Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

不治の病

2009-06-12 12:32:25 | つぶやき
 モラルが低下したなどというレベルの話はいくらでもできる。そしてわたしの日記もそういう日々の思うものが記されている。しかしこの現象は愚痴ってもどうにもならないものだと思わないだろうか。荒んだ社会にそのような規律的モラルを望んでも思うようにいかないものだ。

○家庭内不和
 家庭内に問題が派生し会話がなくなったり、それぞれをののしりあったら殺人が起きても不思議ではない。その原因はそれぞれなのだろうが、最も身近な空間であり癒されなくてはならない空間がこのような状況に陥ってくると心の痛みは激しくなる。そんな状況にあってまったく別世界のモラル、例えばゴミの分別とか社会的な常識(義務教育課程における給食費未納とか授業料滞納)が失われてもその気持ちがわからないでもない。ましてやそんな状況にあって、無農薬がどうの里山保護がどうのなどといったさぞ高尚な生き方など問題外のものだ。

○地域社会内不和
 家庭内不和に引き続いて個人が孤立化すれば、隣近所などのことはさらにどうでも良いことになる。ところが地域社会は常識的まなざしを最も身近でかざしている広告塔のような存在だ。地域社会で指導的な立場にあっても前者の不和をきたしてくると自らがその立場にいるべきかどうかと悩み始める。それぞれ考え方は異なるからそんなことを意識しない指導者もいるだろう。どれほど家庭内不和があろうと、その条件を地域社会に落としこんでいくことはできない。それほどこの社会は本当の意味で裏と表を分けなくてはならず、そしてそれをかなり身近な部分で消化していかなくてはならない。それほどの社会であるからこそ、家庭内不和の生じている家庭にとっては、ますます鬱陶しい存在となる。そして現代における新たなモラルである。ゴミの分別を基本とした衛生モラル。子どもたちに対しての隔離されたようなまなざし。このような社会で子どもたちを協同で育てるなどという考えは真のものにはなり難い。

○血族内不和
 本来はこれを前者と入れ替えなくてはならない世代なのであるが、現代では血族よ地域内が優先されることが多い。もちろん人それぞれであるから、その順位は異なるだろうが、今や血族であってもよそよそしい他人なのである。にもかかわらず異なった血が婚姻という形で形成されていく。婚姻とは血族に対していかなるポジションなのか、という意識を調べてみるのも意味あるものではないだろうか、などと思う。子ども数が少ない、あるいは子どもがいないという現実は、家庭内不和に限らずそこから発展した地域社会内不和が血族にどれほど影響するかというのは本当に家庭によって異なるだろう。そしてまったく不和の無い家庭とそうでない家庭が地域社会内にあっても表向きはふつうに関われたとしても、血族内にはそうはいかないのである。いってみれば地域社会が血族より身近であっても、本音の部分になると逆転していくのである。それを受け止めることができない血族内には当然のように不和が起きる。

○勤務先内不和
 もはや以上の不和を持ちえた個人にとって、勤務先内などどうでもよくなる。

 いかなる高尚なことを口にされても身近な部分に問題を持っていれば、解消できない心の病がますます重くなる。とても後ろ向きで発展的でない眼差しを与えたが、実際のところこうした病は少なからず持っているものだ。不和を順位で追ってきたが、この逆のタイプの人もいるだろう。とくに社会にモラルとしての高尚さ(エコとか環境)が加わってきても、それに追随できる環境は現代の家庭には無いのかもしれない。環境目標値など定められたからといって不和社会はついていけるだろうか。荒んだ社会を解決するべく不和を起こしている家庭に一億円の補助を出したからといって解決できるものではないのである。また地域社会で補おうとか、行政がサポートするなどというお節介で頓珍漢なものでもない。不治の病と言ってもよいだろう。
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