもその意図を露呈している。
使っている植草氏の写真に、わざと変な表情のものを使っているだけでなく、何の脈絡もなく小沢一郎とのツーショット写真を並べている。いかにも産経らしい下卑たやりくちだ。

植草被告の実刑確定へ
2009.6.27 産経

小沢氏も植草氏も、この写真をぜひ有効に使っていただきたい。できれば獄中から立候補し、出てきたとたんに財務大臣ていうのはいかがだろうか。

晴天とら日和さんが、こういうときに再確認しておくべきことをまとめてくれたので、再掲します。【転載終了】