「備えあれば憂いなし」 マタイによる福音書 24章36~44節
「時」とは、誰にも平等に与えられ、刻まれて行くものです。人間には、それを早めたり、遅くしたりすることもできません。また、「時」には「その時」と呼ばれている最後の審判の時があり、それがいつ訪れるのかは人間の知るところでなく、神さまだけがご存じの領域です。
だから、人間にできるのは「目を覚まして」いることと「用意」することであると教えられています。しかし、ノアの洪水の時、ノアの家族以外の人たちは、洪水が襲ってくるまで普段通りの生活をし、洪水がやって来た時に一人残らずさらわれてしまいました。人間は、「その時」を知ることができず、「目を覚まして」いることも、「用意」することもできなかったのです。
信仰とは、この世でも、あの世でも幸せに生きたいと願うことです。そのためには、今この時の生き方を吟味し、互いに愛し合って生きることが大切であるとイエスさんは教えています。この地上で互いに愛し合って生きることが、「目を覚まして」いることであり、「用意」することではないかと思います。