Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

別世界の催し

2009-06-01 12:23:04 | つぶやき
 善光寺のご開帳が終わった。約2ヶ月間のご開帳であるが、必ずこの年この日と決まって開かれているわけではない。もちろん7年目のご開帳という認識があるから御柱祭と同様に6年に一度開催される。しかし大きな出来事と重なったりすると稀に7年目が変わったりする。記憶に新しいところではオリンピックが開催された時には1年ずれたことがあった。社会人になってもう何度も「ご開帳」という言葉を耳にしてきたのだろうが、いまだご開帳の期間に善光寺を訪れたことはない。周辺にいる親しい年配者が「善光寺に行きたい」ということも口にしないから、「ご開帳をやっているんだなー」という意識があっても身近な印象などそこにはない。記憶をたどってみてもその期間に「行ってみよう」と思ったという事実がよみがえってこない。

 今年は土日ならETC利用者に限って高速代は格安になる、というサービスもあって観光地は賑わったことだろう。周辺の催しに踊らされる世代というものがある。ひとつの要因は「子ども」である。子どもがいると仲間の中でどこどこへ行ったという話題になることもあって、人と同じことをする可能性は高くなる。わが家でも息子が小学生時代を中心に、けっこう遠出をしたものだ。それでもよその人に比べれば少なかったのだろうが、現代にあっては家族が休日といえばよそへ出かけるというスタイルがごく当たり前のようにある。特別珍しいことでもない。そしてとくに子どもが中心であるがゆえに、どこの家族もその年代の子どもを有しているとさまざまな催しが目に入るものなのだ。それは遠出でなくとも地元地域で行われる催しも同様のことである。

 わが家は息子1人だったということもあって、10代も後半に入ってくるとそんなことはとんとなくなる。もちろんすべての家族がそうとは言えないだろうが、わが家のように土日に農業に追われているとそういうことになる。子どもが複数いればその期間が長くなり、そうした行動が当たり前のように備わってしまうかもしれないが、10年程度という限られた期間にあった我が家の家族行動は、今思うと遠い過去の出来事である。そう考えると子どもが欲しくてもできなかった家族の人との関わりなりやこうした遠出へのきっかけは変わってくるのだろう。常の意識と行動で固められてしまっている自分の行動を思い描いてみると、「これでよかったのだろうか」と思うこともしきりである。

 きっともう少し年老いて、そのときわたしも妻も元気でこころに余裕があったなら、「善光寺詣りに行こう」という時があるのかもしれないが、当面ご開帳といってもそこへ足を向けることはなさそうだ。実はこの2ケ月ほどの季節は、農作業が忙しい。周辺でそんな会話が聞こえないのもそういう時期的なものがありそう。そして当然のことではあるが「長野は遠い」。「善光寺ご開帳」で少し書いたが、今回のご開帳で「ご開帳」という言葉を耳にし、身近に感じたのは唯一この時だけである。
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