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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2016年05月07日 | 礼拝のご案内

 明日5月8日(日)の主日礼拝は、教会暦で「母の日」です。午前9時から教会学校、10時15分から讃美歌練習、10時30分から礼拝が始まります。メッセージの題は、「母への思いが社会を変えた」です。讃美歌は「十字架の血に」(今月の歌)、「キリストの前に」、「むくいを望まで」です。礼拝後には、祈りの一時、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 昨日の堆肥作りの作業のため、身体が痛いです。全力を出さずに、時間も気にせずにマイペースで身体を動かせば、何とかなるものですが、昨日は雨がポツポツと降り出しましたので、濡らしてしまっては元も子もないので、大慌てで作業をしました。全力以上に頑張って、パワーの前借りをしてしまいましたので、予想通りの反動が出ました。それでも、今日の昼には身体も元通りになって良かったです。

 

 


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「地の果てまで遣わされた」

2016年05月07日 | 聖書のお話

「地の果てまで遣わされた」 使徒言行録 1章6~11節

 聖書は、「時」というものについて、それは神さまに「委ねるもの」であると教えているように思います。特に、死を迎えることについて考えると、神さまが主体をもって決められることであると受け止め、神さまに信頼を寄せることによってしか平安を得ることができないように思えたりもします。そのことの反対が、人の判断や力を優先して、神さまに「委ねる」ことをしないということではないでしょうか。あたかも神さまを信頼し、委ねているかのように見せかけてはいるけれども、実は人間的な思惑によって、神さまに対する信頼さえも人為的に偽装されていることもあり、その境界線を見分けるのは、なかなか難しいのではないかと思います。

 宣教とは、聖霊の後押しや助けによって、地の果てにまで遣わされて神さまの愛を宣べ伝えることであると教えられています。聖霊の働きに押し出され、助けられ、支えられるのが宣教ですから、そこから神さまに「委ねる」という人の思いを超えた信仰が現されることになります。そもそも人為的な宣教など有り得ませんし、反対に、人為的な傾向が強すぎると、神さまに「委ねる」という部分がおろそかになってしまうものです。教会の維持運営一つをとってみても、採算とか、効率とか、人間的な考えが幾つもあります。それらを突き詰め過ぎると、宣教もまた人為的な営みになってしまいます。宣教とは、聖霊の働きによって行われるものです。イエスさまは、聖霊を遣わすと約束してくださいました。私たちは、イエスさまの約束を信頼し、聖霊の働きに委ねて歩むとき、平安のうちに信仰生活を送ることができるのではないでしょうか。

 


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