Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

自分の描く風景

2009-06-23 12:26:33 | 農村環境
 「「景観」とは何か」より

 毛利文陽氏の景観意識調査結果から述べているが、伊那市西箕輪での結果にもう少し触れてみよう。毛利氏は自然性、眺望、親しみやすさといったものが評価を高める要因になると説いた。いっぽう人口構造物が見える景観に対しては評価が低くなる。自然でなくてはならないという意識そのものが「景観とは何か」へ後戻りする。そもそも景観とは人の手によって操作される風景といってもよい。とすれば人の手の加わった形で捜査される風景の中で、こうした評価によってそれらは選択されていくものなのだろうか。やはりこの意図にはどうしてもなじめないものがある。もちろん既存の景観を維持していこうという中から、地方によっては発信し始めるわけだが、だからといってその意図がこのような分析の上に成り立った操作で創られていくのは、むしろ地方を画一化していく恐れすらあるわけだ。前回も述べたような地域性とは何かと問う際、画一的な景観イメージを当てはめてしまうことは危険なことなのである。確かに眺望とか自然性といったファクターを持って、地域を紹介しようとすると、トリミングされた画像よりも広がりのある空間の方がよその人に対してのイメージ表現はし易い。しかし景観によってよその人にアピールする必要があるといってしまえばそういうことになるのだろうが、自らの地域を維持しようと言う考えに打算的なものは取り入れて欲しくないわけである。またそういう画一的イメージでないと「景観」では無いと思ってしまうのはとても残念なことなのである。

 地域らしさを示す因子を持った景観には農地や宗教に関するものがあったという。それらは評価は低くなかったものの、眺望や自然性といった因子のものよりは高く評価されなかったと毛利氏も述べる。ようは「景観」を考えるのなら、住民にとっても景観というものどう捉えるか学ばなければならないのではないかと思えてくるのだ。

 毛利氏の論文が掲載された『伊那路』629には合わせるように「身近な地域の調査~西箕輪ウォッチング」という西箕輪中学での社会課授業の取り組みを水上俊雄氏が紹介している。学習して思ったこととして生徒の言葉が取り上げられているが、盛んに「きれいな景色」とか「景色がいい」という言葉が登場する。もしかしたらここに書かれる前段の授業のやり取りが抜け落ちてしまっているために感じるのかもしれないが、では「きれいな景色」とはどういうものかと共通認識、あるいは個々の認識は定められていたのだろうか。大人も含め、わたしたちは情報化という社会に引かれてしまって地域の姿をもっとトータルに見つめなくてはならないと思う。もちろんこの誌面上から感じたものであって、きっとそうした背景も十二分に煮詰められているものだと思うが、こうした活動表現は、あたかもわたしたちの共通概念に集約されて紹介されてしまうことが多い。

 さて、わたしは電柱とか家とか、そしてそこに登場する人々のいる風景が好きである。そういう写真が撮れる人がうらやましい。ところが人のいるところでカメラを構えるというのは勇気のいることで、やたらに人にカメラを向ければ嫌がれる。そして意識しない写真を撮ろうとすれば、結局こちらを意識させないようにしなくてはならないわけで、そういう環境は作りづらいのである。あなろぐちっくさんの日記は写真で綴られるページで、けこう人のいる風景が多いという印象を持っていた。そこでずっと過去へ向かって検索していくが、実は印象ほど人は写っていなかった。そして気がついたのは、さすがに撮り慣れた人だとは思うのだが、写しだされた人は多くは後姿なのだ。この方が写真としておさまりが良かったり、プイバシーという面で良好なのだろう。人だけではない都会の姿も景観という言葉は似合わないかもしれないが人の世を映し出す風景だ。あなろぐちっくさんの「RD-1」に掲載されている写真にわたしは引かれる。また「親子遠足」にある写真は飯田市座光寺て撮られたもの。わたしはこの風景に電柱がいらないとは思わない。人の生活の中にわたしたちは居る。その人の生活とそこに造りだされた風景に、わたしたちは親しみを持って、そして「景観」などというものに惑わされない自分の風景を描くことを忘れてはならないのではないだろうか。


※以下は「あなろぐちっく」さんの写真から
「四谷」
「親子遠足」
「R-D1」
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