Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

倒れた石碑群

2009-06-09 12:26:22 | 民俗学


 先日の松本行きは長野県民俗の会の例会のためだった。浅間の玄向寺での例会はこれで3度目となる。寺の裏山に点在する御嶽講系の石碑群の調査であるが、この日すべてを終える予定であったが予想以上に碑文の読み取りに時間を要して目論みどうりにはならなかった。それにしても最も奥の沢沿いにある石碑群には転倒しているものが多い。ふつうよほどのことがなければこうした転倒することはないものなのだが多くは明治年代に建立された石碑がなぜこれほどまでに転倒したのか、ということになるだろう。もともと沢沿いの崩落しがちな場所だったということもあるが、しっかり台座に据えられて、さらにはコンクリートで補強されているようなものまで転倒することはない。

 夕方になって必至に碑種を読み取ろうとしてものは石碑の高さが人の背丈ほどもある大きなものである。根元には前述したようにコンクリートで取りつけられた台座もあってなかなかの頑丈ものなのである。伏せるように転倒し前面は完全に土の中に埋もれている。そしてその石碑は沢を渡る石橋のように今は利用されている。それが石橋ではなく石碑であることは台座が付いていること、そして背面に明治年代の碑銘があることですぐに解る。とても人力でその碑を起こしあげることなどできるはずもなく、石橋風になってはいるものの前面が埋もれているところを流れる沢水の力を利用して掘り込んでいった。前面が一部覗けるところまで掘り進んで参加者がそれを判読した。「三十六童子」という文字が読み取れたのである。参加者全員でその状況を見つめながら、また手を出しながらの調査終了後のことである。すでに解散という状況の中で、「それでも」という気持ちで始めた作業だった。この石碑の周辺には転倒したものが多い。加えて転倒のせいか真っ二つに割れた碑もある。それらもこれまでの例会の中で起こしては人力でできるところまで立て直した。しかしいずれにしても荒れ果てた霊場という印象は否めない。裏山にはこうした石碑群が何箇所かに固まっている。それぞれ異なった講社の人々によって整えられてきたものなのだろうが、それら空間を見る限り、今も訪れる講員がいないわけではない。わたしは3度訪れた中で一度もそうした石碑群の関係者らしき人に出合ったことはないが、時にはそういう人と出くわすことがあると参加者から聞こえた。にもかかわらずこれほど荒れ果てている。

 多くは霊神碑である。松本周辺にはこうした霊神碑がけっこうたくさんあるようだ。講によっての争いがあるとも思えないが、転倒の理由は故意によるものと捉えた方がよいのではないだろうか。背丈ほどもあって台石まで整えられているものが自然に倒れるほど明治以降に大地震があったわけではない。明治期に建てられたものがすべてかと思っていたら、元禄銘のあるものが今回見つかった。もともとは寺の裏山だったところにそれらしき石碑が点在していたのだろうが、明治になって御嶽講関係者によって作られた世界。寺とは無縁というこの空間は、緑濃くなって信仰空間という様相を消し去っていた。
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