Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「農のあした」から②

2009-06-28 20:07:40 | 農村環境
「「農のあした」から①」より

 有賀功さんは前回触れた四つの農家が農村が担ってきた役割をおさらいすれば、団体営農(営農組合・農業生産法人・大農家・営利会社など)ではこうした機能を担えないのではないかと言う。「この問題は、子供の教育にも深くかかわります。幼い時から暮らしの中で生き物の成長・成熟、家族の勤労を見、またみずから仕事を手伝って育つことにより、生命の尊さ、人の生活の実相を体得することか、良識ある国民をつくって来ました。これと同じ効果を、別途に企画して求めようとすれば、莫大な経費が必要になるでしょう」と言う。こういう視点は認識されているものではあるが、重要なものという捉え方はなかなかされてない。それは現金を稼ぐことが生きることとなった現代において、日々の暮らしにも最低限の収入がないと先を語れないという余裕の無さがあるだろう。トータルに見れば確かにそういうことが解っていても、だからといってそれに代わるもの、代わるシステムとはどういうものかという議論はないし見えもしない現代である。

 有賀さんはこれからの農家の姿をこんな風に予想している。「大農家はいずれ法人になり、いずれにしても団体・組織の支配する世界になるので、農家のいる所はなくなるかに見えます。しかし、日本農業の低収益性と、季節による労働の繁閑の偏りから、団体・組織も常勤サラリーマンを多数抱えるわけにはいかず、土・日曜や季節限定の労働参加が普通になるでしょう。すると、そういう需要にこたえる働き手の生活形態としては、今までの形に近い兼業農家が最もふさわしいわけで、こういう位置づけの「農家」が最後に少数残って、長続きするかも知れません。ただ、この段階の農家は、これまでの農家とはかなり様相が違う、言わば農家色が薄まった農家になるだろうと予想されます」と。このあるがさんの予想する世界で「農家」とはどういう定義なのか、今と同じものなのかははっきりしない。今と同じものとすれば、農業をしているからといって農家ではなく、職業として農業を行っているだけの事で「農家」ではないように思う。例えば企業に勤めるような農業人に収穫の感謝祭もないだろうし、百姓正月もありえないのではないだろうか。稲刈りが終わったからといって鎌休みもないし、辰の日に稲を植えてもなんら不思議ではないかもしれない。有賀さんは農家をなくすな、そして増やした方が良いという。もちろん「農家」の定義というものはあるが、その定義では計れない時代がやってきているともいえる。そもそも「家」という字はサラリーマンにはつかない。「商家」というものはあるが、今やその商家も絶滅危惧といえるだろう。ようは家人が構成する職業、家の者皆が関わって成り立っている職業だからこそ「家」が当てはまる。江戸時代における「武家」もまた総合的な個人ではない仕組みの存在である。「家」というものがなくなってきたこの時代において、農の世界に「家」を取り戻すことはもはや出来ないのかもしれない。
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