Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「景観」とは何か

2009-06-19 12:41:19 | 農村環境
 毛利文陽氏は『伊那路』629へ「住民の選好景観から見る、これからの景観施策への提案」という論文を掲載している。これは伊那市西箕輪地区における調査からのもので、専門的な分析を行っている。調査の方法については専門外のわたしたちにはまったく意味不明なものであるが、そこから導かれた結論というものについては違和感を抱く。そもそも景観とは、そして景観保護とは何かについて納得しできるイメージをそれらの言葉から描けないでいる自分である。

 そもそも景観とは何か。景観法というものはあるがそこでは景観についての定義づけはされていないという(ウィキペディア)。地理学の分野で利用されていた用語で使われ始めたのはそれほど古いことではないようだ。言われて見ればわたしのこどものころにはあまり使われなかった言葉かもしれない。いわゆる景観を乱すという意味での派手な看板や人工物に対する制約を持たせるような意味で使われ始め、今やずいぶんメジャーな言葉になってしまった。しかし、では「風景」とはどう異なるのか。風景写真ということは言うか景観写真という言い方はしない。そもそもこの用語には人工物を対象にした人の手のかかった空間を指して言っていることになるだろうか。とすれば農村において「景観」という捉え方をして景観条例を設けることの意味は何だろうか。

 毛利氏の西箕輪地区での結果を紹介しよう。ここでは紹介できないが18枚の写真を使って住民からアンケートを採っている。その評価因子として①地域の固有性、②眺望、③親しみやすさ、④自然性という四つだと述べている。またその因子の景観に対する寄与率をあげており、地域の固有性は21.5%、眺望が16.1%、親しみやすさが15.9%、自然性が3.6%ということだったようだ。ここではその18枚の写真を掲載できないが、対象者の中で最も評価の高かったものは、A.大清水川の管理道路を中心に西山を望んだもので道沿いには水田と河岸段丘沿いに山林が映し出されたもの、B.上戸の水田地帯から南アルプス方面を望んだ遠景、C.中条の西山の林道を中心にその両側によく整備された林が展開するもの、D.吹上の西山の途中から南方を望んだもの、これら4枚だったという。それらは自然性や眺望といったところに惹かれていると思われ、毛利氏も「良い景観と決定付ける大きな要因は、地域らしさ以上に、良い眺望が望めるかということが強く起因している」と考えている。さらにB,C,Dといった写真の背景には自然的というキーワードが当てはまるとも言っている。

 いっぼう評価の低かったものを見ると、E.大萱のセンターラインある道路に家が建ち並び電柱の建っているもの、F.中条の水田地帯の背景に民家があるもの、G.羽広から南アルプス方面を望んだもので前面にビニールハウスが映ったもの、H.大泉新田の荒廃地が映ったもの、I.吹上の道路と用水路をセンターにおいて民家があるもの、J.大萱のグランドとそこで遊ぶ子どもの小さく映るもの、K.上戸のセンターラインのある道路を前面に背景に経ヶ岳が映ったもの、L.羽広集落内道路を真ん中に両側に生垣と電柱が映ったもの、以上八枚である。ここに地域性に関する得点が低いというが、写真を見てそこからどう地域性を認識するかということに繋がる。果たしてそこには地域性がないのだろうか。ここから地域とは何か、地域性とは何かと対象者に問いたくなるのだ。ようは大きく展開された明らかに誰が見てもそこに映る対象背景がどこかわかるもの、例えば南アルプスが映っている、あるいは広域的な広がりのある地域が映っていれば地域性があって、狭いエリアを対象としたいわゆる近景的なものは地域性が失われるという意識に、その問いが生まれてくるわけだ。だからこそ「景観」とは何かと問うことになる。被験者と捉えている毛利氏にとって、この対象者にとって「景観」とは何かと説いた、あるいは問うことをしてみたのだろうか。大変専門的な調査方法を説明された後の結果の内容には、あたかも結果ありきから導かれた答えが解かれているようで違和感を抱くわけだ。

 続く
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