Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

河野義行さん

2009-06-21 19:38:34 | ひとから学ぶ
 昨日テレビ信州のスペシャル番組で「あなたならどうする 討論!始まった裁判員裁判」という番組が放映された。わたしは「死刑」判断はしないという河野義行さんは、松本サリン事件において犯人扱いされたことでよく知られている。奥様は長年の看病もむなしく松本サリン事件最後の死亡被害者となった。河野さんは、自ら「わたしには裁判員の依頼が来ない」というほど死刑廃止を主張する。ウィキペディアにおいても「オウム真理教の被害者にしては珍しく、死刑に対して慎重な考えを持っている。理由として、オウム真理教の被告人を死刑にすることで、「殉教者」になることを恐れていること、殺人を起こす人が刑法の規定を理解した上で殺人を犯しているわけではないことを挙げている。また、麻原彰晃のことを「さん」付けで呼び「教えは間違っていた」と声明を出してほしいと著書の中で訴えている」と説明されている。

 わたしは河野さんのことはあまりよく知らない。しかし、河野さんのことばにはけっこう納得させられる。一冊も河野さんの著書を読んだことはないが、好きな人の1人である。その言動には宗教者並みの悟りのようなものも伺えるが、わたしは特定の宗教を信仰しているわけでもなく、宗教に対して特別な思いは何もない。ただどんな宗派に属している人のことばであっても、わたしの心を打つ言葉にはその背景はどうあれ支持したいと思っている。それを「いいとこどり」と言う人もいるだろうし、八方美人と言う人もいるかもしれないが、だからこそ特定の宗教はもちろんのこと、いまだここはと思うような政党にも遭遇したことはない。

 河野さんは番組の中で犯人を恨んでばかりいれば自分は不幸になってしまうから、そういう捉え方は自分はしない、と言うようなことを言われた。きっとそれが故死刑に対しても肯定しないのだろう。被害者遺族の気持ちを考えれば「死刑も当然」と言う世論が強いなか、河野さんのように実際の被害者が死刑に対して慎重な考えを持っていることは、少し明かりを感じる。そもそも被害を受けようとも、犯罪者を恨んだところでどうにもならないというのが現実である。当事者じゃないからそんなことが言える、などと批判されるだろうが、人を恨めば自らも不幸に陥る。「しょうがない」という言葉をわたしはよく使うが、殺人に「しょうがない」はないだろうが、とはいえ、亡くなった人はけして帰ってこない。その現実をどう受け止めるかということである。世の中には不幸な人たちはいくらでもいる。しかし、だからといって自らその不幸の中で悔やんでも仕方が無いのである。

 田中康夫前知事が冤罪被害者の河野さんが長野県警糾弾の先鋒になることを期待して公安委員に任命されたが、田中知事と対立して公安委員を更迭されたことがあった。「悪」は悪であることは間違いないが、だからといって白黒はっきりした世界は必ずしも幸福をもたらせてくれない。きっと河野さんはそんなことを理解しているようにわたしは思う。自らの冤罪に対しても「当時の捜査において他殺と断定できなかった事はやむを得なかった」と判断したことも、河野さんならではの判断である。間違いが無くなることはないが、間違ったことを素直に認め、謝り、そして経験を積んでいくことが人間の学習力だと思うのだが、実はこのことをわたしたちは最も忘れているのである。例えば民主党前党首小沢氏に対して政治による警察の介入と批判する民主党は、やはり「認め、謝る」ということを忘れているわけであって、けして自民党を批判できるような党でないことは十二分に解るわけである。もちろんだからといって自民党も同じコトを何度も繰り返してきたわけで、こういう例は政治に限らず日常の出来事として毎日繰り返されているわけである。そういう意味では河野さんの捉え方こそ、わたしたちの世の中に浸透してほしいものであるとわたしは思っている。
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